goo blog サービス終了のお知らせ 

ビューティフル・マインド  ケム川の流れに

素直な瞳はその心の美しさをそのままあらわしている。それは、素直とは全く正反対の瞳とくらべればよくわかる。

鶴川散策と「次郎柿」、白洲次郎のCIAコードは何なのだろう?

2009年10月05日 | 白洲次郎正子鶴川
久しぶりに鶴見川にそって鶴川方面を散策する。まだ暖かなので子供たちが川に入って遊んでいる、鶴見川は洪水を繰り返す単なる‘通水路’に過ぎなかったが、最近になったようやく川面に降りれる遊水スポットがいくつか設けられるようになった。釣りをする子供たちもいて、大きな鯉をつりあげていた。

乱開発がやっと規制され(乱開発でGDPをあげて経済成長か?サブプライムよりもっとたちが悪い)、でも個人農家の努力によってようやく保存されている深い緑の‘谷戸’に入ると、まだ小さな田圃の稲が刈り取られていずもう黄色に輝く穂を重たそうにやっと支えている。まだ小学校に上がる前の男の子と若いお父さんがなにやら田圃の横で釣り糸で何かを釣ろうとしていた。訊くと「ザル蟹」を釣っているとのことでよく見るとあちこちに「ザル蟹」が歩きまわっている。

ちいさい空間ながらも谷の緑に囲まれたなかで、 鶴見川の東側を「柿生」という、この地方名物の柿の木に柿の実がたわわに実っている。木の下には一面に熟して落ちた柿の実が深い草のなかに転がっている。 この柿は一部は市場、農家が週末開く道端売店で売られるが、ほとんどは鳥たちに食われるかそのまま地上に落ちそのままになっている。柿など色の濃さぐらいか、甘いか渋いかぐらいの区別しかつかないが、この辺りでは、「次郎柿」「細川次郎柿」、そして一番おいしいといわれる「禅寺丸」が中心だそうだ。静岡原産の「次郎柿」にたいして、「禅寺丸」は、この地の原産でその原木なるものは、「王禅寺」の境内にある。「王禅寺」は、その名から誤解を受けるが、「禅宗」の寺ではなく、三輪の里の石南花の「高蔵寺」と同じ「真言宗」である。「座禅道場」がないなら、深大寺のように「護摩祈祷」が行われてもいいはずだが、それは一年に一回、麻生不動院の「だるま市」に時だけ行われるとの事だ。日本の仏教の坊主どもは、「神の正義を実現する宣教と称して金目当てになんでもやる基督教の坊主ども」と比べると、信じられないぐらい怠慢だ、まあ日本の農家が大半が兼業農家のように兼業坊主が多いからだろう。柿の実に他に、此の地の秋を彩るのは、彼岸花である。これも道端にそこらかしこに咲いている。大昔秋深い明日香を歩いた時、彼岸花がそこかしこに咲いて思い出に残っているが、その三輪山からの移住氏族が切り開いた「三輪の里」の人々が明日香からもたらしたものなのかな、とつなげてしまう。

「次郎柿」と「白州次郎」はどんな結びつきがあるのだろうか? 北康利の「白州次郎、占領を背負った男」の、「本文」でなく「年表」では、「昭和41年(1966―64歳)赤坂にマンションを建て、二階次郎、3、4階兼正夫妻、5、6階春正夫妻が住む」と書いてあり、これは白州正子公認「風の男白洲次郎」にはまったく触れられていなくただ、「その死を報じた。青山のスーパー・マーケット「紀伊国屋」のコーヒー売り場の女店員は、いつもイタリア・ロースの一番細かく挽いたコーヒーを買っていく、冗談な好きな素敵なおじさんの白州さんという人が、昭和史の重要な人物だったことを新聞の写真で知り、涙を流したという」という記述にみられるぐらいだ。
あれ?草深い鶴川で、時代の先をいく、無農薬自家栽培の農作業に励むカントリー・ジェントルマンじゃなかったの? 

再開発(これは乱開発でなく立派な再開発)でお洒落に変身した鶴川駅の近くにある「スーターバックス」は「アンデルセン」のシナモンケーキなどを売っており、外のテーブルで緑の中を歩いた後の心地よい疲労でケーキと‘イタリアン・ロースト’かどうかはわからないコーヒーの極楽天国の世界にいると、お隣のお二人の会話が聞こえてきたので、「フランスのどちらからきたの?」と訊くと、「フランスじゃないわよ、アルジェリアからよ。」とそれからしばらくアルジェリアのことをお勉強することになった。鶴川の駅は、けっこう「外人さん」を目にする。

昨日の共同ニュースで:
「(白洲次郎の親分吉田茂「側近政治」の要の一人である)辰巳栄一元陸軍中将(1895~1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。 有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。
 CIAの辰巳氏に関するファイル(52~57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR―5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。
 辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。」

白州正子公認「風の男白州次郎」の開始第1章の記述はまったく異様で、「白洲次郎」は刺身のつま程度で、主役は「辰巳栄一」である。この記述でもNHKドラマスペシャル「白州次郎」でも、この辰巳栄一が白洲次郎の「徴兵のがれ」を助けたことになっている。辰巳栄一のCIAコード番号に対して、白洲次郎のCIAコード番号はどういったものだったのだろうか?

ダーウィン生誕200年祭と奇跡の最古の霊長類化石イーダ(Ida, Darwinius) ザ・リンク

2009年09月27日 | ケンブリッジ Cambridge
ダーウィン生誕200年と「種の起源」発行150周年を記念するダーウィン祭は、
ロンドンの自然史博物館http://www.darwin200.org/、ケンブリッジ大学http://www.darwin2009.cam.ac.uk/、ダーウィンが学んだケンブリッジ大学クライスト・カレッジhttp://www.christs.cam.ac.uk/darwin200/pages/などでさまざまな催しが行われたきたが、この5月ダーウィン進化論の栄光を誉め讃えるかのように、驚異の奇跡の霊長類化石「イーダ(IDA研究の中心となったオスロ大学フールムの娘さんの名前、学術名Darwinius masillae)が発表された。原論文はここから無料でダウンロードできる。
http://www.plosone.org/article/info:doi/10.1371/journal.pone.0005723
この大ニュースはさまざまな新聞記事でおっていけるが、巨大製薬会社ウェルカムの社会事業財団Wellcome trustのTree of LifeとNatural History Museum のhttp://www.nhm.ac.uk/nature-online/life/dinosaurs-other-extinct-creatures/darwinius-masillae/index.html よくまとまっていて「リンク」もしっかりしている。
http://wellcometreeoflife.blogspot.com/2009/05/darwinius-missing-link.html
オスロ大学フルームを中心に国際的専門家チームが組織されイーダの3次元グラフックモデルを含む解明をすすめる一方、BBCに依頼しチャールズ皇太子の御指南役David Attenboroughが解説をおこなう番組も平行して制作されていった。その一端がBBCサイトから垣間みる事ができる。
BBC Primate fossil in virtual reality narrated by David Attenborough
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8057977.stm
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8057779.stm A look inside the fossil-find pit
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8057538.stm Stunning fossil find unveiled
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8058154.stm Scientist on primate fossil find
またGuardianサイトからもちょっとだけ覗ける。
http://www.guardian.co.uk/science/video/2009/may/19/ida-fossil-attenborough-missing-link

日本でもイーダの解説本「ザ・リンクーヒトとサルをつなぐ最古の生物の発見」コリン・タッジ早川書房(原題:The Link, Un covering Our Earlier Ancestor, by Colin Tudge withYosh Young)が翻訳発行された。著者のコリン・ダッジはケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジ(ケンブリッジの最も古いカレッジ)で動物学専攻出身である。まず予備知識としてダーウィンが学んだケンブリッジ大学クライスト・カレッジの「人類の進化」
http://www.christs.cam.ac.uk/darwin200/docs/content/human_evolution.pdf
でまず頭を整理しておこう。「ザ・リンク」は欧米の学術解説書の欠点として「文章説明が多く」(重複して多い)一方「図解」が非常に少ない」典型であるので非常に読みにくい。全体像では、日本進化学会教育啓蒙賞を受賞した「きまぐれ生物学」 http://www2.tba.t-com.ne.jp/nakada/takashi/index.htmlを参照、まずは生物分類から http://www2.tba.t-com.ne.jp/nakada/takashi/taxonomy/taxonomy.htmlから脊椎動物門 http://www2.tba.t-com.ne.jp/nakada/takashi/taxonomy/chordata.htmlに行き、宿敵「爬虫類」vs「ほ乳類」を見る。

各章は以下のようになっているが、いろいろな豊富なトピックがあちこっち散らばって記述されている上に、「図解」があまりにすくなく、整理しながら読んでいくのが意外と大変である。以下は各章参考となる主に図解を豊富に提供してくれるサイトを補充しながら読んでいくその備忘録である。

第1章イーダの発見
ドイツ・メッセルピットで化石コレクターによって発掘され25年間個人所蔵された「霊長類化石」の御公現
第2章イーダの物語始まる
オスロ大学古生物学者フーレムを中心とする国際的解析チームと論文:
「 始新世中期のはじめの(ドイツ)メッセル・ピットに由来する未成熟のメスの原猿類のほぼ完全な骨格化石が初めて発見された。イーダはしがみつき跳躍者としてメッセルの熱帯多雨林の中ほどの高さで暮らしていた。この標本は個人コレクターの手によって発見され発掘され保存処理された。化石には消化管の内容物や、体の軟部組織の完全な輪郭まで残っている。」
第3章イーダが生きた始新世Eoceneの世界
地質年代概観: http://www2.tba.t-com.ne.jp/nakada/takashi/strat-chart/cenozoic.html#eoc
International Commission on Stratigraphy:
地球はなぜ寒冷化したか?アゾラ・イベント、インド大陸、地球軌道・自転軸、
第4章メッセル・ピット
大陸移動プレート移動の概論: http://pubs.usgs.gov/gip/dynamic/dynamic.html
PDFfile http://pubs.usgs.gov/gip/dynamic/dynamic.pdf
化石学
メッセルビットの化石
第5章霊長類はいかにして生まれたのか
最初の霊長類:恐竜時代の「ツバイごとき」
5600年前―3400年前始新世:
霊長類の定義:指の平爪、鎖骨、前を向いている目(色の識別、3次元、眼窩)、他の指と向かい合わせできる親指、2つの乳房、切歯・犬歯・臼歯、腕の可働域の広さ
霊長類の6主要系統樹とレード(分岐群)(<原始霊長類>、<原猿類:アダピス類・オモミス類、曲鼻猿亜目(キツネザル他)、メガネザル><真猿類:サル(広鼻猿類新世界さる、狭鼻猿類旧世界サル(尾あり、尾なし類人類>?)
(ここの記述は混乱している。後の議論の:アダピス類・オモミス類の記述なし。霊長類の進化と系統樹 http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/shinka/keitou/jyu/s-jyu.html参照)
霊長類の脳:相対的脳サイズ、高エネルギー脂肪酸食物、脳と手腕、
霊長類の社会生活
第6章霊長類の進化
霊長類はどれぐらい古いのか?8000万年前恐竜の時代
哺乳類と恐竜、「(哺乳類の最初と恐竜の最初は同じぐらい古い2億年前)哺乳類は化石記録ではあまり目立たないのは、哺乳類が存在していなかったのではなく、恐竜が栄えている間は生態系の余白に押しやられていたからだ。ぱっとしない生き物として、林床を走り回りおもに昆虫を食べていた。生態学的には現代のトガリネズミみたいなものだった。恐竜の生きている間は(1億3000年間)はまったく日陰の立場にあまんじていた。鳥類が表れたのは哺乳類よりずーと後で、ジュラ紀のなかば1億4千年前だが白亜紀には非常に多様化し(略)鳥類は事実上恐竜なのだ。(略)恐竜の絶滅させたのは、じつは小惑星であった。」
第7章 始新世から現代まで
寒冷化、草原の出現
真猿類―>ホモニド 
類人猿(尾なし)=狭鼻猿類―旧世界ザル(尾あり)?
真猿類のはじまりから現生人類の手前まで
ここは、なんの図解もないので頭に入らない。次を参照:
京都大学理学科動物学教室 中務真人 自然人類学
http://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/member/nakatsukasa/syllabus/1.pdfの
5.pdf, 6.pdf, 7.pdf, 8.pdf, 9.pdf
人類へと続く曲がりくねった道
ルーシー
ホモ・ハビリスからホモ・サピエンスへ
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htm#%83q%83g%81i%90l%97%DE%81j%82%CC%92a%90%B6
第8章イーダとは誰か?そして何者か
霊長類進化の4つの仮説(1メガネザル仮説2オモミス仮説3アダピス仮説4エオシミス仮説)
「イーダはアダビス類から真猿類への移行を示しているようだ。それも真猿類への傾斜をはじめている。キツネザルと共通の特長をいくつか示したているが、現生のキツネザル類ほど極端な特殊化はまったく見られない。真猿類と結びつけられる特徴をいくつか持っているが本格的な真猿類ではない。原猿類と真猿類のリンクがある丁度その時代に生きている」
「オスロに集まった研究チームは、イーダはアダピス類ノタルクトゥス科ケルカモニス亜科に属すると結論を下した。」

第9章イーダを世界に紹介する。

生命40億年のうちのわずか5000年前からの記述でももう膨大な「記録」である。生命の膨大な多様性と進化を、ほんのちょっとかいまみるだけでクラクラしくるほどである。

ダーウィンの宿敵解剖学者(科学者/神学者の典型)リチャード・オーウェンはダーウィンの言説「鳥は爬虫類から進化した」を激しく攻撃したが、わずか2年後にイーダと同じくドイツで「始祖鳥」が発見され打倒されたのだが、それでダーウィンに難癖の攻撃をかけ続ける。このイーダの発表にたいしても、基督教カルトの気違いたちー懸命に‘創造主’を擁護しまくるのである。この気違いたちをみよ!!
http://www.answersingenesis.org/articles/2009/05/19/ida-missing-link

「基督の神を撲滅した」ダーウィン進化論の科学的真理を攻撃し、人々を「無知無能なる基督の神に奉仕させる」基督教こそ、「ファシズムの最高形態」なのである。初期霊長類化石イーダは、「全知全能の基督の神」なるイエスくんがいくら十字架上でさかだちしたってけっしてできない、自然とその不可分の一部である生命の間で創られた「「神」の奇跡」である。

NHKドラマ「白州次郎」最終回、オバマ国連演説、Small Is Beautiful

2009年09月24日 | 白洲次郎正子鶴川
二夜連続の再放送の後昨晩、NHKドラマ・スペシャル「白州次郎」の最終回が放映された。近衛はな(目黒祐樹・江夏夕子の一人娘とか)・大友啓史脚本、大友啓史演出の「実話に基づいたフィクション」という構成は、原案北康利「白州次郎―占領を背負った男」とはまるでかけ離れた、とても面白い展開と結論を見せた。

正統書「日本国憲法の誕生」の著者古関彰一が「憲法関連」を監修しているので、さすがに白洲次郎「プリンスシプルのない日本」でご自身が語っている「大ウソ」は訂正されシロタ女史も登場しもっともらしい場面になっている。
「占領軍に物怖じせず怒りまくる白洲次郎」だが、高貴な神戸出身なのに、なぜ「てめえ、バカヤロー」なんという「品の悪い江戸下町弁」をつかうのだろうか? 「おまはん、阿呆やんか」とかいいそうな気がするが。

「中世西洋史が専攻だが、ケインズの授業を聴いた」と「ケインズ理論による貿易政策」というヨタ話はそのまま入れられたが、永野重雄「鉄は国家なり」対次郎「貿易論」との対決がある。
「吉田茂を操るラスプーチン」として国会での追求、新聞記者の「下山事件や三鷹松山事件の黒幕ウィロービ機関の接点とイギリス銀行裏口座」の追求に対する、白洲次郎の応答「無用な戦争を行った我々の世代は、‘肥やし’にならねばならない。これからの日本は金がいる自分の才能は金稼ぎだ、ボランテアでやってるんじゃないコンサルタント料はとるが、オレは‘日本の肥やし’になるんだ」と次郎節を展開する。


NHKドラマ「白州次郎」の放映の後、同じNHKでオバマ新米大統領の初の国連演説が放映された。国際協調、核兵器削減と廃絶へ、地球温暖化防止、環境技術への投資と持続可能な世界の構築、ルールに基づく金融システムと市場システム、そして「アメリカ単独行動主義を非難していた人々も傍観せず共にこの共通の目標に向かって責任をもち協力して行動していこう」と呼びかけたアメリカ合衆国の初の黒人大統領によるいつもおきまりの口先だけの美辞麗句としても、やはり 「基督教テロリスト帝国アメリカの張り子の首領」から、これらの言葉が発せられるようになったのは、「A New Era of Engagement」になったのかという感慨が湧いてくる。小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎この連中がこの国連に出席していなくて本当に良かった、歴史的国辱になっていた。

戦後直後の日本はある意味、「国破れて山河あり」であったであろう。戦後が進むにつれ、マッカーサー・吉田茂体制である「安保条約体制+経済成長体制」は、「日本の環境破壊の原点となった東京オリンピック」を通して、「山河破れて、大企業・官僚・軍栄える」の現在に至って、「軍・財閥・天皇制官僚が栄えた」戦前とまるで変わらない時代がまいもどってきた。東アジアの破壊を推進したマッカーサー・吉田茂体制に、いつ終止符がうたれるか?マッカーサー・吉田茂型政治家石原慎太郎が「東京オリンピック招致」を気違いみたいさけんでいるが、もう消えてしまえ。

白洲次郎は晩年ウォーバーグ証券東京支店の顧問をしたという。ドイツユダヤ資本のウォーバーク創始者Sir Siegmund Warburg, ケインズの支援を受けたウォーバーグ会長のLord Roll(Eric Roll)of Ipsdenを通して、ドイツ生まれのケインズの弟子E.F. Schumakerフィリッツ・シューマッハの「Small Is Beautiful」に「ケインズの授業を取った」白州次郎は接していないだろうかと北康利的レバレッジをかけた想像を逞しくしてしまう。白州次郎正子パートナーズは、今様々なゴテゴテした虚飾は忘れ去られ(でもないか)、日本版「Small Is Beautiful」の先駆けとしての鶴川「武相荘」に結晶化しているような気がする。確かに鶴川では、富士山方向から鶴見川にそって風がさーと丘陵の間を吹き抜けていく。



NHKドラマスペシャル 「白州次郎」第2話と「夏目金之助」と鳩山由紀夫

2009年09月23日 | 白洲次郎正子鶴川
正子、青山二郎に「次郎のペット」といわれ酩酊の朝帰りで「私なんか必要じゃないでしょう!」と次郎にからみつくが、「お前がライバルとして絶対必要だ!」と言い放つ次郎が酔いどれ正子をオンブして家までかえる、こりゃまったく韓ドラだ!

「韓ドラ」といえば、日本で最初の「韓ドラ的小説」は、夏目漱石が東大教授を罷めて朝日新聞専属作家になっていわば職業作家として最初の小説「虞美人草」であろう。悪女「藤尾」を最後自殺させなかったら、これはもう本物の「韓ドラ小説」だ。「韓国ドラマ脚本家」たちは案外夏目漱石を熟読しているのかもしれない、「ジャップ漫画」を通してだろうけど。「坊ちゃん」と「白州次郎」を比較してみればいい、ただ白州正子は「次郎のペット」の「 藤尾」だけど。

末延芳晴著「夏目金之助ロンドンに狂せり」草土社は、イギリス留学時代の「夏目金之助」を詳細におっている。夏目金之助はケンブリッジ・ペンブローク・カレッジに学んでいた田島擔(田島吾陵の息子、猪苗代水力発電などの事業にかかわり白洲次郎のように実業界で活躍)の世話でケンブリッジを訪問し「ケンブリッジ留学」を目指したが、学費と生活費の高さから断念せざるをえなくなる。(以下末延「夏目金之助ロンドンに狂せり」から引用):

「日本からケンブリッジに留学して卒業した学生は、菊池大麓のような明治初期の政府派遣の留学生か、旧大名の子息とか財閥の息子で、財政的に恵まれた学生に限られていた。「文学論」の「序」で、金之助は、ケンブリッジ大学留学を断念するに至った経緯を、次のように回想している。

‘ここに尋ねたる男の外、二三の日本人に逢えり。彼等は皆紳商の子弟にして所謂ゼントルマンたる資格を作るため、年々数千金を費やす事を確かめ得たり。余が政府より受けたる学費は年に千八百円に過ぎざれば、此の金額にては、凡てが金力に支配せらる地にあって、彼等と同等に振る舞わん事思いもよらず。(中略)且つ思う。余が留学は紳商子弟の呑気なる留学と異なり。(中略)余は費用の点に於いて、時間の点に於いて、また性格の点に於いて到底此れ等紳士の挙動を学ぶ能はざるを知って彼地に留まるの念を永久に断てり。’

文部省派遣の留学生、それもロンドン留学生といえば、日本では人も羨むエリートというイメージが強かったはずだ。だが、その実態は、きらびやかな記号的輝きとは裏腹に、学費や生活費は微々たるもので、とてもエリートと呼べるものではなかった。結局、家が裕福で、不足の分を補えるだけの資産に恵まれた家庭の子弟にだけ、留学生という記号に見合ったイギリス留学が可能だった。だが、そうした条件を満たした学生に限って、能力は低く、勉学・研鑽の意欲も希薄で、上っ面だけジェントルマンを装って、最上級の衣服で身を固め、暇さえあれば、パーティで社交につとめ、酒と女にうつつを抜かしていた。「文学論」の「序」は、ケンブリッジを訪れたときから8年後に書かれたものだが、その時の金之助の失望と憤りの大きさがひしひしと伝わってくる。」


鶴川武相荘を軸に、近衛―吉田― 近衛―吉田― 近衛とくるくる回り途中スペインサンドで正子ストーリが入る第2話。「前の戦争」も「これからの戦争」もこんな牧歌的なものではないだろう、本当にいい加減にしてくれよ、大友良英の音楽と大友啓史の映像!

総選挙で大勝利し組閣し国会討論もしないまま、国連の気候変動会議で15分間英語でスピーチするスタンフォード大学(信頼性工学とはずいぶん地味な分野で)PhDの鳩山由起夫新首相。 その英語は 白州次郎のように流暢とはとてもいかないけれど、ともかくどーんと英語でスピーチしたのはやはり、英語も日本語も片言の小泉純一郎、日本語すら幼児レベルの安倍晋三、普段いい加減捨て台詞はご立派な福田康夫、漢字が読めず意味不明な片言英語の麻生太郎と、ご立派な家門の出でありながら日本の恥をさらし続けた連中に比べれば、同じ名門貴族としてもはるかに立派で白州次郎も合格点をあげるだろう。補足を述べれば、高等数学を駆使した分厚いPhD論文を書くための「長期に渡る孤独な戦い」では、流暢な「英語会話力」は身に付かない、パーティやドライブと「酒と女」で遊び明かさねば「白洲次郎のような流暢な英語会話力」はつかない。(赤ちゃんや小さいときからいれば別だが、19歳からの留学ならば、また女性は別)でもこの名門貴族のPhDは、細川のばか若殿の二の舞になるんじゃないかという危惧はいつもであるお方だけど、まあ近衛文磨のような完全戦犯にはならないとは思うが。

たった1年間しかケンブリッジに学ばなかった吉田健一にケンブリッジの香りがあり、「9年間もケンブリッジにいたという」白洲次郎からはケンブリッジの香りがまるでしない、そして「金がなくケンブリッジにまるで行けなかった」夏目金之助こそがケンブリッジそのものである。

NHKドラマ・スペシャル 「白州次郎」とケンブリッジ・クレア・カレッジ

2009年09月22日 | 白洲次郎正子鶴川
自民党が歴史的大敗をした衆議院選挙のあおりで最終回・再放送がこの月火水に変更されたNHKドラマ・スペシャル「白州次郎」の第1回再放送を見た。いい加減にみてほとんど何も印象がのこっていない初放映の時と違い、原案が「白州次郎―占領を背負った男」北康利著、「次郎と正子―娘が語る素顔の白州家」牧山桂子著となっていたり、脚本演出が大友啓史となっていたり、色々注目しながらみることになった。なによりも強烈なインパクは、最後のテロップに出て来た
「(このドラマは)実話にもとづいたフィクション」
ということだった。

白洲正子公認「風の男白洲次郎」、それにもとづいてサブプライム並みのものすごいレバレッジをかけた資産担保証券の専門家である北康利の「白州次郎占領を背負った男」での白州次郎のケンブリッジ・クレア・カレッジ時代の記述が、まるで「実話ではありえない」ことは既に証明した。おもしろいのは、演出大友啓史が「フックション」として作り上げた「白州次郎ケンブリッジ・クレア・カレッジ時代」の映像が、「風の男」「占領を背負った男」の完全なウソとまったく違い「ケンブリッジ・クレア・カレッジ」らしくなっていることだ。「原案」がまったくフィックションどころかウソそのもので、「ドラマ映像」が「実話らしい」というのは、脚本演出の 大友啓史が、ウソだらけの「原案」など使わず自分でケンブリッジ・クレア・カレッジをしっかり考証して構成していることを意味する。「J. J. トムソン」と明記せず「白髪の老教師」の、「物理の授業」でなく「科目は分からないカレッジのスーパービジョン」、「試験の点数」でなく「エッセイの評価」として、「マント」でなく「ガウン」も着ていて(でも学部学生用ガウンだったかな?)、「ケインズの授業」というウソも使わず、「ジェントルマン」というウソも使っていない、これならパスだ。

でも「9年間ケンブリッジにいた」ことは、「1919年イギリス何やっていたか分からず1923年から1926年学部、その後大学院で歴史の勉強でも本当は何やっていたのか分からず1928年白洲商店倒産で帰国」と事実には合致しないので、まあフックションなのでしょう。

「白州次郎」クンが、クレア・カレッジの橋にたたずむ姿の場面キングスのバックスを眺めるが、あそこはケンブリッジで最も美しい景色の一つだ。「あれ橋桁にある石のボールglobeいくつだったけ?」「ケンブリッジ・カレッジの橋」で有名なのは、クィーン・カレッジの木造の「数学の橋」とセント・ジョーンズ・カレッジの「ベニスの死刑場への橋」を物まねした「嘆きの橋(The Bridge of Sighs)で、これは時代物映画・ドラマによく使われる(例えば「エリザベス1世
パート2、1)。

クレア・カレッジのチャペルでは、学期中はよくランチコンサートが開かれ、ピアノや室内楽の演奏が行われていた。なによりクレア・カレッジのチャペルは、マークとチカコさんの結婚式のサービスが行われたところだ。(映像は、どこのカレッジを使ったのだろう?キングス・カレッジ・チャペルらしくないし、ピーンとこない、しかし確実にクレア・カレッジ・チャペルではない)下部の木造焦げ茶色と素晴らしい対比の輝く白亜の殿堂で、白いウェディングドレス姿のチカコさんは神々しいほど輝いていた。クレアのクワイアーは、男女混成で色彩が豊かである。

かっては5月に学部学生の卒業式General Admission)があったが、今では6月になっているにもかかわらず、試験終了後の成績発表までの日曜日Suicide Sundayを過ぎて、May Weekがはじまり各々のカレッジでMay Ballが開催される。卒業学生を中心に、ドレスコードで盛装した紳士華やかなパーティドレスでこれまた盛装した淑女たちが「真夏の夜の夢」を一晩中踊り語らいさまざまな催しに興じる大円舞会である。こじんまりしたクレアのMay Ballはとりわけ可憐な妖精たちの円舞会といったおもむきがある。盛装した紳士淑女がそこかしこでグラスを傾けながらフランス語で会話するのが聞こえてくる。メインコートでは‘交響楽団’の演奏で、スコテッシュ・ダンス、アイリッシュダンスを‘優雅’に踊り、別のテントでは激しいディスコ・サンドで踊り狂う。 夏至に近いので短い夜であるがそれでも暗闇に包まれる夜のケム川をパンティングする。朝7時まで踊り明かしたあまり正気でない連中を’生存者survivors’として賞賛し‘その名誉’を記念して、巨大な写真を撮る。人間としてもっているありとあらゆる生命力エネルギーを使い果たして、すでに上がりきっている太陽の中‘よくサバイブできたよね!’と声を掛け合う。このサバイブSurviveは、ケンブリッジのキーワードの一つである。

ケンブリッジ 白州次郎とイラク大量破壊兵器査察官ハンス・ブリックス

2009年09月22日 | 白洲次郎正子鶴川
1977年9月27日 航空母艦ミッドウェーに向かい厚木基地を飛び立ったアメリカ海軍戦術偵察機ファントムが燃料満載のままエンジン火災を起こし、米軍パイロット2人が「パラシュートで無事脱出」したが、偵察機は現在の東急田園都市線江田駅近くの住宅地に墜落、二人の男の兄弟が死亡、兄弟の母親の方も全身やけどをおい4年後に亡くなられた。当時近くの鶴見川ぞいにある市ケ尾高校に通っていた方はその墜落の瞬間の窓ガラスがこわれんばかりの激しい衝撃と閃光を語っている。30年後の現在では東急が開発した「田園都市」の典型的な緑豊かな閑静な住宅地になっており、30年前の悲惨なできごとの面影は少なくなってきているようだ。

2002年の2月、基督教最高指導者ジョージ・ブッシュを最高司令官とする基督教テロリスト帝国主義国家アメリカと「ブッシュのプードル犬」を先頭にする家来たちが悪の権化サダム・フセインが統治するイラクに攻撃を開始する直前、国連安全保障理事会で、ハンス・ブリックスHans Blix国連監視検証査察委員会委員長が、イラクにおける‘大量破壊兵器’査察に関して報告する姿をテレビでみたであろう。


イラン大量破壊兵器査察官のハンス・ブリックスは、1959年にケンブリッジ大学トリニティ・ホールTrinity HallでSir Hersch Lauterpachtの指導のもと国際法によってPhDを取得している。トリニティ・ホール・カレッジは、白州次郎のクレア・カレッジの隣にあり、両側をキングス・カレッジ、トリニティ・カレッジという巨大な帝国主義もといロイヤル・カレッジに挟まれたクレア・カレッジよりさらに小さな宝石のように存在し、「法学のカレッジ」として有名である。

国際法の権威であるSir Elihu Lauterpachtによって やはり国際法の権威である父親のSir Hersch Lauerpachtを顕彰し、ケンブリッジ大学法学部の国際法研究所としてLauterpacht Centre for International Lawが創設されている。 基督教最高指導者ジョージ・ブッシュが「基督の神の神託によるイラク戦争大勝利」を掲げ、ケリー民主党上院議員を破って二選を果たした直後の2004年11月にハンス・ブリックスは 同研究所が主催するHersh Lauterpacht Memorial Lectureにおいて3晩の連続講演を以下のテーマでおこなっている。

Hersh Lauterpacht Memorial Lecture November 2004 http://www.lcil.cam.ac.uk/lectures/2004_dr_hans_blix.php
Lecture 1: ‘The Use of Force in International Community’
国連集団安全保障体制に敵対するブッシュドクトリンと戦争行使の復活、武力行使の正当化の必要性その歴史的展開、武力行使禁止への国際的統一の進展とPax Americanaの衝突と矛盾
Lecture 2: ‘International Inspection in Iraq and elsewhere’
‘目前の脅威’と国連‘査察活動’、国連‘査察活動’の広がりとその歴史(1868セント・ペテルスブルグ宣言、1968NPT,1971生物化学兵器、1993化学兵器条約、1991国連総会決議イラク査察とUNMOVIC, 「ないものを探すのはとても難しい」UNMOVICの成果と教訓
Lecture 3: ‘Iraq, Use of Force, Reform of the UN’
国連憲章での武力行使と集団安全保、湾岸戦争、1991-2003の査察活動、安全保障理事会決議14442(2002)と査察活動継続、イラク戦争の‘正当化’、先制攻撃の権利と厳格な制約、イラク戦争は違法である、国連改革?

国連集団安全保障体制に敵対したブッシュ・ドクトリンによる「究極の悪魔」サダム・フセインの‘大量破壊兵器による目前の脅威’に‘先制攻撃’をかけ‘イラク戦争’に大勝利した基督教最高指導者ジョージ・ブッシュは、Global Testを主張したケーリー民主党上院議員を‘はじめて堂々’と破り、さらなる基督教テロリスト帝国アメリカの野望の基盤を確立した時期に(次はイラン攻撃だ!!)、進化した国連集団安全保障の正当性を真っ正面から掲げたハンス・ブリックの主張には感動せざるをえない。

それでは、進化した国連集団安全保障体制に敵対した基督教テロリスト帝国アメリカに「ブッシュのポチ」として忠実に付き従った日本をどうみるであろうか。勿論「イラク戦争と日米安保体制」とをそのルーツから、「アメリカに押し付けられた日米安保条約」からみていく必要がある。

白洲次郎とサンフランシスコ平和条約とそれに対となった「アメリカに押し付けられた日米安保条約」ついての関連を時系列におってみると:

白州正子公認の「風の男白洲次郎」5章4節 講話条約・日米安保条約
と、「吉田茂と昭和史」 井上寿一 講談社新書 7章 敗戦国の自立
から白州次郎とその親分吉田茂にかんする記述を抜き書きしてみよう。

1949.11 国務省 講和条約検討 7原則?
1950.4 ワシントン 池田蔵相・ドッジ会談に白州次郎は「首相特使」として多くの批判を受けつつも同行した。宮沢喜一蔵相秘書官は「国防省訪問」について語っているので当然安保条約についても話しがあったであろう。
1950.5 「全面講和」vs 「部分講和」 南原繁東大総長を批判(曲学阿世の輩)
1950. 6 第1次吉田・ダレス会談、朝鮮戦争勃発
1950.7 警察予備隊設立(再軍備)
1951.1.3 第2次吉田・ダレス会談、沖縄・小笠原、安全保障、再軍備
1951.1.5 暫定覚え書き
1951.4 マッカーサー解任
1951.9.8 サンフランシスコ講和会議
全権委員団・同行者として白州次郎(東北電力会長)
吉田茂演説 英語―>日本語(和紙)トイレットペーパー
白州の意見―天皇退位発言? 吉田茂との対立
1952.日米行政協定交渉―不平等条約 1953神川彦松―横田喜三郎論争


最初の述べた米軍機墜落地から鶴見川にそって上流にほぼ北に上がっていくと、1時間ほどゆっくり歩いて白州次郎正子パートナーズの武相荘につながっていく。その途中佐藤春夫が「田園の憂鬱」を執筆した「鉄町」をとおり、いま稲刈りが真っ最中の早野を通る、富士山が頭を出す西側の寺家の里丘陵の緑と東側の早野の丘陵の緑が重なりあい、とても東京近郊とはおもえない佐藤春夫の「田園の憂鬱」の記述そのままの風景が展開する。 早野で御夫婦で稲刈りをしていた高橋さんと話すと、戦争中は中国の万里の長城の向こう側で機関銃かついで‘人殺し’をやってきたが、戦後3年間中国で捕虜として暮らした、もう戦争はごめんだし決してやってはいけないと厳しい調子で話した。母親のお腹のなかで関東大震災を経験し過酷な戦争を経験した85歳になる高橋さんの言葉は重い。

カントリージェントルマン白州次郎は、この地区の‘農民’と戦争中の体験について話したことがあるのだろうか。 横須賀・厚木基地・横田基地・三沢基地・富士山山麓演習場をむすぶ丘陵地帯にある 白州次郎正子の「武相荘」の上を、米軍戦闘機・空輸機・ヘリコプターが「戦闘態勢」で激しい軍事訓練を行っている。戦後多くの誤りをもちながらも築き上げられてきた「国連集団安全保障」に敵対する、ブッシュ・ドクトリン=基督教テロリスト原理=「(完全自己中心主義の)基督教テロリストが(自己の私利私欲のため)必要な(あらゆる)先制戦争攻撃を(基督の神の神託さえあれば)国連安全理事会の許可どころか何の許可なぞ必要もなく断行する」という旗の下、「アメリカに押しつけられた日米安保条約」という従属のもと、日本はこの基督教テロリスト帝国の従順なポチとして世界に敵対する戦争に加担する危険という重い荷物を背負わされている。白州次郎正子パートナーズは、米軍機墜落の爆音をきいたであろうに。

ケンブリッジ クレア・カレッジと白洲次郎と日本国憲法

2009年09月16日 | ロンドン、イギリス
小田急線鶴川駅を白洲次郎正子パートナーズの「武相荘」のほうにいかず、鶴見川にそって西に行くと、鶴見川の両側がよく整備された遊歩道になり、それなりに歩くと、町田市自由民権資料館の前にたどり着く。
http://www.city.machida.tokyo.jp/shisetsu/cul/cul03/
北村透谷の義父である石阪昌孝、村野常衛門、青木正太郎などこの地の自由民権運動で活躍した人々の資料が集められている。多摩郡はかっては南側の都筑郡と一体となって明治中頃までは神奈川県に属していた。水資源獲得のため強制的に三多摩郡が東京府に編入されることによってこの丘陵地帯が東京と神奈川が入り乱れる境界線になってしまったが、自由民権運動の高揚のなかでおこった武装蜂起をともなった秩父困民党の秩父地方との関係も密接だった。

日本国憲法の成立史として最も正統である古関彰一「日本国憲法の誕生」岩波現代文庫とともに、「憲法「押しつけ」論の幻」講談社現代新書の小西豊治がさらに詳細に展開しているように、自由民権運動の生き残りであり大原社会問題研究所の創立者である高野岩三郎等に支えられた自由民権運動の研究者である鈴木安蔵が中心的役割を果たして作成された「憲法研究会草案」が先導的起爆となって「マッカーサー憲法草案」が生まれた、このことは明確に立証されている。

白洲次郎の「プリンシプルのない日本」にも、白洲正子公認伝記「風の男白洲次郎」にも、この二人が住んだ「鶴川」の地に、かって燃え上がった「自由民権運動」にたいする言及は一カ所もない。白洲次郎は、ケンブリッジのクレア・カレッジで「ラテン語で合格して」「西洋中世史を学んだ」という。「J.J. トムソンの物理の授業」も「ケインズの授業」をも貪欲に学んだ「歴史専攻」の男が、カントリージェントルマンとしての地元の歴史を探究しなかったとは、一体ケンブリッジで何を学んできたのであろうか。すこし、しつこく白洲次郎の「歴史学の学識」を追って見よう。

「白洲次郎プリンシプルのない日本」新潮文庫“プリンシプルのない日本”’吉田茂はないている’(「諸君」19 69.9) の「象徴」のはじまり p238から引用

<< 1) 連合国側は、日本側からとうてい満足できる新憲法草案が自主的にでてくるはずないと予期していたのか、それとも始めから計画であったのか知るよしもないが、日本政府から提出された松本試案などは問題にはならないとボツにされ、英文で書かれていた「新憲法」の按分なるものを手渡された。渡された場所は当時外務大臣公邸であった麻布市兵衛町の元原田積善会の建物であった。日本側でこれにたちあったのは、当時の吉田茂外務大臣・松本烝治国務大臣と私であったように記憶する。GHQ側はホイットニー以下の民政局の一行である。

2)たしか案分は二十通あまり作ってあって、番号が打ってあったほど機密保持に神経質であったのだ。この案文を読んだ日本側は相当なショックであった。この案文をかかえこんでシドロモドロであったといっても過言ではなかった。吉田さんはさすがに平気な顔をしていた。戦争に負けたんだという認識をあきらめのためであったかも知れない。松本先生はいまだに、この案文についてGHQ側との折衝の余地がのこされていると感じをもっておられたようだが、そんな可能性はゼロであった。

3)あまりに時間の経過に民政局の弾圧が始まった。この弾圧も彼らの計画の一コマであったのかどうかは知るよしもない。単なる私の邪推であるという可能のあることを認める。彼らの弾圧は、そのあくる日までに全部を和訳して日本政府案として発表せよというかたちで表れた。ソビエットの動きを察してもうそれ以上待てないというのが彼らのいいわけである。こんなものを訳して日本案として発表したら、国内的にどんな仕打ちにあるのかわからんと考えたのかどうかはしらないが、大抵の政府高官はこの問題から姿を消してしまった。まあ正直にいうと私に関する限りやむをえず外務省の翻訳官(そんな官職あったかどうか未だ知らないが)二人を連れてGHQに乗り込み、GHQ内に一室をあたえられてこの英文和訳との取り組みが始まったのだ。

4)私は他にも用があったからこの室に入りびたりではなかったが、お気の毒にも当時もう相当の御年配の翻訳官二氏はこの部屋で徹夜の憂き目のあわざるを得なかった。GHQ勤務のアメリカ兵用の食事を与えられ、煙草もアメリカのものを充分支給されたのを未だ憶えている。
こうやって出来上がったものが「日本人が自主的につくった」新憲法の草案である。この翻訳遂行中のことはあまり記憶にないが、一つだけある。原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人が(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、といったのが、現在の憲法に「象徴」と字が使っている所以である。余談になるが、後日学識高き人々はそもそも象徴とはなんぞやと大論戦を展開しておられるたびに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく。>>

古関彰一「日本国憲法の誕生」岩波現代文庫をアンチョコに使ってこの文を検討してみよう。

1)2)は1946年2月13日の出来事で、日本政府にとっては2月8日に提出した「松本案」への回答日のはずが、寝耳に水のGHQ側からの「マッカーサー草案」(もちろん英文)の手渡しである。3)4)は、1946年3月4日の出来事で2月13日に手渡された「英文マッカーサー草案」に日本語化(あるいはいろいろ官僚的手練手管で誤摩化そうとした日本化)した「3月2日日本案」を民政局にもっっていき、その場で「日本案の翻訳検討と修正」の徹夜作業についてである。

白洲次郎の有名なホイットニー宛の「The Jeep Way Letter」は、2月13日の「マッカーサー草案」手渡しの後2月15日のことである。「松本ジョージ案の天皇主権」と「マッカーサー草案の国民主権」が、同じゴールであるはずがない。Air WayだろうがJeep Wayだろうが、ゴールがまるで違うという認識は白洲次郎には当然なかったであろう、もし「プリンスプル」に基づいて行動していたのならば。

3)4)の白洲次郎のいう外務省翻訳官は長谷川元吉と小畑薫、GHQ側の翻訳官が2人と通訳に人権条項作成者のベアテ・シロタ、そして日本側の指揮責任は、佐藤達夫法制局第一部長である、なぜなら白洲の言う通り責任者の松本ジョージは途中で逃げ出してしまったのだから、もちろん白州次郎は「翻訳補佐」程度で責任者では決してない。そして松本が持参してきた「3月2日案」の中に、以下順次示す経過で、(国会図書館ウェブサイト「日本国憲法の誕生―資料」より):

仮訳「第一条 皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス」
2月28日初稿「第一条 天皇ハ民意ニ基キ国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位ヲ保有スル」
3月1日二稿「第一条 天皇ハ国民ノ総意ニ 基キ国ノ象徴及国民統合ノ標章タル地位ヲ保有スル」
3月2日案「第一条 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス。」

として3月4日に民政局に提出された。3)4)の記事による徹夜で作成された「3月5日案」を元に、3月6日「憲法改正草案要綱」として発表された「象徴」の項は以下である。
「第一 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国及其ノ国民統合ノ象徴タルベキコト」

3)4)の白洲次郎の記事によると、3月4日徹夜作業の中で、「辞書」から「象徴」が選ばれたことになるが、それは以上の事実から否定される。

白州正子公認「風の男白洲次郎」p128 (週刊新潮 昭和58年8月21日号(占領秘話を知りすぎた男の回想?)では、以下の記述になっている。

<< GHQ側は、草案を日本側に手渡すと、具体化を急いだ。まだ日本政府側の意見がまとまらないうちの某日(青柳注:3月2日のことであったと思われる)、ぼくはホイットニー氏に呼び出された。至急、翻訳者をつれて来いというのである。そこで外務省翻訳官だった小畑薫良らと同道して改めて訪ねると、彼はGHQ内に一室を用意しており、‘マッカーサー草案’の全文を一晩で日本語に訳するよう要求した。
こうしてー日本語で書かれた最初の“新憲法草案”は、専門の法律学者の検討を経ることなく、一夜のうち完成した。もっとも元の英文による原文とて、おそらくは専門の憲法学者の手に触れてはいまい。せいぜい法律家の目を通していたとしても、戦時応招でマッカーサー麾下にはいった弁護士上がりの2、3の将校たちぐらいではなかろうか。したがって、たとえ翻訳の際にこちらの憲法学者がたちあっていたとしても、何ほどの効果を挙げ得たかは疑問である。
が、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている点は、さすがに外務省きってのわが翻訳官たちも大いに惑わせた。
「白洲さん、シンボルというのはなんやねん?」
小畑氏はぼくに向かって、大阪弁で問いかけた。ぼくは「井上の英和辞典をひいてみたら、どや」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマをふりこう答えた。
「やっぱりシンボルは象徴や」
新憲法の「象徴」という言葉は、こうして一冊の辞書によって決まったのである>>

白州次郎は本当にケンブリッジ クレア・カレッジで「ラテン語で合格して」「西洋中世史」を学んだという「歴史学の学識」が、このレベルである、というか歴史を捏造するレベルとは、驚くべきことである。

さらにイギリス憲法史を少しでも知っていたのならば、イギリス憲法になくてはならぬ「思想家」トマス・ホッブスもジョン・ロックもトマス・ペインも全員「専門法律家」ではない。したがって:

<<もっとも元の英文による原文とて、おそらくは専門の憲法学者の手に触れてはいまい。せいぜい法律家の目を通していたとしても、戦時応招でマッカーサー麾下にはいった弁護士上がりの2、3の将校たちぐらいではなかろうか。>>

と汚いヤジを飛ばすのは、「手続きのみのプリンシプル」しかない白州次郎の知的レベルの低さを物語っているだけだ。なぜなら明治憲法(大日本帝国憲法)の制定をみてみるならば、法律のずぶの素人伊藤博文の主導のもと法律のズブの素人井上毅が草案を書いてそれをもとに同じく法律のズブの素人伊東巳代治と憲法のズブの素人金子堅太郎とともに「夏島草案」が作成されのではなかったのか。それに対峙した「民権運動」の「東洋大日本国国憲按」起草者の植木枝盛も法律のズブの素人である。「占領を背負った男」なら、「法律のズブの素人」でも、「次郎チャン日本国憲法草案」なるものを残すぐらいの知的気迫が必須条件として要求される。

ラスト・ナイト・プロスム The Last Night PROMS

2009年09月15日 | 白洲次郎正子鶴川
プロムス2009は、9月12日のラスト・ナイトをもって2か月に渡る世界で最も大きな夏の音楽祭が終わった。最近は、サイモン・ラトルのベルリン交響楽団とウィーン交響楽団が交互にやってくるが、今年はウィーン交響楽団の番であり、ラスト・ナイトの前日と前々日演奏が行われた。通常ラスト・ナイトの前夜は、ベートーベンの「合唱」交響曲が演奏されるのだが、11日ウィーン交響楽団を指揮したズビン・メータは、シュトラウスのドン・キホートとブラームス4番という相変わらず「空気が読めない」演目でお茶を濁した。ウィーン交響楽団+「合唱」交響曲という誰が指揮をしても大興奮になるアルバート・ホールで、シニア・プロマーズの間ではとっても評判の悪いズビン・メータは名誉挽回のチャンスなにに、それを自分から潰すのだから、向こう受けをバーンとやるバレンボイムをすこしは見習えよといいたくなる。カレーチャーハン的ブラームス4番だけどオーケストラがあまりに素晴らしいので、「こんなの?!」とおもいつつやっぱ素晴らしい、この後ズビン・メータ率いるウィーンフィルはすぐ東京へ、日本(http://www.suntory.co.jp/news/s_hall2009/sh0051.html)と中国演奏旅行だそうだ、1000円では聴けないよね、一桁あがっても無理だもんね。

ラスト・ナイト・プロムスは、主会場がアルバート・ホールでBBCシンフォニー、お隣にハイド・パークの野外会場でBBCコンサート、マンチェスターでBBCフィルフハーモニック、グラスゴーでBBCスコテッシュシンフォニー、スワンシーでBBCウェールズ、ベルファストでウルスターUlsterによる野外コンサートが同時並行して行われる。かってはアルバート・ホールだけだったが、子供を中心にした親子のピクニック感覚のコンサート参加の要望をうけ、さらに旧大英帝国を形成するウェールズ、スコットランド、北アイルランドの国々も参加して広がっていき、日本のかっての紅白のような感じになってきた。NHK紅白がドンドン衰退していくのと好対照で、ラスト・ナイト・プロムスはドンドン盛大になっていっている。この野外コンサートの参加者の音楽狂も生半可なものでなく、アルバート・ホールを激しくたたきつけるような雨の中でもハイドパークでは親子ずれが雨合羽のなかで旗をふるまわして熱狂して演奏を聴いて、最後までコンサートを完成させてしまう。第2部の「6人の若い作曲家による’花火のファンファーレ’」では、この6会場を衛星中継でリアルタイムでリレーして演奏を行う。この「6人の若い作曲家」の中にイギリスを中心にバイオリン・コンクールで活躍し今年ロイヤル・スクール・オブ・ミュージックに入った18歳のSAIK TANAKAさんが含まれている。

当日券を求め長蛇の列となる。アリーナにならぶ列とバルコニーにならぶ列と2つの列ができる。ダフ屋さんが‘完売している座席’があるよと、盛んに声をかける。ふっかけるのは禁止されているので、‘通常正価格’であるがほとんどの人は‘立ち見席’にならぶ。アリーナの列先頭にいてフォーマルドレスにめかしこんでいる人々が’シニア・プロマー‘Senior Promerと言われる人々で、このプロムスに全人生をかけているようなグループで、インターバルと終了後寄附を集めに懸命である。

プラットフォームには、色とりどりの華やかなパーティドレスを着た女性の演奏者が上がり、豪華な雰囲気をもりあげる。膨大な数の旗が会場を埋め尽くす。ユニオン・ジャックばかりでなくスコットランド、ウェールズ、アイルランドや星条旗、オーストラリア、カナダなどの旧コモン・ウェルス、敵国ドイツ、フランス、日の丸、五星紅旗、太極旗などなどワールド・カップやオリンピックのような各国の国旗、その他なにがなんだかわからないいろいろな旗がある。

かっては、もう第1部から大騒動だったが、今では第1部は静かに静かにそれこそ静かにコンサートに集中する。第2部は大爆発である。第1部おとなしくしていた膨大な旗が、まってましたとばかり巨大な波となってうごめき、6千人の大合唱で大ホールが埋め尽くされる。

ラスト・ナイトの今年の指揮者は、カリフォルニア生まれでアルバート・ホーの前にあるロイヤル・カレッジ・ミュージックで学んだアメリカ人のBBCシンフォニー首席ゲスト指揮者でありセント・ルイス交響楽団の音楽監督のデビット・ロバートソンであった。オーケストラの一人一人の団員と楽器はそれぞれ驚くまでの多様な背景と物語をもつが、いざオーケストラとなったとき音楽で団結する。音楽による団結とその力による希望を高らかに宣言する。

エルガーの「威風堂々1番」の大合唱でも、「いまのはリハーサルだよね、ここには世界最大の合唱団がいるんだ、このままじゃ‘紅茶によって建設された国家になっちゃうよ’(ボストン茶事件にかけてアメリカ)さあ、本番!!」とアンコールを繰り返す。イギリス国歌斉唱の後に、会場の全員が手をつなぎ合って「蛍の光」を歌う。まわりの人々と、と握手をしながら「来年もここで会おう」と誓い合う。

Jerusalem by William Blake, Parry

And did those feet in ancient time
Walk upon England's mountains green
And was the holy lamb of God
On England's pleasant pastures seen

And did the countenance divine
Shine forth upon our clouded hills
And was Jerusalem builded here
Among those dark Satanic mills

Bring me my bow of burning gold
Bring me my arrows of desire
Bring me my spears o'clouds unfold
Bring me my chariot of fire

I will not cease from mental fight
Nor shall my sword sleep in my hand
'Til we have built Jerusalem
In England's green and pleasant land
'Til we have built Jerusalem
In England's green and pleasant land


Land of Hope and Glory by Benson, Elgar
Solo
Dear Land of Hope, thy hope is crowned,
God make thee mightier yet !
On Sov'ran[7] brows, beloved, renowned,
Once more thy crown is set.
Thine equal laws, by Freedom gained,
Have ruled thee well and long ;
By Freedom gained, by Truth maintained,
Thine Empire shall be strong.

Chorus
Land of Hope and Glory, Mother of the Free,
How shall we extol thee, who are born of thee?
Wider still and wider shall thy bounds be set;
God, who made thee mighty, make thee mightier yet,
God, who made thee mighty, make thee mightier yet.

Solo
Thy fame is ancient as the days,
As Ocean large and wide :
A pride that dares, and heeds not praise,
A stern and silent pride ;
Not that false joy that dreams content
With what our sires have won ;
The blood a hero sire hath spent
Still nerves a hero son.

Chorus

徳川泰圀と特攻とNHK 「日本海軍400時間の証言」

2009年09月14日 | 日本東アジア
白洲次郎からケンブリッジ時代の話しをきいた徳川家広の「徳川」で思い出したが、「徳川」で嫌でも離れない名前が「徳川泰圀」である。

慶応大学応援団の歴史の記述(75年通史ー戦後復活期)http://k-o-m.jp/history/2-1.html にこんなものがある。
「水戸藩徳川家の一族で元特攻隊員、後年はカトリックの司教というユニークな人生を歩んだ徳川はリーダー班責任者として華麗なテクニックを後輩たちに熱心に伝授し、後進の滝口登(獣医23)、大舘清次(獣医23)、予科の椎津康夫(経26)らもやがて応援席で華麗な拍手指導をおこなうようになる。」

この徳川泰圀の経歴が以下のようにのっていた。
1996年12月24日帰天

1921年3月8日生まれ、 神田教会で受洗

53年12月12日 司祭叙階

54年3月 浅草教会助任

56年5月 パリ留学

58年11月 東京大司教館

59年 北町教会主任

67年 志村教会主任

75年4月 大司教館事務局長

87年4月大森教会主任
この間東京カトリック幼稚園・保育園連盟事務局長・聖園幼稚園園長、 東星学園理事等を歴任した。 

92年より病気療養のため、 司祭の家で静養していた。

鹿児島の特攻基地から飛び立つところ飛行機が故障で飛び立てずそのまま終戦になったこととよく語っていた。「特攻」と対峙したことからカトリック神父になったのかと信じ込んでいたが、思いもしないところの彼の同期生から、「あーあ、トクさん、失恋して神父になったんだよ。」と漏れ聞いて、どっちがどっちだか整理がつかなくなった。たしか、お父さんが「日本で初めて飛行機を操縦して飛んだ」はずだが。

練馬大根畑の真ん中にそれなりの敷地を購入しまずは幼稚園をつくり住宅乱開発と周辺の子供人口激増で経営を軌道にのせ、次に「お御堂(プロテスタント用語では「チャペル」結婚式にはこっちの方がいいね)」を建設するが、当時の子供の目から見ればそれはもう立派な白亜の殿堂であった。殿曰く、「ドイツのケルン教区からの援助で立てた。」というのはいいが、さらに「だからケルンの大聖堂に真似てつくった。」30年も経ってかそのケルン大聖堂(ドームというらしい、イギリスではカッシードラルCathedralだけど、日本はカテドラル?)の本物に行き、「大聖堂では神に近いてっぺんまで登る」というプリンスプルに基づきてっぺんまで登ったが、まるで1時間ちかく階段を登ったような感じでまあ大変だった。「ケルン大聖堂に真似た」なんという無茶な大ウソは本当に言ってはいけなかった、マッチ箱ぐらい真似た程度なのだから。

この殿、普段はやはり名門の出らしく高貴で知的なお方だったが、クリスマスや復活祭など大きなお祭りでたまに酒が入ったり、こっちは頻度が高いが説教で興奮してしまうともうとんでもない状態になってしまう。なんせ元特攻隊員・慶応大学応援団部で鍛えまくったその声たるや、「旧約の怒りの神」も尻尾を巻いて逃げてしまう大音響で「ケルン大聖堂を真似たちゃぽけなお御堂」ではとてもおさまらず「ケルン大聖堂そのもの」が必要だったぐらいだ。殿の後輩となる暁星に行っていた子が、教会のとっても品のいい誰もが憧れて当たり前の女の子にラブレタター出したということで、「はしたないまねしやがって、オレの聖なる暁星の名誉を傷つけたな!」とボンボコ殴り倒しそれでもおさまりきらず、(なぜかあんな高貴な出なのにこんな時は私と同じ下町江戸っ子弁の決まりきったさまざまな語句)で罵倒しまくって口から泡ふいていたこともあった。試験の前に(洗礼は赤ちゃんでやちゃうケースが多いので堅信礼は「試験」があってパスしないと駄目)「聖書講読コース」なるものを終えて、感想を訊かれて(プロテスタントだと「信仰告白」なんというだいそれたもの平然と人前でやるんだよね、面の皮があつくなるというか)「まるでお伽噺みたい。」と純粋な目をしてうっかり口を滑らしたからたまらない、もう手をブルブル震わせて顔が葡萄酒を飲んでいないにもかかわらず真っ赤になりーあの恐怖たるや思い出したくない。分厚いラテン語(ミサ(プロテスタント用語でサービス)はラテン語式辞?だった)のミサ典書?をもってこないと怒られる、こっちは朝5時おきて侍者に来てやっているのに、そのくせ、ラテン語を正式に真剣に教えてはくれない。井上ひさしさんが「ボローニャ紀行」で彼の「児童養護施設」の聖ドミニコ修道会の神父さんを敬愛を込めて書いているが、私は残念ながら殿も含めて出会ってきたカトリック神父にたいしてそうはいかない。

でも日本の場合「カトリックの神父や修道女」は、「プロテスタントの牧師」連中に比べればズートマシだ。もう遅くなってガストで食事していると、二人のボンクラな顔の男たちが、ビールジョッキを傾けながら話していて、「聖書をいろいろ使って説教するのは、オレはいやなんだな。」とかとかが聞こえてきて、ひっくり帰るほど驚いた。もう夜の10時すぎてるんだよ、夜9時過ぎは黙祷の時間だろう、いくら東京神学大学の馬鹿学生だってすこしは修行しろよ、聖書どうのこうのと言う問題じゃないだろう、なんでビールジョッキで飲んでいるんだよ、殿が聴いていたら名刀なんとかでその場でお手打ちだぜ。「神に奉仕するパートナーズ」でいくら気取っても「独身を通す」決断と比べるアホらしいし、「牧師の子だくさん」も「プロテスタント系大学無償」でいけるから出来ることだ。それどころじゃない、「キリスト教学校教育同盟に属する大学」でどれぐらいの経常経費補助金をもらいながら、何匹の「牧師」を飼っているんだ、とんでもない憲法違反である。


NHKの「日本海軍400時間の証言:特攻」は、その現場にいた海軍関係者の証言で生々しいものであった。醍醐聰のブログによいまとめがある。(http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/nhk400-93c3.html)

海軍軍令部が非常に早い時期から「特攻作戦」を計画していたこと、特攻‘専用’武器を開発していたこと(当然海軍省は予算をあてている)、特攻の為の軍編成を行っていること、それにも拘わらず元軍令部参謀は、「特攻は、作戦戦術ではない、それより遥かに崇高な精神の発露である。」として、「自発的志願」によりボランティ精神で行われたことを絶叫していた。そして「特攻攻撃は無駄どころか40%以上の‘成功’だった」と主張する野蛮なサイトが平然と存在する。近代システムでは、設計者・製造者・ユーザーの‘経験知’がフィードバックされシステムの性能効率を挙げていくもののはずだが、このフィードバックのない「人道への犯罪」システムがどんな恐ろしいものか。プロスムが行われるアルバートホールの南に「サイエンス・ミュージアム」があるが、その最上階であろうか「航空機の歴史コーナー」に「戦時爆撃機」の説明コーナーがありその説明に、「無差別爆撃を行った爆撃機を開発したことにより、イギリス航空産業は技術革新を怠り戦後の航空機開発競争に致命的な遅れをとった」とあった。番組で人間魚雷回天の設計従事者が、「人道に対する罪」に問われるを恐れていたことが語られていたが問われて当然である。「人道に対する罪」は連合軍の専売特許ではない、トマス・ホッブスの「リバイアサン」、ジョン・ロックの「市民政府論」などで確立された近代統治主権原理の「自然法的」根幹なのだから。それは、オスマントルコ帝国のアルメニア人へのジェノサイドがイスラム統治原理からも「人道に対する罪」として免罪されることができないと同じことである。ドイツにおいてはナチ犯罪をニュルンベルグ裁判の後にみずからの手で継続的に行ったが、今なお自らの手で「人道に対する罪」を断罪していない我々は、今なお「やましき沈黙」=「おぞましき黙認」にあるのだろう。そしてこの「大日本帝国統治下にあるすべての人間を自由裁量による消耗品とみなす思想」は、派遣労働体制によりあくなき利潤の追求をおこなっている現代の「経団連」=「むかし軍部、いま経団連」に強力に引き継がれているのである。

慶応大学経済学部卒業(卒業時に直接もらったという小泉信三の自署の本があった)の徳川泰圀は、その毛並みとみずからのもつ頭脳と才能により、当然その「経団連」の主流を歩むことはいともたやすかったであろう,白洲次郎のようにチャランポランであったならば。かといって、こちらに被害が降り掛かってきたこともそう簡単には赦すことはできないが、 徳川泰圀の人生が、真剣に苦悩に対峙し慟哭の人生であったことは確かである。




ケンブリッジ クレア・カレッジと白洲次郎 「占領を背負った男」批判(2)

2009年09月10日 | 白洲次郎正子鶴川
白洲正子公認の白洲次郎決定版「風の男白洲次郎」青柳恵介・新潮文庫のケンブリッジ、クレア・カレッジの逸話は、白洲次郎から 徳川宗家18代恒孝の長男である翻訳家の徳川家広(1965 - )へ語られたことになっている、引用すると:

逸話その1
J.J. トムソン(Sir Joseph John Thomson 1856-1940)という秀でた物理学者は散歩をしながら思索にふけ習慣があり、思索が深まってくると、道の真ん中で立ち止まってしまう。トムソンはケンブリッジの街で車の通行をしばしば止めてしまうが、警官もトムソンを注意することをせず、彼が動くまで車の方を止めていた。次郎はトムソンの試験を受ける際、充分に勉強してのぞんだが、返って来た答案の点数は低く、「君の答案には、自分自身の考えが一つもない」と記してあった。そこで、次の試験の際には存分に自分の意見を書いたら、今度は評価が高かったという。ある時、トムソン先生の自宅の朝食会に次郎は招かれ、いったいどんな話しをするのかなと思ったら、先生は先週行われたフットボールの話しに終始された。次郎は家広の顔をみて「どうせ、僕なんかたいした奴じゃないとおもわれたんだろうな」と回想された。

逸話その2つめ
ケインズ(John Maynard Keynes, 1863-1946)という経済学者の細君は、リディア・オボコヴというロジア人で、有名なバレリーナで、彼女は突拍子もない格好で街を飛び歩いていた。ケインズの講義というものは時局的な発言が多く、時折予言めいたことも喋った。今ブラジルでは農産物の物価が下落し、その価格を維持する為にコーヒー豆を焼き捨てるだろうと述べた。学生たちは大笑いをし、次郎も笑ったが、後年本当のことになった。「あの時、笑った僕らをケインズはさぞ馬鹿だとおもっただろうん」と次郎は付け加えた。

逸話その三つ目
当時のケンブリッジでは教授はかならず「Gentlemen」という語を、講義の冒頭に置き、話しを始めたものだ。ところが今では男女共学になり、それが適わぬものとなってしまった。男ばかりで生活する利点、学寮のなかで裸同然の格好で友人とつくあう気持ちの良さを次郎は強調した。

白洲次郎が徳川家広に語ったケンブリッジ時代の断片的な話しは、当時のケンブリッジの面影を伝えるものとしても貴重だが、また次郎が向学心に燃える青年であったことをうかがわせる話しである。

(略)
次郎はケンブリッジ在学中に、ジョージ・セールをはじめその後に職業上のつながりを持つ人々との友情を結ぶが、なかでもロビン・ビングとの友情は生涯にわたる格別なものであった。ロビン・ビングは7世ストラッフォード伯爵の称号をもつ貴族であった。正子は、ロビンについて「彼は次郎とは正反対の、地味な人柄で、目立つことを極力さけていた。本当の意味でのスノビズムを、次郎はこの人から学んだとおもう。いやすべての英国流の思想の源はロビンにあるといっても過言ではない」また「身ごなしといい、教養といい、古き良き時代の英国紳士の典型といえよう。」ロビンは、いつも同じシャツ、同じスーツを、おなじ靴をはいてーーー
 
<検討>JJトムソンの授業
逸話その1―あり得ないことをすでに証明している、つけくわえると、
トリニティ、バックスを散歩してみればよいだろう。それに交通警官?当時のケンブリッジは、「村」であった。
J J Thomsonの「自宅」朝食会―>何度も言うが、JJ ThomsonはTrinity College Masterになっており、Master’s lodgeに住んでいたはず。あのノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン教授は、経済学部教授ではなく、トリニティ・カレッジのマスターであった、それほどトリニティの格は高いし、女王様、イギリス国教会に次いでの資産家である。

逸話その2-ケインズの授業
1週間に一回しか行わないケインズの授業に出席できた学生たちとは一体どんな学生たちであったか、例を示そう。
1912年頃25歳ごろの小泉信三が授業を受けているようだ。小泉信三の父小泉信吉は、白州次郎の祖父白洲退蔵が横浜正金銀行頭取だったとき副頭取をしていた。http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/24_sirasu/sirasu.html
「今有名な経済学者ケインズは、当時(1914)はまだ白面の少壮学者で「エコノミック・ジャアナル」の編集をやっていた。私は学生としてその講義を聴きにいったが、同年輩の上田氏は、時々訪問して話してきたようであった。」
ヒットラーにインタービューして批判的な記事を書いたドラッガーはイギリスに亡命して1933年にケインズの授業をとる。
「仕事のかたわら、毎週金曜日の夕方にはケンブリッジ大学へも足を運んだ。「ケインズ経済学」の生みの親、ジョン・メイナード・ケインズの講義を聴くためだ(中略)講義を聴きながら、ケインズを筆頭に経済学者は商品の動きにばかり注目しているのに対し、私は人間や社会に関心を持っていることを知った」

1923年のケインズはヴェルサイユ講話会議に大蔵省を代表して出席し、ドイツ賠償に反対して「The Economic Consequence of the Peace」を発表して既に有名経済学者になっている。1921年の「 A Treatise of Probability」の後白洲次郎がケインズの授業をとったこととなる1923-1926の間に、「Alfred Marshall 1842-1924」
何よりも1926「 The End of Laissez-Faire」は、あの革命書「The General Theory」の萌芽を含んでいる。日本でも話題となり:
「(上野)貞次郎は小泉(信三)の追想にあるように当時ケンブリッジのキングス・カレッジで講師をしていたケインズを数回訪問している。そしてのちに「企業と社会」(大正15年)を主宰したときに「ケインズ氏の社会改造論」(「自由放任の終焉」の紹介、これにたいするウェッブの批判を紹介した「ケインズとウェッブ」を書いた。 http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/da/bitstream/123456789/5839/4/HIT0600301.pdf
白洲次郎は「20才台にはマルクスを耽読した」といっているのだから、このケインズの講演には興奮したのではないか? さらには、1936年のケインズ革命の書The General Theoryを読んで興奮したのではないか? 
第1次吉田内閣大蔵大臣石橋湛山は戦前からケインズを研究していたという、ならばケインズの授業を受けた貿易庁長官白洲次郎とは話しは弾んだであろうか。
白洲次郎は経済安定化本部次長に1946.12 に就任している。そこには都留重人がいたであろう。
リディの細かな話しで済ますわけにはin principle、決してできないのだ、せっかく知の巨人の講義をとっていながら。
イートンで数学の賞をとったケインズである、The General Theoryにしても工学部的に「基礎的な数学」といっても決して「初歩的な数学」でなく、確実に「高等数学」が必要である、「ラテン語」で入った白洲次郎が、もっているわけない。
白洲次郎は確実にケインズの授業を取っていない。これもよた話しである。

逸話その3
すでに証明している。それにしても白洲正子は、「 男ばかりで生活する利点、学寮のなかで裸同然の格好で友人とつくあう気持ちの良さ」というところを検閲でカットしなかったのか、全然「両性具有」じゃないじゃんか。白洲正子が男っぽいのでそれでよかったのかね。


こんないい加減な「逸話ばかり」だと、白洲次郎がクレア・カレッジで学んだのかどうか疑問にならざるを得ない。1930年にケンブリッジ・キングス・カレッジにたった1年間だけ学んだ白洲次郎の親分吉田茂の息子の吉田健一には、ケンブリッジの香りが濃厚に漂っているのに、白洲次郎にケンブリッジ・クレア・カレッジの香りはまるで感じられない。

その疑問を解決?するサイトで、
今に生きる白洲次郎―そのプリンスプルに学ぶー2008年3月神戸市シルバーカレッジー国際交流コースの人々がクレア・カレッジに確かめてきたそうである。
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/shirasu_ksc.pdf

1923年入学1926年卒業と確かに記されているそうであるが、何を専攻したのか誰がチューターであったのかは分からなかったそうである。ケインズの父親が務めた正式な学位認定を記録する「Registrary」に行けばもう少し記録があったかもしれない。

ロビン・ビングについて正子が語っていることは、ロジャーにも当てはまる。いつも同じ靴、同じ青いシャツ、そして伯父さんからもらったグレーのブレザー、いつもだった。本物のジェントルマンであるロビン・ビングといかに白洲次郎が白洲正子が正確にいっているように本物とかけ離れた「ジャパン・バージョンのジェントルマン」であるかよくわかるであろう。白洲次郎の「プリンスプル」は、いつも「手続きの合理性」のみであり、「原理原則をどう構築」していくのかはまるでない。それは松本ジョージの時代錯誤の見てくれ修正「天皇主権」憲法を、The Jeep Way Letterで姑息に必死に守ろうとしたこと、そして「人民主権」憲法をまったく自から考えることすら出来なかったことから明らかである。トマス・ホッブス、ジョン・ロック、トマス・ペインを読んでいれば自分の頭で「人民主権」が出来上がっていたはずで、松本ジョージ憲法など「原理原則」から唾棄すべきものと最初から分かっていたはずだ。

北康利の「白洲次郎―占領を背負った男」は、そのタイトルからして、「ABS入門」(Asset backed Securities-資産担保証券)の専門家である著者が、白洲正子公認「風の男白洲次郎」をベース資産として、「サブプライム並みにレバレッジ」をかけまくったものであることが、この「ケンブリッジ・クレア・カレッジ」に関することだけでもうかがえる。

「風の男」にない記述で「占領を背負った男」での「新事実」は:
5歳上の兄の「白洲尚蔵」が京都帝国大学卒業、1920年オックスフォード大学入学、そして卒業後ロンドン・イーストエンドに住む

である。これはもう「事実として一人歩き」していて、「白洲次郎神話」にまたまた「はくが付け加わった」。 オックスフォード大学のカレッジすら示されていないのだし、白洲次郎著「プリンスパルのない日本」にもまるで出てこない「新事実」である。証明責任は勿論北にあるのだが、誠意をもってやることなぞないであろう。

テルヒサさんなんとかして!あの90歳の御長老は?


ケンブリッジ クレア・カレッジと白洲次郎―北康利さん、「占領を背負った男」ひどすぎる訂正して!

2009年09月06日 | 白洲次郎正子鶴川
鶴見川を石南花で有名な高蔵寺があるあの奈良の「三輪山」から鎌倉時代に移住してきた一族が住み続ける三輪の里を通ると、多摩川を渡った後神奈川県川崎に入り再び東京都町田市になる小田急線「鶴川」の駅につく。鶴川駅周辺は最近大再開発され、とってもお洒落に変身した。
南に歩いていくと、5分もかからず農業団地「岡上」地区にはいり、いまでは稲刈り前の稲の穂がたわわにに実っている。稲の穂を無限の波でゆらす風に吹かれると心が軽快になってくるのは、やはり弥生時代からの稲穂の国日本のDNAが自分の体のなかにしっかり埋め込めれているからなのだろう。一方大開発された京王線若葉台に通じる(米軍ゴルフ場読売カントリークラブの方向の)北に歩いていくと10分ちょっとで、白洲次郎正子パートナーズの住んだ「武相荘」(武蔵の国と相模の国の境界と「無愛想」をかけたと思われる)に着く。この「 武相荘」は今では東京観光の名所になっていてはとバスや観光旅行バスの団体さんでにぎやかな限りである。入場料を千円もガッポリ取られるので一回しか入ったことがないが、昭和初期まで実際にお蚕さんから絹糸を紡いでいた蚕農家の旧邸をうまく利用した「風の男」と「イキ・サビの正子」の美意識満載の田舎屋である。「田舎生活」を楽しみ「東京の動きを観察」し「車で行動する」には最適の場所であったであろう、千葉なんかひっこんだらこんな条件満たされない。

大規模な住宅開発が進み、かっての「草深い武蔵と相模国境の田舎」の面影ははるかにすくないが、それでも結構緑が東京近郊としては残り、タヌキの生息地がそこかしこにある。それに戦前は「草深い田舎」であっただろうが、鶴見川沿いの丘陵にそれなりの境内をもつ寺が多数存在するし、丘陵に点在する農家は「谷戸」を背景として立派な家屋敷を構えており、決して山奥の文化果てる地ではなく、鎌倉街道が通り「鎌倉幕府の裏庭」といった「見た目以上に文化レベルが高い」地区である。「小京都」までいかないが、「ちょっとしたプチプチプチ鎌倉」ぐらいの「品格」があり、白洲正子がここに居を構えたのはたしかに「見る目がある」。「三輪の里の領主」荻野文男さんは、正子のお散歩のお相手をつとめたとのことである。

北康利「白洲次郎―占領を背負った男」を読んで、「風の男白洲次郎」がケンブリッジ・クレア・カレッジの出身であることを初めって知った。それでインターネットで少し調べてみると、白洲次郎という人物評価に毀誉褒貶がとても激しいことが分かった:例えば:
崇高賛美派「新・木庵先生の独り言―白洲次郎論」
罵倒批判派 ぴゅあ☆ぴゅあ「白洲次郎とは何者だったのか」
が目に入った。

これは一体どうしたことか。だが、 北康利「白洲次郎―占領を背負った男」の「ケンブリッジ大学クレア・カレッジ」のうち25ページから30ページまでは、「現場を知っているので」、これはひどい記述だと、訂正をしたほうがいいであろう。


P26からー

―日本の帝国大学を出た尚蔵は当時の制度により無試験で入学できたが、次郎は入学できたが、次郎は試験を受けなければならない。ヨーロッパの中世史を専攻しようと考えた彼は、どうせ勉強するなら将来役立つものをと、一年発起してラテン語の勉強を始めた。ラテン語はヨーロッパの古文書を読むには必須の知識である。こうして見事合格。―

(訂正)良く言われるのは、「ケンブリッジは他の大学の学位を認めない。」現在のPro-Vice ChancellorのAlison Richardsはケンブリッジでfirst degreeを取っているがProfessorshipはYaleだったので、Professor Alison Richardsと呼ぶかどうかでだいぶもめたようだ、さすがに大学の総代表をMs Richardsと呼ぶわけにはいかないので。(尚蔵はオックスフォードとのことでも、同じ条件だとおもう。)
白洲次郎は、19歳でイギリスに来てたった3年で、「ノーブル・イングリッシュ」と「ラテン語」、そしてイギリス上流階級の基礎である「フランス語」を身につけたのとは、すごい語学の天才である。
でも「ラテン語」は大学に入ろうとするなら、誰でも勉強するよね、「Rather than Dead」なんていう本まであるぐらいだ。


―「日本からの留学生は漢文で受験するものだが、オレはラテン語で合格したんだ」後年そういって春正に自慢した。―

(訂正)「漢文で受験!!」ブラックジョーク満載の次郎節炸裂ですが、あり得る訳ない。

―ケンブリッジ大学には三十一のカレッジがあったが、―

(訂正)31のカレッジは現在の数。白洲次郎が入学した1923年には22。Churchill, Clare Hall, Darwin, Fitzwillimas, Hometon, Lucy Cavendish, Murray Edwards(New Hall), Robinson, Wolfsonは第2次大戦後創立したいわゆる「ブリック・カレッジBrick College」(第2次大戦後創立したイギリスの大学を「ブリック大学」というようにー石造りとレンガ造りの対比)

―次郎が入ったのは最難関のクレア・カレッジ。イギリス王エドワード一世の孫娘エリザベス・ド・クレアによって創設された名門カレッジである。現在では共学だが当時は男子校、学寮での寄宿舎生活がはじまった。―

(訂正)クレア・カレッジは確かに2番目に古い名門で素晴らしいカレッジで、あのDNA構造の解明のワトソンWatson・クリックCrickのワトソン 1989 Norman Ramsey 2001 Tim Hunt のノーベル賞受賞者をだしているが、ケンブリッジの「最難関カレッジ」では決してなくトップ5でもなく、(まったく日本的評価で全く意味がないが)「中の中」のカレッジ、でも素晴らしいよ、「最下位だって」素晴らしいんだから。「最難関カレッジ」は、だれでもがよく知っている「リンゴの木」。


―クレア・カレッジ入学式のときの写真が残っている。四角い学帽にマント姿の69名の中で東洋人は次郎ただ一人。目立ったことは想像にかたくない。当初の成績こと最下位に近かったが、猛勉強して2年目にはトップクラス入りを果たした。―

(訂正)「フク」ちゃんの「四角い学帽」は偉い人たちがかぶり、学生は「丸いフワフワのビロード帽」のはず。「マウト」まさか一高じゃあるまいし「ガウンgown」です、「タウンtown(市民)とガウンgown(学者あるいは坊さん)」の戦いというでしょう。

―ケンブリッジは優秀な教授陣で知られている。その中にあの有名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズもいた。恵まれた環境の中で、さまざまな知識を貪欲に吸収していった。―

1923-1926の間ケインズはジャーナリストとして忙しかったし、1925年にはロシアのバレリーナ・リデアと新婚あつあつだったので、次郎が授業をうけたとは思えない、ましてや「経済学部」。

―このころ、目の覚めるような経験をしている。J. J. トムソンという優れた物理学者(電子の発明で有名)のクラスで試験を受けた際のこと。授業で教わってきたことを徹底的に復習してきた彼はテストの結果に自信をもっていた。ところが返ってきた点数をみてがっかりした。案に相違して低かったのだ。不満げな顔のままに答案を仔細にながめてはっとした。そこには、<君の答案には、君自身の考えが一つもない>と書かれていたのだ。頭のてっぺんから足先までビリビリットと電流が流れるような気がした。(これこそオレが中学生時代疑問に思っていたことじゃないか!>痛快な喜びがこみ上げてきた。テストの結果が悪かったことなどどこへやら、誰彼かまわず握手して回りたい気持ちだった。<よし、やってやろうじゃないかっ!>

(訂正)
「試験」―>「トライポス(Tripos)」1年の最後のEster Termでの試験
「点数?」―> トライポスの後「First, Second 1, Second 2, Third 等等」と張り出されるだけ。

J.J. トムソンJ.J Thomsonはケンブリッジではとても偉い人だ。1856年生まれ、1906年ノーベル物理学賞、1908年Sirの称号、1918年から亡くなる1940年までトリニティ・カレッジTrinity Collegeのマスター。息子のSir Gorge Paget Thomsonも1922年アバーディーン大学に移ってからの電子の波動性の研究でノーベル物理学賞を受賞している。1923年67歳トリニティのマスター(トリニティのマスターってノーベル賞受賞者かそれ以上の人物ばかり)が、白洲次郎ごときに授業をし点数の採点をするわけないだろう。

それに「次郎は西洋中世史・人類学(これでもおかしいのだけど)」を専攻にしていたはず。物理のクラスがとれるはずがない。ましてやケンブリッジは、「科学技術系の頭のいい人たちとその他の人たち」を言われるほど「科学技術上位」だし、その科学技術系は「おれこそ世界最高の頭脳をもっている、世界を変えてやるんだ!」という野蛮な連中の激しい競争の世界。いくら白洲次郎が語学の天才であっても車の修理ができるぐらいで、ついていくことなど到底無理。

ここはもう最悪!!いくら次郎のブラックジョークといっても度がひどすぎる。

「君の<答案>―><エッセイ>には君自身の考えが一つもない」とは、スーパーバイザーからいつも厳しくいわれることで、日常茶飯事。

―当時のケンブリッジでは試験の得点だけでなく、何回食堂でチューター(指導担任)と夕食をともにしたのかも卒業の条件となっていた。食事の時間を通じてマナーを身につけさせるのだ。

(訂正)夕食―>supper or dinner: supperはformalでなくdinnerはガウンを着て正式にとるまあ「夕食会」。Formal dinnerは、単なるマナーでなく「幅広い知識と教養と議論の訓練の場」。政治経済科学技術文化哲学宗教金儲けセックスもう膨大な話題をやるまくる場。次郎の唯一の著書といわれる「プリンシプルのない日本」はこのformal dinnerで鍛えた雰囲気が良く出ている。ただこれは瞬間勝負で、専攻のスーパービジョンではもっと体系的にあげていくことが求められる。学部専攻の指導者をスーパーバイザーsupervisorといい、カレッジでのいわば人生指導者をチューターTutorという。Tutorは専攻はまったく違う場合が多い。私の場合は、TutorはDr John Cathie, (大英帝国植民地政策の名残の)Land Economy学部のレクチャラーで「EUの食糧政策」なんかの著書がある、もちろんその話題も話した。

―また教授たちは、講義を始める前に、必ず学生に向かって‘gentelmen’と呼びかけたという。次郎はその言葉を聞くたびに、自分たちは自由であると同時に紳士として規律をもとめられているのだというのを噛み締めた。

(訂正)Girton,1869, Newnham 1872が創設され、白洲次郎の時代にはもう女子学生が結構な数授業に出席していたって!! また日本のバブル教授と違ってケンブリッジの教授職は「学部長なみ」ですごく少ない、最近世界の他の大学と比較してそれでは困るというのでProfessorの数増やしているが、それでも日本よりずーとすくない。三井の大番頭の池田成涁の息子でケンブリッジのリーズ校に学んだ池田潔「自由と規律」にしめされているように、「自由と規律」はパブリッック・スクールレベルでとっくに訓練され済んでいる。白洲次郎も、ケンブリッジに入る前にどこかのパブリックスクールに入っていたはずだ、さもないとケンブリッジを受験する「推薦」を受けられないし、でもラッセルみたいに家庭教師教育の場合もあるが、チャーチルがオックスブリッジに入れなかったのは、カレッジのインタビューをパスしないからだ。いまでもイギリス大学入学はインタービューでオファーをもらわないとどうにもならない、18歳人口は日本より多くなってしまっても大学の数は100ちょっとで、インタービューも受けられないという問題も発生している、だから日本より早熟な子が優先され、女子が優位にたっている(ケンブリッジ法学部の女子比率は50%をこえているんじゃないかな?)。

―次郎は生涯を通じて、「プリンスパル(原則)が大事だ」ということをことあるごとに口にしたが、それはおそらくケンブリッジでの‘Be gentlemman’(紳士たれ)と同義だったのであるまいか。イギリス紳士の精神的バックボーンは騎士道である。武士道と騎士道は、洋の東西と地理的こそ離れているが相容れないものではない。それらは次郎の中で玄妙に混じり合い血肉の一部となった。

(訂正)アダム・スミスをまったく読んでいないんだな。「騎士道」なぞ野蛮で獰猛な精神として(すくなくともケンブリッジでは)最も軽蔑されていることまったく知らないんだし、新渡戸稲造の「基督教テロリズムの武士道」なんか気違い沙汰だということ、「国際的に通用しない」ということをまったく理解していない。ケンブリッジでは、キリスト教は科学的学問的対象としては徹底的に軽蔑の対象である、しかし「歴史的文化遺産マスタベーション装置」としては皆心から尊重している、こういったみえないバランスが深くケンブリッジに埋め込まれている。


以上訂正すべきことを羅列した。こんなひどい記述じゃ、白洲次郎があまりに可哀想だ。「罵倒批判」の対象となる根拠をあたえていることになるだろう。こんな歪めきった記述までして「崇拝賛美」の対象となることを白洲次郎は決して求めないであろう。ましてや「崇拝賛美の対象」となることこそ「真のジェントルマンが最も嫌うことである。」
ケンブリッジには日本のヤクザ組織以上の膨大な掟が存在する、それは当たり前だ何百年も「キリスト教の坊主の養成機関」だったのだから日本のヤクザより焼きが入っている、だがその膨大な掟を改良し現代に適合しかつ遺産も相続していく工夫を良く凝らしているのも事実である。

クレア・カレッジでは、 「白洲次郎のカレッジ」ということで ロケ地にもなり、最近多くの日本人が訪問するので、なんとか白洲次郎の資料を集めようとしているようだ。「ウオーバーグ」の寄附で以下の記念文庫があるそうだ。
The Forbes-Mellon Library has an impressive collection of Japanese literature in English, and books on Japanese history, given by the SG Warburg Group in memory of Jiro Shirasu.

白洲次郎がクレア・カレッジに入った1923年から卒業した1926年の間は、第一次世界大戦が終了した後で、1929年のアメリカ・ウォール街から始まる大恐慌、ナチの台頭と第2次世界大戦にいたるまでの、「世界大戦間のつかのまの平和のひととき」であったであろう。以下のリストは、1923年白洲次郎と共にクレア・カレッジに入学し鬼籍に入った人々のリストである。大恐慌、第2次世界大戦のなかをこの人々は生きていった。(戦死した人はあんまりいないようだ)

APPLEYARD, W 1923 d. 1929
1930 (no. 24.1), p. 18 Ongoing illness during short life
BAILEY, G. N. 1923 1998-99, p.78
BALFOUR, F. K. 1923 1980-81, p.72
BANHAM, Andrew Roy 1923 d. 1985 (80) 1984-85, p.71 son at Clare (J. 1959)
BATTEN, L.J. 1923 d. 1973 ? 1995-96, p.51
BAWTREE, David William 1923 d. 5.2.2002
2001-02, pp.
88-89
BENNETT, Denis Pengelly 1923 1904-1969 1969, p.57
BEST, H. G. 1923 1976-77, p.62
BLAIR, John 1923 1904-1989 1988-89, p.51
BOND, William Ronald Somerville 1923 1905-2002 2003-04, p. 104
BULLIVANT, Otho Munton 1923 d. 1983 (78) 1983-84, p.43
BURTON, Grenville Murray 1923 d. 1989 (84) 1989-90, p.64
BURTON, James J. 1924 1953, p. 60 Porter
BYNG, R. C. (Earl of Stratford) 1923 d. 1984 1983-84, p.30
CHAPMAN, H. A. 1923 d. 1987 1989-90, p.39
DALTRY, Thomas Bertram 1923 d. 1974 1974-75, p.75 College hockey
DIVINE, D. 1923 d. 1973 1989-90, p.39
DUPONT, Clifford Walter 1923 d. 1978 (72) 1977-78, p.49
first President of independent Rhodesia
DYSON, G. W. 1923 d. 1976 1989-90, p.39
ECKFORD, A., M.D. 1923 1961, p.95
EVANS, R. M. L. 1923 d. 1986 1990-91, p.49
FINDLAY, W. K. 1923 1998-99, p.78
FRANKLIN, Alfred White 1923 d. 1984 (79) 1983-84, p.45
President of British Paediatric Association
GAITSKELL, Dr Herbert Ashley 1891? d. 1922 1923 L, p.40
GERVIS, W. H. 1923 d. 1994 1993-94, p.47
HAWKES, F. C. 1923 1974-75, p.83
HOLROYD, K. de C. 1923 1970, p.86
JONES, I. E. 1923 1952, p. 67
LE FLEMING, Hugh d. 1962 (59) 1963, p.93
British Medical Association,steam locomotives, father and son at Clare
LEISTIKOW, F. W. R. 1923 d. 1993 1992-93, p.49
MANDER, H. T. 1923 1976-77, p.62
MILLINGTON, Father Charles, C.R. 1923 d. 1962 1963, p.95
M.A. on the boards of the
College, four year Missionership
of the College Mission in Rotherhithe
MILLINGTON, George 1923 d. 1984 (79) 1983-84, p.47
research in radio propagation.
Founder Fellow
MILWARD, Sir Anthony Horace 1923 d. 1981 (76) 1980-81, p.63 2 brothers at Clare
MONCRIEFF, Gordon Murray 1923 d. 1973 (68) 1973-74, p.70 cross-country, College hockey
MORISON, J. D. 1923 d. 1999 1998-99, p.78
NELSON, John Pemberton, J. P. 1923 d. 1977 1977-78, p.55
PARSONS, Hugh Wayman
1923
(grad.?) d. 1970 (67) 1970, p.78
PASCALL, K. 1923 d. 1985 1984-85, p.49
PENSOTTI, C. J. P. 1923 1975-76, p.76
PHILLIPS, Rev. Charles Hayward 1888 d. 1923 (56) 1924 L, p.41
PIRIE, David Howard 1923 d. 1925 1926 M, p.3
PORTER, M. A. 1923 d. 1982 1982-83, p.28
PRIESTLEY, Sir Raymond, MC 1923 d. 1974 (87) 1973-74, p.58
Fellow 1923-34. Honorary
Fellow 1956-74. Antarctic
explorer (with Shackleton and Scott). First Secretary General
of the Faculties REYNOLDS, Reuben 1923 d. 1993 (88) 1992-93, p.75
ROGERS, Hugh Charles Innes 1923 d. 1991 (87) 1990-91, p.75
ROTH, Professor Leonard 1923 d. 1968 1969, p.71
ROUBICZEK, Paul Anton 1956 1898-1972 1972, p.57
Fellow 1961-72. Very popular lectures on science, philosophy
ROWE, Lewis Cathcart ("Sandy") 1923 d. 1963 (62) 1963, p.97 Footlights
SCHOFIELD, George Thomas 1923 d. 1980 1980-81, p.66 music
SERVICE, A. H. 1923 d. 1994 1994-95, p.53
SHIRASU, Jiro 1923 d. 1985 (83) 1985-86, p.70 adviser to Japanese Government
SPONG, D. W. 1923 d. 1983 1982-83, p.28
THOMPSON, John Stevenson 1923 d. 1991 (86) 1991-92, p.77
VANDER WILLIGEN, T. A. 1923 d. 1993 1992-93, p.49
VANE, Geoffrey Victor 1923 d. 1967 (62) 1968, p.76 college athletics and tennis
WHITFIELD, G. L. 1923 d. 1997 1996-97, p.55
WYNNE DAVIES, Geoffrey, O.B.E. 1923 d. 1959 1959, p.76

蟹工船とロマンポルノの巨匠神代辰巳 しんゆり映画祭

2009年09月03日 | 日本東アジア
こんなタイトルだと石頭の共産党の連中に殴り込まれそうだが、これは 第15回しんゆり映画祭 の(隠れた)タイトルだ。昨年はこの映画祭のオープニングで96歳になる新藤兼人監督が「石内尋常高等小学校 花は散れども」の講演を行った。ちょっと前まで駅超近なのにタヌキたちが好き勝手に暮らしていた新百合の北口が大開発され、タヌキが棲んでいて「万福寺」なんだから、そのまま使えばいいものをなぜか「山の手」(むしろすり鉢だよ)と命名され、その入り口に映画劇場と演劇劇場をもった川崎市アートセンターが建設されてそこが映画祭の中心となった。東芝と富士通の本社が東京に逃げ税収がどーんと減った政令指令都市(国立大学がひとつもない)川崎市が、なにを血迷ってか「芸術のまちー川崎」のスローガンを掲げて、南口に「昭和音楽大学」を「駅から歩いて3分+公園つき」の至れり尽くせりで「来ていただいて」、それに「アートセンター」を造った。子どもの数の大減少で統合された小中学校(独立を維持したところが一学年20名まるで「黒川村分校」の復活だ)の跡地の民活で「映画大学」構想なるものも噂されている。でも所詮「うつわもの」ばかり増えているのにすぎず、内容がまったく伴わない。駅前では、ストリートミュージシャン・アーティストを気取った連中が演奏したり大道芸が繰り広げてそれなり頑張っているけど、ロンドンなどではクラシックの連中も地下鉄の通路でよく演奏しているが、「昭和音大の根性のない連中」はまったくその大道芸に「積極的に」参加していないし、オペラが上演できるご立派な劇場も年に数回ぐらいしか公演に使われていない。ともかく見せてものになるかならないかの世界なのにまったく怠慢この上ない。コベントガーデンなんか日曜は一切の公演がなくたって何らかの催しがあり、いつでもなんかやってフルに使われている。

ノーマ・フィールド「小林多喜二」岩波新書は、帯タイトル「蟹工船の作者の等身大の姿とは? 絵画も音楽も映画も愛し、ひたむきな恋に生き。。」そのとおりに今まで知られていなかった多喜二の生の姿が描かれている。特に驚いたのは、多喜二が拓銀の初任給で弟の三吾さんにバイオリンを買って練習をさせ、 三吾は戦後東京交響楽団の団員となったこと(47ページ)、そして地下活動に入った後、特高警察に拷問により虐殺される半年前に、バイオリストのヨゼフ・シゲティの来日コンサートで 三吾と最後の出会いをし「シゲティの演奏ぶりに涙し生きる喜びを感じたといった」(224ページ)というくだりである。そこまで多喜二が音楽を愛していたとは。

「中国語で聴く阿Q正伝」のCDを初めて聴いた時、思いもしなかった激しいリズムの連続で驚いてしまった。それまでは当然日本語訳でしか読んだことがないが、魯迅の意図するところをじっくり読み解こうといったストーリを追っていく、それでも十分すぎるほど恐ろしいなとおもうが、中国語の朗読では狂乱するリズムのなかで、その渦に巻き込まれてストーリを追っていくなどの余裕すらない。多喜二の「蟹工船」でも重苦しいなかに地の底から這い上がってくる激しいリズムを感じる、良く似ているのではないのか。多喜二が志賀直哉を尊敬したのは、おそらく、あの「暗夜行路」にあるゆっくりと静かだがとどまることのないいつまでも続きそうなリズムに憧れたのではないかと思う。最近プロムスでは、ラベルのピアノ協奏曲をよく演奏する、今年はアルゲビッチとシャルル・デトアのコンビだった、あの第2楽章のような感じだろうか。

醍醐聰著「会計学講義第3版」を読んだ時、さまざまな会計学理論・概念がドイツ会計学のそれからてんこ盛りに導入されて説明されているのに、これは腰を抜かしてしまった。後で本屋で立ち読みした「会計学講義第4版」では、ドイツ会計学理論の色彩は随分と薄くなっているような気がするが(だから第3版が良かったか)、会計学=Accounting=英米会計学と思い込んでいたので、どうしてなのか聞いてみると、「帝大系はドイツ会計学、高商系は英米会計学だよ。」と指摘され、あーあなるほどと思った。

戦前の共産党の指導者の多くが東大新人会や河上肇などにみられるよう帝大系でありマルクス主義の原典はドイツ語なのであり「ドイツ語的翻訳」である。それに対して小樽「高商」卒で後にD.H.ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で刑法175条猥褻物頒布罪にとわれた伊藤整が後輩として多喜二の文学におけるライバルであったことを思うと、「シカゴ大学教授」ノーマ・フィールドがまったく疑問に思わないように、多喜二は英米系である。戦前の共産党指導部の<「帝大」「独系」>と<「高商」「英米系」>と超図式化すると小林多喜二は右側の随分と変わった位置にいる。ロンドンのマルクスはどんな英語を話したのだろうか?大英図書館の近くのバブに良く行っていたという。そういえばTrade Unionの本部もある。休みの日にはマルクスは、娘たちを連れて歩いてすぐ行けるハムステッド・ヒースで野外ランチや散歩を楽しんだであろう。ウォールストリートジャーナルに、「狩りを楽しむ将軍」エンゲルスが皮肉っぽく紹介されたというが、「英米系」そのものなんだからいいじゃん。「等身大」の小林多喜二、さらにマルクス(あの「風の男」白州次郎も20歳代にはマルクスを耽読したといっている)をもう描く時代ではないのか。

小樽商科大学出身の元日本オラクル会長の佐野力氏の支援のもと白樺文学館そして多喜二ライブラリが開設されていたが、白樺文学館は志賀直哉が住んだ我孫子市 の管理になり多喜二ライブラリは有限会社ゆとりというところが管理しているとのこと。2008年オックスフォード小林多喜二記念シンポジウムがキーブルカレッジKeble Collegeで開催されたとのことである。多喜二がロンドンにいることができたならば、「PROMS season ticket」を購入して毎日コンサート通いをしたであろう。

イギリスの防衛戦 チューリングとウィルックス 第2次世界大戦開始70周年

2009年09月02日 | ケンブリッジ Cambridge
昨日9月1日は、ナチがポーランド侵攻して第2次大戦が始まった70周年目であった。BBC Poland remembers World War start. ジョージ・オーエルの日記http://orwelldiaries.wordpress.com/2009/09/01/1939/

クルーグマンのブログに、LSEのRobbins Lecture 「Dismal Science」のためロンドンを訪問中に、ブレッチリー・パークBletchley Parkを訪れたことが書かれていた。さすがクルーグマン、ブレッチリー・パークを知っているとは、であのクロッサスColossusは?と、それはなくエニグマEnigmaの写真がのっていただけである。クルーグマン、だめじゃん、なんでクロッサスみなかったの?戦争と技術の洞察がない経済学者は単なる経済学オタクにすぎないし、「なぜこれほどまでの技術革新がありながら、我々の生活が生命の根底まで否定されるほどひどくなってしまっているのか?」について何も答えを見つけられないだろう。

あるセキュリティの会議で、ある人が会議に参加しているかなりの年配の方を見やって、「あの人はとてもすごい人なんだ。進駐軍がきたときブタ箱に放り込まれたが、米軍将校が解読してみろと試しに出した暗号文をスラスラ解読して、驚いた米軍側、ブタ箱から一挙に米飯つきの最優遇にしたんだ。」このように日本にも暗号の天才がいたし、今でも確実にいるし、それだから「北朝鮮の暗号」はきっと解読していると期待している。国家の安全に暗号の天才は絶対必要だ。RossのSerpentはRijndaelに負けてNISTのAESに採用されなかったが、でもそれらの功績でFRSに選出されている。

イギリスの第2次世界大戦でのもっとも輝かしい「戦闘」は、
(1)ドイツ軍の暗号エニグマの解読と、
(2)最新鋭レーダー網による防空システムの建設
という「防衛戦」にあったであろう。「マレーシアの大佐」が、「我々マレーシア軍は純粋専守防衛である。日本軍はちょっと違うみたいだが。」と語り、「中国人民解放軍の空軍参謀総長がいい論文を英語で書いて話題になっている、読んでみろよ。」といわれインターネットで読んだが内容は完全にわすれている。日本語すらあぶなっかしい田母神君、無理だよ頭脳でかなわないよ。エニグマ解読にはアラン・チューリングAlan Turing,レーダ網建設にはモーリス・ウィルックスMaurice Wilkes、我々の偉大な先輩が重要な役割を果たしている。


ドイツ軍暗号エニグマの解読は、ロンドン郊外の現在の人工都市ミルトン・キーンズ(Milton Keynes-Open University(日本の放送大学のモデルになったもの)などがある)の横にチョッコとあるブレッチリー・パークBletchley parkでアラン・チューリングの指導のもとケンブリッジ・オックスフォードなどの数学科の卒業生をかき集めておこなわれた。訪れた時は、GCHQの手を離れて、月に数回の一般公開が始まったばかりのころで、庭にはコンクリートの防空壕が吹きさらしにあるような状態であり上記のクロッサスも残った設計図を広げて複製をつくれるかどうか検討しているような段階であった。

セント・ジョーンズ・カレッジSt John’s CollegeのワーズワースWilliam Wordworth(湖水地方ウィンドミアの桂冠詩人はセント・ジョーンズの出身)の間で行われた、Sir Harry Hinsley教授の講演には驚いてしまった。セント・ジョーンズ・カレッジの元マスターで、ブレッチリー・パークでチューリングの元で働き、「Codebreakers: The Inside Story of Bletchley Park」の編著者であるヒンスレー教授は、「ドイツ軍のエニグマ暗号解読がブレッチリーパークで成功して、ドイツ軍の防衛状況が手に取るように分かってきた、そしてノルマンディーに上陸可能であることが完全に判明しD-Dayを決行することが出来た。1944年の春の時点で連合国側は枢軸国側のどの地点からも上陸作戦を行う可能性があった。だがV2ロケットの破壊力はすごく、ノルマンディーに上陸することが最善であった。遅れていたならば、イギリスの各都市はもっとひどい打撃を被って、戦争が長引いていたかもしれない。」

Sir Mauriceの「モーリス・ウィルックス自伝」Memoirs of A Computer Pioneerには、バーミング大学で発明されたレーダー技術をPhD学生として研究していたSir Mauriceが、ケンブリッジ大学それ自身が戦争体制下(総司令官はコックロフトCockroftのちのノーベル物理学賞受賞者)にはいり、次から次へと技術改良を続けたレーダー装置をイギリス各地に建設していったことが記述されている。今では少し見直しがあるようだ。だが、「あんなもん、当たらない」とは違って、レーダー技術そのものは、基本的な情報技術である。

法を学ぶ(2) 日本の学者は「単なる生活者」なの?

2009年09月01日 | 英法と日本民法
伊藤眞の「法律学への誘い」は、以下の14テーマからなる331ページの本で、一方「WHAT ABOUT LAW」は、206ページのB5サイズの小さな本である。

1法とは何か
2法の規律対象とその限界
3法の実現
4法と宗教
5法と団体の自律
6財産権の内容と限界
7司法上の規律と効力
8不法行為に対する救済
9婚姻関係と法
10相続制度の存在意義
11会社経営と法
12生命と法
13知的財産と財産権
14納税負担と受益

以下に気がついたことを列挙してみよう。

まず最大の特長は、最高裁裁判官を中心とした判決文の引用がほとんどで、それに対して著者伊藤眞の「自らの法思想」による「建設的批判的コメント」がほとんどないことである。著者が全人生を通して築き上げた「法思想」に基づく「建設的批判」がない「法律書」とは、「中立を装った偏向文書」あるいは、「司法試験受験マニアル」程度のものと言わざるをえない。「What About Law」の執筆者の一人のKevin GrayとそのパートナーのSusan Grayによる「Elements of Land Law」Oxfordは、land Lawを環境法人権法などの浸透でpublic lawに属するとの立場で書かれた非常にcontroversialな著作として知られる。発表当時controversialとされた著作こそ「権威」を獲得していくのだろう、判事たちはその判決のスピーチにそのような著作をよく引用する。(ちなみに、上記「Elements of Law」は、1,700ページを超える大著なので(でも30ポンドぐらい、Heffersにこの本が山積みされているのは圧巻である)、同じGray夫妻の超縮小版「Land Law」LexisNexis600ページで誤摩化してしまう)

伊藤眞の法に対する思想が、「選択したテーマ」の中にあるとしたとしよう。それなば、極右たちが激しく行動を起こし東アジアの安全保障に重大な脅威を引き起こしている「憲法第9条」に関するテーマは葬り去れていることに、その思想があると見なしてかまわないであろう。「憲法9条」関して最近大きく話題になったのは、ダグラス・マッカーサーの甥ダグラス・マッカーサー2世駐日大使が「米軍駐留」憲法違反とした「伊達判決」に仰天し「無教会派ながれのカトリック教徒」田中耕太郎最高裁長官に「跳躍上告」でひっくり返すように「指示」する密談をもつなど生々しい外交文書が発見されたことだ。表向きの流れは(ウキ)
東京地方裁判所(裁判長判事・伊達秋雄)は、1959年(昭和34年)3月30日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下した(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集)伊達判決)。
それに対し、「マッカーサーの番犬」である田中耕太郎最高裁長官たち15名の最高裁裁判官が出した判決:
「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し原審に差し戻した(最大判昭和34.12.16 最高裁判所刑事判例集13・13・3225)。
「無教会派ながれのカトリック教徒」田中耕太郎はトマス・アクィナスの トミズムThomimstic Philosphyに基づいた「世界法の理論」なる著作があり、また商法の専門家であるという。「ソロヴィヨフの法哲学-自然法と実定法の関係について」なるものがウェブで転がっていたが、カルト色満載の文章である。私の一番好きな分野がCommercial Law(Roy Goode 「Commercial Law」に恋してしまった)なので、「田中耕太郎著作集」を目にすることがあったらちらっと見ておこう、でも法学で一番勉強が大変なのは勿論Consitituionだが、Library of Constitution Classicsのリストをみただけで、気がめいってくる。田中耕太郎の実弟は極右言動で有名であった飯守重任とのこと。「最高裁調査官」ですら恥ずかしくてこんな判決文書けないよね、「基督教カルト」の田中耕太郎だからこそ「激しさ絶頂」で書けたのであろう。

4法と宗教+5法と団体の自律(3分の2)を合わせると50ページにのぼり全体331ページの6分の一となる。この「法律学の誘い」では一番ボリュームも多く議論も冴えている。政教分離・信教の自由をめぐる国・自治体への訴訟では、基督教団体がその中心となっていることが多い。不思議なのは、伊藤眞は最後でアメリカ連邦最高裁判所のLemon v. Kurtzmanを引用しながらも、日本で異様に多い宗教学校、とりわけその人口比1-2%の信徒数にくらべて異様に多い「一段上の西欧書物の宗教」基督教系大学に対する補助金に対して問題にしていない。なんせプロテスタント系大学だけで50は優に超える。国際基督教大学には年間7億円以上の経常経費助成金が国庫より渡され、学長2千万円以上、教授1千5百万円以上の給与の大きな原資となっている。

イギリス法では、民法の親族法に対応する分野はFamily Lawとして基本コースから外される。Family Lawの分野は社会の基本単位である家族に関してとても複雑で人間性の深い洞察をもった厳しい専門性が要請される。 法学部出身者ではなく社会福祉分野、児童心理学などの心理学分野などをまず専攻した学生がロー・スクールに入って Family Lawを専門とする場合が多いようだ。
「What About Law」でも、Land Lawの章で、「旦那が家を抵当に入れ借金して返せず逃げた後の家族は、当然奥さんはEquityから半分の権利があり、‘さらに’債権者側は抵当の家を売って売値の半分を返却することは許されずそのまま使用可能である。」とまた人生の複雑な気脈の中「スッカラカンになった旦那さんが奥さんの家に転げ込んできて、奥さんもそれを受け入れたーさあどうなる?」、ケースが非常に似ている「法律学への誘いー6財産権の内容と限界」と比較するといいだろう。しかし、こんな「単純」なケースならまだよく、「Civil Partnership ACT 2004」の実効の後、エルトン・ジョンなどが結婚式をあげたように同性愛者の婚姻が認められ、ますます複雑になってきており基本コースからは完全に外されるのは当然であろう。


本当に、この内容の「法律学への誘い」でいいのだろうか?
「まだまだ怪しげといわれる日本のFXの外為どっとコム総研の首席研究理事」や「派遣労働者の血を吸って巨大企業の勝ち組となったパソナの会長」に就任した竹中平蔵のような「カルト経済評論家」を「学者」として扱うのは論外としても(でもお前さんの「民主党の子ども手当」批判には賛成するし「民主党ポピュリスト型政策」批判も賛成するが、お前さんの「ポピュリスト政治」は許せないね)、みずから(全人生かけて築き上げた哲学をもってー田中耕太郎は基督教カルトに基づいてやったけど)建設的批判的構築をすることなぞしない日本の学者たちとは、いったいなんなのだろう。知的所有権Intellectual Propertyの若きホープであるライオネル・ベントレリLionel Bently(ケンブリッジの「知的所有権」教員の5名のうち4名は女性教員でたった一人の男性教員)は、「最上位に判事、それから(バリスタBarrister、ソリスタSolicitor、検事Prosecutor)実務家、そして最下層に法学者と、法律家の階層性はカーストのように厳しくあるが、でもある時その順序が逆転することがある、これが醍醐味だ。」と語ったことがあるが、その醍醐味が味わうことができるのは、「 全人生かけて築き上げた哲学をもって建設的批判的構築」する以外ないはずだ。それをしない、日本の学者とは、我が北園の後輩の斉藤貴男が厳しく指摘する「生活保守主義者」であり、「たんなる生活者」にすぎないのであろう。「学者がたんなる生活者となった」社会はもう終わりだ、そして「学者が芸能人となった」り「基督教カルト学者が闊歩する」社会はもうこれはファシズム社会だ。

法を学ぶ(1) 日本の司法官僚

2009年08月30日 | 英法と日本民法
法学部に入学したての新入生がいったいどんな「法律学オリエンテーション」を受けるのか、また入門概説書には、どのような特長があるのか次の2つの本で調べてみた。

ケンブリッジ大学法学部入学者を対象として「我々すべての生活を支配している法の意味と内容を明確に思考する必要とされる法律家」の為の:
「WHAT ABOUT LAW? STUDING LAW AT UNIVERSITY」
Ed. C. Barnard, J. O’Sullivan, G. Virgo
International Specialized Book Service 2007

「本格学習を始める前に法的な理解と思考に慣れる訓練をする為の材料の提供」
「法律学への誘い」(第2版)
伊藤眞 有斐閣2006

WHAT ABOUT LAWのほうは6人のケンブリッジ大学法学部教員でIntroduction、Criminal Law, Law of Contract, Trust, Land Law, Equity, Constitutional Law, EU Law, Conclusionと各分野焦点を絞って記述している。例えばCriminalでは、「合意」Consensusに焦点を絞り、サド・マゾ判決(身体を痛みつけて快楽を得るのは「公衆衛生」上、駄目)、「性器に互いのイニシャルの入れ墨を彫る」のは「快楽を追求するのでないから、いい」といった感じで合意に関しての法理論の展開が展開される。

一方「法律学への誘い」の 伊藤眞は、破産法(イギリス法では、Insolvency law、そのうち再生はBankruptcy,清算はLiquidation-勿論trustを作るのでEquityの分野)、民事訴訟法(「イルカのピーナツでオナニーした女性を動物愛護団体が訴える」は刑事訴訟?民事訴訟? 「R(イルカちゃん)vs オナニーちゃん」か「イルカちゃん」vs 「オナニーちゃん」、Rは、Rex)を専門とするとのことで、14のテーマに関して、主に最高裁判決文を大量に引用する構成である、case bookの概要版と言った感じである。

イギリス法を勉強するときは、テキストとCase Bookを並べながら勉強するのだが、この場合Case Bookは単なる判例集(判例そのものはWest Lawなどのデータベースで簡単にアクセスできる)では決してなく、著者独特の思想から構成されその見解が盛り込まれており、勿論新たな判例がドンドン出てくるのでドンドン変化するのに決まっているが(法学ってコンピュータ分野とまったく同じで3年で古くなってしまってまともにやると本代が大変、とうてい無理)、それだけで単独で権威ある法学書となっているものも多い。What About Lawの執筆者の一人Tony WeiserのTortのCase Bookはその権威あるものの一つだそうだ。Textとcase bookがどちらがより優れた法律書か競いあっている観もある。

法とは、もちろん「道具」では決してなく、我々の日々の生活の土台でありその国の文化であり精神である。EUの日本支部が「日本の死刑制度廃止」を訴え、隣国韓国が死刑制度を廃止したのに比べ、「裁判員制度」になりやはり危惧されたように厳罰化が定着しだしたことは、法というものを真剣にとらえる努力をしてこなかった、日本人の文化度レベルの低さ野蛮性を克服してこなかったことによる。NHK戦争証言特集で、今になってやっと戦争の現場で各個人が行った戦争犯罪が「告白」される程度の段階なのだ。でも今の若い人たちの感覚は優れている、「強制された戦争犯罪」に対する深い同情をしっかりもっている。

法とはその国の文化と精神としてみた場合、イギリスのlaw report, 法律書の文章そのもののレベルの高さに感心せざるを得ない。もちろん衒学的な内容のない悪文という批判も当てはまる場合があるが、「へーえ、こんな構文で表現していいんだ。」と英語の勉強になることが非常に多い。「事件のあらすじ」の描きかたは、まるでディケンズDickensの小説を読んでいるようなことが多い。いや、ディケンズの方こそ、当時のlaw reportに目を通していたのではないか、ディケンズはStrandのRoyal Court of Justiceに周辺に転々と住んでいたはずだから。

日本語を少しでもまともに書こうとおもったら、夏目漱石が「漢詩」を作って「日本語力」を鍛えたように、「漢文」を少しでも勉強していないと無理であろう。英語でも同じで、(フランス語は当然としてーアメリカと違ってイギリスではフランス語はまともな大学に入るためには必須科目だ!!)少しでも「ラテン語」を勉強していなと良い文を書いていくのは難しいだろう。ロジャーなんかラテン語はお手の物だった。
この点、六法全書を耽読して自らの「日本語力」を鍛えた三島由起夫の日本語はそれ自身倒錯したものなのだろう。試験会場が分厚い機動隊の防御に置かれた国立大学入試試験の中日とんでもない大雪で交通が大混乱し運良く早く着いて試験が始まるまで急場の試験会場で暖房も入らず4時間近く遅れて開始されるもう緊張継続なぞズタズタだ、そんななか三島由起夫の単行本出版された「春の雪」を暇つぶしに読んでいたが、「それでなに?」とイライラがつのってしまい、ようやく始まった「物理化学」試験の亀の甲問題で失敗してしまった。

「法律学への誘い」に引用される 最高裁判決文の数々は「悪文の見本市」であり「日本文化退廃の象徴」であることは確かである。いったいどうなってるんだこれはと思わざるをえない。面白いのは、主文があり、それに各々の最高裁裁判官の「補足意見」が載っており、「主文」と「補足意見」の悪文度がそれぞれ違うのが目につくことだ。ふと誰が「主文」を書いているのだろう?と疑問に思った。英米の「現職」最高裁判事たちはよく講演を行う。 Sir David Williams RULE OF LAWでも書いたようにSir David Williams Lecture Seriesでは、アメリカ最高裁長官・判事たちが講演を行っている。日本の「現職」最高裁裁判官は、どういったところでどんな講演を行っているのか?

最高裁裁判所への上告は、アメリカ連邦最高裁判事のアシスタントである ロー・クラークLaw Clerk制度を悪用した、最高裁判所調査官 によって、90%三行半判決として処理され、大法廷回付、小法廷評議にまわす場合は担当最高裁判事へのレクチャーなどをおこなっているとのことだ。 古川利明の同時代ウォッチングでは、その実態の一端が述べられているし、最近出版された、新藤宗幸「司法官僚―裁判所の権力者たち」岩波新書では、「最高裁調査官」の権力の大きさと「最高裁調査官経験の司法官僚型最高裁裁判官」について言及されている。

先の「主文」と「補足意見」について、あてはめてみると、まさかとは思うが主文は誰が書いているのだろうか、裁判長裁判官がワープロで書いているのだろうか?

だがこのシステムの構造を理解すると、年金問題の元凶といわれる元社会保険庁長官であり、「正論」で屋山太郎の「最高裁の判事としての資格を問う」の記事がでる直前に2年以上をのこして(退職金をガバともらってといわれているが)突如として辞任した横尾和子元最高裁裁判官について、「なぜ司法試験も合格していないのに判決文なぞ書けるのか?」という疑問の答えが見つかるような気がする。「最高裁調査官」たちが種々「洗濯」し選び出したものの一部の案件の「司法試験優等生の最高裁調査官」たちによるレクチャーを聞いて、「最新の法理論」「判例の歴史体系」等等を「耳学問」から、「最高裁調査官」の提供する「選択問題」として、「何番の答え」か推測して判断すればいい、これはもう「選択式問題公務員試験」で鍛えた「訓練された無能」の官僚の得意技だが、それでは、始まったばかりの「一般の裁判員制度の裁判員」レベルとどれほどちがうのか?