鶴見川を石南花で有名な高蔵寺があるあの奈良の「三輪山」から鎌倉時代に移住してきた一族が住み続ける三輪の里を通ると、多摩川を渡った後神奈川県川崎に入り再び東京都町田市になる小田急線「鶴川」の駅につく。鶴川駅周辺は最近大再開発され、とってもお洒落に変身した。
南に歩いていくと、5分もかからず農業団地「岡上」地区にはいり、いまでは稲刈り前の稲の穂がたわわにに実っている。稲の穂を無限の波でゆらす風に吹かれると心が軽快になってくるのは、やはり弥生時代からの稲穂の国日本のDNAが自分の体のなかにしっかり埋め込めれているからなのだろう。一方大開発された京王線若葉台に通じる(米軍ゴルフ場読売カントリークラブの方向の)北に歩いていくと10分ちょっとで、白洲次郎正子パートナーズの住んだ「武相荘」(武蔵の国と相模の国の境界と「無愛想」をかけたと思われる)に着く。この「 武相荘」は今では東京観光の名所になっていてはとバスや観光旅行バスの団体さんでにぎやかな限りである。入場料を千円もガッポリ取られるので一回しか入ったことがないが、昭和初期まで実際にお蚕さんから絹糸を紡いでいた蚕農家の旧邸をうまく利用した「風の男」と「イキ・サビの正子」の美意識満載の田舎屋である。「田舎生活」を楽しみ「東京の動きを観察」し「車で行動する」には最適の場所であったであろう、千葉なんかひっこんだらこんな条件満たされない。
大規模な住宅開発が進み、かっての「草深い武蔵と相模国境の田舎」の面影ははるかにすくないが、それでも結構緑が東京近郊としては残り、タヌキの生息地がそこかしこにある。それに戦前は「草深い田舎」であっただろうが、鶴見川沿いの丘陵にそれなりの境内をもつ寺が多数存在するし、丘陵に点在する農家は「谷戸」を背景として立派な家屋敷を構えており、決して山奥の文化果てる地ではなく、鎌倉街道が通り「鎌倉幕府の裏庭」といった「見た目以上に文化レベルが高い」地区である。「小京都」までいかないが、「ちょっとしたプチプチプチ鎌倉」ぐらいの「品格」があり、白洲正子がここに居を構えたのはたしかに「見る目がある」。「三輪の里の領主」荻野文男さんは、正子のお散歩のお相手をつとめたとのことである。
北康利「白洲次郎―占領を背負った男」を読んで、「風の男白洲次郎」がケンブリッジ・クレア・カレッジの出身であることを初めって知った。それでインターネットで少し調べてみると、白洲次郎という人物評価に毀誉褒貶がとても激しいことが分かった:例えば:
崇高賛美派「新・木庵先生の独り言―白洲次郎論」
罵倒批判派 ぴゅあ☆ぴゅあ「白洲次郎とは何者だったのか」
が目に入った。
これは一体どうしたことか。だが、 北康利「白洲次郎―占領を背負った男」の「ケンブリッジ大学クレア・カレッジ」のうち25ページから30ページまでは、「現場を知っているので」、これはひどい記述だと、訂正をしたほうがいいであろう。
P26からー
―日本の帝国大学を出た尚蔵は当時の制度により無試験で入学できたが、次郎は入学できたが、次郎は試験を受けなければならない。ヨーロッパの中世史を専攻しようと考えた彼は、どうせ勉強するなら将来役立つものをと、一年発起してラテン語の勉強を始めた。ラテン語はヨーロッパの古文書を読むには必須の知識である。こうして見事合格。―
(訂正)良く言われるのは、「ケンブリッジは他の大学の学位を認めない。」現在のPro-Vice ChancellorのAlison Richardsはケンブリッジでfirst degreeを取っているがProfessorshipはYaleだったので、Professor Alison Richardsと呼ぶかどうかでだいぶもめたようだ、さすがに大学の総代表をMs Richardsと呼ぶわけにはいかないので。(尚蔵はオックスフォードとのことでも、同じ条件だとおもう。)
白洲次郎は、19歳でイギリスに来てたった3年で、「ノーブル・イングリッシュ」と「ラテン語」、そしてイギリス上流階級の基礎である「フランス語」を身につけたのとは、すごい語学の天才である。
でも「ラテン語」は大学に入ろうとするなら、誰でも勉強するよね、「Rather than Dead」なんていう本まであるぐらいだ。
―「日本からの留学生は漢文で受験するものだが、オレはラテン語で合格したんだ」後年そういって春正に自慢した。―
(訂正)「漢文で受験!!」ブラックジョーク満載の次郎節炸裂ですが、あり得る訳ない。
―ケンブリッジ大学には三十一のカレッジがあったが、―
(訂正)31のカレッジは現在の数。白洲次郎が入学した1923年には22。Churchill, Clare Hall, Darwin, Fitzwillimas, Hometon, Lucy Cavendish, Murray Edwards(New Hall), Robinson, Wolfsonは第2次大戦後創立したいわゆる「ブリック・カレッジBrick College」(第2次大戦後創立したイギリスの大学を「ブリック大学」というようにー石造りとレンガ造りの対比)
―次郎が入ったのは最難関のクレア・カレッジ。イギリス王エドワード一世の孫娘エリザベス・ド・クレアによって創設された名門カレッジである。現在では共学だが当時は男子校、学寮での寄宿舎生活がはじまった。―
(訂正)クレア・カレッジは確かに2番目に古い名門で素晴らしいカレッジで、あのDNA構造の解明のワトソンWatson・クリックCrickのワトソン 1989 Norman Ramsey 2001 Tim Hunt のノーベル賞受賞者をだしているが、ケンブリッジの「最難関カレッジ」では決してなくトップ5でもなく、(まったく日本的評価で全く意味がないが)「中の中」のカレッジ、でも素晴らしいよ、「最下位だって」素晴らしいんだから。「最難関カレッジ」は、だれでもがよく知っている「リンゴの木」。
―クレア・カレッジ入学式のときの写真が残っている。四角い学帽にマント姿の69名の中で東洋人は次郎ただ一人。目立ったことは想像にかたくない。当初の成績こと最下位に近かったが、猛勉強して2年目にはトップクラス入りを果たした。―
(訂正)「フク」ちゃんの「四角い学帽」は偉い人たちがかぶり、学生は「丸いフワフワのビロード帽」のはず。「マウト」まさか一高じゃあるまいし「ガウンgown」です、「タウンtown(市民)とガウンgown(学者あるいは坊さん)」の戦いというでしょう。
―ケンブリッジは優秀な教授陣で知られている。その中にあの有名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズもいた。恵まれた環境の中で、さまざまな知識を貪欲に吸収していった。―
1923-1926の間ケインズはジャーナリストとして忙しかったし、1925年にはロシアのバレリーナ・リデアと新婚あつあつだったので、次郎が授業をうけたとは思えない、ましてや「経済学部」。
―このころ、目の覚めるような経験をしている。J. J. トムソンという優れた物理学者(電子の発明で有名)のクラスで試験を受けた際のこと。授業で教わってきたことを徹底的に復習してきた彼はテストの結果に自信をもっていた。ところが返ってきた点数をみてがっかりした。案に相違して低かったのだ。不満げな顔のままに答案を仔細にながめてはっとした。そこには、<君の答案には、君自身の考えが一つもない>と書かれていたのだ。頭のてっぺんから足先までビリビリットと電流が流れるような気がした。(これこそオレが中学生時代疑問に思っていたことじゃないか!>痛快な喜びがこみ上げてきた。テストの結果が悪かったことなどどこへやら、誰彼かまわず握手して回りたい気持ちだった。<よし、やってやろうじゃないかっ!>
(訂正)
「試験」―>「トライポス(Tripos)」1年の最後のEster Termでの試験
「点数?」―> トライポスの後「First, Second 1, Second 2, Third 等等」と張り出されるだけ。
J.J. トムソンJ.J Thomsonはケンブリッジではとても偉い人だ。1856年生まれ、1906年ノーベル物理学賞、1908年Sirの称号、1918年から亡くなる1940年までトリニティ・カレッジTrinity Collegeのマスター。息子のSir Gorge Paget Thomsonも1922年アバーディーン大学に移ってからの電子の波動性の研究でノーベル物理学賞を受賞している。1923年67歳トリニティのマスター(トリニティのマスターってノーベル賞受賞者かそれ以上の人物ばかり)が、白洲次郎ごときに授業をし点数の採点をするわけないだろう。
それに「次郎は西洋中世史・人類学(これでもおかしいのだけど)」を専攻にしていたはず。物理のクラスがとれるはずがない。ましてやケンブリッジは、「科学技術系の頭のいい人たちとその他の人たち」を言われるほど「科学技術上位」だし、その科学技術系は「おれこそ世界最高の頭脳をもっている、世界を変えてやるんだ!」という野蛮な連中の激しい競争の世界。いくら白洲次郎が語学の天才であっても車の修理ができるぐらいで、ついていくことなど到底無理。
ここはもう最悪!!いくら次郎のブラックジョークといっても度がひどすぎる。
「君の<答案>―><エッセイ>には君自身の考えが一つもない」とは、スーパーバイザーからいつも厳しくいわれることで、日常茶飯事。
―当時のケンブリッジでは試験の得点だけでなく、何回食堂でチューター(指導担任)と夕食をともにしたのかも卒業の条件となっていた。食事の時間を通じてマナーを身につけさせるのだ。
(訂正)夕食―>supper or dinner: supperはformalでなくdinnerはガウンを着て正式にとるまあ「夕食会」。Formal dinnerは、単なるマナーでなく「幅広い知識と教養と議論の訓練の場」。政治経済科学技術文化哲学宗教金儲けセックスもう膨大な話題をやるまくる場。次郎の唯一の著書といわれる「プリンシプルのない日本」はこのformal dinnerで鍛えた雰囲気が良く出ている。ただこれは瞬間勝負で、専攻のスーパービジョンではもっと体系的にあげていくことが求められる。学部専攻の指導者をスーパーバイザーsupervisorといい、カレッジでのいわば人生指導者をチューターTutorという。Tutorは専攻はまったく違う場合が多い。私の場合は、TutorはDr John Cathie, (大英帝国植民地政策の名残の)Land Economy学部のレクチャラーで「EUの食糧政策」なんかの著書がある、もちろんその話題も話した。
―また教授たちは、講義を始める前に、必ず学生に向かって‘gentelmen’と呼びかけたという。次郎はその言葉を聞くたびに、自分たちは自由であると同時に紳士として規律をもとめられているのだというのを噛み締めた。
(訂正)Girton,1869, Newnham 1872が創設され、白洲次郎の時代にはもう女子学生が結構な数授業に出席していたって!! また日本のバブル教授と違ってケンブリッジの教授職は「学部長なみ」ですごく少ない、最近世界の他の大学と比較してそれでは困るというのでProfessorの数増やしているが、それでも日本よりずーとすくない。三井の大番頭の池田成涁の息子でケンブリッジのリーズ校に学んだ池田潔「自由と規律」にしめされているように、「自由と規律」はパブリッック・スクールレベルでとっくに訓練され済んでいる。白洲次郎も、ケンブリッジに入る前にどこかのパブリックスクールに入っていたはずだ、さもないとケンブリッジを受験する「推薦」を受けられないし、でもラッセルみたいに家庭教師教育の場合もあるが、チャーチルがオックスブリッジに入れなかったのは、カレッジのインタビューをパスしないからだ。いまでもイギリス大学入学はインタービューでオファーをもらわないとどうにもならない、18歳人口は日本より多くなってしまっても大学の数は100ちょっとで、インタービューも受けられないという問題も発生している、だから日本より早熟な子が優先され、女子が優位にたっている(ケンブリッジ法学部の女子比率は50%をこえているんじゃないかな?)。
―次郎は生涯を通じて、「プリンスパル(原則)が大事だ」ということをことあるごとに口にしたが、それはおそらくケンブリッジでの‘Be gentlemman’(紳士たれ)と同義だったのであるまいか。イギリス紳士の精神的バックボーンは騎士道である。武士道と騎士道は、洋の東西と地理的こそ離れているが相容れないものではない。それらは次郎の中で玄妙に混じり合い血肉の一部となった。
(訂正)アダム・スミスをまったく読んでいないんだな。「騎士道」なぞ野蛮で獰猛な精神として(すくなくともケンブリッジでは)最も軽蔑されていることまったく知らないんだし、新渡戸稲造の「基督教テロリズムの武士道」なんか気違い沙汰だということ、「国際的に通用しない」ということをまったく理解していない。ケンブリッジでは、キリスト教は科学的学問的対象としては徹底的に軽蔑の対象である、しかし「歴史的文化遺産マスタベーション装置」としては皆心から尊重している、こういったみえないバランスが深くケンブリッジに埋め込まれている。
以上訂正すべきことを羅列した。こんなひどい記述じゃ、白洲次郎があまりに可哀想だ。「罵倒批判」の対象となる根拠をあたえていることになるだろう。こんな歪めきった記述までして「崇拝賛美」の対象となることを白洲次郎は決して求めないであろう。ましてや「崇拝賛美の対象」となることこそ「真のジェントルマンが最も嫌うことである。」
ケンブリッジには日本のヤクザ組織以上の膨大な掟が存在する、それは当たり前だ何百年も「キリスト教の坊主の養成機関」だったのだから日本のヤクザより焼きが入っている、だがその膨大な掟を改良し現代に適合しかつ遺産も相続していく工夫を良く凝らしているのも事実である。
クレア・カレッジでは、 「白洲次郎のカレッジ」ということで ロケ地にもなり、最近多くの日本人が訪問するので、なんとか白洲次郎の資料を集めようとしているようだ。「ウオーバーグ」の寄附で以下の記念文庫があるそうだ。
The Forbes-Mellon Library has an impressive collection of Japanese literature in English, and books on Japanese history, given by the SG Warburg Group in memory of Jiro Shirasu.
白洲次郎がクレア・カレッジに入った1923年から卒業した1926年の間は、第一次世界大戦が終了した後で、1929年のアメリカ・ウォール街から始まる大恐慌、ナチの台頭と第2次世界大戦にいたるまでの、「世界大戦間のつかのまの平和のひととき」であったであろう。以下のリストは、1923年白洲次郎と共にクレア・カレッジに入学し鬼籍に入った人々のリストである。大恐慌、第2次世界大戦のなかをこの人々は生きていった。(戦死した人はあんまりいないようだ)
APPLEYARD, W 1923 d. 1929
1930 (no. 24.1), p. 18 Ongoing illness during short life
BAILEY, G. N. 1923 1998-99, p.78
BALFOUR, F. K. 1923 1980-81, p.72
BANHAM, Andrew Roy 1923 d. 1985 (80) 1984-85, p.71 son at Clare (J. 1959)
BATTEN, L.J. 1923 d. 1973 ? 1995-96, p.51
BAWTREE, David William 1923 d. 5.2.2002
2001-02, pp.
88-89
BENNETT, Denis Pengelly 1923 1904-1969 1969, p.57
BEST, H. G. 1923 1976-77, p.62
BLAIR, John 1923 1904-1989 1988-89, p.51
BOND, William Ronald Somerville 1923 1905-2002 2003-04, p. 104
BULLIVANT, Otho Munton 1923 d. 1983 (78) 1983-84, p.43
BURTON, Grenville Murray 1923 d. 1989 (84) 1989-90, p.64
BURTON, James J. 1924 1953, p. 60 Porter
BYNG, R. C. (Earl of Stratford) 1923 d. 1984 1983-84, p.30
CHAPMAN, H. A. 1923 d. 1987 1989-90, p.39
DALTRY, Thomas Bertram 1923 d. 1974 1974-75, p.75 College hockey
DIVINE, D. 1923 d. 1973 1989-90, p.39
DUPONT, Clifford Walter 1923 d. 1978 (72) 1977-78, p.49
first President of independent Rhodesia
DYSON, G. W. 1923 d. 1976 1989-90, p.39
ECKFORD, A., M.D. 1923 1961, p.95
EVANS, R. M. L. 1923 d. 1986 1990-91, p.49
FINDLAY, W. K. 1923 1998-99, p.78
FRANKLIN, Alfred White 1923 d. 1984 (79) 1983-84, p.45
President of British Paediatric Association
GAITSKELL, Dr Herbert Ashley 1891? d. 1922 1923 L, p.40
GERVIS, W. H. 1923 d. 1994 1993-94, p.47
HAWKES, F. C. 1923 1974-75, p.83
HOLROYD, K. de C. 1923 1970, p.86
JONES, I. E. 1923 1952, p. 67
LE FLEMING, Hugh d. 1962 (59) 1963, p.93
British Medical Association,steam locomotives, father and son at Clare
LEISTIKOW, F. W. R. 1923 d. 1993 1992-93, p.49
MANDER, H. T. 1923 1976-77, p.62
MILLINGTON, Father Charles, C.R. 1923 d. 1962 1963, p.95
M.A. on the boards of the
College, four year Missionership
of the College Mission in Rotherhithe
MILLINGTON, George 1923 d. 1984 (79) 1983-84, p.47
research in radio propagation.
Founder Fellow
MILWARD, Sir Anthony Horace 1923 d. 1981 (76) 1980-81, p.63 2 brothers at Clare
MONCRIEFF, Gordon Murray 1923 d. 1973 (68) 1973-74, p.70 cross-country, College hockey
MORISON, J. D. 1923 d. 1999 1998-99, p.78
NELSON, John Pemberton, J. P. 1923 d. 1977 1977-78, p.55
PARSONS, Hugh Wayman
1923
(grad.?) d. 1970 (67) 1970, p.78
PASCALL, K. 1923 d. 1985 1984-85, p.49
PENSOTTI, C. J. P. 1923 1975-76, p.76
PHILLIPS, Rev. Charles Hayward 1888 d. 1923 (56) 1924 L, p.41
PIRIE, David Howard 1923 d. 1925 1926 M, p.3
PORTER, M. A. 1923 d. 1982 1982-83, p.28
PRIESTLEY, Sir Raymond, MC 1923 d. 1974 (87) 1973-74, p.58
Fellow 1923-34. Honorary
Fellow 1956-74. Antarctic
explorer (with Shackleton and Scott). First Secretary General
of the Faculties REYNOLDS, Reuben 1923 d. 1993 (88) 1992-93, p.75
ROGERS, Hugh Charles Innes 1923 d. 1991 (87) 1990-91, p.75
ROTH, Professor Leonard 1923 d. 1968 1969, p.71
ROUBICZEK, Paul Anton 1956 1898-1972 1972, p.57
Fellow 1961-72. Very popular lectures on science, philosophy
ROWE, Lewis Cathcart ("Sandy") 1923 d. 1963 (62) 1963, p.97 Footlights
SCHOFIELD, George Thomas 1923 d. 1980 1980-81, p.66 music
SERVICE, A. H. 1923 d. 1994 1994-95, p.53
SHIRASU, Jiro 1923 d. 1985 (83) 1985-86, p.70 adviser to Japanese Government
SPONG, D. W. 1923 d. 1983 1982-83, p.28
THOMPSON, John Stevenson 1923 d. 1991 (86) 1991-92, p.77
VANDER WILLIGEN, T. A. 1923 d. 1993 1992-93, p.49
VANE, Geoffrey Victor 1923 d. 1967 (62) 1968, p.76 college athletics and tennis
WHITFIELD, G. L. 1923 d. 1997 1996-97, p.55
WYNNE DAVIES, Geoffrey, O.B.E. 1923 d. 1959 1959, p.76