La Repubblica Hirotaliana

西洋史(特にイタリアの歴史と文化)、映画、音楽、文学、政治など様々な分野に興味・関心があります。

映画『セッション』と『ラ・ラ・ランド』

2017-04-14 17:29:07 | 日記

今年度のアカデミー賞受賞を『ムーン・ライト』(⇒作品賞)と争った、ミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』をみた。監督は、デイミアン・チャゼル。この監督の前作はキネマ旬報誌の洋画部門で第一位に選ばれた『セッション』。作品は、ジャズ・ドラマーとしての成功を夢見て一流の音楽大学に入学した一人の若者と、指導にあたった鬼教師との凄まじい対決を軸に物語が進行する。バンマス鬼教師のスパルタぶりはとにかく常軌を逸しており、若者のプライドやドラム奏法に対して、それらをずたずたにするほどの悪意に満ちた面罵を徹底的に容赦なく浴びせ続け、意欲を喚起するどころか著しく委縮させる。これぞまさしくパワハラの極致というべきか。このような音楽教師は、かつて演奏家として一流になれなかった経歴(強いコンプレックス・挫折感を抱えている)の持ち主ではないかと想像してしまう。才能ある若者の技量を引き出し高めるどころか、逆に芽を摘み挫折に追い込んでしまうのだ。実際、映画の主人公は夢かなわず退学する。鬼教師とて、こんな指導法では大学としても容認できないはずで、彼も教職の地位を追われてしまう。映画の後半に入ってから、二人は再会し、物語は新たな展開を見せる。最後は、鬼教師が指揮するフルバンドによるジャズ・コンサートのドラマーとして加わった主人公が圧巻のドラム奏法を披露する。(曲目は『キャラバン』) 映画・演劇やTVドラマのストーリーの基本を、よく「起承転結」というが、この映画は、想像を超えた展開を幾度もみせ「起承転転転結」と呼ぶのがふさわしく実にサスペンスフルだ。ラスト、若者の命がけの演奏を通して鬼教師と心が打ち解け(鬼教師が彼を受け入れる)、いわば和解(?)に至る。結局、主人公はついに音楽において鬼教師との勝負に勝ったのである。

 話を『ラ・ラ・ランド』に戻す。ミュージカル映画といえば、特に1950年代、ジュディ・ガーランド、ジーン・ケリー、フレッド・アステアら一級のスターを擁するMGMが、その宝庫だ。しかし、僕のような団塊世代は、1960年代の『サウンド・オブ・ミュージック』、『メリー・ポピンズ』や、社会派的視点を持つ傑作『ウエストサイド物語』の方が(とにかくクール!)、印象深い。加えて、ジャク・ドウミ監督のフランス製ミュージカル『シェルブールの雨傘』(カトリーヌ・ド・ヌーブの何という可憐さ、繰り返し流れるミシェル・ルグランのあのメロディーと哀しく余りにも美しい物語)や『ロシュフォールの恋人たち』(カトリーヌの実姉フランソワーズ・ドルレアックも出演、その後事故で急逝)も忘れ難い。『ラ・ラ・ランド』は、こうした過去のミュージカルへのオマージュとしての性格を持っているように思える。映画の冒頭で、ひどい渋滞に巻き込まれた人々が路上・車上で群舞するシーンは『ロシュフォールの恋人たち』、女優志望のヒロイン(演ずるはエマ・ストーン、今は成功を収め女優としても妻としても幸福な人生を送る)が、愛していながら結ばれなかったジャズピアニスト(=ライアン・ゴズリング)と再会するラストは『シェルブールの雨傘』、のように。また、映画の随所で披露される明るく軽快なダンス、タップは、ハリウッド製ミュージカルの名作を想起させてくれる。ラストの追憶と幻想のシーンは、良質なセンチメンタリズムで彩られ観る者を余韻・余情に誘ってくれる。ハリウッド業界の裏面をとりあげた物語としても興味深い。『セッション』で鬼教師を演じたスキンヘッドの男優(名前は忘れた)が、ナイトクラブのオーナー役で出演していて、客が心地よくなるような曲を演奏をしなかったという理由で、ジャズピアニストを解雇する場面は思わず笑ってしまった。『ラ・ラ・ランド』は、おしゃれでロマンティックで都会的でノスタルジックで、間違いなく僕の好きな作品リストの1つになった。




1 コメント

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ブログタイトルの意味は? (ハマル)
2017-04-15 08:20:22
こんにちは

映画批評 さすがです!
長文ですが映画みるのにいい参考になります。

ところで
ブログタイトル Reppublica イタリア語ということだけは
私でもわかりますが、意味を教えて下さい。

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