まずはじめに、この著作のシュールなというべきか
不思議さを醸す題名「冷たい水の羊」について考えてみたい。
おそらく、いじめを受け続ける中学生「真夫」が
冬に廃屋のコンクリートの筒に「ご入浴」させられるシーンに重ねられた
心象が幾分詩的に表現されているのだろう。
このようにフレーズを作為的に変形することで隠喩の効果を得る一方で、
現実解離と破壊という
心的な問題を無意識に表わしている可能性もないとはいえない。・・
ともかく、ぼちぼち読み出して、少し気になってしまったのは
小説の手法というか、「真夫」の心象、感情、行動について
作者が全的に「語りつづける」ところだった。
それ自体にダブルフェイス的な無理感、じれったい感覚がつきまとってくる。
作者はそれを知ってか、極微的な光景描写を入れることで
それを補おうとするかのようにみえる。・・
しかし極微的な描写はかえって中学生の「真夫」のリアリティを殺ぎ
作品そのものをあやうくしているとおもえる。
むしろ真夫の目には「映っていても見ていない」離人症による
ピントのぼやけた無機質な光景こそふさわしいはずである。・・
ここでは作品の構成上の、厚みの要請と、
心的な病理症状のリアリティーとの狭間で、矛盾が表れているようだ。
書き出して早々、難くせつけたようでいささか気が引けて来ましたが、
それはそれとして、冒頭から「真夫」が起こしている重要場面の描写、
生垣に隠れ潜んでいる不可解な行動についての作者の心理描写をひろいだしてみましょう。
- 「真夫が実際に選んだのは、・・水原の自宅の近くで彼女が帰ってくるのをひたすら待つという方法で、ハンカチと包丁は準備したものの引っ張り込む場所は決めていないし、犯すといっても体をどう使えばいいのかはっきりと知っているわけではない。これではただうしろ姿を見送るためにアパートの隅へ通っていることになる。
しかし追いつけないと分ってほっとしたのは、今日もこうなってほしかったからだ。強姦と殺人と自殺をせずにすんだ安心は風船のように爽やかに太った。」 -
これは「真夫」の本当の気持ちであろう。
そしてこれがこの作者の表現したい核心の部分だとおもえる。
このような事態になった原因は「いじめを受け続けていた」ことにある。
するとここでは、「真夫はなぜ、いじめられ続けるのか?」ということと、
「真夫はなぜ、強姦と殺人と自殺をしなければならないのか?」という
二つの大きな心的な問題が初っ端から
読む者に、私の場合はカウンセラーを名乗る者に対し
真っ向勝負を挑むように立ちはだかってくる。・・
へなちょこカウンセラーとしても乗りかかった船だから、
こぎ出すしかないわけです。・・・
(次回につづきます。)