昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

英霊の遺書や手紙・遺品8 山岡荘八の若き日

2015-04-30 04:29:50 | 歴史・神秘
小説家、山岡荘八氏は若き時従軍記者であった。この時代に一人の特攻隊員との濃密な接触があった。

昭和二十年、報道班員として鹿屋基地にあった後年の時代小説家、山岡荘八氏は死を目前に控えた青年達の明るさ、朗らかさが大きな謎だった。その謎を解いてみようと、氏は遂に一人の青年に目星をつけ、当時禁句であった質問をぶつけてみた。

相手は教師を勤めた経験もある西田高光中尉(死後少佐、二十三歳 大分県出身、海軍中尉、大分師範、予学13。第五筑波隊員。)である。この人物ならどんな質問を向けてもそのために動揺する気遣いなどはないと見込んだからである。
「この戦争に勝てると思っているか?」「負けても自分の犠牲に悔いはないか?」
「今日の心境に達するまでどの様な心理的葛藤を経験したか?」等である。

彼は重い口調で、現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期はは克服していること。そして最後にこう付け加えた。

「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしてもそのあとはどうなるのです・・・ おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう、民族の誇りに・・・」
西田高光少佐が孤独な思索の中で紡ぎだした結論である。彼等の出撃は作戦的には全く無意味、戦果は限りなく零に近いだろう。作戦上の効果を論ずるとしたら功利的観点に立つということだが、特攻出撃は功利の観点を超越したところにある発想のものだった。

西田少佐の言葉で「講和の条件にも」つながると見ているのはこの青年の冷静な知性を窺わせ、ただ敬服するしかない。だが重要なのは敗戦必死としても「その後の日本人の運命にひびく深刻な意味が「特攻」にはこもっているという、この一事である。
つまり「誇り」高き敗北を可能ならしめるか否かの問題である。そして現実に特攻死は誇るべき死であった。

敗戦は、当時の欧米帝国主義の視点で捉えれば、「民族追放」か「民族浄化」を意味する。
どんなによくても奴隷扱い、悪ければ皆殺しである。彼等の誇り高き死があったればこそ、
日本の存続を可能たらしめ、アジアの国々の独立の契機となったことは紛れもない事実である。

西田中尉は出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給されると、すぐに部下の片桐一飛曹を呼び出し、「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言いました。
片桐一飛曹は顔色を変えて、「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される…いりません!」と拒みました。
すると、西田中尉は、「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ。命令だ。受取れ。俺はな、靴で戦うのでは無い!」と答えたそうです。
彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうです

昭和二十年五月十一日 午前九時三十分前後、
皇国の一臣 高光
総てのものに感謝しつつ別れをつげん
明朝三時半起し。つきぬ名残もなしとせざる感あるも明日の必中の為に寝る。
只皇国の必勝を信じ
皇国民の一層の健闘を祈りつつ
一臣として常道をひたすらに歩き
悠久の大義に殉ぜん
二十年余の至らぬ限りを
明日の必中によりてこそいささか報へん
お父さん
お母さん
兄弟
そして教え子
その他の人々
さらば


西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。 真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、そこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてあった。
あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやく。その場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出された時だった。
「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした。文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。

 


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英霊の遺書や手紙・遺品7 女性御祭神

2015-04-29 03:34:36 | 歴史・神秘
前回に真岡郵便局の九人の乙女をご紹介したが、彼女たちも靖國神社にお祀りされております。
実は彼女たちを含めて靖國神社には五万七千柱の女性が祀られており、神社では「女性御祭神」と呼ばれております。

守られるべき対象の女性ではありますが、国難に際しては銃後を守り、従軍看護婦、軍属として戦地に赴き、また軍需工場などで生産に励み、祖国永遠の平和とその繁栄を願いつつ、尊い命を御国に捧げられた女性達であります。
今日はその女性御祭神の中から数例をご紹介させていただきます。

日赤救護看護婦 山野きよ子命 昭和20年7月10日 ルソン島サフランにて病死

十字星を窓から見て泣いた時、世に名高いマニラの夕焼けにはるかな故国をしのび、帰りたくなった時だつてあります。
幼い子を見る時、洋司を思ひ、また嘉代子、英子と思ひが走ります。
年若くして国を離れる、これはこれからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでせう。
清子は体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。切断のあとを見る時、又これに処置の時、生々しい傷を見るにつけ、
ここは第一線だ、戦場だと働きがひを全身に感じ、すべてを忘れてしまひます。
清子は山野の家を代表した女の勇士です。皆様に心配させるやうなことは致しません。体の続く限り働きます。靖国の宮で・・・。
皆様の御健康御多幸を祈ります。



真新しき 双(もろ)の眼帯 かけつつも ふと想ひたり この兵の母を
赤十字歌集に載った、従軍看護婦の丹野ふみ子氏の作である。この歌では、両眼を失った兵に対
し「可哀そうだ」という意味の言葉を一言も使わず、ただ「眼帯をかけながら、その兵の母の事を
思った」とだけ歌っている。
 しかし読む人をして、思わず「可哀そうだ!」という感じを起こさせる。それは、「この兵の母
を」という一句で、すべてを表しているからである。母という言葉の中に、「誰よりも、その子を
愛し、子の為にはいかなる犠牲をもかえりみない、絶対愛」の姿があり、その母が、両眼を失った
「我が子」を見たら、どんなに悲しむであろうか、ということは誰にでも想像し得ることであるか
らである。自分がその兵に対し、可哀そうだと考えているものの何十倍、何百倍いやそれ以上の思
いを抱くであろう「母」の心を推し量って、自分の気持を押えて詠んだ所に、この歌の素晴しさが
あると思う。
 この歌から察すると、この看護婦さんは、「母」には及ばないかも知れないが、それ以外の誰に
も負けない真剣なまなざしで、この兵を見護っているようである。
 表面的には、情ひとつかけない厳しい態度で「この兵」に接しているのかも知れないが、眼帯を
かける時の気持は、いかばかりであったろうか、また「母」にも会えない、両眼を失った兵にとっ
ては、「母」の代りとなる「希望」であり「光明」であったことであろう……と想像は限りなく広
がる。
 たった三十一文字(字余りはあるが)の中に、このように深い意味を秘めている和歌について認
識を深めて戴ければ幸いである。
 蛇足ではあるが、更にこの歌の中で生きている句として「ふと想ひたり」をあげてみたいと思う。
 本当は、その兵を見た時からずーっと「可哀そうだ」と思い続けているにもかかわらず、自分の
気持は「ふと想ひたり」という表現にとどめ、すべてを「母」の気持に託した所により深い悲しみ
を表現しているように思える。


日赤救護看護婦 西澤都彌命 昭和18年6月22日 中国九江にて戦病死

日記
眠れぬと思ひつつ明方うつらうつらする中、点呼の鐘で目がさめる。昨日来の暑さのほとぼりさめず、むしむしする。
ラジオ体操後、医長殿の戦局のお話しあり、山西省安慶方面の苦戦の様をきき、暑さの為不平を云ってた事を恥しく思う。
朝はさすがに河中に碇泊して居るので冷たい。はるか遠く、みどりの野がつづき、そのはてがあを空と続いて居る。
大空のもとに、横たはる大地のいかに小さいか、そしてその中で互ひに相戦ひ合って居る人類の小ささが痛感される。
江岸にそよぐ高粱の葉・花が手にとる様に見える。時々ジャンクが音をたてて通りすぎる。
午前中病室のベッドを造り、汗は滝の様に流れる。


母のみ名 呼びつゝ兵の みまかりぬ アカシアのかほり しるき夜更けに
日赤救護看護婦の西澤都彌の命(みこと 戰死され靖國神社に祀られている方)のお歌である。
 母の名を呼びながら兵士が亡くなったことと、夜更けにアカシアの香りがしたことは一見何の関
係もなく、仮に外国語に訳したとしたら「何の事を言っているのか意味不明」となってしまうが、
この一見何気ない「アカシアのかほり しるき夜更けに」の中に限りない悲しみが込められている。
 最期に母の名を呼んで息絶えた兵士の声の後は、誰も言葉を発せず「ほのかにアカシアの香りが
漂ってきた」のが更に更に悲しみを増してくる。何処にも可哀そうだとか哀れであるとかの言葉を
用いていないのに、読む人に「兵士の心の叫び」そして「渾身の看護をした人のやるせない気持」
を伝えているものである。短い言葉の中にこれだけの思いを込められるのが「和歌の特徴」であり、
これを歌の専門家や学者でない一市井の人が詠んでいるところに日本の素晴らしさがある。
 萬葉集以来の歴史と伝統がしからしめるものと思う。先に掲げさせて戴いた丹野ふみ子氏の歌と
ともに、看護婦となられた方は単に看護技術に秀でておられるだけでなくその優しい心遣いから
「兵士の心のケア」にも貢献されたことが察せられる。日本軍が精強であったことの陰に「負傷し
ても、心優しい看護が受けられる」との思いが有ったのかも知れない。
   

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曽野綾子さんの論説は素晴らしい

2015-04-28 03:33:13 | 政治・世相
4月26日の産経新聞に曽野綾子さんの定期コラム「小さな親切、大きなお世話」が掲載された。
このコラムでいつも曽野さんの明快な論理に痛快な気分になる。
今回は”謝りと許し”がテーマと言ってよいだろう。
文中に「仮に私個人に、70年も前に起きたことを今でも言い立てる人がいたら、そういう性格の人とは付き合いたくないと思うに違いない」とバ韓国の事を述べている、その通りだ。



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秋田市で 特攻隊招魂祭が行われます

2015-04-27 00:00:22 | 政治・世相
秋田市の総社神社で月末の二十九日に秋田県特別攻撃隊招魂祭が今年も行われます。

大東亜戦争末期、日本は敗戦の色濃い中”特攻”に突き進みます。主に飛行機で相手艦船に突っ込むという死を覚悟の戦法です。
この戦法に対する賛否は色々あるでしょうが、現実はこれを採り入れ多くの若者が命を落としました。
この特攻攻撃で散華された方の中に秋田県出身者が57名(57柱)おられます。
この方々(英霊)の御魂を安らかにと祈念するのが、この招魂祭であります。私は今年で四年連続の参列となります。

なお、その後に祈念シンポジゥム「英霊たちと日本」が開催されます(詳細は下記画像で)。




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樺太・千島の戦い 二題 占守島・真岡電話交換手

2015-04-26 04:20:18 | 歴史・神秘
最初の逸話は浅田次郎の小説「終わらざる夏」にて有名ですが、昭和20年8月18日つまりボッダム宣言受諾後に占守島に攻め込んできたソ連に日本兵は果敢に挑みます。果敢な抵抗と被害のひどさにソ連の死者数は予想以上であったが、21日停戦協定を結び日本は武装解除しました。この辺りの状況は次のとおりです。

終戦の時に、占守島には日魯漁業の従業員の方が二千五百人ほどいました。この人たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていましたが、その中には約四百人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、内地からの迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへのソ連軍の攻撃でした。
参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談し、当時島にあった独航船二十数隻に約四百人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させることが出来たので.す。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから五日後でした。
停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうですが、あとの祭りでした。
もし、彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったことを想像すると、占守島の第九十一師団の心遣いが人ごとでなく心にしみます。ソ連と戦った戦車第十一連隊はその十一の文字を結合して土(ツチ)と読み、土魂部隊として名を残しました。
しかしながら、武装解除した兵は結局シベリアに抑留されつらい生活を送ることになるのですが・・・・・・

もう一つの悲劇が樺太の真岡です。
ソ連は『日ソ不可侵条約』がまだ有効であるにも関わらず、日本に一方的に宣戦布告、樺太、千島、そして北海道を奪う為に軍隊を上陸させてきた。

樺太の真岡が侵略を受けたのは終戦後の8月20日。
日本軍は連合国に敗北し、ポツダム宣言を受け武装解除したが、
ソ連には侵略にとって好都合以外の何物でも無かった。

ソ連は真岡の町めがけ艦砲射撃をし、なんの抵抗もしない一般住民に機銃掃射を浴びせ、虐殺を繰り返す。
真岡の日本軍は停戦を求める為に、軍使として村田中尉を送るが彼も殺害されてしまう。
日本軍も止むに止まれず、武器を再度取って国民を逃す為に立ち上がった。

戦ったのは軍人だけではなかった。
日本の為に最後の最後まで通信施設の機能を守った、9人の電話交換手。
皆20代前半、中には17歳、18歳の若き乙女もいた。
彼女達は日本の北海道に向けた通信機能を最後まで守る為に命を捧げた。

ドイツや満州、ソ連が占領した地域の婦女子はすべからく辱めを受け、虐殺された。
それを知っていた彼女たちは「内地のみなさん、さようなら・・・さようなら」の言葉を残し、用意していた青酸カリで自決の道を選んだ。
彼女達も靖國神社に祀られている。
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編


しかし、今回のテーマではないけれどソ連って陰険な国だな~。敗戦を受け入れたあとに、条約を一方的に破棄して攻撃してきて、停戦交渉の軍使も殺す。
満州やここらの敗残兵をシベリアに抑留、厳寒地でろくな食事、装備も与えずに強制労働をさせ、多くの人が命を落とした。
いまだに北方領土は未解決で、ここの元島民も高齢化で島に帰れぬままお亡くなりになっている。
真岡の交換手の悲劇を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」には公開中止の難癖までつけ、いまだに公には上映されていない。何故上映中止を申し入れるか、ソ連の悪行がそれこそ知れ渡るからだが、これに屈した日本政府もだらしない。
  
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英霊の遺書や手紙・遺品6 英霊に捧げられた花嫁人形

2015-04-25 03:07:11 | 歴史・神秘
靖國神社の遊就館に、23歳の若さで戦死された陸軍軍曹佐藤武一さんに対し、母上様から捧げられた花嫁人形がある。

佐藤武一命の略歴は
歩兵第二十二聯隊所属、昭和二十年四月十日沖縄本島幸地にて戦死。
北海道山越郡八雲町出身、二十三歳。

北海道の佐藤ナミさんから、妻を娶ることなく若くして戦死した我が子・・・「陸軍軍曹佐藤武一命」のために「桜子」さんと名付けた花嫁人形が靖國神社に奉納されています。
ご子息の戦死から33年後に奉納されたその人形に、ご子息への深い愛情が綴られた手紙が添えられています。

武一よ貴男は本当に偉かった。23才の若さで家を出て征く時、今度逢う時は靖國神社へ来てくださいと雄々しく笑って征った貴男だった。
どんなにきびしい苦しい戦いであっただろうか。沖縄の激戦で逝ってしまった貴男。
年老いたこの母には今も23才のままの貴男の面影しかありません。
日本男子と産まれ、妻も娶らずに逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。
今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます。
私も84才になりましたので、元気で居りましたら又逢いに来ますよ。
どうか、安らかに眠ってください。有りがとう。
昭和五十七年三月二十八日    母ナミ


花嫁人形に対する故三宅久之さんのコメント
靖國神社に参り、遊就館を訪ねたとき、私はいつも小一時間かけて、ひとりひとりのお顔を拝見するようにしている。その多くが十代、二十代。ういういしい少年、青年たちの顔が並んでいる。花嫁人形は、部屋で遺影に向き合って飾られている。
少年たち、青年たちのほとんどが、妻を娶ることなく、女性を知ることもなく、手さえも握ることなく、死んでいったのである。それを哀れに思った母親や姉たちが、亡き息子に、亡き弟に、と花嫁人形を贈ったのである。若者の遺影の前に飾られている花嫁人形を見るたびに、私は泣けてしかたがなくなる。彼らの無念を思うとともに、戦争の無常さを思い、常にその場に立ちすくむ。何度行ってもこの思いは変わらない。


この花嫁人形は現在八十体ほどあるらしい、遊就館で交替に展示をしているらしい。我が子が、我が弟が英霊となった今せめてものお嫁さんを・・・・で贈られたこの花嫁人形を見て、心打たれない人はいないであろう。
画像は佐藤武一さん、お母さんのナミさんの寄せた文章と花嫁人形、涙の三宅久之氏
    


以下は月刊誌WILLに寄せられた三宅久之氏の花嫁人形に対する寄稿文全文です。
 


【花嫁人形】靖国神社と特攻隊員

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英霊の遺書や手紙・遺品5 三島由紀夫が号泣した遺書

2015-04-24 05:29:08 | 歴史・神秘
古谷眞二遺書 神雷部隊一式陸攻搭乗 海軍少佐 昭和20年5月11日 南西諸島洋上で戦死

三島由紀夫が如何に特攻隊に心を寄せていたのかを示すエピソ-ドがある。
三島由紀夫は自決に先立つ一か月前の昭和45年10月広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れている。
その折偶々展示されていた全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島は声を出して泣いたという。
それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年5月神雷部隊(人間爆弾桜花による特攻部隊)として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した古谷眞二中尉(戦死後少佐に二階級特進。23歳)の残した遺書であった。

三島はこの遺書を読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」と語ったという。
三島自身の死の一か月前である。
その遺書が次の文面なのだが、彼の三島を号泣させた内容に触れて欲しい(靖國神社社頭掲示 平成20年5月)
皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。ものごころついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮 身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。
 過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。
御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。
不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。
死すること強ち(あながち)忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。
萬事頼む。
                           眞二
十八年六月十日
                箱根小涌谷にてしたゝむ 

画像は古谷少佐と三島由紀夫氏、そして古谷少佐の遺書
 


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英霊の遺書や手紙・遺品4 お母さん、お母さん、お母さん・・・・・

2015-04-23 04:16:48 | 歴史・神秘
陸軍歩兵中尉 立山英夫命 歩兵第四七戦隊
昭和十二年八月二十二日支那河北省辛荘付近にて戦死
熊本県菊池郡隈府町出身

立山中尉は支那事変の折、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死。出征わずか三週間後のことでまだ見習い士官であったそうです。その立山氏の血まみれの軍服のポケットには、彼の母親の写真があり、その裏には母を思う長歌が書かれており、最後には「お母さん、お母さん、お母さん……」と二十四回もくりかえし書かれていた。(靖國神社社頭掲示 平成20年8月)
(写真裏文面)
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ

お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん


この血まみれの軍服の内ポケットから見つけられ写真をご覧になった立山中尉の上官に当たる陸軍大佐・大江一二三さんが大変感動なさって立山中尉の郷里でのご葬儀に際し、弔電を打たれました。
それが、
「靖國の 宮にみたまは 鎮もるも
            をりをりかへれ 母の夢路に」

という素晴らしいお歌でありました。
このお歌にはのちに曲がつけられ国民に口ずさまれたということです。

よく映画やドラマなどで”天皇陛下万歳”と死んでゆく場面があるのだけれど、実際は”お母さん”への思いだと聞いてはいた。
この立山中尉の胸ポケットに入れていた母親の写真、その裏に書かれた思いと最後に「お母さん」と24回も書かれている内容を見れば、母親への想いが切々と伝わってきます。
大江大佐は和歌に秀でた方のようですが、電報文が素晴らしいです。この頃の方は勇敢で且つ教養があったのですね!

画像は立山中尉、写真裏の文面、大江大佐の電文によるお歌
  
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英霊の遺書や手紙・遺品3 幼い妹に宛てた遺書

2015-04-22 04:09:00 | 歴史・神秘
今日の遺書は小さな妹に宛てたもので大石清命のものである。両親なきあと一人残る妹を思う気持ちが切々と伝わってきます。
大石清 大阪府出身 飛行学校卒 戦死 年齢不詳

大阪府出身で、飛行学校卒の大石清伍長は、昭和20年(1945年)3月13日、14日の大阪大空襲(深夜の3時間、274機のB29で民間人を無差別爆撃)で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くす。
肉親は大石伍長の妹である静恵さん、当時小学生。兄が戦場に行き、妹は伯父の元に引き取られていた。
妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金しており、このような手紙をやりとりしたという。

静(しい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく

そして、いよいよ出陣です。
大石清伍長 遺書
なつかしい静(しい)ちやん!
おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。
思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。
時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。
兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。

もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。
では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!


この妹の静恵さんに兄の手紙を届けたのは戦友のようです。
大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)
静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。
わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。
いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。
飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。
同行二人…仏さまのことばで、さう言ひます。
苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。
けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。
静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。


これらを纏めたYou Tubeもご紹介いたします。

泣ける【静ちゃんへの手紙】~神風特攻隊員の兄と幼き妹~
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朴政権、中核人物8人の不正疑惑で沈没寸前?

2015-04-21 03:54:16 | 特亜三国
靖国の合間に”バ韓国”を挟むのは、英霊を冒涜するようで忍びないが・・・・・・
大変な事態になりそうな予感もする。李完九首相の辞意表明があったとも報道された(昨日)。
フェリー沈没から一周年、未だに遺族の怒りが治まらないのだが、ニュース画像を見ていると「謝罪しろ!謝罪しろ!」と遺族が叫んでいる。確か謝罪はあったはずだが・・・・・・
あっ、ここは韓国!!どっかで見た風景である。

2015年4月15日、韓国・聯合ニュースによると、朴槿恵(パク・クネ)大統領は、与党セヌリ党前議員で慶南企業前会長の成完鍾(ソン・ワンジョン)氏が自殺した際、着ていた服のポケットに“疑惑のリスト(ソン・ワンジョンリスト)”が入っていたことに関連し、「不正腐敗の責任がある者は何人たりとも容認しない」と強調した。

朴大統領は15日、韓国政府ソウル庁舎で行われた「セウォル号1周期に関連する懸案点検会議」で、「今回の捜査の過程で新しい疑惑が提起されたが、この問題は政治改革として必ず超えなければならない問題だ」と述べた。
これは、裏金の金額とそれを渡した政界の実力者の実名が書かれた“ソン・ワンジョンリスト”が発見されたことを受けての発言だ。

報道は、「ソン・ワンジョンリストに李完九(イ・ワング)首相をはじめ、前・現職の秘書室長など、現政権の核心的な人物8人が挙げられており、対応を誤ると朴政権の屋台骨を揺るがすことにもなりかねないため、側近であっても不正が明らかになれば例外なく法と原則に従って処罰するという強い意志を示したものとみられる」と伝えている。

この報道に、韓国のネットユーザーから多くの意見が寄せられている。

「ここまで来たら、もうコメディーだな」
「笑わせるよな。ひどすぎる」

「朴大統領お疲れさまでした。退場です」
「李完九を無理やり首相に任命した責任は重い」

「こんな状況でも、首相を続ける李完九は、破廉恥なやつだ」
「韓国社会はすべての分野で不正があるのに本当に改革なんてできるのか?改革したら全員いなくなるんじゃないの?」

「韓国で良いニュースを聞いたことがない」
「朴槿恵は大統領になる器ではなかった。5年の任期は失われた5年になる」

「腐敗した者たちを側近に置いている。正に腐敗の頂点が大統領だ」
「韓国国民よ!沈没しかけの大韓民国号を捨て、さあ大海原に船出しよう。船長はあなただ。もう移民しかない」(翻訳・編集/三田)
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英霊の遺書や手紙・遺品2

2015-04-20 02:55:03 | 歴史・神秘
本日も英霊の中から藤井一命をご紹介させていただくが、夫の決意を成就させるために幼子と共に入水自殺した奥様を思うと涙なしには文章も書けない。
陸軍少佐 藤井一命(第四十五振部隊) 

神風特別攻撃隊員の方々は、20才前後の隊員の方が大半でした。しかし、中には既婚の方もおられましたし本来は特攻隊員になる必要もない、なれない位置にいたにも関わらず自ら志願し、自らの責任を果たした方もおられました。
その方が藤井一中尉です。
しかし、その裏にはたいへん悲しい事件があったのです。

藤井中尉は茨城県の農家に生まれ。7人兄弟の長男でした。陸軍に志願し歩兵となりましたが、優秀であったため転科して陸軍航空士官学校に入校しました。卒業後、熊谷陸軍飛行学校にて中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていました
その中で藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っておられました。
その後、特攻作戦が開始され、自分の純粋な教え子達が次々と特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしている事に堪えられませんでした。
藤井中尉は教え子達との約束を果たすべく自らも特攻に志願しましたが、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、操縦士でもなかった藤井中尉には、当然、志願は受け入れられませんでした。
しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても2度も特攻に志願したのです。

藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育ち、戦争中は野戦看護婦として活躍されていました。
藤井中尉との出会いは、中国で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんであったことから福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていました。
しかし、解っているからといって特攻に志願することには到底納得できるものではなく、福子さんは夫を必死に説得しようとしました。

しかし、藤井中尉の決死の決意は最後まで不変でした。
夫の固い決意を知った福子さんは、夫の活躍の為に決して邪魔になってはならないと、二人の幼子を連れて飛行学校の近くにある荒川に入水しました。
翌日、昭和19年12月15日朝
「晴れ着」を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の「手と自分の手をひもで結んだ」3人の痛ましい遺体が発見され、その遺書には
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています。」
と書かれていました。。

凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と我が愛娘の姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、遺体の砂をやさしく払い、そして呻くように泣きました。

藤井中尉はこの事件の直後、3度目の特攻志願で、自らの小指を切り、「血書嘆願」としました。今度ばかりは軍も諸事情から志願を受理し、藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行いました。
熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった中尉は生徒達に信頼され、尊敬され、あこがれを持たれていましたので藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈りました。
藤井中尉は大変喜びましたが、福子さんの入水事件の事は公になっておらず、誰も口にする者は居ませんでしたが、皆、既に噂で知っており、別れを惜しんで流す涙はたいへん辛いものとなりました。

藤井中尉は陸軍特別攻撃隊 「第四十五振武隊 快心隊」 の隊長として、昭和二十年五月二十八日、隊員十名と共に沖縄に向け出撃されました。
藤井中尉は、操縦士ではありませんでしたので、小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗し、教え子達、祖国、そして天国の愛する妻と愛娘との悲願の約束を立派に果たし散華されました。 

藤井一命の遺書
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日
荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。

父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。

千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。

ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。

では、
一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。

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英霊の遺書や手紙・遺品

2015-04-19 05:09:20 | 歴史・神秘
さて、英霊の方々の中で遺書やその経緯を飾られている方もおられる。
そうした経緯や遺書などを、これから数例ご紹介してまいりますが、恥ずかしながらパソコンを打ちながら涙が流れるのを禁じ得ない場面が沢山ありました。ご紹介するのが本当に切ないです。

今日はまずその中で海軍大尉 植村眞久命(第一神風特別攻撃隊大和隊)をご紹介させていただきます。出陣前に生後三ヶ月の我が子(素子ちゃん)に面会、わずかな接触の時間をもって出撃前にこの我が子に手紙を残しております。

植村大尉は東京都出身。立教大学経済学部商学科在学中はサッカー部主将として活躍。
学徒出陣により、'43.9.23繰上げ卒業。 海軍に入隊し、第13期飛行予備学生となり、三重航空隊(基礎教程)に属す。 翌年.1.7高雄航空隊(練習教程)を経て、3.24大村航空隊、5.31海軍少尉任官、練習航空隊特修科学生となり、7.25佐世保航空隊に配属。 8.1比島セブ基地へ進出。
9月に休暇を許され、帰郷し生後三ヶ月の愛児と面会、手紙を残し戦場に戻っています。

10.26前日の神風特攻隊32機の大戦果を受け、急きょ追加編成されたセブ島の大和隊は爆戦5機、直掩隊3機。 これを二隊に分け、その一隊を植村が指揮することとなった。神風特別攻撃隊大和隊、第一隊隊長として出撃。 目標は前日急襲撃破したT・L・スプレイグ艦隊の残存部隊。米軍側は前日の攻撃を受け、残存戦闘機に加え、他の艦隊からの補充を合わせ、全戦闘機60機を上空に配置して、日本機の攻撃に備えた。
植村隊3機は、60機の米軍戦闘隊と遭遇し、激闘。レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華。享年25歳。没後、二階級特進し海軍大尉となる。

なお、植村特効後、日本側は後続隊の3機が、空戦の隙を突いてスワニー、ペトロフ・ベイ突入に成功し、スワニーは連日の猛襲によって大破し、大和隊の活躍は楽観ムードの米海軍を戦慄させた。
戦後、第13期予備学生の遺書を中心にして取り上げた『雲ながれる果てに』で生後三ヶ月の子どもに残した手紙が紹介される。 また、大岡昇平の『レイテ戦記』で植村命のことを触れている。
生後三ヶ月の愛児(素子ちゃん)と面会、手紙を残し戦場に戻る場面の手紙の文面は次のとおりであります。

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。 素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、 若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。 
お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、 必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。 必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。 
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ 
追伸、
素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。 だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。


父・眞久が散華してから22年目の昭和42年3月、素子さんは父と同じ立教大学を卒業。
4月22日素子さんは靖國の社に鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。
舞い終わり友達から花束を受け取った素子さんは、「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったという。

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靖國神社は遊就館に行かねば・・・・・

2015-04-18 04:41:55 | 歴史・神秘
靖國神社にお参りすると何故か心が晴ればれとするのがいつもの事である。
出来れば第一鳥居(大鳥居)をくぐって正面から参拝をしたい、しばらくすると大村益次郎(神社創建者)の高い銅像がある。第二鳥居を抜けると手水舎があるので手を浄める。
神門を抜けると神社境内だが、この神門手前に社頭掲示がある。月替わりで主に英霊の遺書や手紙が掲示され、コピーもいただけるがこれが素晴らしいのだが稿を改めます。
拝殿での作法は神社であるから「二礼、二拍手、一礼」であるのは余計なことか・・・・・・
境内では能楽堂も威厳があって美しい建物で私は心が洗われる。

さて、本殿向かって右側に「遊就館」がある、ここの事であるが・・・・・・
故三宅久之先生によれば,靖國神社への参拝者は年間に500万人であっても、遊就館を訪れる人は35万人しかいないそうだ。
私は必ずこの遊就館をも尋ねるのだが(有料)、靖國に来たからには遊就館を訪れなければ意味がない程に重視している。
入ってすぐにゼロ戦や戦車等の現物も展示されている、大展示室には人間魚雷や高射砲類も展示されているので「戦事博物館」の趣もあるのだが、ここの価値はこうした展示物ではない。
展示室には太古から大東亜戦争に至る詳しい展示物・遺品があり、改めて歴史の勉強になる。
映像ホールでは必ず映画の上映がされていて、私はたまたま水島總さんの制作映画を観る機会も得たりした。

さて、最後に訪れるのが「靖國の神々」である。
ここには去る大戦で命を落とした英霊が神として祀られていて、夥しい写真や遺書・遺品が飾られています。そしてお名前の最後に命(みこと)と言う文字をいただいている、そうこの人々は神様になられているのです。
現在靖國神社に合祀されている人々の数は約246万柱余、この内彼の大戦関連が213万柱、支那事変19万柱、日露戦争9万柱弱で圧倒的に大東亜戦争の死者が多い。

ちょっと話題が逸れるが合祀されていない人もいる。例えば西郷隆盛、戊辰戦争の政府軍は賊軍として、乃木希典は殉死者は戦死ではないので合祀の対象となっていない。

一人ひとりのお顔を見ながら歩を進めれば皆様がお若い、二十歳前後の方々が沢山おられる。
この英霊の方々がこの国を、故郷を、家族を守るために若くして散っていった事を思えば、感謝と慰霊の気持ちが湧き出るのが当然であると思う。
この英霊の方々が自分の命を投げ出してまで守ってくれた日本国が、今彼らが望んだ国になっているのか・・・・・
靖國参拝を頑なに拒否してきた前の民主政権、参拝を批判的に報道するマスコミ・・・・を英霊の方々はどう思っておられるのか・・・・・
そんな事を思えば申し訳ない気分にならざるを得ないのが悲しい。
次の小文はあるサイトの思いを綴ったものです。

そんな平和な国を。。。自分の家族(宝物)を。。。命を駆けて守ってきたのが、この「遊就館」の壁に飾られている(顔写真)多くの英霊たちです。
その方たちの遺品や家族に宛てた最後の言葉(遺書・日記)などが展示されています。そのひとつひとつが。。。その時代の。。。その瞬間を。。。映し出す。。。
今の時代の人たちには創造すらできない情景が浮かぶ。。。
自分と同じ世代。。。自分よりももっと若い世代。。。の人たちがなぜ命を捨ててまで戦ったのか?国益のため?独立国家だからそれもあるでしょう。。。国益の為に洗脳された?わたしもそうなのかなぁ?って思ったこともありました。。。でも。。。ここにある遺書や日記からは洗脳されたようなものは感じられませんでした。。。
自分の死を前にして。。。冷静にして穏やかな文章がつづられていました。。。
もちろん。。。その中には親・妻・子・兄弟・姉妹への感謝の想いと。。。同時に無念さもつづられているものもありました。。。

  

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靖國参拝の批判は何故おきるのか

2015-04-17 04:33:07 | 歴史・神秘
私はなぜ靖國に行くのか・・・・・それは単純、簡単な事だ。
今の先進国日本、国力が落ちたとは言え安全で安心して暮らせる有難い国家で、世界各国と比べても大変に恵まれた国だ。

作家の曽野綾子さんがこう言っている
「日本の庶民生活は、ほとんど世界最高水準にまで達している。私流の感傷的な言い方によると、日本は天国に近い国と言える。
水栓からそのまま安全に飲める水が各戸に配られ、断水がない。誰もが電気、都市ガス、またはボンベに詰めた天然ガスの供給を受けられる。テレビを見られないという人も例外だ。
誰もが、かりに金がなくても医療の恩恵を受けられ、学校にも安全に行ける。誰でもが移動の自由を持っている。今夜食べるものがない、という人はいない。警察や軍隊は、例外の少数者を除いて、正しい目的意識を持ち、その機能を最大限に発揮している。
そして日本人は、男女共に世界最高の長寿を記録している。これを天国と言わないで、何を天国と言うのか。」

この国はこうした状況に最初からあった訳ではない、特に直近の大東亜戦争ー敗戦を経て、その後の国を挙げての努力で成し遂げたものだ。
その戦争で多くの人たちが命を落とし、その大半は若者であった。この人達が靖國神社にお祀りされている。
その人達に感謝の気持ちを捧げ、御霊安らかにを願うのは日本国民として当然の事だと思うからだ。


この際問題になるのが靖國にA級戦犯(B級、C級も)が合祀されているということだ。
つまり戦犯をお参りすることになり戦争賛美につながるという訳の分からない理屈につながっているのだ。
この点では二つの視点から私は否定をしたい、そして、この視点が案外理解されていないというか、知られていないのだ。

まず日本に戦犯などいないのだ。
東京裁判でたしかに戦犯は生まれ幾人もの人がそれで命を奪われた。
しかし、勝者が敗者を一方的に裁くというこの裁判は後年批判にさらされているし、裁判途中でもインドのパール判事などがそれを訴えたが採り上げられる事はなかった。その事は置いておいて

まず日本国内では昭和28年第16回特別国会 全会一致で改正遺族援護法成立。東京裁判その他で戦犯となったものを通常の戦死者と同様に扱うことを社会党・共産党を含む全会一致で決定しています。
当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。
これらの関係法を根拠に、国は元戦犯にも恩給を支払い、元戦犯の遺族にも年金を支払うなどを行ってきた。

勝手に戦犯をなくしたのか、そうではない。サンフランシスコ講和条約第11条第2項には、東京裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は「戦犯」を赦免できることになっていた。
わが国はこの規定に基づき、国会で「戦犯」の免責を決議し、関係各国に働きかけた。「A級戦犯」は昭和31年(1956)3月末までに、「B・C級戦犯」は昭和33年(1958)5月末までに、全員赦免・釈放を勝ち取った。
つまりこの段階で戦犯などいないと国会が全会一致で決定、いわば名誉回復措置をとったのです。これは日本国民も皆と言ってよいほど賛同したのです(戦争受刑者釈放を求めた署名運動がはじまり、国民運動として大きな広がりをみせ4千万人という署名を得た)。
こうした経緯を無視していまだに「戦犯合祀」と言っているのが、そもそも大間違いなのです。

しかし、戦争を引き起こし結果的に多くの国民の命を奪う結果になった責任者ではないか・・・・のご意見もあろう。
これについても終戦後に日本駐留の責任者であったマッカーサーがアメリカの議会で「この度の日本の戦争は大部分が自衛のためであった」と証言しているのが案外採り上げられていない。

昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた質疑応答の一部です。
日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです
ついでに言うとマッカーサーは朝鮮戦争に介入せざるを得なくなり、この時初めて中国大陸に共産勢力が手を広げる危険性を認識した。
つまり、日本のこれまでの主張が正しかったことが初めて分かったとも言っている。

もう一つは日本の「死生観」に対するものです。
我々日本人の発想として、亡くなれば皆仏さんになり、生前の事は厳しく問わない心根・風習がある。
しかし中国や韓国では日本と違い、死んでからもその人の墓を暴くというのだ。
鞭屍(ビエン・スイー)と言う言葉が中国にはある、言葉通り死者(屍)に鞭打つのだが、そのためには墓を暴かねばならない、暴いた墓は跡形もなく破壊してしまうというのだ。
我々には考えにくいが敵対する人物の先祖の墓を暴き、死体をバラバラにしたり(韓国の愛国者の金玉均)、鞭で打ったりして辱める行為(中国の愛国者の汪兆銘)をしてきたのである。
このような風習が中国・韓国にはあり、かつて清朝最後の皇帝であった溥儀は、自分の先祖である清王朝の墓を中国人に暴かれた為に、日本と手を組み中国から離れて満州国を建国したのである。
墓を暴く、死者を冒涜する行為は日本では考えにくいが中国では今も行われている。文化大革命の時、祖先の墓を暴かれるのを恐れた小平の故郷四川の親族たちは、日夜その墓守をしたそうである。

宗教観に基づく死生観はみな異なる、例えば仏教とキリスト教を比べてみれば明白だ。
キリスト教はいまだに”土葬”である、これは復活(キリストは死後3日目に復活した)を信じその為には遺体を残しておく必要があるのだ。
仏教はどうか、宗派によって考え方の差はあるが霊魂の存在、輪廻転生が基本にある。だから肉体は仮の姿で重視しないから火葬をするのだ。
思わぬ方向にいってしまった、次回に続きます。
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今年は終戦後70年 靖國神社参拝は私の信念

2015-04-16 03:32:04 | 歴史・神秘
今年は大東亜戦争が終結して70年になる。
安倍首相の談話がどのようになるかが話題になったり、産経新聞では特攻隊の逸話が連載されたりしている。
そうした中、安倍首相の靖国神社例大祭への出席が見送られたとの観測記事(多分真実)が出たりしている。
久々に靖國神社に的を絞って記事を書いてみよう。

私は靖國神社を上京の度に参拝している。
これだけで
1,戦争を美化している。
2,右寄りだ。
3,時代錯誤。
等々と言われかねないのが今の日本の実情だ。そう言う批判がなぜ起きるのか・・・・・私の靖国参拝を通じて得た思いを記して皆様のご意見を伺いたい。

私は生を受けたこの国が好きだし、国旗・国歌を尊重する気持ちは強いし皇室も崇拝している。
これだけで”あいつは右寄りだ”と言われかねないのが今の日本だが、これはおかしいことだと思っている。
世界中のどこに自らの国・国旗・国歌を好きだといって批判される国があろうか。
国旗や国歌を法律で定める(平成11年)のに多くの反対者が出て、それらの人が民主政権の閣僚となり首相まで務めた。

今年3月の卒業式で国立大86校のうち、国旗を掲揚したのは74校、国歌を斉唱したのは14校にとどまったという。
国立大学法人・奈良教育大付属中学校の入学・卒業式では生徒らを着席させた上で「君が代」の曲のみを流していたという。
異常ではないか・・・・・・国立大学は国の補助を受けて運営されている、その大学が国の定めた国旗・国歌をないがしろにしているのである。
かっての戦争で尊い命を捧げた御霊はこんな日本にしたかったのか? そうである筈がない。

     
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