ホンダ社長、将来は「完全に白紙」=F1撤退(時事通信) - goo ニュース
ホンダがF1に初めて参戦してから44年の月日が経つ。
最初はそれほど乗り気ではなかったという創業者の本田宗一郎氏だが、若手技術者達の四輪車を開発するならF1参戦をの声に乗せられて、自らが開発現場の最前線に立って指揮していたと聞く。
その後1968年に当時問題になっていた公害に対応するエンジン開発に注力するとして撤退するが1983年に再び参戦、その後会社の売り上げが伸びないことを理由に1992年に撤退、そして2000年になってまた参戦という経緯をたどっているが、ホンダに携わる人たちにとってはF1というものがひとつの夢であり、目標であるというのは間違いないだろう。
だから社会環境、そして経営上の問題があって一旦撤退しても、戻ってきたのだ。
ホンダの存在があったから、トヨタもF1参戦し、富士スピードウェイを三菱地所から買って日本グランプリが開催可能なように整備した、はずだ。
そして今年、国内新車販売の不振に世界的な不況による海外販売の不振、そしてチーム自体の不振、他チームより100億円は多いといわれる運営費の問題もあって、ホンダはまたF1の世界から去ることを決めた。
福井社長は「完全なる撤退、今後は白紙」としているが、まさに苦渋の決断、身を切るような決断だったに違いない。
トヨタの関係者も絶句し、鈴鹿市長も驚きを隠せないホンダの撤退。
普段車に乗らない、そしてF1についても数人のドライバーの名前しか知らない人間が書くのは失礼かもしれないが、ホンダにはいつかF1の世界に戻ってきてもらい、日本の技術の素晴らしさを世界にアピールして欲しい。
今はそうとしか言えない。
ホンダがF1に初めて参戦してから44年の月日が経つ。
最初はそれほど乗り気ではなかったという創業者の本田宗一郎氏だが、若手技術者達の四輪車を開発するならF1参戦をの声に乗せられて、自らが開発現場の最前線に立って指揮していたと聞く。
その後1968年に当時問題になっていた公害に対応するエンジン開発に注力するとして撤退するが1983年に再び参戦、その後会社の売り上げが伸びないことを理由に1992年に撤退、そして2000年になってまた参戦という経緯をたどっているが、ホンダに携わる人たちにとってはF1というものがひとつの夢であり、目標であるというのは間違いないだろう。
だから社会環境、そして経営上の問題があって一旦撤退しても、戻ってきたのだ。
ホンダの存在があったから、トヨタもF1参戦し、富士スピードウェイを三菱地所から買って日本グランプリが開催可能なように整備した、はずだ。
そして今年、国内新車販売の不振に世界的な不況による海外販売の不振、そしてチーム自体の不振、他チームより100億円は多いといわれる運営費の問題もあって、ホンダはまたF1の世界から去ることを決めた。
福井社長は「完全なる撤退、今後は白紙」としているが、まさに苦渋の決断、身を切るような決断だったに違いない。
トヨタの関係者も絶句し、鈴鹿市長も驚きを隠せないホンダの撤退。
普段車に乗らない、そしてF1についても数人のドライバーの名前しか知らない人間が書くのは失礼かもしれないが、ホンダにはいつかF1の世界に戻ってきてもらい、日本の技術の素晴らしさを世界にアピールして欲しい。
今はそうとしか言えない。