ミミズクは温室を一巡して、岩山に戻っていった。ヘドヴィクがいなくなったので、水中に隠れていたホタルたちが飛び始めた。
「腹減ったな」ぽそっとエクルーが言った。
「あら、ホント。あなた、帰って来たままこの騒ぎだったわね。何か台所を見てみましょう。あの子もポタージュか何かだったら飲めるかもしれないし。ジン、ここ任せていい?」
「おう。で、何をしたらいいんだ?」
サクヤは温室の入り口に一番近いベンチを指差した。
「ここに座って、これ以上ムリに近寄らないこと」
ジンは両手を空に向けた。
「わかった。大人しくしてるよ」
2人が出て行った後、温室がシンとしてしまった。子供はジンの方をちらちら見ながら、20mばかり離れた草むらにすわり込んだ。まだ重心を落ち着けていない。いつでも立って逃げられる体勢だ。それだけひどい目に遭ったのか、とジンは胸が痛んだ。
「腕、痛くないか?」とジンは聞いてみた。ジンが自分の腕を軽く叩くゼスチャーをしたので、子供もマネしてポンと叩いた。響いたらしく、顔をしかめた。
「すまん、すまん。ムリするな。そのうち治るから。ゆっくり養生すればいいんだ」
子供はじっとジンを見つめた。このぽやぽやした猫っ毛の、メカニック・ゴーグルをかけたガリガリの男が、ずっと昏睡中の自分に話しかけていた人間だとわかったのだ。深い緑色の瞳が輝いている。あんまり真っ直ぐ見つめられて、ジンは照れてしゃべり続けた。
「この星なら安全だ。姐さんのところにいてもいいし、俺のうちに来てもいい。もうすぐ、隣りの星が壊れるとか言っていたが……」
そう、ジンが言いかけると、子供が眉を寄せて怯えた表情をした。
「いや、大丈夫、大丈夫だ。その後もこの星に住めるようにするって、姐さんが言ってた。俺も手伝う約束をしたんだ。今みたいに砂漠じゃなくて、森があって、湖がある。生き物がたくさん住めるような星だ。いつかそうなるはずだ。元気になったら、お前にも手伝ってもらおうって、姐さん言ってたぞ。な、ボウズ。ケガが治ったら、俺のラボも手伝ってくれや。何やかんや頼まれて手が足りないんだ。だから、お前はここにいていいんだ。この星で幸せに暮らせるんだ」
子供はじいっとジンを見つめたまま、立ち上がった。ちょっと首をかしげたまま、そろそろと近寄って来た。
「俺も、あいつらも、お前も、帰る所のないもんばかりだ。この星で、一緒に生き延びようぜ」
ジンは子供の方に手を差し伸べると。子供もそろそろと手を伸ばして、手のひらを重ねた。
「ディール(取り引き成立)」
「ディール」
「約束だな。何とかやっていこうぜ」
背後のドアから、トレイを持ったサクヤとエクルーが入って来た。
「ほら、ジン、ベンチ空けて。そこをテーブルにしちゃいましょう」
エクルーが地面にシートを広げた。
「さ、座って。今日は地面でもあったかいわよ。ご飯にしましょう」
サクヤがスープをよそったボウルをジンに手渡した。
「この子にあげて」
子供が受け取ると、もう一杯ジンに手渡した。
「あなたが、食べてみせてあげて」
ジンが一口すくって飲むと、子供もマネをした。
「うまいか?」
「ウマイカ?」
「うまい!」
「ウマイ!」
温室での食事は思いのほか、楽しいものになった。エクルーが何度か台所との間を行き来して、食糧を補給した。ジンは洗っていない、皿に乗っていない果物を、子供に教えられて、初めてもいで食べた。
「大体、植物のものは食べられるみたいだな」
「じゃ、これはどうかしら。ルパのお乳のチーズ、はい」
子供は受け取ってけげんな顔で匂いを嗅いだ。サクヤが食べてみせると、自分もかじったが、くしゃっと顔をゆがめて何ともいえない顔をした。
「あはは、ごめんごめん。ちょっとクセが強かったわよね」
「わはは、ボウズ、お前、その顔……」
「くっくっく」
「うふふふふ」
笑いの合唱になった。3日前、子供が運びこまれて以来ずっとはりつめていたドームの空気が解けた瞬間だった。ホタルまで喜んでくるくる回った。
「こんなにここが賑やかなのは久しぶりね」
「でも、この子、名前くらいわからないと不便だろう」とエクルーが言った。まず、自分を指して、「エクルー」と言った。次に「サクヤ」「ジン」と順番に指差した。最後に子供を指した。
子供は順番に指しながら、「エクルー」「サクヤ」「ジン」と繰り返した。そして自分を指して、「イリュウシュ」と言った。
「イリューシュ?」とジンが繰り返した。
「イリュウシュウ」子供が強めに訂正する。何度かみなで練習したが、どうも発音がまちがっているらしい。r と sh が難しい。
「ねえ、提案。ニックネームということで、私達にも簡単な名前で呼んじゃだめかしら。イリスってどう? 青い花の名前」
「イリス」
「そう、サクヤ、ジン、イリス」とエクルーが指差した。
「エクルー、サクヤ、ジン、イリス」と子供が順に指す。「エクルー、サクヤ、ジン、イリス! イリス、イリス、イリス!」
子供の声はだんだん大きくなって、明るい笑い声でしめくくった。
食事の後、イリスはうつらうつらし始めて、そのうちジンにもたれかかって眠ってしまった。
「大したなつきようね」
「風邪ひかないか」
「もうしばらくそうしてて。ぐっすり眠ったら、毛布持って来て寝床を作ってあげましょう」
エクルは地面にあぐらをかいて、リュートをつまびき始めた。
「しかし、イリスっていうと何だか女の名前みたいだなあ」とジンが言った。
「だって、その子、女の子じゃないか」とエクルー。
「えっ」
ジンが固まってしまった。
「あなたのさっきの言葉、まるでプロポーズみたいで素敵だったわよ」とサクヤがからかうように言った。
ジンは耳まで赤くなった。
「聞いてたのか」
「気の毒だが、このドームにプライバシーはない」
「プ、プロポーズったって、そんな。こいつは子供だし、男だと思っていたから、メカニックに仕込んでやろうと思って……。大体、こいつ、言葉わからなかっただろう?」
「あらら、逃げるの? 卑怯ねえ」
「あんまりジンをいじめるなよ」
エクルーは楽器を傍らにおいて、会話に加わった。
「意味は伝わっていたと思うよ。ホタルが中継してたから」
「こいつら、そういう芸当ができるのか」
「テレパシーを中継するんだよ。イリスは特にホタルと相性いいみたいだね」
「そうね。私達にも見えたもの、美しかった。あなたの描いたこの星の未来の風景」
「一緒に生き延びようぜ」
エクルーがにやりとした。ジンは真っ赤になったままだった。
結局、その晩は温室の中のトレイルに点在するカウチや芝生で眠ることになった。エクルーが、病室から毛布や枕を一抱え運んで来た。
「ここが一番温かいかな?」
サクヤが毛布を折ってマット代わりにしている間、ジンは眠っているイリスを抱き上げて待っていた。
「どうして俺たちまで温室で寝るんだ?」
「楽しいじゃない」
「そうか?」
「それにイリスが目を覚ました時、このだだっ広いところに一人だったら寂しいと思わない? 初めての夜なのに」
今度はちょっとジンも同意した。しかし正直言うと、バリア・フィールドが張ってあるとはいえ、動物が出入りできるような、しかも床が土でやたらに植物がわさわさ繁っている場所で寝るのは、気が進まなかった。
「キャンプみたいだろ? コロニーのスペシャル・スクールだってキャンプくらいやっただろ。好きじゃなかった?」
「実は苦手だった。ラボに入って、そういうわずらわしい子供行事から解放されて喜んでいたんだが……この数日、ちょっと反省したよ。自分の脆弱さを実感した。俺はこの水盤から水を飲む勇気がないし、この地面に寝転ぶ勇気もない。壁ひとつ外が宇宙空間だろうと、壁とマットとライトがあれば、安心して眠るくせにな」
「じゃ、地面に大の字、やってみる? どうせカウチじゃ狭いだろ?」
エクルーはさっさと地面にシートを敷いて、毛布とクッションで寝床を作った。
「生活力でイリスに負けないための、トレーニングその1ってところだね。お休み。」
シートに座ってまだ横になる決心がつかないうちに、温室の照明が落ちた。一瞬、何も見えなかったが、すぐふよふよ漂っているホタルが見えた。エクルーを真似て、ヘタクソな口笛をそっと鳴らすと2,3匹寄って来た。
これで、いい。ちょうど良いベッド・スタンドだ。
寝転がってみると、空が明るい。嵐で乱反射されて、空全体が白く光って見える。目が慣れてくると、自分の指や服の細部まで見えるようになってきた。落ち着いて耳をすますと、様々な物音が聞き分けられるようになってきた。水の音。地面をジリスが掘る音。くくっというその鳴き声。生き物に囲まれている。空の下、風の音を聞きながら眠る。それは今までジンの知らなかった安心感だった。いつの間にか、この3日の寝不足を取り戻すように、ぐっすり眠っていた。
翌朝も相変わらず砂嵐だったが、少し空が明るかった。ジンは久しぶりに寝足りて、昨日までのいろんな体験がすっきり頭に整理された気分だった。思い切り両手足を地面で伸ばして、深呼吸してみた。生まれ変わったようだ。もう一度、腕を伸ばそうとしてギクリとした。自分に寄り添うように、イリスが丸くなって寝ているのだ。
うろたえている所に、樹の陰からひょこっとサクヤが顔を出した。くちびるに指をあてて、ひそめた声で言った。
(おはよう。よく眠れた? しばらく、そうしてて。明け方、冷えて目が覚めたみたいなの。今、エクルーが朝ごはん作ってくれてるから、できるまで寝させておいて)
最初は、気分的にジタバタしていたジンだが、イリスの安心しきった寝顔につられて、結局二度寝してしまった。
「大した適応力だね」
「この人選は正解だったわね。コロニー育ちのもやしっ子で大丈夫かしら、と思ったけど。ヘンな先入観がないのが、幸いしたわ。まともな農学博士なら、おたまじゃくしと協力してテラ・フォーミングなんて嫌がるでしょうから」
エクルーとサクヤは、幸せそうに寝ている二人をそのままにして、あずまやでお茶を始めた。
「イリスの貢献、大だね」
「やっぱり、そう思う?」
「モチベーションがちがうじゃん。居心地のいいすみかを作って、メスを巣に誘うってのはオスの本能だもんね」
「それ、ジンに言っちゃダメよ」
エクルーはベーグルサンドをもぐもぐしながら聞いた。
「どして?」
「あれでロマンチックな男の子なんだから。せっかく微笑ましいカップルなんだから、茶々を入れずに見守りましょうよ」
「温かく観察、ってとこだね」
エクルーは焼きたてのスコーンを2つに割ると、クロッテッド・クリームを塗ってかぱっと口に放り込んだ。
「俺たちだって、セバスチャンに観察されてるしな」
「こんな特異な例、あまり人間研究の参考にならないでしょうにねえ」
エクルーはもう半分も口に放り込んだ。
「いいんじゃない。あいつの趣味なんだから」
「腹減ったな」ぽそっとエクルーが言った。
「あら、ホント。あなた、帰って来たままこの騒ぎだったわね。何か台所を見てみましょう。あの子もポタージュか何かだったら飲めるかもしれないし。ジン、ここ任せていい?」
「おう。で、何をしたらいいんだ?」
サクヤは温室の入り口に一番近いベンチを指差した。
「ここに座って、これ以上ムリに近寄らないこと」
ジンは両手を空に向けた。
「わかった。大人しくしてるよ」
2人が出て行った後、温室がシンとしてしまった。子供はジンの方をちらちら見ながら、20mばかり離れた草むらにすわり込んだ。まだ重心を落ち着けていない。いつでも立って逃げられる体勢だ。それだけひどい目に遭ったのか、とジンは胸が痛んだ。
「腕、痛くないか?」とジンは聞いてみた。ジンが自分の腕を軽く叩くゼスチャーをしたので、子供もマネしてポンと叩いた。響いたらしく、顔をしかめた。
「すまん、すまん。ムリするな。そのうち治るから。ゆっくり養生すればいいんだ」
子供はじっとジンを見つめた。このぽやぽやした猫っ毛の、メカニック・ゴーグルをかけたガリガリの男が、ずっと昏睡中の自分に話しかけていた人間だとわかったのだ。深い緑色の瞳が輝いている。あんまり真っ直ぐ見つめられて、ジンは照れてしゃべり続けた。
「この星なら安全だ。姐さんのところにいてもいいし、俺のうちに来てもいい。もうすぐ、隣りの星が壊れるとか言っていたが……」
そう、ジンが言いかけると、子供が眉を寄せて怯えた表情をした。
「いや、大丈夫、大丈夫だ。その後もこの星に住めるようにするって、姐さんが言ってた。俺も手伝う約束をしたんだ。今みたいに砂漠じゃなくて、森があって、湖がある。生き物がたくさん住めるような星だ。いつかそうなるはずだ。元気になったら、お前にも手伝ってもらおうって、姐さん言ってたぞ。な、ボウズ。ケガが治ったら、俺のラボも手伝ってくれや。何やかんや頼まれて手が足りないんだ。だから、お前はここにいていいんだ。この星で幸せに暮らせるんだ」
子供はじいっとジンを見つめたまま、立ち上がった。ちょっと首をかしげたまま、そろそろと近寄って来た。
「俺も、あいつらも、お前も、帰る所のないもんばかりだ。この星で、一緒に生き延びようぜ」
ジンは子供の方に手を差し伸べると。子供もそろそろと手を伸ばして、手のひらを重ねた。
「ディール(取り引き成立)」
「ディール」
「約束だな。何とかやっていこうぜ」
背後のドアから、トレイを持ったサクヤとエクルーが入って来た。
「ほら、ジン、ベンチ空けて。そこをテーブルにしちゃいましょう」
エクルーが地面にシートを広げた。
「さ、座って。今日は地面でもあったかいわよ。ご飯にしましょう」
サクヤがスープをよそったボウルをジンに手渡した。
「この子にあげて」
子供が受け取ると、もう一杯ジンに手渡した。
「あなたが、食べてみせてあげて」
ジンが一口すくって飲むと、子供もマネをした。
「うまいか?」
「ウマイカ?」
「うまい!」
「ウマイ!」
温室での食事は思いのほか、楽しいものになった。エクルーが何度か台所との間を行き来して、食糧を補給した。ジンは洗っていない、皿に乗っていない果物を、子供に教えられて、初めてもいで食べた。
「大体、植物のものは食べられるみたいだな」
「じゃ、これはどうかしら。ルパのお乳のチーズ、はい」
子供は受け取ってけげんな顔で匂いを嗅いだ。サクヤが食べてみせると、自分もかじったが、くしゃっと顔をゆがめて何ともいえない顔をした。
「あはは、ごめんごめん。ちょっとクセが強かったわよね」
「わはは、ボウズ、お前、その顔……」
「くっくっく」
「うふふふふ」
笑いの合唱になった。3日前、子供が運びこまれて以来ずっとはりつめていたドームの空気が解けた瞬間だった。ホタルまで喜んでくるくる回った。
「こんなにここが賑やかなのは久しぶりね」
「でも、この子、名前くらいわからないと不便だろう」とエクルーが言った。まず、自分を指して、「エクルー」と言った。次に「サクヤ」「ジン」と順番に指差した。最後に子供を指した。
子供は順番に指しながら、「エクルー」「サクヤ」「ジン」と繰り返した。そして自分を指して、「イリュウシュ」と言った。
「イリューシュ?」とジンが繰り返した。
「イリュウシュウ」子供が強めに訂正する。何度かみなで練習したが、どうも発音がまちがっているらしい。r と sh が難しい。
「ねえ、提案。ニックネームということで、私達にも簡単な名前で呼んじゃだめかしら。イリスってどう? 青い花の名前」
「イリス」
「そう、サクヤ、ジン、イリス」とエクルーが指差した。
「エクルー、サクヤ、ジン、イリス」と子供が順に指す。「エクルー、サクヤ、ジン、イリス! イリス、イリス、イリス!」
子供の声はだんだん大きくなって、明るい笑い声でしめくくった。
食事の後、イリスはうつらうつらし始めて、そのうちジンにもたれかかって眠ってしまった。
「大したなつきようね」
「風邪ひかないか」
「もうしばらくそうしてて。ぐっすり眠ったら、毛布持って来て寝床を作ってあげましょう」
エクルは地面にあぐらをかいて、リュートをつまびき始めた。
「しかし、イリスっていうと何だか女の名前みたいだなあ」とジンが言った。
「だって、その子、女の子じゃないか」とエクルー。
「えっ」
ジンが固まってしまった。
「あなたのさっきの言葉、まるでプロポーズみたいで素敵だったわよ」とサクヤがからかうように言った。
ジンは耳まで赤くなった。
「聞いてたのか」
「気の毒だが、このドームにプライバシーはない」
「プ、プロポーズったって、そんな。こいつは子供だし、男だと思っていたから、メカニックに仕込んでやろうと思って……。大体、こいつ、言葉わからなかっただろう?」
「あらら、逃げるの? 卑怯ねえ」
「あんまりジンをいじめるなよ」
エクルーは楽器を傍らにおいて、会話に加わった。
「意味は伝わっていたと思うよ。ホタルが中継してたから」
「こいつら、そういう芸当ができるのか」
「テレパシーを中継するんだよ。イリスは特にホタルと相性いいみたいだね」
「そうね。私達にも見えたもの、美しかった。あなたの描いたこの星の未来の風景」
「一緒に生き延びようぜ」
エクルーがにやりとした。ジンは真っ赤になったままだった。
結局、その晩は温室の中のトレイルに点在するカウチや芝生で眠ることになった。エクルーが、病室から毛布や枕を一抱え運んで来た。
「ここが一番温かいかな?」
サクヤが毛布を折ってマット代わりにしている間、ジンは眠っているイリスを抱き上げて待っていた。
「どうして俺たちまで温室で寝るんだ?」
「楽しいじゃない」
「そうか?」
「それにイリスが目を覚ました時、このだだっ広いところに一人だったら寂しいと思わない? 初めての夜なのに」
今度はちょっとジンも同意した。しかし正直言うと、バリア・フィールドが張ってあるとはいえ、動物が出入りできるような、しかも床が土でやたらに植物がわさわさ繁っている場所で寝るのは、気が進まなかった。
「キャンプみたいだろ? コロニーのスペシャル・スクールだってキャンプくらいやっただろ。好きじゃなかった?」
「実は苦手だった。ラボに入って、そういうわずらわしい子供行事から解放されて喜んでいたんだが……この数日、ちょっと反省したよ。自分の脆弱さを実感した。俺はこの水盤から水を飲む勇気がないし、この地面に寝転ぶ勇気もない。壁ひとつ外が宇宙空間だろうと、壁とマットとライトがあれば、安心して眠るくせにな」
「じゃ、地面に大の字、やってみる? どうせカウチじゃ狭いだろ?」
エクルーはさっさと地面にシートを敷いて、毛布とクッションで寝床を作った。
「生活力でイリスに負けないための、トレーニングその1ってところだね。お休み。」
シートに座ってまだ横になる決心がつかないうちに、温室の照明が落ちた。一瞬、何も見えなかったが、すぐふよふよ漂っているホタルが見えた。エクルーを真似て、ヘタクソな口笛をそっと鳴らすと2,3匹寄って来た。
これで、いい。ちょうど良いベッド・スタンドだ。
寝転がってみると、空が明るい。嵐で乱反射されて、空全体が白く光って見える。目が慣れてくると、自分の指や服の細部まで見えるようになってきた。落ち着いて耳をすますと、様々な物音が聞き分けられるようになってきた。水の音。地面をジリスが掘る音。くくっというその鳴き声。生き物に囲まれている。空の下、風の音を聞きながら眠る。それは今までジンの知らなかった安心感だった。いつの間にか、この3日の寝不足を取り戻すように、ぐっすり眠っていた。
翌朝も相変わらず砂嵐だったが、少し空が明るかった。ジンは久しぶりに寝足りて、昨日までのいろんな体験がすっきり頭に整理された気分だった。思い切り両手足を地面で伸ばして、深呼吸してみた。生まれ変わったようだ。もう一度、腕を伸ばそうとしてギクリとした。自分に寄り添うように、イリスが丸くなって寝ているのだ。
うろたえている所に、樹の陰からひょこっとサクヤが顔を出した。くちびるに指をあてて、ひそめた声で言った。
(おはよう。よく眠れた? しばらく、そうしてて。明け方、冷えて目が覚めたみたいなの。今、エクルーが朝ごはん作ってくれてるから、できるまで寝させておいて)
最初は、気分的にジタバタしていたジンだが、イリスの安心しきった寝顔につられて、結局二度寝してしまった。
「大した適応力だね」
「この人選は正解だったわね。コロニー育ちのもやしっ子で大丈夫かしら、と思ったけど。ヘンな先入観がないのが、幸いしたわ。まともな農学博士なら、おたまじゃくしと協力してテラ・フォーミングなんて嫌がるでしょうから」
エクルーとサクヤは、幸せそうに寝ている二人をそのままにして、あずまやでお茶を始めた。
「イリスの貢献、大だね」
「やっぱり、そう思う?」
「モチベーションがちがうじゃん。居心地のいいすみかを作って、メスを巣に誘うってのはオスの本能だもんね」
「それ、ジンに言っちゃダメよ」
エクルーはベーグルサンドをもぐもぐしながら聞いた。
「どして?」
「あれでロマンチックな男の子なんだから。せっかく微笑ましいカップルなんだから、茶々を入れずに見守りましょうよ」
「温かく観察、ってとこだね」
エクルーは焼きたてのスコーンを2つに割ると、クロッテッド・クリームを塗ってかぱっと口に放り込んだ。
「俺たちだって、セバスチャンに観察されてるしな」
「こんな特異な例、あまり人間研究の参考にならないでしょうにねえ」
エクルーはもう半分も口に放り込んだ。
「いいんじゃない。あいつの趣味なんだから」
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