"器楽曲"と"歌"の違いって何だろう?
乱暴に言ってしまうと、前者は楽器のソロもしくはアンサンブルでもって曲の世界を表現する、後者は歌詞とその歌い手がいて、詩と歌と演奏をもってして世界を表現する。
ピート・シンフィールド(Pete Sinfield)、名前を知らない人もどこかで彼の詩を耳にしたことがあるかもしれない。いろいろな人に詩を提供していて近年は映画「タイタニック」の主題歌詩も書いている。
お仕事モード?の最近の作品はよく知らないので、昔の仕事、彼が一般に知られるようになったキング・クリムゾン(King Crimson)在籍時の作品を例に、詩の力に触れてみたいと思う。
クリムゾンの1stアルバムに収録されている「I talk to the wind」(邦題:風に語りて)。わりと有名な牧歌的な曲だが、この曲の魅力の半分以上は彼の詩にあると思っている。当時の彼は半端でなく深く含蓄を入れた歌詞を書いていて、私なんかには詩の真意はさっぱりわからない。なのに幻想の世界へと引きずり込まれそうになる。
最初を一部引用すると(引用に問題があればすぐ削除します...)
Said the straight man
to the late man,
Where have you been
I've been here and
I've been there and
I've been in between...
どうでしょう?よくわからないでしょ?たぶん世相も反映されていると思うので、the straight manやthe late manを解釈するにはいろいろと知る必要があるのだけど、フルートをはじめとする木管楽器が骨格を作る牧歌的メロディーにこの韻を踏みまくりの詩を乗せて語りかける。この風を感じるには曲を実際に聴いてもらうしかないのだけれど、この詩がなくて、例えばこの曲が器楽曲だったりしたら、多少美しいにしても単なる軟弱ソングにしか成り得なかったと思う。
当時の彼の写真を見る限り、なんか純粋な文学青年のように見えて、だからこそこんな詩を書けたのではないかと思ったりもする。(他の詩を読む限り、実際はかなりヒネクレてたかもしれないんだけれども)
そんな彼も大人になったのか、仕事と割り切るようになったのか、近年は前述したセリーヌ・ディオン(Celine Dion)の曲のようにわかりやすい恋愛歌詞も書くようになっているようである。韻を踏みまくりなのは相変わらずみたいだけど。
歌がある曲も器楽曲と同じ感覚で聴く人もいる。例えば「歌も楽器の一部でしかないから歌詞なんかなくてもいいよ」というように。音楽ジャンルによってはそれも否定する気はないのだけど、せっかく詩があるのにスルーさせているのはもったいないと思う。それによって曲の印象がガラッと変わることもあるのだから。
最後に166.6の歌詞は166.6ホームページに入ってから左のフレーム「Words」をクリックすることで見ることができます。
乱暴に言ってしまうと、前者は楽器のソロもしくはアンサンブルでもって曲の世界を表現する、後者は歌詞とその歌い手がいて、詩と歌と演奏をもってして世界を表現する。
ピート・シンフィールド(Pete Sinfield)、名前を知らない人もどこかで彼の詩を耳にしたことがあるかもしれない。いろいろな人に詩を提供していて近年は映画「タイタニック」の主題歌詩も書いている。
お仕事モード?の最近の作品はよく知らないので、昔の仕事、彼が一般に知られるようになったキング・クリムゾン(King Crimson)在籍時の作品を例に、詩の力に触れてみたいと思う。
クリムゾンの1stアルバムに収録されている「I talk to the wind」(邦題:風に語りて)。わりと有名な牧歌的な曲だが、この曲の魅力の半分以上は彼の詩にあると思っている。当時の彼は半端でなく深く含蓄を入れた歌詞を書いていて、私なんかには詩の真意はさっぱりわからない。なのに幻想の世界へと引きずり込まれそうになる。
最初を一部引用すると(引用に問題があればすぐ削除します...)
Said the straight man
to the late man,
Where have you been
I've been here and
I've been there and
I've been in between...
どうでしょう?よくわからないでしょ?たぶん世相も反映されていると思うので、the straight manやthe late manを解釈するにはいろいろと知る必要があるのだけど、フルートをはじめとする木管楽器が骨格を作る牧歌的メロディーにこの韻を踏みまくりの詩を乗せて語りかける。この風を感じるには曲を実際に聴いてもらうしかないのだけれど、この詩がなくて、例えばこの曲が器楽曲だったりしたら、多少美しいにしても単なる軟弱ソングにしか成り得なかったと思う。
当時の彼の写真を見る限り、なんか純粋な文学青年のように見えて、だからこそこんな詩を書けたのではないかと思ったりもする。(他の詩を読む限り、実際はかなりヒネクレてたかもしれないんだけれども)
そんな彼も大人になったのか、仕事と割り切るようになったのか、近年は前述したセリーヌ・ディオン(Celine Dion)の曲のようにわかりやすい恋愛歌詞も書くようになっているようである。韻を踏みまくりなのは相変わらずみたいだけど。
歌がある曲も器楽曲と同じ感覚で聴く人もいる。例えば「歌も楽器の一部でしかないから歌詞なんかなくてもいいよ」というように。音楽ジャンルによってはそれも否定する気はないのだけど、せっかく詩があるのにスルーさせているのはもったいないと思う。それによって曲の印象がガラッと変わることもあるのだから。
最後に166.6の歌詞は166.6ホームページに入ってから左のフレーム「Words」をクリックすることで見ることができます。