この日を忘れないために記録します。
3月11日東北地方でM9.0、震度7の大地震がありました。
私の勤務先の新横浜のビルは新築の免震構造で、かなりのゆれがあり
同じフロアの人達、一斉に机の下に入りました。
長いゆれの間、机の上に置いたインスタントコーヒーの瓶が落ちてくるのが
見えました。
震源地は関東地方かと思って、ただただ机の下で固まるばかりでした。
揺れがおさまって、すぐにウェブで東北地方だということが分かり、周りの人たちは工場の
宮城や会津に電話をかけて、もう避難が始まっていることを知りました。
オフィスをウロウロすると、ロッカーが倒れたり、給茶機の中身が床にぶちまけられたり、
パソコンのウインドウが倒れているところもありました。
じゅうたんがぐちゃぐちゃになっているところも。
後で知ったことですが、上のフロアでは大きなコピー機も2台倒れたそうです。
しばらくすると、台湾やシンガポールの販社から安否を確認する電話がありました。
余震も続き、ビルを避難するかどうかの中、電話で説明の中国語も中々出てこなかったです。
台湾からの問い合わせは特に早かったです。
そして、各フロアごとに外の広いところに避難が始まりました。
避難後、特に点呼も無く歩いて帰れる人は帰ることになりました。
私は帰れるわけないので、とりあえずオフィスに戻ることに。
途中線路上で止まった電車から人が降りていました。
職場の人はちょっと遠い人はタクシーで数人で帰ることにしたりとかして、
人が減って行きました。
かなり遠い人も痺れを切らして、歩けるとこまで歩くと居なくなっていきました。
その時はそのうち、電車も再開するだろうとみな思っていました。
私の家の近くの上司の奥さんが会社まで車で来て、私も連れて帰ってくれることに
なり、夜12時半過ぎ、家にたどり着きました。
途中停電で、信号も付いていないところもあり渋滞もありましたが
みな静かに譲り合っていました。
最寄の駅まで送ってもらい、駅では市から毛布が配られており、タクシー待ちの人たちも
毛布をかぶって行列していました。
駅は閉まっていて、役所の人たちが声かけして市民会館に行くようにとなっていました。
毛布をかぶって駅や駅の外で寝ている人も居ました。
家に帰り着くと、同居人が私の非難袋を作っていてくれて、嬉しかったです。
ほっとしましたが、テレビで多くの人が被災していることがだんだんと分かってきて、
無力感でいっぱいです。
一夜明けた昨日も家でほとんどテレビを見ていました。
今日は街に出ました。
そんなに変わったことはありませんでした。
スーパーの棚が節電して暗く、また品物がかなり無い棚もありました。
かと思えば、握りずしやお弁当は普通にあったりしました。
今もテレビでは地震、津波の被害を伝えています。
人々の日常は全て奪い去られました。
私の実家は阪神大震災の被災地です。
人口の多い市ではありませんが、3番目に死者の多い市でした。
私の家は液状化現象でゆがみました。
当時留学中だった私は、経験したことではありませんが
自分だけ、逃れてしまったことも辛かったです。
今回もまた自分は安全なところにいることができ、申し訳ない思いでいっぱいです。
自分の生活も楽ではありませんが、できることを何かしたいです。
今は何ができるか考えています。
Thank you for your encouragement.
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