【TVmemo】

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NEO TAMAGOKAKE GOHAN

2010-04-02 11:34:15 | etc.
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!!!さすがの味の素!!!

李氏朝鮮(1392年 - 1910年)

2010-04-01 18:39:24 | 韓国歴史ドラマ
1336 室町幕府
1368 明建国

1392 高麗滅亡、朝鮮建国

1393 太祖(テジョ)73 1335-1408 高麗武官
1398 定宗(チョンジョン)62 1357-1419 太祖二男
1400 太宗(テジョン)55 1367-1422 太祖五男
1418 世宗(セジョン)53 1397-1450 太宗三男
1450 文宗(ムンジョン)38 1414-1452 世宗長男
1452 端宗(タンジョン)16 1441-1457 文宗長男 魯山君に降格され配流先で賜薬刑される
1455 世祖(セジョ)51 1417-1468 世宗次男 .端宗から王位を剥奪し即位

1467 応仁の乱

1468 睿宗(イェジョン)19 1450-1469 世祖二男
1469 成宗(ソンジョン)38 1457-1495 世祖長男の二男
1494 燕山君(ヨンサングン)30 1476-1506 成宗長男(生母廃妃尹氏) 失脚,王位を剥奪され江華島に追放、病死
1506 中宗(チュンジョン)56 1488-1544 成宗次男,燕山君の異母弟
1544 仁宗(インジョン)30 1515-1545 中宗長男 1520王世子に冊立
1545 明宗(ミョンジョン)33 1534-1567 中宗次男(生母文定王后尹氏)仁宗の異母弟

1560 桶狭間の戦い

1567 宣祖(ソンジョ)56 1552-1608 中宗の第3王子徳興大院君三男(生母中宗後宮昌嬪安氏)

1582 本能寺の変
1592-1598 文禄・慶長の役(秀吉による朝鮮出兵)
1603 江戸幕府

1608 光海君(クァンヘグン)66 1575-1641 宣宗庶次男 失脚廃位され追放後死去
1623 仁祖(インジョ) 54 1595-1649 宣祖庶五男定遠君李琈(元宗)の長男

1644 清,中国統一

1649 孝宗(ヒョジョン)40 1619-1659 仁祖次男
1659 顕宗(ヒョンジョン)33 1641-1674 孝宗長男
1674 粛宗(スクチョン)60 1661-1720 顕宗長男 仁顕王后,張禧嬪

1680 徳川綱吉
1716 徳川吉宗

1720 景宗(キョンジョン)36 1688-1724 粛宗庶長男(生母禧嬪張氏)
1724 英祖(ヨンジョ)83 1694-1776 粛宗次男(生母和敬淑嬪崔氏),貞純王后金氏
1776 正祖(チョンジョ)49 1752-1800 英祖二男荘献世子1735-1762の次男,1759,8歳で王世孫,
   1762荘献世子死後,英祖末男孝章世子1719-1728の養子となる。(イ・サン)
1800 純祖(スンジョ)45 1790-1834 正祖次男
1834 憲宗(ホンジョン)23 1827-1849 純祖長男孝明世子1809-1830の1子

1840 阿片戦争

1849 哲宗(チョルジョン) 33 1831-1863 荘献世子庶三男恩彦君の息子全渓大院君三男
1863 高宗(コジョン)67 1852-1919 荘献世子庶三男恩信君1754-1801の養子南延君(仁祖の8世孫)四男興宣大院君の次男,
   大韓帝国初代皇帝1897-1907

1868 明治維新
1894 日清戦争

1897 高宗,朝鮮初となる皇帝に即位、国号を大韓帝国と改める

1904 日露戦争

1907 純宗(スンジョン)52 1874-1926 高宗長男

1910 日韓併合,大韓帝国滅亡、日本朝鮮総督府

崇儒廃仏

2010-04-01 17:40:50 | 韓国歴史ドラマ
儒教を崇拝し、仏教を廃止すると言う李氏朝鮮の基本政策

1.建国時、李成桂を担ぎ上げた勢力が儒臣を中心としたものであり儒教を国教として定めた。
2.高麗の国教であり権力と癒着した仏教の国政への容喙を嫌った。

上記の理由から、仏教は徹底的に弾圧される。


高麗時代
朝鮮半島、後三国時代を経て立った高麗王朝時代、やはり国の保護下にあった仏教は新しく伝えられた禅と、従来から存在する教宗が、次第に対立する様相を呈した。
これを憂えた義天によって天台と華厳の教学によって禅を包摂する禅教融摂運動が起こされる。義天の教えは天台宗として引き継がれ、高麗の王室をはじめとした上流階級に支持された。これに対して、義天の半世紀後に、知訥は禅によって天台・華厳などの教学を包摂する教えを説いた。教えによって仏門に入り、その後に言葉を離れて参禅するという知訥の教えは、曹渓宗として引き継がれ、一般民衆の間に浸透していった。
これにより、高麗時代には、禅とともに教学も同等に重視する教義が中心となって続いた。
高麗中期以降、仏教界はこの天台宗と曹渓宗が主流となっていたが、権力と癒着した天台宗は次第に堕落し、徐々に上流階級からも批判されるようになって、李氏朝鮮時代の排仏運動と儒教の隆盛につながっていく。

建国当初、僧はソウルに入ることを禁止された上、賎民階級に身分を落とされた。また、全国に1万以上もあった寺院は、最終的には国家的に保護を受けるべきものが240に限定され、その他の寺院は所有地と奴卑を没収され、また多くが破壊された。
しかし、初期には王族の保護を受けるなど、実際にはなかなか浸透せず、その経緯は曲折を経る。

太祖李成桂
崇儒廃仏の制定者でありながら、第一次王子の乱後、失意のうちに退位、第二次王子の乱を契機に出家し仏門に帰依する。
死ぬまで念仏を唱えて生活していたと言われ、王子の乱を主導した第三代太宗とは仲が悪く、その後和解したもののやはり廃仏政策に反対し、対立した。

第3代太宗
1406 寺院の勢力を減退させるために特権を大幅に削減させた。12宗あった宗派を7宗に削減、242寺のみを国家の統制下に残し他すべての仏教寺院を廃した。
(宗派の統廃合、寺院の取り壊し、領地の取り上げなど。石仏を破壊し石橋の礎石にするなど。また取り壊された寺の鐘楼などは鋳つぶされるか、日本に輸出されていたらしい。これらの鐘は日本では朝鮮鐘と呼ばれて重文・国宝になっているものもある)

第4代世宗
1424 残存する7宗派を禅教の2宗派に統合、さらに240の寺院は18寺院を残し破却するなどした。
高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった。
しかし、その治世の初期、廃仏政策をおこなったが、晩年には仏教に帰依する。
世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある。

第7代世祖
儒教を弾圧し、仏教を保護する政策に転換。

甥である端宗から王位を纂奪した世租は、反対勢力を粛清し、強引に自らの元に集約させた強力な王権を維持するため、反対勢力の主軸ともなる儒臣勢力を押さえ込み反儒臣勢力を取り込むために、仏教を振興した。

1455世祖の擁立に功の有った勲臣とその子孫達からなる大地主の両班を主体とする旧勳派が支配していた世租から明宗までの時代、廃仏政策はややもすると軟化した。

第9代成宗
僧科(僧侶に成るための資格試験)を廃止し、僧侶たちを厳しく統制して、2,3を残す大部分の寺院を閉鎖するなど崇儒抑仏政策を徹底的に実践した。

成宗は王道政治を貫き通した明君として知られており、儒教の新しい学問体系である朱子学(道学)を修めた新興の科挙官僚である士林派を積極的に登用した。

第10代燕山君
世祖が建てた円覚寺を王の享楽の場である掌楽院に変えた。

第11代中宗
当初、クーデター勢力に擁立された王権の脆弱性を打開するため、燕山君に弾圧された士林派を引き入れ革新を図り、廃仏(燕山君に破壊された民家を建て直す為に仏寺を破壊)した。

第13代明宗
幼少の明宗に代わり仏教を信仰し破仏政策に強い不満を持つ文定王后の垂簾聴政下、仏法中興の施策がなされる。
1551(明宗6年)廃止されていた禅教の2宗を復旧させ、僧侶の資格試験に当たる僧科を復活させた。
僧科からは、『禅家亀鑑』などを著した清虚休静らの優秀な僧侶が輩出した。

しかし、僧科の復活は家臣の猛反対に遭い挫折する。また文定王后の死により、僧侶の弾圧が行われ、廃仏政策が進行する。

第14代宣租
儒教に傾倒して儒学者を重用するが、秀吉の朝鮮出兵に対し義勇兵として弾圧していた仏僧の力を借りるなど(逆に秀吉軍に呼応して反乱を起こした勢力もある)、仏僧を使役に使う代わりに信仰を見逃すようなことがなされた。

第16代仁租
清軍の侵入による戦乱の時代であり、内政・外交ともに混沌としていたため、廃仏政策の完成は、1636三田渡の盟約によって清の冊封国となった後なされた。この時代に僧侶は城内に入れなくなり、尼僧は強制的に還俗させられている。

その後、仏教は完全に山奥に追いやられたが、仏僧を労働力として利用した為に仏教は完全に根絶されることも無く、李氏朝鮮時代全般、仏教は弾圧されたものの、民衆信仰としては温存された。