違うことこそ素晴らしい be different what great

一人一人の違いを認め合い豊かな社会を創ろう。
http://goo.gl/i3ZDg

ジョン・グラバー商会は、上海のジャーディン=マセソン商会の日本の窓口

2012年09月09日 | Weblog
http://blog.livedoor.jp/nicefeeling_/tag/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%82%BB%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%95%86%E4%BC%9A
http://goo.gl/lL1vd 上記短縮
◆明治天皇や西郷隆盛、勝海舟や坂本竜馬らに囲まれ中央に座るフルベッキとは何ものか?◆明治天皇や西郷隆盛、勝海舟らに囲まれ中央に座るフルベッキとは何ものか?May 12, 2007



From 灼熱◆維新の立役者たちの正体(上)-米英に操られた幕末の日本-
小酒部 宏

◆生麦事件はイキリスの謀略

一、文久二年十二月十二日、品川御殿山に建造中であつたイギリス公使館を、長州藩の尊王攘夷の過激派武士七人が爆裂弾で襲撃してこれを燃やした。

しかし、公使館には見張り番がゐただけだつた。
この襲撃に加つてゐたのが、後に維新の元勲と呼ばれる伊藤博文(俊輔)や井上馨(聞太)、それに高杉晋作、久坂玄瑞(くさかげんずい)、品川弥二郎らである。

ところが、この襲撃から僅か五カ月後の文久三年五月に、伊藤博文と井上馨はイギリスに密航してゐる。こんな馬鹿なことがあらうか。

この時密航したのは五人で、旅費は一万両掛つてゐる。現在の金額に直せば約十億円である。

この金を立て替へたのが、長崎の武器商人であるジョン・グラバーである。
 
ジョン・グラバー商会は、上海のジャーディン=マセソン商会の日本の窓口であり、ジャーディンとマセソンの二人は、アヘン戦争でボロ儲けした当時最大のアヘン商人だつた。

伊藤博文や井上馨は、イギリス公使館を襲撃した前後の時期に急激な思想転向をしたらしい。つまり彼らはイギリスの手先になつたのである。

二、グラバーは長崎の外国商会の中で最大の武器商人であり、薩長のみならず幕府側にも武器を売つてゐた。正(まさ)しく「死の商人」である。

戊辰戦争の帰趨(きすう)を決めたのは結局のところ武器の優劣の差だが、薩長側は当時世界最新鋭の野戦大砲であるアームストロング砲を使つて勝利を収めた。

ところがこの大砲は、元々幕府がグラバーに注文してゐたものだつたのである。

幕府が注文したアームストロング砲の内、二十一門と付属品は既に鳥羽伏見の戦ひの前年の一月から八月にかけて長崎に船荷が到着してゐた。

しかしグラバーは、代金の未納を口実にして幕府に大砲を渡さず、これらを長州藩に横流ししてしまつたのである。これは、イギリス政府の意向に従つた措置と思はれる。

グラバー商会は、明治維新政府誕生と同時に僅か十万ドルの負債を理由に倒産してゐる。この不自然な倒産劇は、イギリスの目本管理支配戦略を覚られないやうにするための揉み消し工作と見られる。

その後、蒸気船のための石炭を産出してゐた高島炭鉱を始め、グラバー商会の資産と経営は、最終的に岩碕弥太郎の三菱財閥に引き継がれてゐる。

三、文久二年八月一には、生麦事件が発生した。これは薩摩の島津久光の一行が京へ戻る際、横浜の外れにあつた生麦村で不良イギリス人四人と行き合ひ、その内の一人を斬り捨てたといふものである。

この事件に怒つたイギリス政府は、幕府に対して巨額の賠償金を請求した。前年に起きた東禅寺事件(水戸藩浪士が品川でイギリス人公使を襲撃した)と合せて、十一万ポンドも要求して来たのである。

これは現在の価値に直すと、一千億円位になる。

(略)

イギリスは薩摩藩にも賠償を要求したが、これは拒否された。そこで翌文久三年(一八六三一)七月、イギリスは薩英戦争を仕掛けた。

鹿児島の町は焼け野原となつたが、戦争の最中に不思議な光景が見られた。五代友厚と松木弘安が藩船三隻と共に自ら進んでイギリスの捕虜となつたのである。

五代友厚は、薩摩藩に武器を供胎した政商で、後にロスチャイルド家の日本代理人の一人となつた。

松木弘安は、後の外務大臣・寺島宗則である。
彼らは、既にこの時点でイギリス側に取り込まれてゐたらしい。


◆ジョン万次郎は米国の工作員

引き続き、副島氏の著作から内容を紹介しよう。

四、嘉永六年(一八五三)六月に浦賀へ来航したペリーの航海日誌の中に、次のやうな配述がある。
「日本国内の法律や規則について、信頼できる充分な資料を集めるには長い時がかかる。領事代理、商人、あるいは宣教師という形で、この国に諜報員を常駐させねばならない。それなりの成果をあげるには、諜報員にまず日本語を学ばせなければならない」(『ペリー提督日本遠征日記』小学館)

現代でもさうだが、幕末にやつて来た外国人は、皆情報収集を目的としてゐたのであり、親善の目的で来たのではない。江戸時代後期に来日した博物学者のシーボルトもその一人である。

(略)

シーボルトは一八二八年八月に帰国する際、当時最高の国家機密であつた伊能忠敬の日本地図を持ち出さうとして発覚し、国外追放処分になつてゐる。

シーボルトはオランダ人ではなく、本当はドイツ人であり、ドイツ海軍の大佐であつた。だから彼の目的が軍事情報の収集にあつたことは疑ひ得ない。

シーボルトのやうな博物学者たちは帰国後、密かに持ち帰つた辺境国の貴重な情報をヨーロッパ中の政府や財閥に売ることで生計を立てゝゐた。

シーボルトもこれをやつてゐたらしく、何と我国に来航したペリーは、伊能忠敬の作成した日本地図の写しを持つてゐたのである。

シーボルトは強制捜査が行はれる前日に、長崎の出島で日本地図の全図を写し取つたらしい。

全く油断も隙もない連中なのである。


ジョン万次郎は、一八四一年一月に漂流漁民となつてゐたところをアメリカの捕鯨船に助け出され、アメリカ東部のニューヘイプンで英語の教育を施された後、十年後の一八五一年に送り還された。

万次郎は薩摩藩で取り調べ(島津斉彬に謁見)を受けたが、長崎奉行にも取り調べられ、翌嘉永五年(一八五二)十一月に高知の城下に移された。

この頃、坂本龍馬と後藤象二郎、後に三菱財閥を築いた岩崎弥太郎は、万次郎に教えを請ふてゐる。

ジョン万次郎が送り還されたのは、ペリーが来航する二年前のことであり、アメリカが計画的に事を運んだらしい。つまり万次郎は、アメリカの工作員(エージェント)だつたのである。


◆坂本龍馬と勝海舟の正体

六、坂本龍馬は文久二年(一八六二)に江戸に出府した後、赤坂氷川にあつた脱海舟邸を千葉重太郎と共に訪ねてゐる。この時の出会ひの場面は有名で勝海舟の大物振りが強調されて描かれることが多いが、これは作り話である。

龍馬は勝の懐の深さに感じ入つたといふ話になつてゐるが、これは後年、ホラ吹き男爵となつた勝海舟が尾鰭(ひれ)をつけて『氷川清談』で語った嘘である。

当時の勝日記の中には、その日龍馬に会つたといふ記述すらない。龍馬は恐らく、ジョン万次郎から紹介状を貰つて勝に会ひに行つたのであらう。

龍馬は、万次郎が築いた「開国派のインナー・サークル」の一員であると勝に信じさせることが出来たので、勝海舟に弟子入りを認められたのである。

さうでなければこの時既に幕府高官になつてゐた勝海舟が、坂本龍馬などといふ脱藩浪人の危険人物に気楽に会ふ筈がない。

両者が出会つた翌々年の元治元年(一八六四)五月、神戸に幕府海軍操練所が開かれ、勝海舟が軍艦奉行となり、人材を育成することになつた。

ところがこの海軍操練所は、一年も経たない翌年三月に閉鎖となった。勝の心底が幕府側に見破られたためである。勝と行動を共にしてゐた龍馬はこの後長崎に向ひ、海運会杜・亀山杜中を設立した。

龍馬の動きをバックアップしてゐたのは、ジョン万次郎とグラバーである。

慶応二年(一八六六)一月に薩長同盟=薩長密約が結ばれた際、龍馬がこれを仲介したことは有名だが、実際には京都薩摩藩邸で行はれた協議に出席してゐなかつたことが最近明らかとなつた。
しかし、合意文書には龍馬も暑名してをり、薩長同盟締結にどの程度か関はつてゐたことは確かである。だが、一介の脱藩浪人が何の後ろ盾もなしにこのやうな政治力は発揮出来ない。龍馬の背後には、グラバー商会、ジャーディン=マセソン商会、そしてイギリス政府が控へてゐたと見るべきであらう。


◆明治憲法制定に関与したロスチャイルド

「最近、北アイルランドのベルファストの近くのハーランド・アンド・ウルフ(Harland and Wolff)造船所に幕末期の目本関係の秘密資料が山ほどあることが判明した。日本の幕末の各藩の船の多くは、ここで造られた。ところが、それらの秘密資料は今、日本国内にこつそり持ち込まれて隠されている」

一体誰がどこに隠したのだらう。これらの秘密資料には驚くべき事実が記されてゐるに違ひない。

幕末に来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウの日記も、その交友関係の詳細部分は殆ど削除され、公開されてゐない。これに加へ、重大な秘密交渉の部分も大量に削られてゐる。
サトウは幕末の日本で暗躍したが、日系人ではなくウェールズ出身のイギリス人である。

百年以上も前の文書が未だに公開出来ないといふのだから、幕末の闇は相当に深いものがある。


もう一つの気になる件りは、次の箇所である。

「伊藤博文らは、十九年後の一八八二年に明治憲法法を作るために再びイギリスに渡り、ロスチャイルド家の世話になつてゐる。

ロスチャイルド家が、当時の世界中を管理していた。そこが世界の最高指令部だつたのである。

ロスチャイルド金融財閥にしてみれば、極東の新興国である日本の場合は、どの者たちを抑えておけば上手に管理できるか、"上からの目"ですべて見透かしていたのである。

ロスチャイルドは、『日本のような後進国にはイギリスの最先進国の政治体制(コンスティチューション)は似合わない』として、ブロイセン(プロシア)ぐらいが丁度良いだろうと判断して、プロイセンから来ていた意法学者のグナイストやシュタインを紹介した。

このグナイストに家庭教師をしてもらつて作つたのが明治憲法である」

グナイストやシュタインはユダヤ系であり、同じ系統のロスチャイルド家が彼らを紹介したといふのは有り得る話である。

伊藤博文らが一八八二年に渡欧した際、ロスチャイルド家の世話になったといふ記録は残されてゐないが、文久三年(一八六三)にイギリスに密航した時既にロスチャイルドのコントロール下にあつたと思はれ、一八八二年の時点では未だグラバーもに健在だつたから、予め話はつけてあったのだろう。

副島氏の視点は従来見られなかつたもので、本質に肉迫してゐるが、未だ半分しか真実が語られてゐない。フリーメーソンが暗躍したといふ事実が抜け落ちてをり、次稿でこの問題を論じることにする。

(注1)『属国日本史幕末編』(副島隆彦、早月堂書房)
(注2)『伊藤博文暗殺事件』(大野芳、新潮社)



最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。