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オーラル・ヒストリー研究会・講演のお知らせ

下記要領で研究会が開催されるとのことですので、ご案内させていただきます。


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★オーラル・ヒストリー研究会・講演のお知らせ
「戦争・占領・植民地期のオーラル・ヒストリー研究会」(OH-WOC)
を以下のように開催します。通訳つき。
★このたび、会議で来日された、オランダ戦争資料館のブッハイム研究員を迎え、戦争や植民地・占領期の聞き取りにはつきものの、倫理性や家族への配慮など、微妙な問題について、皆様と一緒に、研鑽をつみたいと思います。
★エヴェリナ・ブッハイム氏は、1999年にJOHA準備会主催で講演した、蘭領東インドの聞き取りプロジェクトのフリーダス・スタイラン氏のもと、プロジェクトチームで実際に聴き取り調査を担当し、現在も、ナイーブな問題の聞き取りに取り組んでいます。
なお、文化人類学・歴史学出身で、社会学とも共同研究歴は長いです。
「日本のオーラルヒストリアンと、話しあえるのを楽しみにしています」とのことです。
お誘いあわせの上、ぜひ、おいでください。

場所:大阪大学 文・法・経済学部本館2階 史学共同研究室
豊中キャンパス http://www.osaka-u.ac.jp/jp/accessmap.html 参照

論題:「蘭領東インド植民地期の日蘭間結婚のオーラルヒストリー」(午前)
「資料公開の倫理・モラルについて」(午後)
「口述資料のアーカイブ利用の方法について」
講師: エヴェリナ・ブッハイムNIOD(オランダ戦史資料館)調査員
解説・通訳 中尾知代 (岡山大学社会科学研究科:国際オーラル・ヒストリー学会アジア評議員)

時間: 2008年4月6日(日)
11時~12時(ブッハイム氏の調査内容の紹介)
(1時間休憩)
13時~15時(オーラルヒストリーの倫理と、アーカイブの使用について)
(参加者の聞き取り体験を元にディスカッション)

●日曜日ですので、ランチ・飲み物はぜひご持参ください。日曜日の阪大付近は、飲食エリアがありません!
●問い合わせ先:oralhistory.nakao@gmail.com

質問も通訳します。通訳を援助できる方歓迎。通訳のため、時間が多少ずれることをご了承ください。

OH-WOC:(Oral History Research Study Group on War, Occupation and Colonial Era)
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「虐殺」とはなにか

南京事件否定論の柱のひとつに「捕虜や敗残兵、便衣兵の処刑は違法ではなかった」というものがある。こうした主張に対しては従来、国際法や南京攻略戦の実態に照らしてそれらが違法であることを明らかにするという努力が熱心に行われてきた。その努力は成果を挙げているし、また当然必要なものでもあっただろう。そのことを前提としたうえで、さらに次の段階として「違法性は虐殺の必要条件ではない」という議論も考えられるべきだろう。というのも、日本人が日本の戦争被害を記憶する際に「合法・違法」という基準にどれほど厳密にしたがっているかどうか、はなはだ疑問であるからだ。

例えば広島・長崎への原爆投下を「大量殺戮」「大虐殺」と認識する日本人は少なくないと思われるが、非軍事的目標への爆撃を禁じた「空戦法規」は厳密には「法規案」に終わっており、法的に十全な効力を持っていたのはハーグ陸戦規定の第25条、「防衛設備のない現住している町、集落、建造物への砲撃または攻撃は禁止される」という規定だからだ。とすると、例えば第二総軍の司令部があった広島を「無防備都市」と解釈しうるのかどうかが問題になりうる。ハーグ陸戦法規の第23条では「不必要な傷害を与える性格をもつ武器」が禁じられているが、もちろん原爆は毒ガスとは違って名指しでは禁じられておらず、「不必要」の解釈をめぐって南京事件否定論ばりの詭弁を弄する余地はある。また空戦法規案の理念を尊重して軍事目標主義をとった場合にも、原爆の犠牲者から軍人、軍属、軍需工場の従業員を差し引いて犠牲者数を推定する、といった発想を持つ日本人はほとんどいない。
原爆を「戦争犯罪」として摘発しその責任者を処罰しようとするならば、その法的根拠は厳しく問われねばならない。しかし問題が原爆投下の歴史的評価や被爆者の「記憶」であるならば、合法/違法は唯一の論点でもないし必ずしも第一の論点ですらないのである。

同じように、南京事件に関わる戦犯裁判の過程においては、弁護側が殺害、略奪の合法/違法にこだわるのは当然と言えよう(強姦については合法と強弁する余地はないだろうから、事実の有無のみが問題となろう)。しかし南京攻略戦の歴史的評価や生存者、遺族の「記憶」が問題となる時には、合法/違法は唯一の論点でもないし必ずしも第一の論点ですらないのである。
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第二次上海事変~南京戦の戦場(再掲)

同じ倍率の衛星写真で、第二次上海事変および南京攻略戦の戦場を日本の地理と比較対照してみる。南京とほぼ同じ位置に東京がくるよう、画像を回転させてある。上海、杭州、南京を結ぶ三角形が日本ではどの程度の空間的範囲にあたるか、確認していただきたい。多くの人口を抱えるこの一帯で、日中あわせて90万人と言われる軍隊が地上戦を展開したら、どれほどの被害が発生するかを想像していただきたい。
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イベント:南京事件70周年・国際シンポジウム

12月15、16の両日に明治大学駿河台校舎・リバティタワーで「南京事件70周年・国際シンポジウム」が行なわれます。詳細はこちらをごらんください。
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第16師団による丹陽城内掃蕩(再掲)

1937年のこの日、第16師団の主力は南京外周陣地を間近に望む丹陽に進出。同日の中島今朝吾師団長の日記より。

一、早朝拝旭光待丹陽城内之掃蕩
拝東丹陽則西負丹陽
四門既閉敵是嚢中之鼠
旭光鮮明鼠賊不掃討逃
勿犯古訓窮鼠却食猫
不損兵破敵戦之要訣

敗残兵や捕虜の殺害が上海から南京に至るあちこちの戦場で起こっていただろうことを伺わせる。

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国際感覚の欠如―第101師団、上海共同租界内を示威行軍(再掲)

「松井石根大将陣中日記」、12月3日の項より。

 此日第百一師団工藤少将の指揮する歩百三聯隊、砲兵一大隊を以て共同租界内の示威行軍を実施す 両租界当局極力租界内の警備に尽くしたるも 遂に一名の支那人の爆弾事件ありたるも大事なく無事示威の目的を達成せり 内外人等しく驚異の目を以て之を見る 在留邦人の感激此上なし 只此事始め海軍に交渉し陸戦隊の協同を希望したるも海軍側が例の租界と列国を気兼ねする心地尚去らず 遂に陸軍と協同するを辞したるは極めて遺憾なり
 此本行軍の結果 特ム部をして共同租界警察総監との間に今後一層租界内排日分子の取締を要求し 必要と認むる時は 軍は自衛上租界内清掃に関し独自的手段を取るべきことを約せしめたるは爆弾事件の功名なり

交戦相手である中国ならともかく、欧米諸国を相手にしての示威行軍である。海軍の及び腰を「遺憾」としているがまだしも海軍は国際的な反響を気にかける意識を有していた、ということであろう。
外務省東亜局長石射猪太郎は11月30日の日記にこう記していた。

○米ドーマン参事官来訪、共同租界を日本軍が通る話はよして呉れと、注意喚起文を持参す。松井司令官の陶酔言が方々へひびく。

さらにその前日、29日の日記から。

○陸海外集まる。北支に出来る政権を始めから中央政権たらしめ度いとの陸軍案に反対し置く。天下の笑物になる。

国家が自国の利益を追求すること、その利益追求のために軍が行動することを咎めてもしかたないかもしれない。しかし守るべき利益はおのおの他国ももっているのであり、自らの行動の国際的な反響を計算できなければ結局は国益を損なうことになる。この日の陸軍の示威行軍も、そうした独りよがりな発想の産物であったといえよう。

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イベント:歴史と私がつながるとき―「日中戦争・南京事件」と記憶の継承

2007年 12月 8日(土)大阪
■歴史と私がつながるとき
   ―「日中戦争・南京事件」と記憶の継承

■歴史と個人の関係性について考える
  ―「日中戦争・南京事件」を手がかりに、「なぜ歴史に向き合うのか」「歴史とつながりをもつとはどういうことか」そして、「どうすれば歴史を語り伝えていくことができるのか」ということをみなさんとともに考える機会を持ちたいと思います。
  テーマの底流にある「何か」をあなたの「感性」で感じとり、そして「知性」で考え抜いてください。
(後略。「心に刻む会のブログ」より転載。詳細はそちらをごらんください。)
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トラウトマン工作:蒋介石、独大使トラウトマンと会談(再掲)

ちょうど1ヶ月前の1937年11月2日、廣田弘毅外相が駐日独大使ディルクセンと会談、和平条件を示す。同日、駐中独大使トラウトマンから蒋介石に日本側の条件が伝えられる。10月1日決定の「支那事変対処要綱」にそったもので、
華北と上海に非武装地帯を設定
満州国承認
防共協定締結
日中合弁事業の実施
といった項目を含んでいた。12月2日、国際社会の反応の鈍さ、軍事的劣勢をみて蒋介石はトラウトマンに上記条件を和平交渉の基礎として受け入れる旨伝達する。日本側には12月7日に伝えられた。
(12月8日のエントリに続く)

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朝香宮中将、上海派遣軍司令官に(再掲)

1937年12月2日付けで朝香宮鳩彦王中将が上海派遣軍の司令官となり、松井石根は中支那方面軍司令官専任となる。
南京陥落後の敗残兵掃討が軍事的な必要性を越えて苛烈になった一因として、現場部隊の反対にもかかわらず入場式を17日とする予定に(松井大将が)こだわったこととあわせ、皇族の司令官に万一のことがあってはならないという意識があった、と研究者たちは指摘している。
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中支那方面軍の戦闘序列発令(再掲)

1937年のこの日、中支那方面軍の戦闘序列(天皇の命による正式な軍の編成)を発令、あわせて「敵国首都南京を攻略すべし」との大陸命(大本営陸軍部の命令)を下した。南京攻略戦が名実ともに始まった日である。藤原彰、秦郁彦、笠原十九司らの歴史家・戦史家はおおむねこの日ないし数日後を南京事件の起点としている。右の地図は『南京戦史』(偕行社)より。見開き2ページのものを合成。

「松井石根大将陣中日記」によると、12月1日における各部隊の状況は以下の通り。
上海派遣軍
 第13師団:江陰市街を占領
 第16師団:常州を占領。一部は西に向けて追撃。
 第9師団:常州・金壇道を追撃
第十軍
 第114師団の一部:漂陽へ向け追撃
 国崎支隊:広徳を占領
 第6師団主力:湖州付近で集結
 第18師団:長興(宣興の間違いか?)南方で集結

いずれも上海・南京間の道のりの半ばを越え、いよいよ南京攻略戦の戦場に突入しようとしている。
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沿道の死体(再掲)

写真でも確認できる)へと移動する。これはちょうど第一次の制令線から第二次の制令線への移動にあたる。その間の見聞。同日の日記より(カタカナをひらがなに改めた)。

それより途中支那人の死体を見たるは二百以上と思ふ 中には五六人一緒に死して居るあり
大概支那服を着す 中には正規服を着せし軍人もあり 腰には弾盒を着けたるものあり

上海・南京間の戦場でも民間人の犠牲者が出ていたのである。なお甘粕大尉(関東大震災時の大杉栄殺害犯)の裁判を担当していたが、追及が厳しいため難癖を付けて忌避されたという経験を持つ小川法務官は、二・二六事件にもかかわっている。みすず書房の『ある軍法務官の日記』に収録された長女の回想によれば、皇道派の大物真崎甚三郎の裁判を担当したが(陸軍の圧力により無罪)、「あんな卑怯なやつは見たことがない」が口癖だったとのこと。臨終の床で、それまで一度しか会ったことがなかった医師に「真崎は悪いやつです」と漏らすほど、真崎甚三郎への怒りは大きかったようである。
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蘇州・嘉興制令線を廃止(再掲)

参謀本部は11月7日に指示した「中支那方面軍の作戦地域は概ね蘇州嘉興を連ぬる線以東とす」という制令線を廃止する旨、24日に指示(中支那派遣軍が指示を受領するのは翌25日)。だがこの日、上海派遣軍は無錫を攻撃中、第十軍は湖州を占領(「松井石根大将陣中日記」による)、とすでに制令線を越えて南京に向かっていた。
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第一回大本営御前会議(再掲)

11月20日に設置された大本営の第一回御前会議。石原莞爾の後任として参謀本部第一部(作戦部)部長であった下村定が作戦計画について説明をおこなった。以下、「下村定大将回想応答録」より。漢字の用法および仮名遣いを改めた他、原文の注記を省略した。

下村 (…)  作戦計画の細項は有末中佐が原稿を作ってくれましたのでその原稿を敷衍致しましたが、ここに書きましたのはそのとき申し上げたのと一字一句も違いはないのであります。それを朗読致します。
 「陸軍部〔肩書きが参謀本部ではなく大本営の構成員としてのものになっている。引用者注〕第一部長御説明  
(…)
 二、中支方面  中支那方面軍は上海周辺に於ける戦勝の成果を利用致しまして機を失せず果敢なる追撃を実施しつつありますが元来この軍は上海付近の敵を掃蕩するを任務としかつ同地を南京方面より孤立せしむることを主眼として編組されておりまする関係上その推進力には相当の制限がございますのみならず目下その最前線部隊はその輜重はもとより砲兵の如き戦列部隊すらもなお遠く後方にあるもの少なくございません随って一挙直ちに南京に到達し得べしとは考えておりませぬ」

下村 これは前線から参りました報告を申し上げたのであります。  

「この場合方面軍はその航空部隊をもって海軍航空兵力と協力して南京その他の要地を爆撃しかつ絶えず進撃の気勢を示して敵の戦意を消磨せしむることと存じます。
 統帥部と致しましては今後の状況如何により該方面軍をして新たなる準備態勢を整え南京その他を攻撃せしむることをも考慮しております」

下村 これは有末から貰った原稿にはなかったのであります。その当時部外へは南京に行くということは未だおくびにも出せなかったのでありますが、しかし全般の状況から見まして、この際どうしても申し上げておかねばならないという考えから私がこれだけを入れたのであります……後で次長から叱られたのでありますが……

「次長」というのは病気の今井清中将に代わって参謀本部次長となった多田駿中将(当時)を指す(翌1月に最後まで和平工作継続を主張した)。不拡大派の参謀次長(事実上のトップ)を差し置いて第一部長が勝手に南京攻略の可能性を公言したわけである。「自由にものが言える開かれた組織」というのがこういう組織を指すわけでないことはいうまでもない。
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南京安全区国際委員会、正式発足(再掲)

数日前からメンバー間で会合がもたれていたが、1937年11月22日、ドイツ人ジョン・H・D・ラーベを委員長として選出、正式発足。アメリカ大使館を通じて、日中双方へ安全区の尊重を訴えた。

安全区委員会の活動がなければ、非戦闘員の犠牲者は史実よりもさらに増えたであろうことは容易に想像がつく。更なる不名誉の上塗りを回避できたことに対して、日本側も彼らに感謝すべきだろう。
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