Notes3~ヨミガタリストダイアリー

名古屋市在住の俳優/朗読者・ニシムラタツヤの演(や)ったり読んだりの覚え書き

メモのような閃きの種のような

2009年02月27日 | 日々の雑感
■昨夜は、「カラフル3」会議の後移動して、「潜水生活」の打ち合わせ、というかその前段階の説明みたいなものだった。
■演劇的な声と、そうでない声で同じ場を共有したい。互いを消し合うのではなく、互いを生かし合う関係を結ぶことはできないか。即興で出されたものに違う形式で応えるという時間の作り方はないか。既作の、誰かの作品を読む、自作を読む時間をはっきりと分けた形。
■朝の通勤電車の中では思い出すのはこれくらいだが、追加をできればしていこう。ただはっきり言えるのは、話せば話すほど結ぶイメージは豊かになってゆく。非常に充実した時間だった。本当ならば、ただ作る、ただ読む時間のことだけに気を配りたい瞬間もあるけど、自分はこれのプロデューサーでもある。読んで生まれる何かを広く伝えたい、という基本的なスタンスも確認する場にもなった。
■じっくり進めます。

昨朝から今夜まで。芸文のあれと、彼の地のそれ。

2009年02月22日 | 舞台特に演劇
■6時40分名古屋駅桜通口着。ATMが開くのを待ってから地下鉄で高畑。自転車を取りに行く。本当ならジムとかプールに行きたいところだが、この20分の行程で代用する。コメダでモーニングの後、仮眠。
■昼に起きて適当に掃除。その後実家で車を借り出してアクテノン。C.T.T.名古屋事務局の2人を乗せて一路東名阪を南下する。打ち合わせの結果、来年(2010年)2月に史上初の新展開がなされることが内定する。前にも記したが、その頃には演劇制作に関して自分が関わるのはC.T.T.のみになっているはずだ。その中での動きであることが楽しい。終了後、軽く飲みということになるが、ドライバーはホットウーロン限定。こちらの方がむしろ気が楽だ。苦いけど。
■行きがけの会話の中で、愛知芸文での「新進アーティストの発見・あいち」の話題になる。同行者も自分も、ある同一人物の言動行動について大いに含むところあり。これについては改めて必ず書く。読んだ時には、こういうこと言う人が運営に携わる国際ビエンナーレって、特に若手の実演家(もちろん俳優も含む)にとってやる意味あんの?と思ったので。
■原則というものは、それと知らずに曲げた時にそれが原則だったと分かることがある。鈍いと言われればそれまでだが、そういう指摘が人の試行錯誤に打ち込む勢いを削(そ)いでしまうことがあることにも留意すべきだ、とは思う。あくまで鈍い男からの態度表明として控えめに主張させて頂く。
山の手事情社・安田雅弘さんの言葉については明日、この欄で。

ひとり

2009年02月21日 | 日々の雑感
■横を埼京線の回送が走り抜ける。新宿駅とはいえ、西口想い出横丁から新南口までは遠い。走る。リアルに走る。
■そう、今夜は小竹向原のアトリエ春風舎で山の手事情社の研修生公演「デコ」。パンフの安田雅弘さんの挨拶が胸に滲みる。また詳しく引用してみよう。
■我が畏友、牧野謙君。31歳にしての再就職、いや再出発おめでとう。

例えばこのレシートにも

2009年02月21日 | 朗読・声の周辺
■例えばこのレシートにもいくばくかの物語がある。単なる知識としての記憶なのか、体験に基づくそれなのか、はっきり区別などできないけれど、自分からこれを媒介にして、何かを引き出すことはできるような気がする。
■それを俳優の技術に裏付けた上で提出されるもの。詩というには大袈裟かもしれないが、自分がやりたいのはそういうことだ。
有楽町の駅に着いた。ホームの上でふと気付いた。確かにこの感触も、昔どこかで感じたものだ。繰り返すということは、求められているということだ。

フォーカスが甘い!

2009年02月21日 | 日々の雑感
■単なる、しかしせっかくの土曜日の休日にも、ここまでの、自分自身の動き方の結果が如実に現れる。昨夜、敢えて早く床についたつもりだったが、逆効果だったようだ。お陰で参加しようと思ったワークショップに行きそびれる。今年中には必ずと思う。
■で、ここでもフォーカスがはっきりしていないものだから、逡巡したあげくせめてもと思った「横濱リーディング・コレクション」にも行きそびれてしまった。矢野さん、ホントにすみません。聞きたかったです。ミシマ。
■ゴールはしっかり見定めろ。浪費を重ねた末に、「いつの間にかいつの間にか命の終わり」(中島みゆき)になりかねない。結果的に乗り込むことになった東京行「こだま」の中で、じっと考えた。これから、小竹向原のアトリエ春風舎へ。

「普通の日常」にある芸

2009年02月19日 | 朗読・声の周辺
■普通の特売日と、年に何度かの棚卸しの前日が重なって、いつにも増して激しい混雑のスーパーに行く。タイムセールの値札を矢継ぎ早に貼り替えていく防水衣姿の店員さんを囲むように買い物かごが虎視眈々とその瞬間を狙っていた。その争いには最初から参加するのは諦めて、すいている寿司のショーケースに向かう。
■そこに、名人芸があった。呼び込みの声だ。おそらく「いらっしゃいませお買得ですよどうぞー」と言っていると思われるのだが、きっと何年も、それこそ1日あたり何百回と言い続けて来て、意味が剥がれ落ちてしまったのだろう。無意味な音の連続になているようで、不思議なくらい売り場の雰囲気に溶け込み切っていた。セールストークだから当たり前かもしれないが、僕を含めた買い物客を決して邪魔せずに、それでいて意思をはっきり伝えてくる。役者で言えば、まさに「空気をつかんだ」居住まいがそこにあった。あの兄さんは、もしかしたら凄い俳優になるかもしれないとちょっと考えた。
■なぜそんなことが普段から何度も聞いているはずの売り場で、その時だけ「入った」のだろうか?これはわかりやすい問題だ。自分から余計なプレッシャーが抜けていて、かつ対象が拡散せず、かといって限定もし過ぎず、広い範囲の刺激に対して素直に意識を向けることができていたということだろう。全ての文章、全ての戯曲、全ての言葉に対してそういう風で向かい合うために、一体何が必要か?それを忘れないようにするために、この日の風景をこのように記録しておこうと思う。
■翌朝、通勤時に一部新築落成した日赤病院の地下連絡道を通る。カフェ、コンビニ、クリーニング店。今後少なからず世話になりそうな雰囲気の地下アトリウムの片隅、駅の券売機に向かう道すがらに、建て替える前、つまり5年前に僕がこの街に引っ越して来た当時の写真が掛けてあった。自分も、5年を掛けた自身の技術進化を見せていく時だ。

何度でも曲がり角は曲がろう

2009年02月18日 | 朗読・声の周辺
■そう、頭の中だけで完結していてもまるでだめなのだ、ということを近年まれに見る鮮やかさで思い知らされる事態、発生。いや、大げさに書けばそうだが、1つの原稿に対するアウトプットが、まるで上手くできなかったのだ。自分の声も、そこに「誰かがいる」と意識を外に向けることも。最低です。本当に最低でした。
■2年前の春だったか、ある場所に潜り込んで幸運にもお会いできたナレーター、垂木勉さんの言葉にこんなことがあった気がする。伝える事の中身と、VTRのつくりや音楽のテイストによって、どんな声でどんな風に読むのが効果的なのかを意識するが、この「意識」そのものは「表現」の表に出ないように気をつけている。意識が表面化すると、そのナレーターが「どうやろうとしたか」は分かるが「そのものはやれていない」という頭でっかち状態に陥りやすいから。もう、正にこの状態、「意識だけしまくって、そのものはぜんぜんやれてない状態」で、90分を無駄に使ってしまった。
■この段落はこう、このフレーズはこうと細かく紙の上で仕切っていっても、その通りに気持ちが動いてくれるかなんて全く保証できない。いやむしろ、保証など最初からないものとして存在しようとすることこそ、インプロ者の精神ではなかったか?ああ恥ずかしい。二重三重の意味で、もう。いろいろな事に気付くことができたことだけでもプラスと捉えたいと思うが、この際だからきちんとネガティブになっておきたい。単に「凹む」のではなく。俳優として、ナレーターとして生きるために。
■最大の敵は「不安」なのだ。不足の不安、不在の不安などいろいろな容貌で自分の前に現れる。そういう時にこそ、踏み込まねばならない。身体が、またインプロを求めている。それだけじゃない。ひねり出してようやく見つける答えではなく、するりと抜け出せる通用門のようなヒントがあることを、僕は体験を通じて知っているはずだから。

そのようにして歳月は・2

2009年02月15日 | 日々の雑感
■実家には戻ったが、ついでに時間まで16年くらい戻ってしまったような気がした。いや、故郷の風景だけではない。自分の頭の中で展開された夢の話だ。
■詳しくは書かないが(さすがにそこまで自意識過剰ではない)、これはサインだな、と思った。地底のマグマが一気に空中へ放たれる前の。普通の火山は弾けてしまうと周りの農作物に甚大な被害をもらたすが、これはそういうものとは違うものにせねばならない。
■そういうわけで本家ウェブ、変えてみました。細かいところまで割と手を入れてあります。リスクを避けて避けて避けまくってここにたどり着いてしまった名古屋のひとりの兼業役者のありよう、一度ご覧頂ければ幸いです。
■あ、タイトルですが、かつてNHK「にっぽんのメロディー」の、そして後年「鬼平犯科帳」の名調子、中西龍の決め台詞?でした。こんなこと話題に出すから33歳と言ってもちっとも信じてもらえずに「歳月はただ流れて行くのです」、と。

そのようにして歳月は

2009年02月14日 | 日々の雑感
■直線距離で40キロもない位置関係だけに、頻繁に実家に寄る。今日は帰りのバスの時間が合わず、本当に久しぶりに、2つ先の停留所まで、とぼとぼ歩いてみた。
■町並みは大して変わってない。かつてのサークルKが空き家になり、武田ふとん店と自然堂書店がさら地になってしまった程度だが、歩くうちに、もう一つのことに気がついて、考え込む。
■確実に人は老いる中で、風景は変わらないなんてキャプション、TVナレでは割と聞くけど、その表現は表層的だと思う。ここだけではなく、日本の郊外、田舎というのは、実は風景そのものも内側から静かに崩れ始めるのだ。撚糸工場のノコギリ屋根の下の窓に掲げられた「貸工場」の文字と連絡先の番号を見て、変わらないなんて言ったり、言われたりしているものごとは、それぞれが見る人それぞれの属性に応じて、一定の嘘を含むなあ、と。昔住んでても、離れてしまえば気付かぬばかりだから、縁もゆかりもない、中央からの視線からならば見えなくても当然か。
■では、とふと翻(ひるが)える。自分の虚実とはなんだろうか。そんなもん分かってるさ、と、また見てきたような嘘を言うのは、しばらくやめてみたい。
■あ、タイトルて記したことまで行かなかった。また改めよう。