Akatsuki庵

後活(アトカツ)中!

さかい利晶の杜

2015年11月04日 05時12分52秒 | 美術館・博物館etc.
月代わっちゃって恐縮ですが

先月後半の関西行の際に堺市の「さかい利晶の杜」に行ってきた。サイト

諸事情で急に予定を変更しちゃったんだよね。

10月18日まで開催されていた企画展『まちを掘る 発掘40年と茶道具逸品の数々』も見たかったし。

事前にサイトをチェックして、料金などを確認。
「さかい待庵特別観覧セット」券(1,000円)を買うことにした。

場所を確認して、ちょいビックリ。

なんだ、4年前に訪れた利休屋敷跡の隣!→4年前のblog

うーん。隣に何があったか、覚えていない。
てか、堺市の中心なのに、なんで空き地が多いんだろう?と違和感があったような?

あの時は南海本線を利用して、堺駅から徒歩15分ばかり歩いた。

今回はとにかく近くまでJRを利用しようと阪和線の三国ヶ丘駅まで。

駅前からバスに乗った。(バスの本数が少ない上に、時刻通りに来なくてアセった)

堺は空襲の被害が大きかったと聞いているからね。

床の古地図が昔と今をつなぐアプローチのようでよかった。


先に呈茶をいただいていたら、ちょうど待庵の見学時間に。

↓壁などを傷つけないよう、法被を着て参加。(靴下も必須。私は既に履いていたけどね)


1時間に1回のツアーで各回10名まで。

ちょうど9名でよかった

茶室の入り口入ったところの壁。


当時の工法を再現しているそうで、藁も含んだ土壁。

さかい待庵内は撮影禁止。

事前にパネル写真を見て、「あっ

質問する前にガイドさんの解説があった。

床の間口幅は山崎の国宝待庵よりも長いヨ、と。

うんうん。これは大徳寺の瑞峯庵にある平成待庵を見学した時に聞いたこちら

茶室床の変遷も加味した詳しい説明だった。

あとね、平成待庵では気がつかなった炉の大きさについても。
(現在のものより小さかったのである)

ただ、実際に見学すると、平成待庵よりもさらに床の間幅が広いような気がして。

炉にかかりそうだだったから。
平成待庵は広かったけど、炉にはかかっていなかった。
そのことを質問すると、
「あちらもこちらも同じ先生の監修で、20年の間に判明した新たな研究成果をこちらに反映した結果」
とのこと。

躙り口の下の溝とか、躙り口の外の部分は平成待庵と同じ。

隣の庭に赤松が植わっているのは妙喜庵と同じ。

3つとも見学したことによって、より本来の山崎の城内にあった待庵のイメージをしっかり持つことができた。

こちらにはもう一つ無一庵という茶室もあって、こちらは撮影OK。

現存はしていないが、北野大茶会で利休が構えた茶室を寸法書を元に再現した四畳半の茶室。

躙り口


茶道口がユニーク。


あとね、楊枝柱になっていたし、天窓もあった。

天井もすごい綺麗だったなぁ。

見学時間は40分くらいだったかなぁ。
たっぷり堪能した。

その後は2階に上がって、企画展『まりを掘る 発掘40年と茶道具逸品の数々』。

堺の町から出土した茶道具については、思い出がある。

もう四半世紀経ってしまったけれど、茶道を習い始めた1989年の8月のある日、
(当時としては)珍しく開いた新聞で「あっ」と驚く記事を発見。

堺の環濠都市遺跡から1600年頃のものをみられる「茶道具蔵」と
ほとんど壊れていない約30点の茶道具が蔵ごとそっくり見つかった。


「元和の大火」で焼亡したものらしい。

いわゆる“堺炎上”といわれる大坂夏の陣の前に発生した大火。

城山三郎原作の『黄金の日々』のラストに出てくる。
大河ドラマはつまみ食い程度にしか見てないけど、最終回は見てハッキリ記憶にある。

「見たいっ!」と思った。

新聞によると、秋に堺市博物館で開かれる特別展『堺衆―茶の湯を創った人々』でも一部が展示される、とのこと。

見に行きましたねー。
神戸から堺まで、大阪湾をぐるっと回って。

ただね、やっぱり出土品だったから、やっぱり考古学の展示にしか見えなかったし、
窯元の知識もなかったし、まだ盆略点前から薄茶平点前に入るか入らないかの時期だったからね

肝心の茶道具の用途がまったく理解できず、せっかくの貴重なお道具を見ても「?」
よさがさっぱりわからなかったのでした。

今から思うと、ちょっとほろ苦い。(もったいなことしたなーとも思う)

そういうわけで、もともと訪れる予定はなかったけれど、
チラシを見た時に引っかかるものがあって、他のチラシと一緒に持ち歩いていた。

諸事情で旅程を変更せざるをえなくなった時、「じゃあ堺へ!」という気になったノダ。

さて、脇道にそれちゃったけど、展覧会。

あれから26年。
発掘は粛々と続いていたらしい。

本当に出土品か?って思うくらい、綺麗ないい状態のものも。

しかも、ちゃんとメンテナンスすれば現役バリバリに使えそうなものも結構あって驚いた。


瀬戸美濃の茶入や唐津の茶碗や向付。

まるで「ひろい子」のような立鼓花入があって、一瞬「参考展示か?」と思っちゃった。
(目録を見たら、出土地点の番号ふってあるから出土品)

備前水指に黒織部の茶碗。

三島茶碗(もちろん高麗からの渡りもの)など朝鮮半島産のもの多数。

中国からも天目茶碗や青磁の花入や茶碗。

ベトナム産の壺や建水もあったなぁ。

他には現役では無理だけど、黒くなってしまった茶杓とか、
朽ちてボロボロになった灰匙。
欠けてしまった土風炉もあった。

いずれも、形状は現代と全く同じ。

出土品とはいえ、はるか400年前に確実にこれらの道具を使って
茶の湯に親しんだ堺の商人が多数いたんだ、、、

ということが、まざまざと伝わってきて圧倒された。

四半世紀前には感じられなかったことが今は感じられる。
それだけの長い時間をかけて、歩いてきた茶の道だからこそ~

と、自分で勝手に感動に浸ってしまったワタシ。

いかん、いかん。長居をしてしまったと慌てて会場を後にする。

階段脇の窓から利休屋敷跡が見下ろせた。



前は金網に阻まれたけど、いまでは井戸まで行ける。



あと、三千家それぞれの茶室も外から見学。


で、すっかり満足してしまって、帰りの電車に乗った。

車内で気がついた。

「あ、千利休茶の湯館に入るのを忘れちゃった~」

しかたない。また再訪しよう。


再訪してもいい。

と思える要素がもう一つあるから。

それはまた明日ね。






【ご参考】
黄金の日日 (新潮文庫)
 城山三郎
 新潮社








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