日本の山里の人の話を、ときどき聞きに行っている。
昔(あるいは今)、どのように自然とかかわって暮らしを立ててきたかということ。
先日話を聞かせていただいた人は、終戦をスラウェシ島で迎えていた。
私は最初に訪れたスラウェシ島で、「日本軍の洞窟のあとがある」と言われ、初めてインドネシアと日本との太平洋戦争でのかかわりを意識することになった。その話は、前に書いた。
そんな洞窟にいた日本兵ってどんな気持ちだっただろう、そのとき、現地のインドネシア人は?など、考えされられた。
そんな日本人と、出会ってしまったのである。
けれど、私が驚いたのは、むしろ終戦後の話である。
終戦を知ってから2年間、日本に帰る船がなくて、船を待つ間、100人余りでスラウェシ島の山間に大きな畑を作って、そこで作物を作り暮らしていた、ということ。
現地には原野がたくさんあって、現地の人から土地を貸してもらうことができた。
その土地がとても肥えていて、野菜がとれるわとれるわ!
サツマイモはツルを適当に切っておけば株が分かれてぐんぐん伸びる。そしてすごくおいしい。
カボチャも伸びすぎて困るぐらい。
キュウリは1日に50cmも伸び、ナスなんか直径7、8cmぐらいの木になってしまう。
年中気候が暖かく、スラウェシでは乾季でも結構雨が降る。それで土が肥えているのだから言うことなし。
スラウェシの山間の人たちに、野菜を育てているか、と聞くと、「そこら辺にパパッと種をまいておけば勝手に生えてきて勝手になるから、別に育ててるってことでもないけど」とよく言われる。
そんなんで野菜がとれるのだから、日本式に丁寧に蒔いてみんなで丁寧に世話をすれば、そりゃ採れ過ぎて困るでしょう。
だから、日本に帰ってきてからの方が、作物がとれずに大変だった。
スラウェシ島が、そんな形で日本人を養ってくれていたことに、改めて感謝する。そしてその豊穣さ。余裕。
しかし、さらに驚いたのは、その100人余りが耕していた原野に、もっと前から住み着いていた日本人がいたという話だ。戦争とは関係なく、スラウェシに入植して農業をしていたのだ。
ブラジル、ハワイ、満州には、国をあげて開拓農民を送り込んでいる。が、スラウェシ?
そういう国策があったとは聞かないから、個人的なり、その地域や村がなんらかの形でそこへ行くルートを持っていて、それで移住したということだろう。
農民でなく漁民なら、糸満などの漁師がインドネシアで活躍していたという話は聞いたことがある。昔の日本人って、意外に国際的だったようだ。
100人余りの軍隊の人は、先に入植して農業をしていたその日本人の協力で、原野を借り、耕していたということである。
その人、その後どうしただろう。スラウェシに骨を埋めたんだろうか。
そして、暑くもなく寒くもないスラウェシの山間地に移住して、作物を作って暮らすということ。その選択はアタリだと思う。私もうらやましい。日本の冬の寒さの中で苦労するより、夏も冬もなく一年中作物が取れるほうがいいと思う。
私がインドネシアに惹かれるのは、豊穣の匂いがするからかもしれない。
おりしも今日、何カ月ぶりかで、スラウェシの知人から連絡があった。
写真/スラウェシ島・タナトラジャ(2008年)
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