私の 37か国の 旅日記

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ミイラの作り方

2016-07-31 08:30:45 | 日記
「ツタンカーメンの名が有名なのは、1922年、その王墓がほとんど盗掘され
  ることなく発見され、1700点を超える副葬品の多くが黄金であった。
  また、1352年18才で早逝した王のため使われた膨大な黄金の量は、古代
  エジプト王の絶大な権力を物語る。他の偉大な王達の副葬品を絶する数の財宝
  に囲まれ埋葬された訳は。なぜかな。ロマンとミステリアスが有る GBより」                   
   
 カイロはアフリカ最大の都市。バスで市内を観光しながらモハメド・アリモスクへ到着した。
14世紀に建設されたこのモスクはイスラム教の心のより所。、見学のためバスから降りると
まもなく土産物売りが大勢近寄って来た、断ってもしつこく着きまとわれ困った。 
 
 ここは高台でカイロ市街がよく見渡せた。カイロも相当な過密都市で、市内の中央をナイル
河が地中海に向けて流れていた。世界一長い河で全長6,600Kに達する。市内は高速道路
も有るが、街の中心街は人と車の大洪水。一応信号機は有るがほとんど無視され、道路を
高級ベンツ車と荷車を引くロバが並んで走る、このアンバランスがエジプトらしさを感じた。

 中には酷いボロ車が乗れるだけ人を乗せ、警笛をけたたましく鳴らしながら、結構上手に車
の流れに割り込み運転をしていた。車検は無く車を自分で修理をし乗れるだけ使う。時々事故
があるようだが多少の場合は仕方がないで済ませてしまい、おおらかさの通る国。 
 
  「興味深いのでミイラの作り方を書いてきた。ミイラ師が死体の鼻の中から鉄の鉤
   を使い脳を取り出し、左脇腹から心臓以外の贓物を抜く。香料で身体を清め天然
   ソーダ―水の中に70日間漬け置き、ヤシ油で身体全体を塗り亜麻の包帯で綺麗
   に身体を巻き込み、おもむろに乾燥させた。主に王やその家族と王に仕えた貴族
   などがミイラとなった。そして動物のミイラも作られた。」  GB より  
 
今日の夕食はレストランで、エジプト料理を食べる。メニューは、エイシサラダ、カバブ、
チキン、ターメイヤ、ライス、オレンジだった。
 エジプトを旅行中、食事はこんなもので、毎食変わり映えがしなかった。鳩料理が出た時も
あったが、私は食べなかった。鶏肉が苦手だった。

エジプト博物館

2016-07-30 12:12:52 | 日記
 ホテルの窓から外を観ると、ナイル河がゆったりと流れていた。ナイルの流れを観ている
と、エジプトへ足を踏み入れた実感が身体中に喜びとなって伝わってきた。
 
 まず、カイロで最初の見学場所はエジプト博物館から始まった。日本人の現地ガイドが付
き入館した。この博物館の一階に置かれている収蔵品は、ほとんど古代の石造りの遺物で、
1つ1つが見上げる様に大きな物ばかり、その間をぬうように観て歩く。

 ガイドは丁寧に分かりやすく解説してくれるが、なにせ5千年の歴史で、始めは聞いてい
るだけでエジプトの地名も人名も歴史までは理解できなかった。
 
 解らないまま説明を聞きながら2階へ上がると、そこは、あの有名なツタンカーメン(雨後
の恵み)一色だった。7才から18才までの11年間、18王朝の名も無い王であった。
 18才で亡くなるが、彼がなぜ若くして死んだかは、いまだ解っていない。その時王妃は
14才だった。ツタンカーメンの身体を覆ていたマスクと棺は22金で作られ、今も昔のまま
の輝きを示し、当時の職人の工芸技術の確かさを観る事ができた。
 棺は複雑なアラバスタ―模様で全面がデザインされ、描かれている絵は当時の人々の様子が
模様になっていた。宝石は、青いラピスラズリ―や水色のトルコ石 真っ赤な紅玉、色ガラス
など多種多様で若き王にしては豪華で贅沢過ぎる財宝に囲まれ埋葬されていた。
 これだけの棺の装飾が財宝で簡単に作れる物ではないので、死後造られたとは思えない。

 別料金40EPを払い2階の奥に有るミイラ室に入った。全部で11体のミイラが棺に納め展示
されていた。その中でも有名なミイラはラムセス2世。彼は歴代の王の中でも一番多く建造物を
創り遺した。有名なのはルクソールのアブシンべル神殿とカルナック神殿。王としての在位も長
く65年間君臨し90才まで長生きし、正妻8人と側室200人と子供200人。
毎月のように何人かの子供が生まれていただろう。すごいぞ、ラムセス2世。
 彼の後を継いで王となった子は13番目の王子だった。
 ラムセス2世が最も愛した王妃は第一后のネフェルタリ妃だった。 

ピラミットと クレオパトラと ツタンカーメンの国 エジプトへ

2016-07-30 10:18:19 | 日記
 1997年2月7日~2月16日。十日間のエジプトの旅へ行ってきた。
成田発12時30分。パキスタン国営の航空会社で、南回りの飛行でエジプトへ向かった。
パキスタンは世界でも有数の敬虔なイスラム国で、飛行機の離陸前に、必ずコーランの
祈りのカセットを機内に流した。
 祈りの言葉は分からないが、飛行の無事でも祈っているのだろうか。スチュワーデスも、
特徴の有る民族衣装でお国柄を出していた。エジプト直行便だと14時間で着くが、北京、
イスラマバード、アブダビ経由で各飛行場で乗客を降ろしては乗せる各駅便みたいだった。

 全行程22時間、その間食事が3回、軽食が3回出てきたが、こうも次から次えと食事
が出ても食べられたものでは無かった。動きの取れない椅子に座りっぱなしで窮屈で退屈
で、お腹も空かないし、眠る事もままならなかった。
 
  エジプトのカイロ(勝利)空港に定刻通り4時30分に到着したときは、長旅の疲れ
と寝不足で化粧も剥げ落ちてひどい顔だった。
 コートを着て機外に出るが、かなり寒い。これでは関東の真冬の気温と変わらない。
 互いに顔を見合わせ寒い寒いと言葉を交わす。カイロの街はまだ深い眠りの中にあって
静寂そのもの。仮眠を取るため市内のホテルへバスで向かう。

 「エジプトは、今から5千年前ナイル河の辺りに、古代エジプト文明を誕生させ、
  大河の水と太陽の恵みを受け、古代エジプト人によって、5千年の歴史を華麗に
  展開させた。いわば、人類の源泉とすら言える処。古代エジプト人達は死後の
  世界を信じて、王族達が遺した独特な信仰や建造物が現在世界遺産として甦り、
  よって、世界各国から大勢の観光客を引き付けている。    G,Bより  」

 2月8日(土)
 モスクからコーランの祈りがまだ薄暗いカイロの街中に響き渡り聞こえてきた。時計を
観ると5時、カイロの人々が動き始めた。

シルクロードの歴史について

2016-07-29 09:53:24 | 日記
 その他シルクロードをえて伝承された物は、美術、音楽、文学、化学、建築、絵画、
彫刻、思想、芸人、職人など数限りない。
 
 見逃すことのできないゾロアスター教(イランに興起した古代の宗教の名称)イス、
ラム教、仏教、ラマ教(チベットを中心に発達した仏教の一派)などの宗教が社会に
及ぼす影響は大きく文化面のみに至らず民俗間の係争にまで拡大する。

 シルクロードを大別すると草原地帯とオアシス海上ルート(砂漠の中に浮かぶ人口島)
に分かれ、それぞれに利点が有り役目を果たした。
 
 ユーラシア大陸の上に展開された、3っつの大きな遠征の一つは、紀元前4世紀、アレ
キサンダー大王によって西から東へアジアの奥深く侵攻し遠征されて。よってヘレニズム
(ギリシャ風)文化の影響をアジアに及ぼした。二つは7世紀、アラブ人によるイスラム
軍のアジアへの東征で都市部を壊滅的に破壊した。
 
 しかし遠征後の治世において文化的貢献は大きく、イスラム文化を定着させた。3つは
13世紀、モンゴル軍により東から西への征服で、その勢いは中央アジアをかすめヨーロ
ッパまで及んだ。
 狂暴なタタール人として恐れられ破壊の規模に比べ残された実りは少なかった。
 
 アレキサンダー大王(ギリシャ系マケドニア王)はバルカン半島中央部地方、現在のユ
-ゴスラビア、ブルガリア、ギリシャ、ペルシャに遠征し、アレキサンドロス帝国を創建
した。西 中央アジアを始め西インドにまで軍を進めた。
                                ガイドブックより

パキスタンとウズベキスタン両共和国の概要

2016-07-28 09:26:16 | 日記
 パキスタン共和国
 1947年ヒンズー教の多いインドからムスリムのイスラム国家としてジェンナーに
率いられ分離独立した。ムスリムはパキスタンで主に地主やブルジュアが、その支柱で
重要な地盤は西パキスタン。生活様式や習慣はインドと共通するが部分が多い。
もともと、この地は多種な民族が各自の文化を誇りに抱き生活を送る地域色の濃い所で
言語も違い多民族からなる国で、地域ごとにバラバラなパキスタンが、一国にまとまっ
ている理由は、世界でも数有るイスラム国の中で、最も厳しい戒律を持ち貧富の差が
激しい。緑が豊かで農作物も年2回収穫ができ生活がしやすい。人口は1億80万人。
通貨はパキスタンルピーが使われている。

 ウズベキスタン共和国
 カザフスタン、タジキスタン、キリギスタン、トルクメニスタン、アフガニスタンの
五カ国に国境を接し、中央アジアの中間地点に位置している。海抜700M~800Mで
砂漠性気候のため、雨は少なく乾燥している。
 1991年10月旧ソ連より独立。ウズベキ語が公用語で、現在ロシア語は使われて
いない。経済的にも社会的にも、今だに旧ソ連の影を引き摺っている。国土の大半はキジル・
クム(赤い砂漠)カラ・クム(黒い砂漠)に覆われている。
 太古の時代より東西交通の中継地として、重要な役割を果たしてきた。黄河、インダス、
メソポタミア、エジプト文明の偉大な影響を強く受け、民族や文化の興亡を繰り返してきた
多民族国家。通貨はクーポンで7月1日にデノミが行われる。経済自由化が穏やかに進む
農業国。
  
 シルク・ロードについて
 中央アジアは東の中国と西アジア・ヨーロッパの中間に位置し、東の長安の都から西の
ローマを結ぶ道をシルク・ロード(東西交通路)絹の道という。中国の対外貨易路といった
性格が強く、中国商人によって開拓された。厳しい砂漠を横断しなければ東西の交易は成り
立たなく、中国からは、絹、紙、茶、陶磁器などが西え運ばれ西からは、ガラス、宝石、楽器
食物などが伝えられた。主に贅沢品の長距離輸送路だった。
ガイドブックより