行ってきました・・
ヒロシマ日帰り旅行
家族で行くはずが・・
やはり次男が昨夜・・大反乱を起しまして
どうしても行きたくないと泣くものですから・・
仕方なしに今日は私一人で行くことに・・
明日はたぶん・・兄貴が行くらしい(完全にバラバラじゃないっすか~~)
かくして広島一人旅・・
新幹線にて2時間強・・
乗り込む前に新大阪の書店にてちゃっかり「スクリーン・プラス」と「夕凪の街、桜の国」を購入・・
車中でしっかり楽しむ
広島駅南口より
路面電車で原爆ドーム前へ・・
広島の町並みは美しくて・・初めて来た街なのに・・なぜか懐かしい空気を感じた
降り立った途端に目の前に「原爆ドーム」(産業奨励館)
何度もテレビや写真で見てるはずなのに・・
実物を目にした途端・・涙がこぼれる・・
広島に着いてわずか30分でもはや涙でボロボロ・・
そのうちに抑えきれなくなって・・嗚咽までこぼれてしまう・・
ダメだ・・ここから立ち去ろう・・
ここにいたら・・
悲しくて動けなくなる・・
ホントにヤバイ状態になってた時・・
背後に人の影が・・
白人の男性が立っていた・・
これ・・本当に不思議なのですが
広島で白人を見ると怖いのですわ(どうしてだかわかりません)
怖くて・・その場を足早に立ち去った・・
外国人はあちこちにいる・・
でもアジアの人を見るとほっとする・・
インドの人を見てもほっとする(アジアですものね)
肌の白い人が怖い・・(ダメじゃん!平和の町でそんなこと・・でも本能的な恐怖を覚える・・大阪では何も感じないのに・・)
記念公園の中を散策・・
死没者慰霊碑に手を合わせ・・
原爆資料館へ・・
資料館で見た数々の展示・・
やはり涙が零れてしまう・・
どうしよう・・泣いてばかりじゃないか~~~
じっくりと時間をかけて見学し・・
その後外へ・・
どこへ行こうか?と地図を片手に大田川の平和大橋を渡る・・
空が・・どんよりと曇っている・・
ゴロゴロと鈍い雷鳴までが聞こえてきた・・
とりあえず・・広島駅方面に向かって歩こう・・
が・・ほどなくして・・
雨粒が体に当たりだし・・本格的な雷雨になる・・
たまたま飛び込んだ軒先・・
それが袋町小学校平和資料館だった
雨も止みそうにないので・・見学することにする
見学者はなんと私一人・・
ボランティアで案内係をされている男性が丁寧に資料の説明をしてくださった
この学校は爆心地から460mの場所にあり、当時、救護所になっていた・・
やけてすすけた壁に伝言が残っていた
(小学校で頂いたパンフより)
雨はどんどんひどくなる・・ボランティアの男性と二人・・
ベンチに座り・・もうなんだかデート状態だ・・
「被爆当時も広島に・・?」
思い切って・・個人的な事を聞いてみた・・
その方は被爆当時17歳で、爆心地からは離れたところにいたらしい
が・・翌日・・救援のために市内に入ったのだそうだ
死体を運んだり・・瓦礫を片付けたり・・されたそうな・・
17歳の少年が見た地獄絵は恐らくは今もはっきりと瞼に焼き付いているだろう・・
「学校の先生ですか?」
そう聞かれた・・
「いいえ・・ただの会社員です。大阪から来ました」
そう言うと少し驚かれていた。
「よかったら隣のビルで原爆写真展をやってるから見て行かれたらいい」
そう薦めてくれた
まだ雨は降っている・・
でも隣のビルまではほんの数十秒の距離・・
お勧めに応じて・・隣のビル(広島市まちづくり交流プラザ)へ走っていく
展示場は4F見学は無料だ
展示は今日7月31日~8月7日まで行われている・・
会場に入ると・・
これも見学者はまばらで・・ほんの数人ほど・・
展示されている写真は・・
原爆だけでなく太平洋戦争そのものの写真
東京大空襲の写真もあった・・真っ黒のかつて人間だった方たちの写真・・
正直言って・・ここの展示は原爆資料館のものよりも衝撃的なものだった・・
呆然と見ていると・・一人の老婦人が声をかけてくれた・・
「いかがですか?」
「いえ・・言葉になりません・・」
その方は地元の方で・・被爆者だった・・(胸に「被爆者」というネームプレートをされていた・・少し・・複雑な気持ちになった)
彼女は当時の事を語るためにここにいたのだ・・
明るく優しい婦人だった・・
当時は疎開して、おばあさまの家にいたのだとか・・小学生だったそうだ
原爆投下前日の8月5日・・
たまたま、担任の先生のお見舞いで市内のご実家に戻られていた
その夜・・帰りたくないとダダをこねるのをその方のお母様がしかりつけたのだとか・・
「おばあちゃんがご飯作ってまってる!帰らないけん!」
8月5日の夜に広島に空襲があるという噂が流れていたからかもしれない・・
嫌々ながらも自宅を後にする・・
戸口でお母様がいつまでも見送ってくださった
それが・・最後の姿だった・・
「今でも後悔する時があるのよ・・あの時・・残っていれば・・って」
彼女は涙など見せてはいないのに・・
こんな安っぽい涙・・なんにもならないのに・・
涙が止まらない・・
「お母様・・きっと、きっと喜んでおられますよ」
そう答えた・・
「そうね~・・今はこうやって、みんなに当時の事を伝えてあげられる・・広島にきたお子さんたちに何かを伝えてあげられる・・。きっと母も喜んでくれてる。
学校へ戻られたら・・お子さんにもぜひ・・伝えてあげてくださいね」
ここでも教師と間違えられた・・
「いえ・・教師じゃ、ないんですよ。大阪から来ました。恥ずかしながら・・初めて広島を訪れます。」
見学を終えた後・・展示されていた内容を資料としてまとめた冊子と
峠 三吉さんの詩集を購入した・・
会場を後にする時・・受付の男性に「いかがでしたか?」とまた尋ねられた
何も言えないって思ったのに・・
「大切にしなくちゃ・・」と口をついて出た言葉だった
「いろんなものを大切にしなくてはいけませんね・・命も・・物も・・平和も」
そして・・愛も・・夢も・・家族も・・友も・・その他の全て・・
「大切に」しなかったからこそが・・この悲劇なのだ・・
命はちっぽけですか?
何十万人くらい殺しても平気なくらい・・
帰りの車中・・
峠三吉さんの詩集を一気に読んだ・・
苦しかった・・
「ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんのにんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ」
ヒロシマ日帰り旅行
家族で行くはずが・・
やはり次男が昨夜・・大反乱を起しまして
どうしても行きたくないと泣くものですから・・
仕方なしに今日は私一人で行くことに・・
明日はたぶん・・兄貴が行くらしい(完全にバラバラじゃないっすか~~)
かくして広島一人旅・・
新幹線にて2時間強・・
乗り込む前に新大阪の書店にてちゃっかり「スクリーン・プラス」と「夕凪の街、桜の国」を購入・・
車中でしっかり楽しむ
広島駅南口より
路面電車で原爆ドーム前へ・・
広島の町並みは美しくて・・初めて来た街なのに・・なぜか懐かしい空気を感じた
降り立った途端に目の前に「原爆ドーム」(産業奨励館)
何度もテレビや写真で見てるはずなのに・・
実物を目にした途端・・涙がこぼれる・・
広島に着いてわずか30分でもはや涙でボロボロ・・
そのうちに抑えきれなくなって・・嗚咽までこぼれてしまう・・
ダメだ・・ここから立ち去ろう・・
ここにいたら・・
悲しくて動けなくなる・・
ホントにヤバイ状態になってた時・・
背後に人の影が・・
白人の男性が立っていた・・
これ・・本当に不思議なのですが
広島で白人を見ると怖いのですわ(どうしてだかわかりません)
怖くて・・その場を足早に立ち去った・・
外国人はあちこちにいる・・
でもアジアの人を見るとほっとする・・
インドの人を見てもほっとする(アジアですものね)
肌の白い人が怖い・・(ダメじゃん!平和の町でそんなこと・・でも本能的な恐怖を覚える・・大阪では何も感じないのに・・)
記念公園の中を散策・・
死没者慰霊碑に手を合わせ・・
原爆資料館へ・・
資料館で見た数々の展示・・
やはり涙が零れてしまう・・
どうしよう・・泣いてばかりじゃないか~~~
じっくりと時間をかけて見学し・・
その後外へ・・
どこへ行こうか?と地図を片手に大田川の平和大橋を渡る・・
空が・・どんよりと曇っている・・
ゴロゴロと鈍い雷鳴までが聞こえてきた・・
とりあえず・・広島駅方面に向かって歩こう・・
が・・ほどなくして・・
雨粒が体に当たりだし・・本格的な雷雨になる・・
たまたま飛び込んだ軒先・・
それが袋町小学校平和資料館だった
雨も止みそうにないので・・見学することにする
見学者はなんと私一人・・
ボランティアで案内係をされている男性が丁寧に資料の説明をしてくださった
この学校は爆心地から460mの場所にあり、当時、救護所になっていた・・
やけてすすけた壁に伝言が残っていた
(小学校で頂いたパンフより)
雨はどんどんひどくなる・・ボランティアの男性と二人・・
ベンチに座り・・もうなんだかデート状態だ・・
「被爆当時も広島に・・?」
思い切って・・個人的な事を聞いてみた・・
その方は被爆当時17歳で、爆心地からは離れたところにいたらしい
が・・翌日・・救援のために市内に入ったのだそうだ
死体を運んだり・・瓦礫を片付けたり・・されたそうな・・
17歳の少年が見た地獄絵は恐らくは今もはっきりと瞼に焼き付いているだろう・・
「学校の先生ですか?」
そう聞かれた・・
「いいえ・・ただの会社員です。大阪から来ました」
そう言うと少し驚かれていた。
「よかったら隣のビルで原爆写真展をやってるから見て行かれたらいい」
そう薦めてくれた
まだ雨は降っている・・
でも隣のビルまではほんの数十秒の距離・・
お勧めに応じて・・隣のビル(広島市まちづくり交流プラザ)へ走っていく
展示場は4F見学は無料だ
展示は今日7月31日~8月7日まで行われている・・
会場に入ると・・
これも見学者はまばらで・・ほんの数人ほど・・
展示されている写真は・・
原爆だけでなく太平洋戦争そのものの写真
東京大空襲の写真もあった・・真っ黒のかつて人間だった方たちの写真・・
正直言って・・ここの展示は原爆資料館のものよりも衝撃的なものだった・・
呆然と見ていると・・一人の老婦人が声をかけてくれた・・
「いかがですか?」
「いえ・・言葉になりません・・」
その方は地元の方で・・被爆者だった・・(胸に「被爆者」というネームプレートをされていた・・少し・・複雑な気持ちになった)
彼女は当時の事を語るためにここにいたのだ・・
明るく優しい婦人だった・・
当時は疎開して、おばあさまの家にいたのだとか・・小学生だったそうだ
原爆投下前日の8月5日・・
たまたま、担任の先生のお見舞いで市内のご実家に戻られていた
その夜・・帰りたくないとダダをこねるのをその方のお母様がしかりつけたのだとか・・
「おばあちゃんがご飯作ってまってる!帰らないけん!」
8月5日の夜に広島に空襲があるという噂が流れていたからかもしれない・・
嫌々ながらも自宅を後にする・・
戸口でお母様がいつまでも見送ってくださった
それが・・最後の姿だった・・
「今でも後悔する時があるのよ・・あの時・・残っていれば・・って」
彼女は涙など見せてはいないのに・・
こんな安っぽい涙・・なんにもならないのに・・
涙が止まらない・・
「お母様・・きっと、きっと喜んでおられますよ」
そう答えた・・
「そうね~・・今はこうやって、みんなに当時の事を伝えてあげられる・・広島にきたお子さんたちに何かを伝えてあげられる・・。きっと母も喜んでくれてる。
学校へ戻られたら・・お子さんにもぜひ・・伝えてあげてくださいね」
ここでも教師と間違えられた・・
「いえ・・教師じゃ、ないんですよ。大阪から来ました。恥ずかしながら・・初めて広島を訪れます。」
見学を終えた後・・展示されていた内容を資料としてまとめた冊子と
峠 三吉さんの詩集を購入した・・
会場を後にする時・・受付の男性に「いかがでしたか?」とまた尋ねられた
何も言えないって思ったのに・・
「大切にしなくちゃ・・」と口をついて出た言葉だった
「いろんなものを大切にしなくてはいけませんね・・命も・・物も・・平和も」
そして・・愛も・・夢も・・家族も・・友も・・その他の全て・・
「大切に」しなかったからこそが・・この悲劇なのだ・・
命はちっぽけですか?
何十万人くらい殺しても平気なくらい・・
帰りの車中・・
峠三吉さんの詩集を一気に読んだ・・
苦しかった・・
「ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんのにんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ」