AManTo天然芸術研究所

大地のため、時代のため、消費されないアートを求めて…
EART(天然芸術)の今を紹介するブログ

天然芸術としてのダンスとは

2006年04月01日 | Weblog
僕は天然芸術として、ダンスを研究しその一つとして
傾舞(kabuku may)という進化系舞踏を作った。
古今東西のあらゆるダンスのメソッドから
天然に寄与する(大地のための)パフォーマンスを整理し
メソッド化した。
天人で行われる傾舞(kabuku may)唯一の定期公演LOGOシリーズで
今回は「酔宵」を取り上げる事になった。
傾舞(kabuku may)にとってとっても大切なメソッドの一つだ。
今日はこの「酔宵」について少し専門的な話を紹介しよう。

それはすべての境界をとりさり、溶け合い与える与えられるではない
世界観を作り出す。相互が関連しあい、作品は生でなければ意味のない世界を作る
その傾舞(kakubu may)を舞う究極の理想空間を「酔宵(yoiyoi)」と名付けた。

観客と舞台をダンサーの妙技により一体とせしめ、
ダンサーは観客により踊らされ、観客はダンサーに翻弄される。
それによって自性を取り戻す観客とダンサー…
それは公演というより現象…
舞台が終わった後に訪れるなんとも宵の口のほろ酔いにも似た感。
心地よい疲労観と浮遊感をダンサー観客の双方に与える
主体客体の判別を超えた世界観を作りだす、これが即興舞踏である
傾舞(kamuku may)酔宵の極意でなのである。
ではここでいう傾舞(kamuku may)は単なるダンスセラピーと何が違うのか…
ダンスセラピーは基本的に本人の気づきのために行うので芸術ではない。
気持ちよ気持ちよく動けるように自分を解放していくのを基本としているので
日常からベストの状態で自己を開放して修練しているダンサーの動きとは
全く別の次元の存在だ。
一般的に職業ダンサーは美のために踊り、自己のために踊れない場合が多い(職業にした場合…)輪になって踊る事とも、クラブで汗をかき
青春を燃焼するのとも違う…

傾舞(kamuku may)は、自己の進化にもなるので自分のためとも言えるが
目的は劇場に集う人の進化の場へ空間を変容さす導き手になる事だから
結果として自己のためになるのであってそれ自体が目的ではない…
自分のためにはなるが、あくまで自己をささげる行為としてのダンスなのである…

ストレス発散とも仲良し一体感ともポジティブシンキングとも無縁の所にあるそれは修練と精進によって到達する達人の境地を目指す…
意識的な進化を本人と観客にもたらす道なのだ。

そしてさらに困難なのは、その結果として立ち現れた作品が、
芸術として高いクオリティと作品性を兼ね備えていなくてはならないのだ…!

では具体的に傾舞(kamuku may)を天然芸術(EART)と足らしめる
技術の一つ「酔 宵」とはどんなものだろう。
少し専門的になるがお付き合い願いたい…

傾舞(kamuku may)で「酔う」とは
他人に酔う、自分に酔うという2つの意味を持つ。

この二つにはそれぞれ自己の中心を見失う「泥酔deisui」と
自分の中心に明確に集中する「明酔meisui」がある。

つまり「他泥酔」「自泥酔」「他明酔」「自明酔」の4つの状態がある。

が…しかし、この何処にも「酔宵」に通じる境地はない。

自分がこの4つのどれに酔っているのか(もしくは複数に酔っている場合もある)
これを理解し排除していく必要があるのだ。

酔いの中にいながらも(踊りながらも…)
自己の酔いを判断する知性「不混智」を養う。

人は「不混智」によって、「どんなにのめり込んでも、
客観的に相対する視覚的意識」つまり「客体視kyakutaisi」に近づく事ができる!

しかし修行の最初の段階としては、
それぞれを身に着けるメソッドをこなし消化した後
まず「自明酔」の完成を目指し智恵の獲得へと移行する。

これが傾舞(kakubu may)の良いダンサーに絶対条件となる。
これがないとその場で成すべき動きから離れ、ある時は押し付けに、
あるときは一人よがりに終わってしまい、感動は与えられない。
ましてや観客をそれぞれのあるべき次の姿へと導き気づかせる
「キッカケ体」にはなりえない。

つぎに「宵」だが、これには、
これから日が明けるのか暮れるのか一瞬曖昧になる…の意味をもち
世界の構成要素がバラバラに切れエントロピーが増大する
(低いエネルギー状態に拡散し安定していく)ような「死宵siyoi」、
世界の構成要素がつながって行き、連携していく(感受性の豊かな
エネルギー状態を作り出す)「生宵ikiyoi」の2つの意味を持つ。

この二つにはそれぞれ場のエネルギーが沈静し下降する「宵沼yoinuma」と
場のエネルギーが集中し高くなる「宵華yoibana」がある。

つまり「死宵沼」「生宵沼」「死宵華」「生宵華」の4つの状態である。
が、しかし…この何処にも「酔宵」に通じる境地はない。

自分がこの4つのどの空間を作っているか又はどの空間で舞うのか…
ダンサーはこれを理解し厭離、離貪していく必要があるのだ。

様々な「宵」の中にいながらも自己の「宵」を判断する知性「不相智husouthi」を養う。
人は「不相智」によって、「どんなにのめり込んでも、
客観的に相対する視覚的意識」つまり「客体視kyakutaisi」に近づく事ができる!
しかし修行の初心の段階としては、
それぞれを身に創出するメソッドをこなし消化した後
まず「生宵華」の完成を目指し智恵の獲得へと移行する。

これが傾舞(kakubu may)の良いダンサーに必要条件となる。
これがないと観客とダンサーは一体にはなれず、毎回同じルーティーンが出現し
場の空気を白けさす結果となる。
これがあれば逆に毎回同じルーティーンを行っても
伝統芸能のように毎回の新鮮さで観客に多くの示唆と感動を
与えられるようになる。
つまり、
奇抜さや斬新さで飽きをカバーする必要から開放され
小手先の技術の無意味さを知るに至る。

そしてこの「宵」には「表」と「裏」の二態が存在する…が、
その内容は口伝となっている。

「酔」の4様、「宵」の8態をあわせ、身につけ自在に使いこなし後、
それを捨て、それを超えた所(酔と宵の区別される以前の状態)に
酔い遊ぶように必然を舞う事ができる極意を
「酔宵四様八態の秘訣 (yoiyoi shiyouhattai no hiketu)」
という。


両者「酔」と「宵」に共通することは、「時間感覚の消滅」といわれる
一瞬に永遠の内在された状態を持つ事。

「今」に「無始の過去」と「無限の未来」が内在された感覚を持つに至る事だ。
この状態を「不環(ふげん)」という。

この時間を忘れた状態を経験するとき、
人の意識は無限の過去と未来に広がり、
様々な体験をダンスを通して感じるようになる。

それは演出の追体験させる形の作品ではなく
10人10様のストーリーと解釈、自分にあった答えを見つける。
末広がりの発見をもたらす。
一つの結論に持っていこうとする予定調和を目標にした、
作家の自己主張型近代ダンスのとは全く違った方向性をもたらす。
それが傾舞(kakubu may)が提唱している最大の特徴なのだ。