92の扉

2015年9月で一旦休止しましたが、細々再開しようと思うので、よろしければ、扉を開いてみて下さいね!

阪神・淡路大震災の記憶 (追記あり)

2005-01-17 | その他
 自分は直接「阪神・淡路大震災」を経験していません。しかし、自分の出身は京都ですし、両親は神戸出身ということもあり、少なからず震災の影響を受けました。直接・間接的に大きな被害を受けられた方から見れば、ほんの些細な影響かもしれませんが、その頃のことについて覚えている内容を、今日のこの日に書き留めておきたいと思います。



 当時の出稼ぎ先は新潟でした。前年の暮れ、自分の中で3台目となるクルマ・サンバートライを大雪の糸魚川で横転させたため、(起こして新潟までは乗って帰ったものの)移動手段を失っていたのですが、休日出勤の代休をいただいていたこともあって、週末と合わせた連休を(電車を乗り継いで移動し)松本で過ごしていました。その頃、松本基地は浅間温泉のボロアパートだったのです。(そこは結局、約半年間しか借りていませんでしたが・・・)

 その日は(自分の中では)休みの最終日ということで、早起きして電車を乗り継ぎ、出稼ぎ先の新潟まで移動する必要があります。ということで、いつもより早めに目覚まし(恐らく日の出から間もない7時頃でしょうか)を掛け、FMラジオの電源を入れました。すると、「近畿地方で大きな地震がありました」というニュースが流れて来ます。

 まだ詳しい状況はわからなかった頃なんでしょう。アナウンサーの声も、それほど深刻なものではありませんでした。自分が京都にいた頃の感覚からしても、そんなに大きな地震が起こるワケもないと思っていました。でも、「どうやら高速道路の高架が倒れているようです」という報に接して、「これは、ただごとやない!」と直感したのです。

 自分は殆どTVを見ない人だったので、部屋には高校の同級生Tくんから安く譲って貰ったモノクロのポケットTV(2インチ程度のブラウン管!)しかありませんでした。ヘリコプターから撮影したらしい映像が流れはじめていましたが、小さな画面ではどうにも様子がわからないのです。そこで、まだ早い時間だったので気が引けたのですが、同じアパートに住んでいた知人(年上の方ですけど、一度社会人を経験してから信州大学医学部に入り直して学生をされていた)Nさんを叩き起こし、TVを見せてもらいました。

 相変わらず詳しい状況は少しずつしかわからないのですが、神戸を中心に広い範囲に被害が出ている様子。京都の両親や、神戸の祖母をはじめとする親戚のことが心配でたまりません。当時は携帯電話など無い時代ですから、アパートの共用ピンク電話から何度も実家へ電話を掛けてみるのですが、一向につながらないのです。新潟の出稼ぎ拠点の留守番電話にも、特に伝言が入った様子もありません。

 そうこうするうちに、新潟へ向けて出発しなければならない時刻が迫ってきました。どうしたものか、かなり迷ったのですが、状況がわからないままで明日の仕事に穴を空けるワケにはいきませんから、何はともあれ新潟への移動を開始します。

 途中、松本駅や長野駅など、乗り継ぎで時間がある都度、公衆電話から実家へ電話を掛けてみますが、全くつながりません。「もしかしたら、(借り始めたばかりの)松本基地も止めなきゃいけないかも」とか「最悪、仕事を止めて関西へ戻ることも考えないといけないかも」等々、いろいろな事態を想定して、いろんな考えが頭の中を駆けめぐっていました。途中、どこかで職場にも連絡を入れているハズですが、そのあたりはよく覚えていません。

 やがて、確か直江津駅(もしくは、信越線のどこかの駅で対向列車との行き違い待ちの駅)のホームの公衆電話から、ようやく実家に連絡が付き、両親や弟については無事を確認できました。あの時の焦燥感と、吹きすさぶ雪混じりの風の冷たさが、強烈な印象として残っています。



 夜になって、どうやら親戚一同、みんな無事であることが確認できた、との連絡が親からありました。幸いなことに、誰も怪我はしていないようですが、祖母の家はかなり酷い状況になっているらしいです。

 「休暇をもらって、何か手伝いに行こうか?」と訊いたのですが、「交通網も寸断されているし、特に怪我人もいないから、もう少し落ち着いてから、片付けの手伝いに来てくれれば良いから」とのこと。遠隔地にいることのもどかしさを、この時ばかりは痛感したものです。



 震災から1ヶ月ほど経った頃でしょうか。阪神電車が青木まで開通したということで、ようやく祖母の家へ行くことが現実的になり、日を決めて親戚が集まることになりました。母は既に何度も行っているので、ある程度は慣れた感じに見受けられましたが、自分にとって震災後はじめての神戸は、目に映る街並みも、漂う空気も、自分の知っているそれとは全く違っていました。「これでも随分と片付いてきたんやで」という母の言葉に頷ける部分もありましたし、実際に住んでいる方から見れば全くレベルが違うのでしょうけど、それはやはり衝撃的なものでした。

 この時に見掛けた光景はいろいろあるのですが、例えば1階が駐車場になっているマンションが、まるで「だるま崩し」のように1階部分だけ崩れて駐車してあったクルマを踏み潰している光景が目に焼き付いており、今でもそういう駐車場は怖く感じてしまいます。実は今の松本基地もそういう構造なので、借りるときには凄く迷ったものです。(結局、利便性に惹かれて、借りていますけど)

 祖母の家は木造2階建てでした。太平洋戦争を生き延びた平屋を母体に、横(1階)と縦(2階)を増築した構造になっていました。ところが、その増築部分がすっかり崩れています。特に2階は跡形もなく消えていました。残っている1階も、文字通り「足の踏み場も無い」状態で、家具やTVは倒れ、エアコンの室内機はぶら下がる等、酷い有様でしたが、祖母の寝ていたベッドだけ、奇跡的に何も落ちてこなかったのです。ボロボロの母屋の中で、まるでベッドだけが浮いているような感じでした。

 この日は、完全に崩れ落ちた2階から、必要な荷物だけを取り出す作業をすることになりました。当初は「2階にあった仏壇の位牌さえ見付けられれば良い」という話だったのですが、自分としては「大事そうに飾ってあったもの等、救えそうなものはなるべく救いだそう」と思って、いろいろ発掘してまわったものです。

 作業が一段落すると、祖母の家のすぐ裏にある伯父の家(こちらはあまり被害もなくて済んでいました)で、休憩しました。被害が無いと言っても、確か水道は止まったまま。電気とガスは復旧していたように記憶しています。印象的だったのは、地震の揺れで柱が浮いたりしたのでしょう。柱と床の継ぎ目に「やかん」の蓋やカーペットの端が挟み込まれていたのにも驚かされました。



 結局、手伝いに行けたのはこの日のみ。祖母の家も全壊と認定され、2度とあの年季が入った家を自分は見る機会がありませんでした。祖母はしばらくの仮住まいを経て、元の敷地に小さな家を建て直し、戻ってきました。こうして、太平洋戦争と阪神・淡路大震災をくぐり抜けてきた祖母も昨年3月に他界

 広義での「阪神・淡路大震災」は、10年を経たとは言え、まだまだ終わったとは言えないでしょう。祖母の葬儀で神戸へ行った折も、更地になっているところや傷跡などが見え隠れするところもありました。ただ、うちの祖母を取り巻く人たちの間では、紛れもなく「ひとつの時代」が終わったような感じです。



追 記:

 トラックバックをいただいたルパート・ジョーンズ さんの記事でのコメントを拝見し、少し趣旨は異なるかもしれませんが、本記事の投稿日時を「2005年1月17日5時46分30秒」に修正しました。

 直接、震災を経験したワケではない自分ですし、人間は忘れる生き物ですから、時間と共に記憶が薄れていくことは、やむを得ないことだと思います。逆に、忘れることで生きていける面もあるかもしれません。

 そんな中で、自分にできることなど限られていますが、その僅かなひとつとして、丸10年にあたる日時に(後付けですけど)本記事の投稿時刻を合わさせていただきました。なお、当初のエントリー時刻は「2005-01-17 12:50」です。

 なお、各方面で「震災」にまつわる記事を拝見しておりますが、自分がトラックバックやコメントすることが憚られ、そのままにしておりました。しかし、本記事に追記をしたこともあり、僭越ですけれども、ルパート・ジョーンズ さんのところへはトラックバックを返させていただくことにします。(2005-01-18)



トラックバック先:
にわか日ハムファンのブログ:『あしたで10年。』(2005-01-18)
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2 コメント

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TB&記事の紹介感謝です (ルパート・ジョーンズ)
2005-01-18 21:27:10
私自身はたまたま西宮に暮らしていて、地震を体験することになり、今回ご紹介いただいた記事を書くこととなりました。

ただ、kuni先輩をはじめ多くの方にコメントを頂くうち、被災地以外の方々にもそれぞれの「震災」があったということを実感しました。

震災以来10年、時代は確実に変わりつつあります。

ただ、その中でもあの時の体験や思いは語り継いで行きたいですし、それが次代の糧となることを心から願っています。
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■ ルパート・ジョーンズ さん (kuni@管理人)
2005-01-18 22:49:00
コメントありがとうございます。



地縁、血縁、いろいろなつながりもあるでしょうから、人それぞれの「震災」があるかもしれませんね。



しかも、地震国の日本。自分と関係があるエリアでも、東海地震はもとより、関東直下型だとか、糸魚川~静岡構造線沿いの断層地震も、いつ襲ってくるかわかりません。

松本にも牛伏寺断層など、心配な断層がいくつもあるとか。



せめて他山の石とすべく、考えていきたいものです。
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