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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

ついに引退  帝京・前田監督の50年と東東京の高校野球(その1)

2021年08月31日 | 高校野球

智弁対決でわく夏の甲子園の決勝当日、
提供を50年にわたり指揮した名物指揮官、前田監督の引退が新聞1面にドーンと載りました。

監督50年という節目を持ち、
今夏の選手権大会を最後に引退をしたというもので、
正式に発表されたわけでもなかったので、
秋の東京都大会のエントリーが終了したこの日に発覚。
驚きをもって伝えられました。

帝京野球の中興の祖と言える前田監督は、
昭和46年に監督に就任すると、
この夏まで50年にわたり指揮を執り、
帝京を全国有数の強豪に育て上げました。

同世代の横浜・渡辺監督や智辯和歌山・高嶋監督、
星稜の山下監督や福井商・北野監督とともに長年にわたりひとつのチームの指揮を執り、
全国の舞台で暴れまわった監督でした。

甲子園で残した優勝3回、準優勝2回という栄光や、
通算51勝という実績は素晴らしいものでした。

前田監督の引退を聞いて、
ワタシは「ああ、また一人ワタシが子供のころから指揮を執っていた監督さんが、グラウンドを去ってしまったなあ」と、
なんだかとても寂しい思いに駆られましたね。
これが時の流れというものなのでしょうが、
”寂しい”の一言です。

ワタシはほぼ物心ついた時から高校野球のことにだけは記憶が鮮明なのですが、
帝京は出始めからず~っと前田監督がベンチの前で指揮を執っていた姿しか浮かびません。
気迫いっぱいに、神宮のベンチや甲子園のベンチで、
片足を一歩前に出しながら難しい顔をしてサインを送る姿、
そんな姿がまず思い浮かびますね。

ワタシは高校も東東京地区の学校だったので、
それこそず~っと前田監督の帝京を、
いろいろな思いを抱きながら見続けてきました。

「地元も地元」の大監督の引退は、
それゆえ大変に感慨深いものがありますね。
近年はその「Xデー」がいつなのかという事もひそかに話題になっていましたが、
「ついにこの日が来てしまったか」という感じです。

ワタシが高校野球を見始めた昭和40年代半ば、
東京はまだ今のように東西で2代表を送り出せていない時代で、
夏の代表校は1校だけ。
そしてその代表には、
日大一・日大三を中心とした日大勢が席巻していました。

ほのかな記憶にあるのも、
「いつも日大○○高が代表」
という記憶ばかり。

実際記録を紐解いてみても、
1968年から6年連続で代表は日大勢のものでした。(日大一5回、日大桜ヶ丘1回)
選抜でも71年には日大三が優勝、翌72年には日大桜ヶ丘と日大三が決勝で対戦し、
東京では話題になりました。

ちょうどワタシの記憶は、
71年の日大三優勝ぐらいが”最古”です。

74年から選手権の地区割りが東西の2代表となって、
さらにその74年に金属バットが採用されたことで、
東京の高校野球も新たな時代を迎えました。

昭和40年代(65~74年)に吹き荒れた日大旋風がひと段落し、
昭和50年代には新たな風が吹き始めました。

まずは新興勢力の台頭。
昭和50年、
長らく沈黙を保っていた名門・早実が復活してきました。

早実といえば、
他の学校とは違いリトルリーグから優秀な選手を集めチームを強化するというのが、
東京ではよく知られたことでした。
「早実は野球のエリート集団」というのは今に至るまでの定番で、
他校の「草野球→中学軟式→高校野球」というのとは完全に一線を画していました。

昭和40年代は機能しなかった早実の野球が、
長い沈黙を経て復活してきたのがこの昭和50年代です。
その早実は、金属バットをうまく利用し、
打力を前面に押し出す野球でこの昭和50年代を席巻していきます。

そして昭和50年代初頭の大きなトピックスといえば、
昭和51年に初出場で初優勝を飾った桜美林でしょう。

西東京のチームではありますが、
当時”雑草軍団”と言われたように、
平均身長も低くスター選手も皆無のこの一見全く目立たないチームが、
甲子園で一戦一戦たくましくなって、
ついには全国制覇を達成してしまったから大騒ぎ。

しかも甲子園の決勝では、
大都市対決と言われた大阪のPL学園との延長の激闘を逆転サヨナラで制してのもの。

何しろ東京の夏の全国制覇は60年ぶり(第2回の慶応普通部以来)ということで、
地元の町田に帰ってからの優勝パレードは、
前代未聞と言えるほどのすさまじさだったそうです。
(ちなみに桜美林は今のワタシの住む地元の高校ではありますが、その当時のワタシには何の縁もゆかりもない土地でしたので、すべては伝聞です。その当時からの熱心な地元高校野球ファン氏からの、いつも熱を帯びる「優勝パレードいかにすごかったか話」参照。)

そんな昭和50年代の「新しい東京の高校野球」を引っ張ったリーダー、
とりわけ夏の東東京地区では毎年「候補筆頭」に上げられ、
オールドファンの多くが肩入れしていた早稲田実に戦いを挑んでいったのが、
前田監督率いる帝京でした。

リーダーたる早実の監督も若い和田監督でしたが、
和田監督が能力の高い選手をずらっと並べるオーダーで打撃で相手を粉砕にかかるのを、
さらに若い前田監督は闘志をみなぎらせてけたぐりを狙う、
そういった野球でした。

当時はまだ、
早実に対する挑戦者という位置づけだった帝京。
しかも何校かあるうちの一つでしたが、
昭和53年春のセンバツで、
ついに初めて甲子園の土を踏みました。

エース藤井を擁した初出場チームの戦い。
名将・前田監督の甲子園初陣でしたが、
帝京は全く何の印象も残さないまま、
話題になることもなくあっという間に甲子園を去りました。

その大会で同時に出場を果たしていた早実は、
荒木(荒木大輔の兄)・川又(のちの中日の代打の切り札)・山岡という、
前年から出続けていた強力クリーンアップを擁して優勝候補の一角に陣取っていました。

東京の高校野球ファンにとっては、
早実の動向は気になれど帝京のことを気にしている人は、
ほとんどいなかったでしょう。

そして2時間を切る試合時間で0-3の敗退。
この試合、なんとユーチューブに上がっていたのでワタシも昨年見てみましたが、
やはり当時の印象と同じ、印象に薄い試合でした。
(ただ若かりし前田監督の姿を見られたのはよかったですけどね。)

しかしこの昭和53年。
ワタシには本当に印象深い年です。

この年の夏の甲子園東東京予選。
決勝で激突した両校は、
凄まじい戦いを見せてくれました。

ここまですさまじい打撃で毎試合2ケタ得点を挙げてきた早実の圧勝だろうなあと見ていたら、
帝京が序盤から打つわ打つわの猛攻で11-4と大量リード。
「え~~~っ」
とボー然としていたワタシでしたが、
7回になって目覚めた早実が猛反撃。

8回には1年生の阿部選手の逆転ホームランが飛び出して、
早実が13-10と大逆転。
見事に2年連続の甲子園を決めたのでした。

凄まじい戦いでしたが、
帝京はこのころまだ夏の甲子園の土を踏めておらず、
悲願の達成はこのさらに5年後のことになるのでした。

ちなみにこの決勝で逆転アーチを放った阿部選手、
伝説の選手です。

調布シニアから入学して1年生で試合に出た阿部選手は、
そのたぐいまれなセンスから大いに期待された選手でした。
この東東京大会決勝で放った逆転アーチは、
輝かしい未来を予感させたものでしたが、
その年の秋、バイクの事故でその命を散らせてしまったのです。

早実は2年後この阿部選手の代で、
1年生の荒木大輔投手を擁して甲子園準優勝を果たすのですが、
阿部選手が打線の中軸に座っていればさらにすさまじいチームになっただろうなあ・・・・・という事は、
ずっと言われていました。
そしてその後阿部選手は、プロに進んだんじゃないだろうか・・・・・という事も。
何しろ「王二世」って言われていたんですから。


この頃から帝京は、
東京の高校野球シーンにたびたび登場、
強豪への足掛かりをつかもうとしていました。

昭和55年春。
選抜に東京から、
フレッシュな2チームが出場しました。

二松学舎と帝京。
今もなお、東京の高校野球界を引っ張っていく両チームです。

秋の東京都大会は死闘になり、
二松学舎が逆転サヨナラ勝ちで帝京を破って初優勝。
念願の甲子園初出場を飾りました。

帝京は準優勝でしたが、
この頃は東京から2チーム選出されるのが選抜の定番。
という事で帝京も2度目の選抜出場を果たしました。

この時まだ、
二松学舎も帝京も夏の出場はなし。
しかし両校ともに力を持ったチームでした。

二松学舎は強打線と長身の本格派、
西尾投手が看板。
帝京は打線こそ小粒ながら、
シニア時代から鳴らした「シニア世界一の投手」伊東を擁していました。

伊東投手、
「本当に高校生か?」
と思うような投球術にたけた好投手でした。

この時まだ新2年生。
しかし打者心理を読んだようなシュート、カーブの横の変化と制球力で勝負する投球は、
選抜ではどのチームも打ち崩すことはできませんでした。
「春は投手力」
かつてはこういわれることの多かった選抜大会ですが、
まさにその言葉がぴったりとくる伊東投手の力投でした。

ほとんどの相手を0点か1点に抑えて進出した決勝。
相手は脂の乗り切った高知商。
この時も優勝候補筆頭と言われ、
球道くんこと中西投手が君臨する、
本当に力を持ったチームでした。

劣勢を予想された帝京は、
この決勝でも伊東が淡々と投げて好投を見せ、
高知商打線を9回を終わって無得点に抑える力投。
0-0で延長に入る好ゲームとなりました。

延長で1死3塁のピンチを迎えた伊東。
打者の打球はレフトへの浅いフライ。
しかし打球を取ったレフト、
肩(?)を故障していて、
ふわっとした球を中継のショートに投げ返すことしかできず、
その隙をついてホームにタッチアップした3塁ランナーが、
捕手のミットをかいくぐってサヨナラのホームを踏んだ決着でした。

両チームに”あっぱれ”を何度も言いたくなるような、
素晴らしい戦いでした。


その昭和55年の夏。

東東京の予想では、
帝京と二松学舎が双璧。
エース故障の早実は3番手という立ち位置でした。

しかし大会では、
伊東に続く「シニア世界一の投手」という1年生の荒木大輔がすい星のごとく現れ、
準決勝の帝京戦を完封、そして決勝の二松学舎戦でも好投を見せ、
”2強”を撃破して甲子園の切符を2年ぶりに奪い取りました。

この瞬間から、
2年にわたり続く「荒木大輔フィーバー」が始まりました。

この夏甲子園で44回(?)無失点という超絶な投球を続けて準優勝に輝いた早実が高校野球界を席巻。
アイドル・荒木大輔は常に話題の中心におかれ、
早実にとって騒がしくも輝かしい5回の甲子園連続出場が始まるのでした。

この「荒木時代」の3年間、
帝京は全くの音なしに終わり、
春秋の東京大会、そして夏の選手権予選では、
決勝に進出することもままならない雌伏の3年間を過ごしました。

ちなみに早実は、
なかなか練習するにも厳しい喧噪状態の中に置かれて力を伸ばすことができず、
荒木の2年、3年時の2年間においては、
常に優勝候補の一角と呼ばれながら8強が最高成績となってしまいました。

一方時が来るのをじっと息をひそめて待っていた帝京は、
荒木が卒業した翌年の昭和58年に、
一気にスパークします。

秋優勝で3度目のセンバツをつかむと、
強力打線を押し立ててその選抜に「東の横綱」という評価を受けて勇躍乗り込みました。

これまでとは違う打線重視のチーム構成に、
前田監督もかなり自信を持っていたと見受けられ、
大会前のインタビューなどでも、
言葉の端々に自信をうかがわせていました。

しかし組み合わせを見てびっくり。
初戦で激突したのは、
前年夏、猛打で甲子園を制した蔦監督の池田が相手。
帝京にしてみれば、どうしてもかなわなかった早実を甲子園で完膚なきまでに打ちのめした相手。
「迎える敵に不足なし」の強気の姿勢を崩しませんでしたが、
それも試合が始まって数十分のみでした。

池田の猛打線は帝京の繰り出す投手をやすやすと打ち崩し、
池田のエース水野は、
強打で鳴らす帝京の打線が全く太刀打ちできない剛球で、
終わってみれば0-11の完敗でした。

前田監督は、
この敗戦によって頭をガーンと殴られたような衝撃を受け、
その後ウェイトトレと食トレで選手を鍛え上げ、
どこにもまねできないようなムキムキの選手をそろえたパワー野球に移行していきます。
その端緒となった試合でした。

その夏、
帝京は選抜の屈辱を晴らそうと選手権予選で気合十分の戦いを見せ、
ついに念願の夏の選手権初出場を果たします。

その決勝を戦った相手が、
その後ずっとライバル関係を続ける関東一。
ここにもいた若き名将・小倉監督(現日大三監督)が率いていました。

そしてこの敗戦の屈辱を胸に鍛え上げたチームで、
翌々年見事に帝京にリベンジを果たし、
甲子園初出場を飾るのです。

さて少し戻って昭和58年夏の帝京。
初出場に燃えていましたが、
初戦で「ミラクル宇部商」に9回2死から逆転サヨナラ2ランを浴びて、
惜しくも夏の初勝利はなりませんでした。

しかしこの頃になると、
帝京はもはや「東京の名門校」として、
全国にも認識されていました。

東東京勢としては、
その翌年の昭和59年、
まさに「この年だけの輝き」に満ちた初出場の岩倉が、
なんとあのKKのPLを完封して、
驚きの優勝を飾ってしまいました。


前田監督は池田戦の敗戦から、
パワー野球への移行を志向していましたが、
2年後の昭和60年の選抜、
帝京は2度目の決勝進出を「投手力」で果たすことになります。

この選抜。
帝京は「強打が看板」という触れ込みで乗り込んできていました。
しかし世はPL学園全盛時代。

桑田ー清原のKKコンビが最後の学年を迎え、
まさに円熟期を迎えたチームは強かった。
まごうことなき「歴代最強チーム」と言って差し支えないでしょう。

一方蔦監督率いる池田も、
まだまだその光に衰えは見えていませんでした。

そんな大会で、
”最強PL”は、超絶なピッチングを見せた「四国の初顔」伊野商の渡辺に、
完ぺきに抑えられ4強で甲子園を去りました。

誰もがPLの動向を注視し、
準決勝のこの戦いに酔いしれていた時、
反対側のブロックで淡々と上位に勝ち進んできているチームがありました。
それが帝京でした。

帝京はこの大会で自慢の強打線はほとんど爆発することはありませんでしたが、
何しろ「期待されていなかった」エース小林が八面六臂の活躍。
初戦で伝統校の広島商を完封すると、2回戦では東海大五をまたも完封。
準々決勝では初回に2失点したものの、
準決勝では因縁の池田を相手にまたも完封。

なんと4試合を一人で投げぬいてわずか2失点。
まさに「うれしい誤算」で決勝に進出しました。

この決勝進出。
5年前の伊東投手の快投とぴったり重なる戦いぶりでした。
小林投手が完封した3試合、
2-0,2-0,1-0と、
打線はほとんど援護してくれませんでしたが、そんなことはお構いなしに小林投手、
見事な投球を続けましたね。
まさにゾーンに入っている投球でした。

そして決勝の相手は伊野商。
PLではなく驚いたとは思いますが、
帝京にとっては前回の高知商に続いて、
またも好投手擁する高知県のチームとの決勝になりました。

両大会ともに、
優勝候補が入るゾーンとは別のゾーンに入った帝京は、
激戦をよそにするすると勝ち上がったという感じで、
戦い方は本当に似ていました。

そして決勝は。。。。。

予想通り(?)伊野商・渡辺を帝京打線は打ち崩せず完敗。
またも準優勝に終わりました。

ちなみにこのころ(昭和50年代~60年代ぐらい)にかけては、
東京のチームは選抜にこそ強かった!
55年帝京の準優勝、57年二松学舎の準優勝、59年岩倉の優勝、60年帝京の準優勝、62年関東一の準優勝と、
2年を置かず決勝に進出して「春の東京」のイメージが、
ワタシは強かったですね。
ちなみにすべてのチーム、東東京のチームです。

昭和50年代~60年代まで、
51年の桜美林を除いて、西東京のチームが実績を残すという事はありませんでした。

この頃甲子園で勝ち上がるような大型チームを作るのは、
常に東東京のチームでしたね。
早実、帝京、二松学舎、関東一・・・・

でもこの頃の東京の高校野球。
よく言われていたのは「強い学校は東東京。しかし全体のレベルは西東京」です。

西東京は東東京に比べて、
都立高の実力が高く、
それゆえ力のある学校でも序盤から気の抜けない戦いが多かったといわれていました。

都立高でも、
東大和、国立などを中心に、
上位に進出する実力校が、多かったですね。
そして大会はいつも「どんぐりの背比べ」って感じでしたね。

対して東東京は、
「どのチームも全国で上位を狙う」中での数校のたたき合いという形で、
ワタシはいつも予選を見ていて、東東京のほうに注目していました。
西東京の予選は、都立が出るのか出ないのかという事に注視していたような気もします。

さて、その昭和60年。

選抜帰りの帝京が圧倒的とされた夏の予選の予想の中、
牙をといていたチームがあります。
それが春夏初出場を狙う小倉監督率いる関東一ですね。

このチーム、
小倉さんが若かったというのもあるのでしょうが、
とにかく気迫というか、気合が前面に出るチームでした。

ワタシは「下町のお祭り野球」と名付けていましたが、
けんか腰のその気迫、すごいものでしたね。
それが全面に現れたのがこの年の帝京との決勝。

予想では帝京圧倒的有利。
しかし試合は意外な展開を見せて関東一が序盤に先制する展開に。
帝京はじわじわ追い上げて1点差の膠着する展開で後半に向かいました。

帝京は実績もあるし王者の貫禄を携えていましたから、
前田監督を中心にビハインドでも落ち着いた感じで試合を進めていましたが、
関東一の気迫はすごいもので、
「なんとしてもこの試合に勝って甲子園へ。」
というよりも、
「憎き帝京をこの手でなんとしても倒したる!」
という気合がベンチに満ち満ちていました。

そして4-3とリードして迎えた8回裏。
帝京は8回表の攻撃がゼロで終わったことで少し気落ちした感じで守備に。
そこを関東一打線が襲い、
帝京のミスも絡んでま~打つわ打つわのお祭り状態となりました。

この回なんと8点。
関東一の気合が凝縮された回となったのですが、
関東一の選手たち、
ホームを駆け抜けるたびに帝京のベンチに向かって(?ワタシにはそう見えました)か前田監督に向かってか、
大きなガッツポーズを繰り返していました。

今だと多分、
審判から注意を受けるんでしょうが、
昔はそういった気合は、
肯定的にみられていましたから、
ワタシも「スゲーなあ、このチーム」と思ってみていました。

これがワタシの中でも、
関東一というチームの「デビュー戦」のような形でしたので、
このチームはいまだに「気迫満点のチーム」に見えてしまいます。

この打てや騒げやのお祭り野球、
初出場を飾ったこの後の甲子園でも存分に発揮されていましたね。
準々決勝で大逆転負けを喫して甲子園を去るのですが、
出来れば甲子園でPLと当たって、KKとの対決させたかったなあと今でも思っています。

この辺りは、
本当に東東京の高校野球は面白かったですね。

ちなみにこの地方大会の決勝でのお祭り騒ぎのような決着。。。。。。
ワタシの中で今でも残っているのは、
この関東一vs帝京と、
同じような決着になった神奈川大会の決勝、 横浜vs藤嶺藤沢ですね。

盤石な戦いをしていた横浜に対し、
さして強いとも思われなかった藤嶺藤沢が、
決勝の後半戦で突き放されてスパークした姿、
センセーショナルでしたね。
横浜があんな風に崩れる姿、
あまり見たことがなかったのでショックでした。


そういう意味では、
横浜、帝京の両強豪が予選の決勝で、
全くの初顔である藤嶺藤沢、関東一にボコボコにされてしまったというのは、
なんだかショックでもあり鮮烈でもあり・・・・・そんな昭和60年でしたね。


さて、
帝京が「絶対王者」に君臨していくのは、この後です。
帝京の黄金時代は、
この昭和60年(1985年)から1997年ぐらいだと思います。
第1期黄金時代と言ってもいいのかな?

帝京はこの選抜準優勝までは、
全国で勝つ時は必ず投手戦での勝ちでしたね。
伊東、小林という、
その後プロに進んで活躍する好投手を擁し、
彼らが完封に近い好投をしたときに、
ロースコアで勝つというのが「帝京の勝ち方」でした。

しかし前田監督自身は、
そんなことを望んではいない、
勝のであれば打撃で突き放して勝つというのを志向していて、
「そうでなければ頂点は取れない」
という事を強く意識していたのではないかと思います。

そしてできたのが62年のチーム。

この時は芝草という投手を擁してはいましたが、
チームは「強打のチーム」という触れ込み。

春の選抜では2勝して8強に進出、
そこで春夏連覇を達成するPLに延長でサヨナラ負けを喫しますが、
この選抜で目立ったのは芝草の好投。

「やっぱり帝京が勝つには、投手の好投でロースコアゲームだな」
とまたもそんな言われ方をしました。

芝草は細身の細腕でしたが、
甲子園ではキラキラと輝きましたね。
夏の大会ではその右腕は光を放ち、
2回戦の東北戦で芝草はノーヒットノーランを達成しました。

準決勝までの4試合でわずか1失点という好投を見せ、
春のリベンジをかけて準決勝のPL戦を迎えます。

「PLに待ったをかけられるのは帝京しかいない」

と言われた試合でしたが、
芝草はPLに完膚なきまでに打ち崩されて4回までに8失点。

しかし。。。

これまで何度も甲子園に出場しながら、
「投手が抑えた試合に勝つ」
パターンでしか勝ってこなかった帝京が、
敗れたとはいえPLの強力投手陣に対して食い下がっていき9回までに5点を返したこの試合こそが、
帝京が脱皮するきっかけをつかんだ試合だったとワタシは思います。

やっとのことで「帝京は強打のチームなんだ」という事を見せつけた、
そんな試合だったと思います。

そして頂点への思いが結実するのが、
平成に入って初めての夏の選手権、
1989年の夏の大会だったと思います。

エース吉岡に強力打線を絡めた帝京は、
選抜に出場し優勝候補に挙がるも初戦で敗退。

前田監督にとって決意を込めた挑戦であったこの夏、
ついに帝京は初めて甲子園で頂点に立つことになります。

絶対的エース吉岡が好投、
そして強力打線は、全試合でその強打をいかんなく発揮しました。
決勝は東北悲願の大旗を狙う仙台育英でしたが、
延長10回についに相手エース大越を攻略して、
悲願を達成しました。

前田監督の目にも、
光るものがありましたね。

この大会、
失点は3回戦のわずか1失点のみ。
「やっぱり帝京は、投手が安定しているときは一番強い」
という事も生きていました。

全国制覇したという事で、
帝京はさらに「最強」の階段を上がっていくことになりました。

このあたりからのチーム作りは、
まさに順風満帆。
毎年のように大型で無双するチームを作り上げていって、
今の大阪桐蔭などを想起させるような充実ぶりでした。

91年には2年生エース三沢と度肝を抜くような長打を連発する打線で選手権8強に進出。
この時の3回戦で戦った因縁の池田との試合は、
三沢のホームランなどで大逆転のサヨナラ勝ち。
池田の時代の終焉と、帝京の時代の到来を強く意識させてくれる戦いとなりました。

翌92年選抜。
3年生になった三沢率いる「最強軍団」は選抜で大暴れ。
今度は帝京得意の「投手が安定してロースコアゲーム」という戦い方を実践して、
三沢が最後まで好投して選抜3度目の決勝で初めて頂点に立ちました。

そして95年。
2年間の”休息期間”を経て、
また帝京が強いチームを作って登場。
しかしながらこの年の帝京は、
何かと話題を提供してくれたチームでした。

まずは選抜。
優勝候補の一角と目されていたものの初戦で完封負けを喫して敗退。

それに怒った前田監督。
帰京すると3年生を干したとかで、
3年生の選抜で主力を担った選手が軒並み退部。
帝京は窮地に陥ったという事が、
確か新聞などにも出ていたように思います。

主力を2年生にして夏に臨んだ前田帝京。
しかしそこはさすがに好選手たちが集まる軍団。
起用された2年生たちは、
試合経験を積むごとにたくましくなり、
東東京大会の終盤にはきちっとチームとして機能するまでに至りました。
このあたりのチーム作りは、さすがに前田監督だと思います。

しかしその途中の東東京4回戦。
都立八丈高校との試合で、
前田監督はあと1点でコールドゲーム成立という試合で、
攻撃中にわざとランナーをホームに還させないという指示を出し、
結局そこから2イニングぐらい試合を続行させました。
前田監督曰く「今日はリリーフ投手もマウンドに上げたかったので、結果的にそういうことになった」
とコメントしたもののこの行為(作戦)に「相手に対するリスペクトが全くない」と批判が殺到。

新聞の紙面でも叩かれ、確か高野連からもお小言をもらったと思います。

しかし当時の前田監督は、
そんなことよりも勝利への執念のほうがずっと上回っていて、
「勝つためなら、ルール上認められているなら、何でもする」
という事が徹底されていましたね。すがすがしいぐらい。

この後の甲子園でも、
初戦で当たった日南学園戦で、
足を上げてのスライディングで相手捕手と一触即発になったり、
「一人一殺」で投手をワンポイントでくるくる変えてみたりと、
およそ「高校野球ファン」には歓迎されないようなことを次々にやってきました。

そのためではないでしょうが、
甲子園ではかなりのヒール扱いされた立ち位置になってしまっていましたね、帝京は。

「勝てば何やってもいいのかよ」

そんな声が、結構あふれていたように思います。
まあ、甲子園というところですから、
「東京からやってきたヒール役」
は叩かれやすかったという事もあったのでしょうがね。

しかし前田監督のすごかったのは、
意に介さずにやり切ったこと。
そしてなんと、
2度目の夏制覇を達成したことですね。ほぼ2年生だけというチームで。

これで平成に入ってから7年間で3度の全国制覇。
まさに帝京は黄金時代を迎えたといってよかったのでしょう。

ほぼ2年生での全国制覇。
という事で、
翌年はさらに期待された帝京でしたが、
結果は全く出ませんでした。

選抜に出場して圧倒的な優勝候補だったにもかかわらず、
初戦で岡山城東に5-1とリードしていながらまくられて敗退。

前年優勝しながら批判のほうが多かったというのが、
前田監督も堪えていたのかもしれません。

この敗戦で帝京の勢いはパタリと止まり、
あの圧倒的な強さは影を潜めていきました。



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