わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

医学の成果の研究の論文? ああ、あれは後出しジャンケンだよ♪

2016年03月01日 | 医学と健康

なんだか意味不明の題名ですが・・・

 

音声読み上げはこちら→近代医学と偶然の発見、論文は後出しジャンケン?か

 

 私たち一般人バカりか、かなり上層部の医学者達、そして一般の医師たちが信じているアルことについて

まず、以下をご覧ください。

セレンディピティと近代医学」より  (あ、題名出したら分かっちゃうか!)

 

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー



 尋ねてはいけない、話してはいけない



 自分の発見に偶然とか幸運が貢献したと述べる人は、ほとんどいないと言っていい。


学術論文では、実際に研究がなされた様子を正確には書かない。


研究者はおおむね、観察したこと、データ、結論を乾いた受動態で書く。

このことで発見はよく考えられた慎重な実験から導かれたものだという印象が生まれる。


 その結果、ピーター・メダワー(免疫学のパイオニア的業績でノーベル賞)がいうように、実際に行われたことを「隠し、誤解させる」ことになる。


 科学論文ではほとんど例外なく、推論から発見までをpost fact(事実の後)的な論理で書くことを要求される。



研究が報告されるとき、こうした論理的堅牢性を重視する文章構成では、偶然の役割などが顧みられることはない。



 さらに、キャリアの浅い科学者にとって、偶然の観察が自らの成功につながったことを認めるのは、危険でもある。


だから彼らはずっと後に、しっかりした名声が得られてから、思わぬ結果とか、幸運な出来事、前提と違う例外などがあったことを、受賞講演、自伝、取材などで証言したりする。



 ノーベル賞受賞者が授賞式の講演で、幸運、間違い、偶然などについて初めて話すのはよくあることだ。



例をあげればシャルル・リシエ(一九一三年、免疫学)、アレキサンダー・フレミング (一九四五年、最初の抗生物質)、バルーク・ブランハーグ (一九七六年、B型肝炎ウィルス)、ロサリン・ヤロ7 (一九七七年、ラジオイムノアッセイ)、ロバート・ファーチゴツト(一九九八年、シグナル分子としての一酸化窒素)などである。



 立派なことに、一九六三年にノーベル賞をとることになるアラン・ホジキンの場合は、神経伝導の実験を記述するとき「まったく違うことを試験しようとして偶然発見された」「驚いたことに」「幸運にも」「幸運の大きなかけら」といった語句を使い、率直であった。



Ⅹ線の発見で一九〇一年度のノーベル賞に輝いたウイルヘルム・レントゲンも、地元の物理学会でその発見の偶然性についてすすんで言及している。


37

 肝臓移植手術のパイオニア、トマス・スターツルは、同僚への個人的書簡で、研究を始めた頃のことを書いている。


「非常に言いにくいことだが告白する。


私の研究人生で上げた業績は、ほとんど全て、予測していたのと反対のことだった。


これは私の仮定が全て間違っていたことを意味する。


当然私はこのことを誰にも言っていない。


古い友人である君を除いては!」

 自分自身にセレンディピティ的出来事が続いたことに基づき、エイサー・ロススタインはこう述べる。


「生物学における多くの進歩は、偶然と、知的な追求が合わさって得られたものだ…・科学者のイメージが実際とずれているのはこの点だ。


研究者は冷静で論理的な生き物とされる。



しかし行動の実際は、他の人間と同じように確信のもてない手探り状態であり、そこに予測不能の事態が襲う」「科学の発見に幸運が重要な役割を果たすことは、偽善者でない研究者なら誰もが認めることだ」とピーター・メダワーは主張する。



 また、J・H・バンフリーは、イギリスの国立医科学研究所の免疫部門で輝かしいキャリアを終えた一九八四年、「私の発見はほとんど予期せぬものや、偶然の観察から生まれた。


そしてそれを追求できる幸運があった」と述べる。



バンフリーはこの点を回想だけで終わらせてはいけないと感じ、最終的に 『英国医学雑誌』 にもう少し強い感じで書いた。


「私は、自身の個人的経験や知人からの話から、いくつかの重要な実験において、当初の目的が最終的な発見にいかに関係なかったかに気づいた。


このことは出版されたものからはほとんど分からない……ふつう、論文が出る頃には、その発見が現在の知見と融合され、あたかも最初からの仮説を論理的に実行したかのように書かれるからだ」。



ある人はこのことを娩曲に「時間逆行性変造」といい、またある人ははっきり「詐欺」という

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

なんの事を言っているかというと、

偉大な発見や発明した科学者は、その研究段階で、「一から始めてその積み重ねで目的をする結果を得る」という、日々の研鑽努力で成果を勝ち取った。

と思われた来たが、

じつは、「ああ、あれは偶然のたまものだったんですよ。私が理論上こうだのああだの思いながら実験して、その通りになったんじゃないのでした。あはは♪ でもね、それを最初から本当の事を言ったりしたら、学術論文は通りはしませんよ」

akyooon;だから、あなたはさも、理論通りに実験や研究をしてその成果を出したと発表するわけですか?

「そりゃそうだよ、まあ、本当の事を言えるのは、ノーベル賞とか大きな賞を勝ち取って、自分の地位も安泰になって、もうバレてもイイって時期になれば本音を言えるけどね。それまでは知らせず・・・つまり、黙っているというわけさね♪」

akyoon;なるほど~~。でもボクらはあなた方研究者はちゃんと筋道を通った学問通りにキチンと実験をしていて、その積み重ねの成果だと思っていましたよ。

「あはは、そりゃそうだろ。誰にも言わないんだからね。それがバレたら困るんだな。それが、たまたま、偶然、予期もしないのに、ラッキー♪ なんて本音を語ったら形無しだし、第一そんなのは認められない公算もあるしね。

akyoon:それじゃあ、あの論文は? じつによく解説してあるジャナイですか?

 

「だから~~、最初から研究目的にそって、地道に理論通りに実験研究した・・・という様に見せかけなければ、通らないジャナイか!キミ」

akyoon; それじゃあ、誇大広告、いや詐欺ジャナイですか?

「いいんだよ、学術論文などは後出しジャンケンなんだから(笑い。 それで納得されるんだからね。さも「科学的に」というハクを付けるには学術論文だよ、やっぱ¥」

 

ボロ愚主の解説はなんともはや、迷宮すぎるかな?

 

ところでSTAP細胞も、玉玉、偶然に発見されたのかな?

そして、まずは論文だね、発見を認めて貰うには・・・・

(「悪の製薬」によると、発表されるほとんどの学術論文には裏があるそうで、それが学会の常識となっているそうだ・・・・つまり「証拠より論」だという意味)

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

このように、真実を述べなかったり、ずっとあとで話すという例は、医学的発見につながった創造的行為を意図的に隠しているものだ。


一般科学論文は実際に行われた筋道を忠実に反映しているわけではない。


 時に科学者自身の間にも、研究過程における混乱や障害、不意の出来事、飛躍のきっかけなどについて討論会を催して欲しいという要望がある。


オープンに語ることで有名なリチャード・ファィンマンは一九六六年のノーベル賞講演でこう断言する。

 我々は、研究をできるかぎり完了したものとして科学論文を書く習慣がある。
今後よく分からない袋小路などでもう悩まないように、あるいは、最初に間違ったアイデアなどもたなかったかのように、すべての足跡を隠して書く。
だから研究者がその発見をしたとき、実際に行われたことが、堂々と公にされる場所などないのだ。




 なぜほとんどの科学者が慎重なのか、理解するのは難しくない。
恥ずかしさや、現在の地位を失うことへの恐れが、全て明かすことを控えさせているのかもしれない。

彼らは、資金集めや、グラント(助成金)の獲得、論文の発表、キャリアのアップにつながるチャンスを危うくすることなど望まない。
彼らにとって、多くの発見がまったくの偶然で起きることを認めるのは、不安なことなのだ。


 研究における非論理的な要素に言及して、ロススタインはこう結論する。

「偶然やセレンディピティという要素を明らかにし検証したような文献、著作で、人々が注目するようなものはない」。

この不満こそ、私が本書で何とかしたいと思ったものなのである。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

まあ、医学的大発見とか、新薬の開発をさも「科学的に発見、創り上げた」かのように思われるでしょうが・・

実際は主要な薬の多くが、セレンディピティ(偶然な幸運)だったという事が明らかになってしまいました。

この本の作者はもちろん、これらの数々の発見を幸運だとして、近代医学を賞賛している側ですので、たとえ偶然であってもそれは人類の為になった・・・と解釈しています。

ところがドッコイしょっと。
akyoon師はビックリこいているだけでなく、「それってホントに幸運だったの?ねえおじさん」(コナン少年のごとく)

どうも、へそ曲がり的に考えてしまうのです。

新薬の登場などに「科学的根拠など無い」と思いつつ、これが本当に幸運だった(セレンディピティ)と言われるのか? どうやら、時間が経過するとともに、ラッキー♪ が アン・ラッキー♪に代わってくるのでは無いかと危惧している次第であります。

まあ、いまでも新薬は数打ちゃ当たる式の古くさい手法で開発しているのでは無いかとこれも想像の域を出ませんが、新薬開発で何千、何万回の繰り返しをしていると聞くと・・

う~~ん、どうも薬の開発には「科学的理論」などあるんかいな? そんなの無いからこそ、何万回も実験を繰り返さなければならないんじゃないのかな??

科学的であれば、理論どおりに試験をしてゆけるわけだし・・・

だいいち、薬なんてのは「毒物」からつくり出すんでしょ。毒で無くなったら薬になるのかな?
毒でありながら、毒にならない・・という薬を開発する?

う~~ん、よく分からない、矛盾するな・・・

いやいや、学術論文さえしっかりと提出して貰えばイイ・・・・なんだろうか・・・???

論より証拠、いや、証拠より論か・・・

 

これでakyoon師はどうにか納得したようで。 お後がよろしいようで・・

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「セレンディピティと近代医... | トップ | 「学理の魔術」 科学的論文... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

医学と健康」カテゴリの最新記事