《冬蜂紀行日誌》(2008)

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

「日本の名随筆91・裁判」(佐木隆三編・作品社・1988年)

2011-01-24 00:00:00 | 日記
2008年1月19日(土)晴
 「日本の名随筆91・裁判」(佐木隆三編・作品社・1998年)読了。田中美知太郎、徳富蘆花、川端康成、宇野浩二、伊藤整、渋沢龍彦、野坂昭如、大岡昇平、木下順二、亀井勝一郎、中野重治、正木ひろし等に交じって、倉田卓次という人が「裁判官の国語力は中学生並か・給付判決文の用語をめぐって」という随筆を書いている。巻末の「執筆者紹介」によれば、著者は「1922年生まれ 裁判官。公証人を経て弁護士。東京帝国大学法学部に進学するが学徒出陣となり、戦後東京大学に復学して卒業。東京家地裁判事補を皮切りに、札幌高裁判事となる。民事実務畑を歩いた経験を生かした『民事交通訴訟の課題』『交通事故賠償の諸相』『民事実務と証明論』などの著書がある。他の著書にエッセイ集『裁判官の書斎』四冊、『裁判官の戦後史』二冊などがある」そうだ。今回、その著者の作物を初めて読んだが、たいへん面白かった。文章の内容は、著名な科学評論家・鎮目恭夫氏が法律雑誌に「先ごろ私は、ささやかな民事訴訟に巻き込まれたおかげで、日本の裁判官や弁護士を養成する司法研修所の先生方の国語能力がせいぜい中学生並だということを発見した」と書いたことへの反論である。著者は以下のように書いている。<鎮目恭夫氏のエッセイは(略)『連帯債務者への各自支払』の主文の問題をあげつらったものである。氏が友人のワープロリース契約の連帯保証人になったことから、友人と氏とに対する「被告らは、原告に対し、各自90万円を支払え」という判決文が届いた、というのだが、それに対する氏の感想は、皮肉な、というか、嘲笑的というか、ひどく悪意のある行文なので、要約するより、そのまま原文の一部を引く方がニュアンスが伝えられよう。『さて、私は判決文を見て、各自90万円だから二人で180万円、ずいぶん値上げした判決だとあきれて、控訴を決意した。そして知り合いの弁護士に相談したら、「ああ、その“各自”というのは“連帯して”と同じ意味ですよ」と言って、司法研修所編『民事判決起案の手引き』をみせてくれた・・・。「数名の被告が原告に対し連帯債務を負うものと判断した場合、(判決の)主文に『被告らは、原告に対して各自○○円を支払え』と書く場合と、『被告らは、原告に対し、連帯して金○○円を支払え』と書く場合とがあるが、どちらでも差し支えない。前者は、右のような共同訴訟は、ほんらい被告各自に対する請求を併合したもので、したがって判決の主文も、被告ごとに独立したものであり、他の被告との連帯関係のごときは、理論上主文に表示する必要がないという見解によるものである・・・」この通りの悪文で、昔の代官風の言い廻しも含むのはさておき、論理的にみると、判決主文に簡潔のための「連帯して」を書かないのはいいが、そうなら「合計○○円を」とか、単に「○○円を」と書くべきで、「連帯して」の代わりに「各自」と書くのは論理上絶対的な誤りだ。「各自」と「連帯して」の区別をつけない頭では、高校の入学試験でさえ、国語と数学では落第確実だ。社会科なら超優等になるかもしれない。・・・」(略)現職の裁判官当時だったら、時間をつぶして係り合う気にもなれぬアホくさい文章であるが、今はその位の暇はあるし、筆者自身は大まじめに書いているようだから、一応本気で返事しておこう。」ここまで読んで、私は鎮目氏の感想はよく理解できた。まったくその通りだと思う。しかし著者の返事(反論)は以下の通りである。<連帯債務関係にある複数被告に対する給付の主文は、私が修習生の時は、「連帯して」「各自」「合同して」を連帯債務、不真正連帯債務、手形債務で使い分けるように教わった。(略)ちなみに、ドイツの判決でも(略)〔連帯債務者〕に対する主文では(略)「連帯して」を加えるのが常である。(略)しかし、理論的には「各自」の方がいいということは戦前からいわれていたことで(略)その頃の判決例もある。(略)理論上は「各自」でいいのだが、便宜上「連帯して」にしている例が多い(略)。しかし、昭和43年に坂井芳雄判事の論文(略)が理由中の判断に既判力がない以上、連帯は確定されていないのだから、主文に「連帯して」とするのは誤りであると、改めて明確な指摘をして以後は、実務上でも「各自」とする人の方が多くなったようである。(略)しかし、通常の共同訴訟で同額になる場合と連帯責務の場合とを書き分けたいという裁判実務上の志向は払拭しがたいものがあり、結局、「各自」は、元来は「それぞれ」という意味であったのが、いつか一部の実務家の間では、連帯債務、不真正連帯債務、手形債務等にのみ使われる特殊な意味を担うようになり、そういう関係にない甲、乙それぞれが同額の給付義務を負う場合は「各」を用いて、違いを書き分ける人も出て来た。(略)以上を予備知識とした上で・・・>というように著者の返事は綴られていくが、専門外の私には、その予備知識が理解できない。①「連帯して」は連帯債務、「各自」は不真正債務、「合同して」は手形債務と使い分けることが原則であり、ドイツの判決でも、連帯債務者に対する主文では「連帯して」を加えるのが常なのに、理論的には「各自」のほうがいいと戦前からいわれていたのはなぜだろうか。②鎮目氏の事案は、連帯債務なのか、不真正債務なのか。(連帯債務と不真正債務とはどう違うのか)③通常の共同訴訟で同額になる場合と連帯債務の場合とはどう違うのか。鎮目氏の場合はちらなのか。④「各自」は、元来は「それぞれ」という意味であったのなら、鎮目氏が、元来の意味で理解することは当然ではないだろうか。著者の返事(反論)は、さらに続く。<鎮目氏の事案をみると、氏の非難の見当外れは明らかだ。氏は友人のほかに自分にも同金額の支払いを命ぜられたのを不満とはしていないが、それは連帯保証した以上当然で、友人のとは別の手続で自分だけを相手にする訴訟を起こされても仕方なかったところなのだ。それが二人一緒だから(略)「被告各自に対する請求を併合したもの」となって、本来なら主文で「甲は90万円支払え」「乙は90万円支払え」と二つ別々に並べるところを、同じ金額だから纏めて「各自」とやっているのである。判決理由を読めば、連帯債務であることは分かった筈である。二人共に支払う必要はないのだが、主文としては別々に「甲は支払え」「乙は支払え」とせなばならないのは、いくら判決で支払えといわれても、素直に支払う人ばかりではないから、それを債務名義として強制執行するためでもある。(略)鎮目氏は、主文というものが債務名義として作られるという一番肝腎なところを全然理解せずに・・・というより、おそらくそういう問題を何も知らずに(高校の社会科なら教えるだろうから、この人の裁判制度理解は中学生並といえよう)・・・判決書を裁判官が被告に出した手紙かなんかのように考えて、その文言を批判しようといきまいてしまったのである>。
 この返事(反論)を読んで、鎮目氏は納得しただろうか。「主文というものが債務名義として作られるという一番肝腎なところ」を理解している国民が、法曹関係者を除いて何人いるだろうか。「債務名義として作られる」という文言も、私には意味不明である。「として」という句を国語(文法)的に解釈すれば、主文イコール債務名義ということになる。それとも「債務名義に対して」という意味なのだろうか。要するに「判決の主文を読むのは『法知識(人)』であって、被告という立場の(無知な)人間ではない」という返事(反論)であったように思う。著者の意識下には「我々、専門家を中学生呼ばわりするなどもってのほか、素人が何をほざくか」といった「「憤り」「思い上がり」があるようだ。私が面白かったのは、かたや著名な科学評論家、かたや東大出の裁判官経験者が、お互いに相手を「中学生並み」と罵倒しあっている「情けない」姿である。国民全体の「平均学力」は小学校4年レベルといわれていることを、この二人は知っているのだろうか。相手を「中学生並み」と罵倒することは、同時に、国民全体を「小学生並み」と罵倒していることに他ならない。「知識人」と呼ばれる人たちの「貧弱な情操」を垣間見ることができたような気がする。

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