骨うずめの土曜日。
文章が厳密に記号であるということに疑問を抱きます。
すなわち言葉は絶対的あるいは相対的に特定の物事を表すのだろうか、ということです。
疑問に感じている点は主に精神面においてです。
感じること考えることを言葉で表そうとして、他人にかなり正確に伝わるように文章を書くことが理論上できるのかどうか。
文章から修飾や修辞を取り払って言葉をそのままに取り出した場合、
出てくるものはとても小さな点のようなものになるのではないでしょうか。
それは0次元的なもの。
変数を一つも持たず、何か物を言う存在ではありません。
目に見える形で存在を示しているだけです。
これが一次元的な線であれば、存在を表すと同時に、
保有している変数によって感情の程度を指定することもできたのでしょうが、
裸の言葉は点に過ぎないので、それだけによって正確に私たちの思いを伝えることができない。
ここまで私は特に理論による裏付けなく考えを述べているだけですので、悪しからず。
本ブログ上にて論考を繰り広げる気はありませんので、ひとまず私の疑問を提示だけしておきます。
しかし言葉には魔力が込められているという類の主張はあります。
私が知っている(とある本で読んだ)ものは、日本人特有の言霊信仰に関わるもの。
つまり日本人はほぼ100%、言葉による迷信を多かれ少なかれ信じている、という主張です。
例えば幸せなイベントの最中に不吉なこと(飛行機が墜落する、とか)を口にすることは一般に憚られます。
言葉にすることによってその悪い事態が実際に起こってしまうかもしれない、ということ。
仮に飛行機が墜落した所で、実際に発言者は何ら悪いことはしていないのですが、
その場合でも「そんなこと言うから墜落してしまったじゃないか」と責められれば言い返すことは困難でしょう。
さて、このような主張をヒントに言葉の魔力性があると仮定した場合、
そしてその魔力によって言葉に多次元性を持たせた場合、
私達の感情伝達は非常にスムーズになるのかもしれませんね。
一見象徴的で難解な文章にも、ただ一つ固有の意味が存在している世界。
言葉に関数的に何かを入力すれば、戻り値が返ってくる世界。
そんな世界にいても、物事の上辺だけをすくい出すような頭の固い人には、点的な表面部分しか抽出できないでしょう。
こういう無益な空想に浸るのもなかなか楽しいものです。
私の気持ちが想像できますか?
私が田川後藤寺駅を眺めていたのが2月10日の昼下がりで、
JRの切符購入方法がわからず、駅員の方に標準語で質問を投げかけていたところです。
筑豊に関連する者同士の、標準語での会話。
缶ジュースをぶつけて祝杯をあげるような違和感が、
不思議と心地よく感じられました。
これから私の友人の結婚式披露宴に向かうのです。
過ぎ去る田園風景を横目に、新飯塚で一度電車を乗り換えます。
そういえば私はこの路線を利用したことがありません。
名前も忘れられたような通過駅の佇まいや、
麻生セメントの古い工場は懐かしさもないほど故郷を離れた今でも頻繁に目にしますが、
そこに関係した記憶は一切ありません。
私は筑豊に含まれているのでしょうか?
逃げ去ってしまったこの町は、もはや私を迎えてはくれないのでしょうか?
こんな思いを退けるために、東京で出会った友人たちと筑豊の地を巡ったことを思い出すのが一番です。
車で訪れたいくつかの場所には、昔からの記憶が残っています。
電車が終点の博多駅に到着したのは、このように記憶と現実が錯綜していた最中でした。
そのままiphoneの指し示す通り、キャナルシティを目指します。
この手の大型ショッピングモールは総じて何かしらの面を非難されるものです。
店舗構成が悪いとか、人が多過ぎてつまらないだとか。
人はあまりに嫉妬深いので、完成されたものを見て批判しない訳にはいかないのです。
歩を進める内に、梅田と博多の街並みの違いを検討しました。
確かに纏っているオーラの違いを感じないことはできないのですが、
それ以上細かな説明を要されると、私は困ってしまいます。
出身地方にほど近いという偏見によって、都市感は大きく体内で捻じ曲げられます。
そのままメビウスの帯のように丸くつながって、取り去ろうと思って切り入れても本質が細く長くなるだけになります。
それに歩いているだけで次々と思い出がビジョンとして眼前に現れるのです。
書道大会、家具の展示会、タワーレコード、水族館、博物館、九州大学薬学部。
小さな頃から積み上げられたこれらを払拭することは決して出来ません。
さて、結婚式の会場はキャナルシティ内の荘厳なホテルでした。
予定より早く到着して不安でしたが、受付の係が高校時代の同級生だったので、安定しない安堵感に包まれました。
それから友人たちとたくさん出会いました。
新郎はクラスの同級生だったので、同窓会のような気分です。
会場にて席に着くと、新郎の中学校の同級生もご出席されていました。
初見でも光沢のある金属的な彼らの服装や、少々賑に過ぎる振舞いは披露宴にあまり似つかわしいものではないと見えます。
彼らの中の一人が私に親しげに声を掛けます。
彼らは私のかつてのライブ仲間でもあるのです。
私は急に嬉しくなって、懐かしい会話を弾ませました。
新郎の中学の友人は、世間的に見るとあまり柄の良くない者に分類される人が多いように思われます。
(彼ら自身、自分のことをそのように卑下する物言いが目立ちました)
私はそんな彼らと本当に楽しく生きていきたいと思っています。
披露宴での会話は高校時代の友人よりも、彼らとのものを中心に進めていった気がします。
互いの趣味について話し合って、
今後何をしていきたいかについて、お互いに意見を述べました。
話の進め方は人によって違いますが、私の場合はできるだけ相手の得意な分野の会話をしてもらうようにします。
高校時代の友人の一人がスピーチを行います。
彼は顔立ちは端正なのですが公然と立って話をすることが苦手なのは誰もが知っていたので、
皆の想像通り的を射ることの少ない矢の多い演説となってしまいます。
それらや料理を含めて、とても賑やかでよい時間を過ごすことができました。
二次会まで終了してから、私は翌日の帰阪に備えて早々と(午後11時ほどですが)母を迎えに呼びます。
車の運転の好きな母で、とてもありがたく思います。
2人の友人を家まで送ってから帰宅しましたが、私にしては珍しく会話の内容をあまり記憶しておりません。
私が会話をすることはそれほど多くないので、3ヶ月以内ぐらいであれば大抵の内容は記憶しているのです。
きっと気分が高揚していたのと、アルコールをやや多く摂取していたためでしょう。
アルコールの記憶分解機能はこのような場面で人しれず密かに発揮され、
気付くと人間は自らの存在場所を記憶できないほどになっていくのでしょう。
ちょうどFF8のガーディアン・フォースのように。
記憶というものが主な鍵を握るこのゲームですが、
現実世界でも記憶をおざなりにすることは喜ばしいことではないように思います。
そうそう、確か引出物の話をしたんですね。
ティファニーの食器を見て喜ぶ母には閉口せざるを得ません。
2月10日、私の感情はこのように推移していきました。
この文章の間隙に含まれるわずかな思いの動きは、恐ろしい速度を保有しています。
目で追うことや心で追うことはかなわず、
とても小さな単位時間を持つコンピュータでようやく把握できるものです。
感情の再現方法に関しては、今後も私の人生の課題となり続けることでしょう。
それが音楽にしても、文章にしても。