風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

夢のシネマ(2)SFの父ジュール・ヴェルヌ

2005-04-02 01:53:22 | まぼろしの街/ゆめの街
Jules_Verneカレル・ゼイマンの『悪魔の発明』(1958年チェコ)の何が、小学生のボクをとらえたのか?
この作品は、実写なのだが背景や小道具がアニメのような絵なのだ。それも、エッチング(銅版画)のように多くは横向きに線描されたラインが入っている。その書き割りのような背景の上で、俳優による実に無声映画のような大袈裟な振りでの演技がなされるのだ。CG技術が意のままにできる現在ならまだしも、当時、そのような表現は珍しかった。それに、潜水艦(それは原子力で動くようだ)や、気球とその先端科学技術の発明品のことごとくが、どこかレトロで有機的なデザインをしている!
ジュール・ヴェルヌはSFもしくは空想科学冒険小説の父でもあるが、この国においても明治時代から空想好きな少年たちの心を捉えてきた。実は、2005年の本年はジュール・ヴェルヌの死後100年に当たる(1828年に生まれ、1905年3月24日に死去した)。ジュール・ヴェルヌが流行作家になる経緯には色々あったらしい。ヴェルヌは弁護士になろうとしてなれなかった、一種の落第生でもあった。1863年に友人でもあったナダールが、気球を作り上げたことに刺激されて書いた冒険小説『気球に乗って五週間』(1863年)で、ベストセラー作家になる。今は知らないが、ジュール・ヴェルヌの小説を少年時代に読むことによって、その空想癖を掻き立てられ、満足させられた思い出をもつ人は多いだろう。少なくとも、『地底旅行』(1864年)『月世界旅行』(1865年)『海底二万哩』(1869年)『八十日間世界一周』(1873年)『十五少年漂流記』(1888年)などという作品によって、海底や地底への限りない神秘や、月への憧れを持ち得た世代は、少なくとも明治、大正、昭和と続いた空想科学冒険小説の系譜の中に身をおいているだろう。
(余談だが、ディズニィ・シーなどというテーマパークに全然無関心だったボクは、そこに「ジュール・ヴェルヌ・レストラン」なるものが、あることを最近知って俄然行きたくなっているのだ。ネモ船長のノーチラス号船内でのような豪勢な食事をそこでしてみたい!どうせ、失望するだろうが……?)

そのような事情は、チェコでもたいして変わらなかったらしい。というより、ジュール・ヴェルヌはフランス人であり、むしろヨーロッパ圏の方が親しみも、情報も早かったであろうと推測させる。ところで、チェコには人形劇とともに、人形アニメも本家としての定評があるのは御存知だろう。『悪魔の発明』は、その制作年度の割には、むしろその大袈裟な演技もメイクもが、無声映画、それも表現主義還りしている。そして、いわばこのようなチェコ人形アニメの伝統の中においていい作品なのではないかと思っている。

もうひとつ、ヴェルヌの小説に掲載されたイラストレーションの影響力と言うことにも、触れておきたい。
「図象学」という学問があるのかどうか知らないが、思想が長い時を経て時代のパラダイムを打ち破ってコモンセンスになるように(最近の事例として「エコロジー」を上げておこう)、イラストレーションや、画像がもたらすパラダイムの変換と言う事態があるに違いない。それは、たとえば1960年代の半ばから、認識よりも画像として、つまり人間の内部の(さらに言えば「脳」の)イメージを変革、更新していったものとして「月」そして「地球」のイメージがあると思う。1960年代から考えれば、それらのイメージはまるで雲が晴れて鮮明なイメージに定着したかのようなものである。
1960年代の「月」のイメージは、いまだ明解な地図の描けない裏側のない世界だった。そう、いわば鏡のように二次元的な平面イメージだった。観測船や、アポロの実績と、写真による画像は、「月」と「地球」の認識そしてイメージを決定的に更新した。「地球」は、アポロからの写真によってはじめて衛星である「月」から客観的にとらえられた「惑星」となったのではなかったのか?
(つづく)
※写真はSFの父ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)。