それでは、関ヶ原の古戦場のうち、西軍の主立った武将の陣跡などを巡ることにしましょう。
■ 決戦地
関ヶ原の合戦で家康が最後に陣を置いた場所から少し北西に進むと、「決戦地」の碑があります。最大の激戦地であり、かつ最後まで粘った西軍が崩れた場所でもあるんでしょう。西軍の事実上の大将だった石田三成が陣を構えた笹尾山は、このすぐ北西に見えています。
反対側を振り返ると、家康が最初の陣を構えた桃配山や、本来ならその背後を襲うはずだった毛利勢などが拠る南宮山などが見えました。
■ 笹尾山(石田三成陣跡など)
随分と整備されていますが、その中央には何やらモニュメントが。どうやら「関ヶ原合戦400年祭」を記念して作られた「無限時空」という作品だそうですよ。
笹尾山に向かって左手が、石田三成の前線部隊右翼を形成した蒲生郷舎の陣跡だそうです。
一方、笹尾山に向かって右手が、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と詠われた、石田三成の前線部隊左翼を形成した島左近(勝猛)陣跡だとか。
(写真をクリックすると、拡大写真が別ウインドウで開きます)
この島左近陣跡の右手と、島左近陣跡と蒲生郷舎陣跡の中央の2箇所に笹尾山への登り口があるので、ここから山頂を目指します。すると、程なく石田三成陣跡に着きました。
(写真をクリックすると、拡大写真が別ウインドウで開きます)
それほど標高があるワケではないのですが、関ヶ原を一望することができ、戦闘指揮にはもってこいの場所なのかもしれません。
展望台には、関ヶ原合戦の戦闘開始時の布陣図が描かれ、ボタンを押すと説明音声が流れるようになっていました。
(写真をクリックすると、拡大写真が別ウインドウで開きます)
北国街道や中山道で関ヶ原を突破されることを防ぐために「鶴翼の陣」を敷いた西軍陣地の中で、この場所は最左翼に位置することになります。正面には主戦場となった関ヶ原の盆地があり、そこから東軍が攻め寄せて来たワケですね。その向こうには、桃配山や南宮山を眺めることが出来ます。
一方、右手には西軍の各武将が築いた陣地のある天満山や藤川台、そして松尾山が見えます。
■ 島津義弘陣跡
笹尾山の南西、神明神社の裏手には、島津義弘陣跡がありました。
■ 開戦地、小西行長陣跡
島津義弘陣跡のすぐ南側には、開戦地の碑があります。ただ、実際の開戦地はこれより随分と南側だったらしく、農地整備などの関連で石碑が北へ移動させられたんだそうです。
その開戦地から少し奥に入ったところ、天満山の北側麓には小西行長陣跡がありました。
(写真をクリックすると、案内板の拡大写真が別ウインドウで開きます)
小西行長と言うと、商人出身とか水軍大将という話と共に、キリシタン大名としても名が通っていますね。他の武将の陣跡と違って、この周辺では草花が多く見られたのは偶然なんでしょうけど、何だか印象的でした。
■ 宇喜多秀家陣跡
天満山の南側、天満神社あたりには宇喜多(浮田)秀家陣跡があります。
(写真をクリックすると、拡大写真が別ウインドウで開きます)
今では宇喜多秀家には「宇喜多」の字を充てるのが一般的のようですが、「浮田」の字を充てる時期もあったようです。
■ 大谷吉継陣跡など
中山道のすぐ北側、若宮八幡神社の裏手には、義に厚く友情に応えた武将として人気がある大谷吉隆(吉継)陣跡があります。
実際には若宮八幡神社からではなく、東海自然歩道を藤古川からあるいて辿り着きました。この東海自然歩道を少し北側に入ったところには、大谷吉継の墓もあります。
(写真をクリックすると、案内板の拡大写真が別ウインドウで開きます)
大谷「吉継」の名で知られていますが、関ヶ原合戦の前に「吉隆」に改名したと言われているようで、一連の案内板には「吉隆」の名が前面に出ていました。
本来この場所は「鶴翼の陣」の中央で中山道での突破に備えるキーポイントにあたるワケですが、実際にはここから右翼側は西軍として機能しなかったので、実質的には西軍の最右翼となって戦います。
小早川秀秋の裏切りで吉継の部隊が崩壊したように言われますが、地形的に見ると吉継の陣地は秀秋の拠る松尾山に相対しており、合戦前から予め秀秋と戦うことも想定していたと言う説には「なるほど」と思えますよ。
関連記事:
関ヶ原で古戦場めぐり -序-(2007-09-08)
■ 決戦地
関ヶ原の合戦で家康が最後に陣を置いた場所から少し北西に進むと、「決戦地」の碑があります。最大の激戦地であり、かつ最後まで粘った西軍が崩れた場所でもあるんでしょう。西軍の事実上の大将だった石田三成が陣を構えた笹尾山は、このすぐ北西に見えています。
(写真をクリックすると、案内板の拡大写真が別ウインドウで開きます)
反対側を振り返ると、家康が最初の陣を構えた桃配山や、本来ならその背後を襲うはずだった毛利勢などが拠る南宮山などが見えました。
■ 笹尾山(石田三成陣跡など)
随分と整備されていますが、その中央には何やらモニュメントが。どうやら「関ヶ原合戦400年祭」を記念して作られた「無限時空」という作品だそうですよ。
笹尾山に向かって左手が、石田三成の前線部隊右翼を形成した蒲生郷舎の陣跡だそうです。
一方、笹尾山に向かって右手が、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と詠われた、石田三成の前線部隊左翼を形成した島左近(勝猛)陣跡だとか。
この島左近陣跡の右手と、島左近陣跡と蒲生郷舎陣跡の中央の2箇所に笹尾山への登り口があるので、ここから山頂を目指します。すると、程なく石田三成陣跡に着きました。
(写真をクリックすると、拡大写真が別ウインドウで開きます)
それほど標高があるワケではないのですが、関ヶ原を一望することができ、戦闘指揮にはもってこいの場所なのかもしれません。
展望台には、関ヶ原合戦の戦闘開始時の布陣図が描かれ、ボタンを押すと説明音声が流れるようになっていました。
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北国街道や中山道で関ヶ原を突破されることを防ぐために「鶴翼の陣」を敷いた西軍陣地の中で、この場所は最左翼に位置することになります。正面には主戦場となった関ヶ原の盆地があり、そこから東軍が攻め寄せて来たワケですね。その向こうには、桃配山や南宮山を眺めることが出来ます。
一方、右手には西軍の各武将が築いた陣地のある天満山や藤川台、そして松尾山が見えます。
■ 島津義弘陣跡
笹尾山の南西、神明神社の裏手には、島津義弘陣跡がありました。
■ 開戦地、小西行長陣跡
島津義弘陣跡のすぐ南側には、開戦地の碑があります。ただ、実際の開戦地はこれより随分と南側だったらしく、農地整備などの関連で石碑が北へ移動させられたんだそうです。
その開戦地から少し奥に入ったところ、天満山の北側麓には小西行長陣跡がありました。
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小西行長と言うと、商人出身とか水軍大将という話と共に、キリシタン大名としても名が通っていますね。他の武将の陣跡と違って、この周辺では草花が多く見られたのは偶然なんでしょうけど、何だか印象的でした。
■ 宇喜多秀家陣跡
天満山の南側、天満神社あたりには宇喜多(浮田)秀家陣跡があります。
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今では宇喜多秀家には「宇喜多」の字を充てるのが一般的のようですが、「浮田」の字を充てる時期もあったようです。
■ 大谷吉継陣跡など
中山道のすぐ北側、若宮八幡神社の裏手には、義に厚く友情に応えた武将として人気がある大谷吉隆(吉継)陣跡があります。
(写真をクリックすると、案内板の拡大写真が別ウインドウで開きます)
実際には若宮八幡神社からではなく、東海自然歩道を藤古川からあるいて辿り着きました。この東海自然歩道を少し北側に入ったところには、大谷吉継の墓もあります。
大谷「吉継」の名で知られていますが、関ヶ原合戦の前に「吉隆」に改名したと言われているようで、一連の案内板には「吉隆」の名が前面に出ていました。
本来この場所は「鶴翼の陣」の中央で中山道での突破に備えるキーポイントにあたるワケですが、実際にはここから右翼側は西軍として機能しなかったので、実質的には西軍の最右翼となって戦います。
小早川秀秋の裏切りで吉継の部隊が崩壊したように言われますが、地形的に見ると吉継の陣地は秀秋の拠る松尾山に相対しており、合戦前から予め秀秋と戦うことも想定していたと言う説には「なるほど」と思えますよ。
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