インドちゃんの子どもと書くな!子供と書け!!

障がい者と書くな!障害者と書け!!

9月20日 ブルマン

2009-10-04 18:35:06 | Weblog
 夢は様々な暗示を含んでいる。洋の東西を問わず、人々は夢の秘密を解き明かそうと懸命に研究してきた。ソクラテスは「夢とは良心が語りかける声」だといい、フロイトは「無意識の領域へ通じる道」と述べた。最近、わたくしは「ドラム缶が乱立している夢」をよく見る。暗い、暗い洞窟か何かの中に、無数のドラム缶が垂直に立っているという夢を。この夢は、私の「良心」が「無意識の領域を通」して私に「語りかけ」ているのだろう。このような夢を見るようになった契機はっきりしている。平成21年9月20日、青山繁晴先生のご講演を聞いてから、わたくしはドラム缶の夢を見るようになったのだ。ドラム缶が暗示するものは一体何なのか。我々日本人が戦後60年間ずっと忘れていた忘れ物を取りに行くきっかけを、このドラム缶は与えてくれるのだ。

 我々は講演会に先立ち、国歌「君が代」を斉唱した。青山先生は冒頭「皆さんの君が代を聞いて感激した」と仰った。諸外国では折に触れ国歌を歌うのは当たり前なのだが、残念ながら今の日本では国歌を聞くことでいちいち感激しなければならない。青山先生は世界中を歩き、「諸外国では『国を愛する』ということが土台として存在し、その土台を大前提として各自の思想を争うということをしているが、日本だけが『国を愛する』ということそのものを争わねばならない」と仰り、「戦いはまだ終わっていない。我々は祖国再建の途上にある」と熱を込めて語られた。
 本年8月30日、第45回衆議院選挙が行われた。ご存知の通り民主党が300議席以上を獲得し圧勝した。民主党は國神社に変わる「無宗教の慰霊施設を建設する」と公言しているため、我々のように崇敬心のある者にはこのことが気懸りでならない。しかし青山先生は次のように仰る。「これは私たちのチャンスだ!」と。現状の國神社は一宗教法人であるが、まさかこれで十分だと思っている人はいないだろう。誰もが願っていることは、國神社の国家護持である。アメリカのアーリントン墓地が私設であるとは考えられないのと同様に、國神社の運営を国が行っていないのはおかしな事態だ。青山先生は「私たち主権者があり方を決めるのだ。僕たちがこの国の主人公なのだから」「英霊に感謝するだけでは不十分。私たち自身が年齢に関係なく皆が同時代人として祖国再建のために働かないといけない」ということを何度も何度も仰った。そして「声を上げること」の重要性を強調され、今が声を上げるまさにチャンスなのだと熱が入る。

 日本は先の大戦で敗れてしまった。しかし日本が敗れたのはそのたった1回だけである。世界広しといえどもそんな国は日本だけだ。ただ残念ながら負けた時にどうするかという練習が一度もできなかったので、たった一回負けただけですべてアメリカの言いなりになってしまった。失敗から学ぶことも重要であり、ハワイにある真珠湾攻撃の記念館は公平な視点で日本海軍の素晴らしさ、アメリカ海軍の戦略などが展示してある。アメリカの若者はそこへ行けば、失敗も成功も含めて自分の祖国がどうやって戦い生き延びたかが分かる。敵からも学び、自らを省みていかにしてアメリカが強くなっていったかがつぶさに分かる。残念ながら遊就館の展示はそのようになっていない。まずは遊就館の展示内容から見つめなおす必要があるのではないだろうか。

そして、青山先生は我々の忘れられた記憶を取り戻そうと、二つの話をされた。一つは忘れられた戦争の記憶「沖縄戦」である。青山先生は共同通信に入社後初めての夏休みを沖縄で過ごそうと決められた。記者として沖縄戦の現実を自分の足で歩いて確かめたいと思ったからだ。タクシーに乗りいくつかの戦跡を巡拝した後、白梅の塔に案内される。白梅の塔とは沖縄第二高等女学校の生徒の慰霊のために建立された塔であるが、ひめゆりの塔とは違い参拝者が当時は皆無で、まさに「忘れられた」慰霊塔であった。今でこそ慰霊塔が建っているが、30年ほど前はただの石積しかなく、その裏側には錆びた蓋のついた長方形の箱があっただけだった。鍵もかかっていないその蓋を開けると、真っ白な、本当に鮮やかな白さの人間の骨が入っていた。これが頭蓋骨、これが大腿骨、これが胸骨と分かる状態であり、しかも今でも鮮明にその骨の白さを覚えている、と青山先生は言う。右手の方に進むと自決壕があり、その壕が今も当時のまま残っている。青山先生は何十回もその壕を訪れ、毎回その壕に降り、そしていつも地面に手をついて土を撫でるそうだ。正直、壕の中は暗く霊気も感じるので怖くて仕方ないらしいが、先生は必ず地下に降り、土を優しく撫でると言う。そして我々にも必ず白梅の塔を参拝し、男子は必ず壕の地下に降りて土を撫でるように、と仰った(当時の自決された方々は14歳、15歳の女子が中心なので、念のため女子は壕には降りず上から手を合わした方が良い、とのことでした)。先生は縁あって、あるテレビ番組で白梅の塔を取材することができた。その際運良く白梅学徒看護隊の生き残りの方3名にお会いすることができた。その一人の方に「私が初めて訪れた時はただの石積でしたが、よくここまできれいに整備されましたね」と言うと、彼女は「そんなことはありません。ずっと整備していました」と声を荒げられる。しかし青山先生はご自分の記憶に自信があり、あの真白な遺骨の記憶は消そうと思っても決して消すことはできないほど鮮明に残っている。おかしいな、とは思いながらもそれ以上この話をするのをやめたそうだ。そして、その女性と一緒に壕に降り、いつものように心を込めて土を撫で、外へ出た。すると、その懸命な姿に心を動かされたその女性は、「青山さん、さっきのはウソです。ごめんなさい」と仰った。「私たちの同級生はこの壕の中で死んでいました。顔も体も溶けてしまった、もう誰だか分からない。きっとこれは○○ちゃんだろうと思って親に連絡しても、親は『違う。わたしの娘はまだどこかで生きている』と認めない。仕方なく自分で骨を集めて箱に入れるしかなかった。鍵をかけなかったのは、夜中にでもこっそり親御さんがおいでになられるかもしれないと思ったから」と。「本当の沖縄戦の現実はこれだったんです。沖縄県民も忘れていることがここに残っているのです」。

壕の下に降りて土を撫でることは即ち、この地で自決された方々を撫でることになるのだろう。男子は下に降りて土を撫でるように仰った理由がよく理解できた。皆が祖国のために戦ったのであり、決して戦わされたのではない。白梅の塔の横には、20年間一枚も入れられることのなかった小さな名刺入れがあり、現在は徐々にではあるが名刺の数が増えているそうだ。そしてそこに名刺が入れられるのを毎日毎日心待ちにしていらっしゃるとのことであった。

 次に青山先生が語られたのは、忘れられた日本の領土「硫黄島」についてである。硫黄島は東京都小笠原村に所属するれっきとした日本領土であるにも関わらず、全面立ち入り禁止になっている。平成18年(2006年)、ハリウッド映画『父親たちの星条旗』が公開されたのは皆さんご存知だろう。当時、青山先生はアメリカに居てホテルで原稿を書いていた。CNNを見ながら原稿を書いていると、偶然『父親たちの星条旗』の監督クリント・イーストウッドがインタビューに答え、「硫黄島の戦いはアメリカ兵だけではなく日本兵もヒーローだ。だからこの映画は二本ある。二本目は日本の視点から作った」と言ったのを聞き、びっくりして椅子を蹴飛ばし立ちあがってしまったそうだ。もし、日本の視点と言いながら誤った視点であったなら、この誤った視点が永遠に残ってしまうことになると思い、居てもたってもいられず硫黄島へ行き真実をこの目で確かめよう、と思ったそうだ。帰国後すぐに防衛庁(当時)に行き、硫黄島へ入る許可をもらおうとした。しかし遺骨収集団と一緒に、しかも決められた場所ならば許可すると言われたので、自由に自分の行きたいところに行きたいと懇願した。しかし許可は下りず一旦は諦めハリウッドにメールを出し、硫黄島で実際撮影をしたのかどうかを尋ねた。返事には「日本政府の許可を1日だけもらい、自由に撮影した。あれはセットではありません」と書かれてあった。そのメールをプリントアウトし、すぐさま防衛庁(当時)に駆け込み許可を再度求めた。その甲斐あってついに許可を得た青山先生は、テレビ局の助けも借りながら硫黄島へ上陸することになった。

 飛び立って30分ほど経つと、高度は6000メートルほどになり、周りには海以外何も状態となった。久し振りに何も考えず頭を空っぽにしていたところ、足もとから夥しい数の“何か”が現れ頭へと抜けていった。いった何が起きたのかさっぱり分からないが、それらは「かえせ!かえせ!もどせ!もどせ!」と言いながら、頭へと抜けて行ったということだけは分かった。じっと声を聞いていると「俺たちはたった60年前に、お前の見ているこの海を南下し、硫黄島に連れていかれたんだ。俺たちを故郷に帰せ!」と言っている。硫黄島の戦いでは21000人の将兵が戦い、20000人が玉砕した。もちろん外国のサイパンやガダルカナルでも多くの将兵が戦士したが、硫黄島は東京都小笠原村硫黄島なのだ!!8000人にも登る方々がまだ硫黄島に閉じ込められたまま故郷に帰っていないのだ。外国ならば儘ならないこともあろうが、硫黄島は東京都に属する日本国の領土なのだ。はたして我々は、どれだけ大きな忘れ物を硫黄島に残してしまったのか。

 やがて青山先生を乗せた飛行機が硫黄島に着陸した。しかし、先生は滑走路に自分の足を降ろすことができない。なぜならば、この滑走路の下には無数の日本兵士の遺骨が眠っているからだ。昭和45年(1945年)2月、アメリカ軍は硫黄島の戦いの真っ只中、日本兵の死体の上に直接コンクリートを流し込み、滑走路を作った。何とこれが硫黄島の正体であり、硫黄島が立ち入り禁止になっている理由(の一つ)なのだ。日本政府は国民に知られたくない真実をこの硫黄島に隠していた。そして、我々国民も、この真実を60年以上の長きにわたって忘れていたのだ。昭和43年(1968年)硫黄島は日本に返還された(沖縄より数年早い)。日本政府はまず最初に何をすべきであったか。それは滑走路を剥がし、遺骨を収集し、日本のために身命をなげうって戦って下さった方々に故郷へ帰っていただくことであったはずだ。それが世界の常識だったはずだ。しかし、日本政府はそれをしなかった。青山先生は「『便利』だから滑走路をそのまま使った」というある自衛官の方の言葉を引用された。わたくしはその瞬間、現在の日本人に対する失望感と、60年以上もこの事実を忘れ去っていた自分に対する情けなさで号泣してしまった。日本に生まれ育ち、惰眠をむさぼり分かったかのような口を聞いていた自分が心底情けなく、恥ずかしかった。これは長年忘れつづけていた我々全員の責任であり、責任を以て今後も遺骨の収集を急がねばならない。

 青山先生は滑走路に土下座をし、撫でまわし、ごめんなさいと何度も何度も言って滑走路に降り立った。そして、硫黄島の魂と言われる地下壕へと向かった。硫黄島で指揮を執ったのはご存知栗林忠道中将である。栗林中将は着任早々将兵に、自決と万歳突撃の二つを禁じた。納得いかない将兵がいれば、わざわざ自ら歩いて行って話をされた。栗林中将はアメリカとカナダに駐在した経験があり、アメリカの民主主義が大変好きであった。当時、実際にアメリカとコンタクトがあり、アメリカから情報を得ていたそうだ。サイパンでもアッツ島でも日本人は降伏しない。日本を降伏させるには港や工場を攻撃してもダメだ。女や子供を爆撃で殺し、日本人を根絶やしにしよう。そうやって降伏へ持って行こう。そのために硫黄島を取るのだ。このようなことを栗林中将は情報として知っていた。アメリカ通でアメリカにも友人がいた栗林中将だからこそ知り得たことなのだろう。穴を掘ってそこに籠り一日戦いを引き延ばすことができれば、一日分日本本土で女や子供が生き延びる。二日戦いを引き延ばせば、二日分本土で女や子供が生き延びる。このような思いで2万人以上の将兵が心を一つにして壕を掘っていった。壕を掘るといっても大した工具があるわけではなく、せいぜい貧弱なトンカチがある程度。ほとんどの人は生爪を剥がしながら壕を掘った。そんな状態だから、一日で1メートルしか進まない日もあった。しかし彼らは諦めることなく、あの暑い暑い硫黄島の地下を掘って行った。この地下壕が日本にとっても、硫黄島にとっても生命線である。だから青山先生はこの壕を「硫黄島の魂」だと仰ったのだ。壕の到着した先生は、毛細血管のように続く地下壕をどんどん進んでいく。懐中電灯を当てるとどこもかしこも焼け焦げている。窮屈な通路を進むと突然大きな部屋に辿り着く。しかしそこは焼け焦げた跡がなく、無傷であった。栗林中将はすでにアメリカが火炎放射機を使うことを予測しており、炎を逃がすような構造の壕を作っていたのだ。翌日、青山先生は硫黄島の生き残り、Kさん(残念ながら本年お亡くなりになりました)に会いに行く。先生はてっきり叱られると思っていたらしいが、Kさんは何も言わない。だから青山先生の方から「私たちは硫黄島のことを忘れてきました。我々の世代はずっと日本兵は悪者だと教わってきました。だから忘れても良かったのです。硫黄島は日本以外の国では奇跡の島と言われています。一番悲惨で無残な肉弾戦が行われたのが硫黄島だった。アメリカ人と日本人の兵士が自発的に集まり、3月に合同慰霊祭を行っている。アメリカ人は生き残り兵はもちろん、子や孫、ひ孫までもが税金で来る。しかし日本人のKさんは全部自費。遺骨収集もボランティアでやっているから全然集まらない。滑走路もそのまま。私たちが戦後教育の中で日本兵は悪者だと教えられてきたから誰も何もしようとしない」という趣旨のことを言うと、Kさんは突然大声を出され、「青山さん、どうして私が悪者なのですか」と血を吐くように叫ばれた。

「青山さんは、あの地下壕に入ったんだってね。地下壕にはドラム缶はありましたか」
「ありました。雨水を受けていたのですか」
「ありましたか。あれは末期の水だと思って飲みました。戦友が爆弾で吹き飛ばされると髪の毛や皮膚なんかがドラム缶に入ります。すると甘露のように甘くなっておいしい。でも、おいしんだけど、70度にもなる地下壕では、水が熱湯になって熱いんです。壕の中には死んだ戦友がたくさんいたが、彼らの唇に水を浸してあげる。すると熱湯になっているもんだから唇がみるみるうちに腫れあがる。私は60年間その腫れた唇ばかり思い出してました」

Kさんは捕虜になり助かった。地下壕で負傷し、はらわたが飛び出している部下がいた。彼は悶え苦しみながら自決したいと申し出た。栗林中将の命令に逆らうことになるが、見るに堪えかねたので自決を許可すると、彼は手榴弾を使い自決した。彼の体は飛び散ったが、手榴弾の爆発の弾みで天井に穴があき、たまたまそこを通りかかった米兵に発見されて捕虜になり助かった。以来Kさんは一杯の冷たい水を毎朝南の方にお供えしているそうだ。青山先生もその日から冷たい一杯の水を南の方に向かってお供えしている。今ではこの一杯の水運動が全国に広がり、防衛省にもたくさんの意見や要望が集まり、ついに硫黄島の滑走路を剥がすことが決定した(万雷の拍手)。

 長野県の明徳寺に栗林中将のお墓がある。平成20年(2008年)3月26日、なんと63回忌の法要が行われた。ふつうは50回忌で法要は終わるのだが、なぜ63回忌なのか。実は、戦後栗林中将は硫黄島の将兵2万人以上を死に追いやったとして地元でも悪者扱いされていた。だから50回忌はおろか、3回忌も5回忌も一切法要を行っていない。最近、映画の影響などもありやっと栗林中将の“冤罪”が晴れ、63回忌を行うことになったのだ。祭壇には遺骨の代わりに石ころがいくつかおかれている。栗林中将の扱いを憐れんだ米兵が遺骨の代わりに硫黄島の石ころを遺族の元へ送ってくれた。その石ころに誰もが祈りをささげている。

 我々は“日本兵”とひとくくりで呼ぶが、戦争末期になると職業軍人よりも普通の庶民が武器を持って戦地に赴いた例の方が多かった。子供や奥さんや家族がいるパン屋さん、魚屋さん、サラリーマンなどがほとんどだった。しかし硫黄島に行けばもう生きて帰れない。ここで死ぬのだ。もう家族に会えないと思って戦地に赴いて行かれた。

 戦争は悲惨だ、というだけでは不十分だろう。白梅の塔にしろ、硫黄島にしろ、一人でも自分の私利私欲のために、自分のために行動した人がいたのか。みんな御国のために、愛する祖国のために、愛する祖国に住む日本人のために、そして我々子孫のために戦ったのではないのか。彼らは「俺たちが助けた女、子供が今祖国で何をしているのだ」「おい、お前たち、俺たちの祖国は一体どうなった」と聞きたいのではないのだろうか。我々はその問いかけに胸を張って今の祖国の状況を答えることができるのか。もしできないならば、できない国にした責任は我々自身にあるのだと自覚し状況を好転させるために行動しなければならないのではないのか。
 我々の忘れものは非常に大きく、一朝一夕に片が付くものでもない。しかし、ドラム缶の夢は一生わたくしにこの「忘れ物」を思い出させてくれる。講演後、わたくしは毎朝南の空に向かって冷たい水をお供えし、そっと手を合わせている。たった一杯の冷たい水さえ飲むことができなかった悔しさを忘れないために。そして、立派な祖国を残して下さってありがとうございました、と報告できるように。


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