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初めて知ったイスラム社会

2016-10-01 19:24:33 | イスラム社会
初めて知ったイスラム社会

NHKラジオ第二放送で毎週日曜日午後9時から「文化講演会」の放送がある。9月4日に「今だからこそ知る素顔のイスラムを知る」の放送があった。講師は社会学者で同志社大学大学院教授の内藤正典氏で、これを聞きイスラム世界の概略を初めて知りました。
講演の内容をカセットテープに録音し、テープを一寸刻みに進めたり戻したりしてほぼ一か月かけて僕なりに少し省略をしましたが正確に文章にしました。長文になりますが是非お読み下さい(聞き間違いや聞き落としがあって内藤正典氏の意に沿わないところもあるかもしれません文責は僕にあります)。
僕はこれを聞いてイスラムについていかに無知かを知らされ、イスラム社会の生きやすさに深い感銘を受けました。差し支えなければ知り合いのブログのお仲間にも紹介してください。

(アナウンサーによる講演紹介)
これまでのイスラムの歴史の中で前代未聞の凶悪なイスラム国が誕生した。どうしてこのような集団が誕生したか、そしてなぜイスラム教徒は自分の国にもかかわらず生きにくさを感じてしまったのか、テロや暴動ばかりを報道されている今だからこそイスラム教徒の実情を内藤さんが語ります。

(講演内容)
イスラムという宗教、それを信じる人がいったいどういう人なのかその素顔に迫るということから、いま世界で何が起きているのかを考えてみます。
ヨーロッパに行けばイスラムに対して強い偏見があります。残念ながら日本ではイスラムに関してはアジアの遠い世界の宗教と考えられており、日本の場合は理解がかなり少ないので偏見がなくそれは必ずしも悪いことではないと言える。

ヨーロッパの偏見はどこから来たのかから話しましょう。先ずイスラムとは何かですが昔は学校では回教と言いましたが回教とは中国の西の地方の回族の宗教という意味で今は使いません。
その後長いことイスラム教と言っていました、必ずしも間違いではないのですが何々教といった場合は必ず教祖がいます。キリスト教のばあいはイエスを拝みますがイスラムの場合は教祖がいませんので拝む対象がありません。

イスラムはイスラムする宗教なのです。イスラムするとは絶対的超越者を信じることですから神様を拝む宗教ではありません。絶対的超越者ですから人間のほうに降りて交わりはしません。キリスト教ではイエスは神の子ですが、イスラムは絶対的超越者ですから人間のように子供は生みませんのでいません。

イスラムするとは神様に全面的に「従う」「委ねる(ゆだねる)」と言うことです。いろいろな厳しい戒律があり全部守らなければならない、これは大変な宗教だなと感じますが必ずしも全部守らはなければならないわけでもありません。もちろん全部守っている人もいますが守らない人もいます。

アラビア語ではイスラムする男性を「ムスリム」女性を「ムスリマ」と言います。他の言語では区別しない場合もあります。

一神教で最初にできたのはユダヤ教、次にキリスト教、最後にできたのはイスラムです。なんでもそうですが先に出てきた方は後にできたものを偽物だと言います。宗教も同じで先にできた宗教は偽物だと言います。ユダヤ教の人はキリスト教が出てくるとそんなものは偽物だと言い最後にはキリストを十字架にかけてしまいます。

キリスト教が出来て600年ほどたってアラビア半島にイスラムが出来ました。作ったのは「ムハンマド」古くは「マホメット」と言っていました。この「ムハンマド」にある日に神から啓示が下ります(人間に対してメッセージが下る)この啓示がが「ムハンマド」の口を通して人々に伝えられる。この啓示がのちに文章にしたものが「コーラン」アラビア語では「クラーン」と呼ばれます。

このイスラムの人たちがとっても大事にする「クラーン」はキリスト教の「聖書」とは全く違うものです。キリスト教の「聖書」特に「新約聖書」はキリストが生まれてから十字架にかけられて死ぬまでの話で、その中でキリストが話ことや行ったことが出てきます。神様が言ったことや行ったことではありません。

ところがイスラムにとっての「クラーン」は神様の言った言葉そのものなのです。ですからイスラムの人は決して粗略に扱ってはいけないものなのです。

神様はムハンマドにアラビア語で啓示を与えました、ですからアラビア語を他の言語に翻訳したものは正式の「クラーン」ではありません。ただし大事にしなければならないことには変わりはありません。

イスラムの範囲は中国の西のほうから中央アジアからトルコまで通り、いま紛争の激しい中東、アラビア半島まで、アフリカまで、アジアではインドネシア、インドまでの民族的に同じ言葉の地域に広がっています。

意外に感じられるでしょうがヨーロッパにもたくさん住んでおります。これは昔オスマントルコが東ヨーロッパを支配したことがありますそのとき広がりました。

さらに第二次世界大戦のあと西にヨーロッパでは若い労働力が不足し経済復興のための若い労働力を求めました。旧ソ連の影響力のある共産圏の東ヨーロッパに頼れません。
そこでイスラム諸国に求めました。イギリスは植民地のインドやパキスタン、バングラデッシュ、フランスは同じように植民地のチェニジア、モロッコなどのアフリカなどのイスラム圏から、ドイツは植民地がないためトルコから求めためイスラムの人たちが定着しまた。

この中東イスラムの国々では現在は余りに紛争が多いですがこの紛争は民族ではないんです。多くは宗教をもとにして争っているのです。

2012年に同志社大学ではアフガニスタンのカルザイ大統領の政府側と中間派の反政府側にタリバン側を集め紛争を停止する話し合いをした。タリバンが外国に出て話し合ったのは画期的なことでしたがこれが最初で最後でした。

話し合いは不調に終わましが一点だけ三者が一致したことがある。それは「外国(アメリカ)の軍隊が駐留する限り和平はない」ということでした。カルザイ大統領は米軍の駐留を望まないで約束を守ったのです。カルザイとオバマ大統領はアメリカ軍を撤退しようとしましたがその間にまだ米軍がいるのでタリバンの攻撃はやみませんでした。

それに汚職の問題の多い多いカルザイが2年後に引退し、引きついだガニ大統領はアメリカ軍の駐留を受け入れて約束は反故になってしまいました。これが今日のアフガニスタンの治安の悪化を招いてしまったのです。

タリバンは約束を破ってはいないのです、(アメリカ)の軍隊が駐留する限りタリバンの攻撃は止まないのです。

アメリカは2001年に同時テロを受けタリバンを攻撃した。誤解しないでくださいテロを起こしたのはタリバンでは無くアルカイダのオサマビンラビンです。アメリカはオサマビンラビンをかくまっていたためタリバンを攻撃しました。

同志社大学ではジャイカの協力でアフガニスタンの若い政府の役人を毎年留学生として招き入れていてもう五代目くらいになりました。彼らは政府の人たちなのでタリバンもアルカイダも大嫌いです、その彼らにアルカイダのオサマビンラビンをタリバンは何故かくまったかを聞いてみた。

「なんであの時オサマビンラビン達の首を差し出さなかったんだ」彼ら学生の答えは「俺たちはタリバンもアルカイダも大っ嫌いだ、でも自分のところに頼むといいって仁義を切った客人を敵に売り渡すようなことはしない」「これはアフガン人の魂なのだ、政治的なイデオロギーの問題ではない、どんな敵であろうと助けてくださいと言ってきた者を敵に売り渡すようなことはしない」彼らは高等教育を受けた役人の卵たちです、まるで日本の昔の任侠のような事を言うので私はびっくりしました。

いま私たちは世界でいろんな紛争に直面している、しかし相手の当事者たちの声を一度だって聞いたかと言うことです。

当事者の声を聞かずに「大国の正義」と言うものに寄りかかって「じゃあ軍事行動も仕方ないですね、武力行使も仕方ないですね、これはテロとの戦いなのです、戦争です」と言ってこの15年間イスラム諸国を破壊してしまったのです。その証拠にアフガニスタンもイラクも戦争の後に平和には全くなっていません。

イラクのサダムフセインは本当にろくでもない独裁者でしたが、2003年にアメリカは大量破壊兵器を隠し持っていると言うことで戦争を起こします。その後大量破壊兵器を持っていないことが分かります。これはイラクの人たちにははなはだ迷惑なことでした。

それ以外にイラクは大きくわけて三つの集団に分かれています。この戦争をしたことによって空中分解してしまったのです。北のほうのクルド人にアメリカについたことで半ば独立の権利を得ます。

南の方にいますシーア派の人たちこれは人口の6割を占めます。戦争の後に自由な選挙をすればこの人たちが利権を独占します。事実2003年以降シーア派が今日に至るまで利権を独占しています。

西の方にいますスンニ派と言われる人たち、2割から3割と言われます。さあこの人たちはもとのサダムフセインの支持基盤だったのです。戦争の後当然すべての利権から切り離されます、天国ら地獄に突き落とされるのです、これとうぜん恨みますよね。

新しいイラクになったら一つの国家として統一をしていこうとには全く政治は動かなかったのです。その結果どうなったかと言うと恨みを持っているスンニ派の部族長たちは、私たちが世界で一番脅威を持っていると思うイスラム国(IS)を支援してしまうのです。

この地域で外国の軍隊が入ってきて武力を行使して平和になった国は全くありません。アフガニスタンの人たちが外国の軍隊が出ていかない限り平和はやってこないと言っていたことは正しかったのです。

今中東の人たちと話をしていて彼らが必ず言うことですが「アメリカだろうがイギリスだろうがフランスだろうがソビエトだろうが、外国の軍隊がここに来ないでくれ、ここへ来て戦争を起こせば事態はより悪化してしまう、何一つ良い方向にはいかなかった」。

「いやテロとの戦いです」と言うが「テロリストだけを攻撃するのは構わないが、空爆をやれば必ず民間の人も犠牲になる」

この「民間人犠牲」をアメリカは何と言ってきたか「コウ ナチュラル ダメージ」
「付随する犠牲」もしくは「止むを得ざる犠牲」と呼んできました。

 しかし、何の悪意もなく家族と一緒に食卓を囲んでいた市民が一瞬にして、どんなに正しい戦いだったとしても命を奪われてそれが「止むを得ざる犠牲」なんて理解できるわけが無いです。

 結局こういうことがアメリカに対してヨーロッパに対して更なる敵意を生んでしまう、それでアメリカやヨーロッパがテロに襲われるのです。

実際ISは見事にそれらを宣伝に利用する。アメリカは「止むを得ざる犠牲」と呼んできたが、自分たちが人質の首を切ると「残虐だ」「野蛮だ」と騒ぎ立てるが、むしろISは笑っているんですね、もちろん凶悪な組織ですよ、しかしアメリカが正義の戦いだと民間の人たちを犠牲にしたことを理由にしています。そこを我々は良く考えなければならない。

 さてイスラムと言う宗教がどんな宗教かと言う話をしましょう。まず「アッラー」という神様を信ずる一神教であり、ムハンマドと言う人物が人工的に作ったということではなくて彼が神からメッセージの啓示を受けた(託された)預言者「ズカルム」と呼ばれます。イスラムでは彼だけが預言者ではなくてほかにもたくさんいます。

 宗教の世界では後からできた宗教は先輩の宗教を全面的に否定はしません必ず立てます。キリスト教だってユダヤ教の聖典「旧約聖書」を使っています。
イスラムもキリスト教を全く否定してはいません、たとえばイエスは預言者の一人です、キリスト教の前のユダヤ教もモーゼも預言者の一人です、それより前のダビデも預言者の一人です、ソロモンも預言者の一人です、それからノア預言者です。イスラムはこうした先輩を尊敬しているのです。

 どうしてわかるかと言うと名前です。イスラム教徒の人の名前に「マリアム」さんと言う女性がたくさんいます、これは聖母マリアからとっています。「イーサー」君と言う男の子たくさんいます、これはイエスからとっています。つい最近までトルコの首相を務めていた方「ダウ ド ウオール」氏は「ダビデの息子」と言う意味です、英語で言うとデビッドソンです。イスラムは嫌っていたらこんな名前付けませんよ。

このことを西洋の人たちは知らないんです。そのためイスラム教徒はキリスト教を憎んでいる、ユダヤ教を嫌っているんだと思こんでいるんです。

違うんです、当たり前ですがイスラムが嫌っているのは力ずくでイスラム教徒の住む地域を踏みにじってくる外国の軍隊や国を嫌っているんです。

彼らはキリスト教徒やユダヤ教徒を嫌っているんではないんです。このことはどうか誤解なさらないでください。

覚えておいてほしいのはイスラム教徒ってどんな人かと言うと人と人の間に線引きをしません。お前は何人だからこうだ、お前は仏教徒だからこうだとは彼らは言いません全く同じ人間として処遇します。

今ちょうどイスラム歴では断食「ラマダン」と言って日の出から日の入りまで何も飲み食いしません、そして性欲を抑えます。正確に言えば日本でいう「斎戒(さいかい)」です。

この時期にイスラムの国に行くと日が沈むと町のあちこちに貧しい人たちのために無料の食事を提供する「イスタールのテント」が出来ます。皆さんが旅行していて立ち寄って「今晩は」と言ったとします、すると彼らは「どうぞどうぞ一緒に食事しましょう」と誘ってくれます。「お前何人だ」「お前イスラム教徒ではないじゃないか」とは絶対に聞きません、そういう人たちなのです彼らは。

紛争の世界からは彼らの文化や考え方の世界は全く見えてきません。彼らの世界の根本は一個のおにぎりしかなかったら皆で分けて食べる世界なのです、オレンジが一個しかなかったら家族と分けて友達と分けて食べようとする世界なのです。その時に相手がイスラム教徒であるかどうかは決して全く問いません。

私(同志社大学大学院教授内藤正典氏)は30年ほど前シリアのダマスカスに留学していました。そのとき遊牧民のテントを見つけてアラビア語で「アスタラマイーク」(あなたの上に平安がありますように)と声をかけました。

遊牧民は「どこから来たの」とききました、私は日本から来ましたと答えました「そうか、アラビア語を話すアラブか」と言ったきりです。アラビア語を話しているからアラブなんです、彼らは日本がどこにあるかなんて絶対に知りません、彼らにとって何処から来たのかなんてどうでも良いんです。何か顔かたちが違うと気が付いたから聞いただけでなんです。

「そうか先ずコーヒーを飲め」と言ってコーヒー豆を挽いて小さなおちょこののような容器に注いでくれました、非常に苦いコーヒーです日中50℃、60℃になる暑い砂漠では一種の気付け薬です「もういいです」と言うときはおちょこののような容器の底を左右に振ります。それをし忘れると延々と注いでくれます。
それだけでなく「メエメエ」と鳴く子羊が連れてこられます、そして解体ショーが始まり数時間の大宴会が開かれます。そうなると最後までお付き合いしなければなりません彼らの善意なのです。

いいですか、彼らは私がどこの誰かは知りませんよ、だけど砂漠の中で行き会うということは、つまり砂漠の中で誰にも行き会うことがなかったら水もなくて死ぬかも知れませんよ。たまたま行き会ったと言うことで食べ物なり飲み物なりを分け合うことが砂漠の中で暮らしているイスラム教徒の遊牧民の文化なのです。

年配の方で昔「アラビアのローレンス」と言う映画を見た方がいるでしょう、あの映画の冒頭でローレンスが案内人と一緒に旅していると遠くの方から別の部族の人間がやってきます。案内人が井戸の水を飲んでしまうとその部族長が部族の水を飲んでしまったということでズドンと撃ち殺してしまう。

ローレンスすごく嫌悪感を表すのですけれどあれは嘘です、そう言うイスラムのイメージを作るためにそう言う話にすり替えているんです。

違いますよ、つまり一滴の水が大事なんで一滴の水をめぐって人間が殺しあうと言うのがアラブでありイスラムの文化だと思っていませんか。違いますよ、これ欧米が作った偏見なんです。

道の途中にある井戸は誰が飲んでも良いんです。砂漠ですから一滴の水が大事なんです、だからこそ一滴の水でも分け合うんだと考えるのがイスラムなんです。

私もこのことに気が付くのにだいぶ時間がかかりました。やはり大学で学んでいるのは西洋の考え方で西洋の学問です。大学院生になって初めてシリアに行ってイスラム教徒の方と話すようになって、どうして彼らがそのように考えているのか考え方の基本を学びました。実際に今話したように砂漠の中にいる遊牧民を初めて訪ねても私をいきなり撃ち殺したりしないことを知りました。

それだけでなく自分たちの持っている物をどこの誰かも知らない旅人と分け合おうとすることを知ったのです。

 イスラムを大事な自分たちの水を飲んだら撃ち殺すローレンスの冒頭から知るか、一滴の水でも分け合うんだかを知るかで結果は全く違ってしまいます。

残念ながら欧米は1世紀、2世紀をかけて中東イスラムの世界を支配してきました、その支配のために自分たちに都合のよい話を世界中に広めました。

イスラムと言うとあれしちゃいけないこれはしろとか戒律が非常に厳しいと言うことをご存知だと思います。その中でお酒飲んじゃいけない戒律があることを知っていると思いますが、ところが酒飲むイスラム教徒なんていくらでもいますよ。

当然ですけど我々日本の仏教の中でたとえば浄土真宗の方で浄土真宗の戒律を守り親鸞聖人のように生きているわけじゃないですよね、キリスト教徒だってイエスの教えの通り生きているわけじゃないですよね。

なぜかイスラムの場合、戒律だ、戒律だと言いますけど戒律はありますけど皆が守っているわけではないですよ、守っている人もいますし守らない人もいます。

ただし、善行と悪行を天秤にかけて計っているところがあるんですよ、最後に善行のほうが重くなるようにしようと思っているんです。

どうしてかと言うとイスラム教徒の人は死んだ後の来世を信じています、どんなに酒を飲んでいる人も来世だけは信じています。
私はたくさんのイスラム教徒の人たちと会っていますが自分は来世に地獄に落ちるんだと思って恐れおののいている人には一人も会ったことがありません。

このお気楽な思いはどこから来るんだと思うくらいです。ちゃんと楽園(天国)のことを信じていますよ、それは善い行いと悪い行いを自分で天秤にかけているんです。昨日悪いことをしちゃった、じゃ今日は善いことをしようとずうっと思って生きているんです、イスラムの人たちってそう言う人たちです。

イスラム圏は貧しい国が多いので物乞いの人もたくさんいるんです。その物乞いの人達がお金や物をもらっても「ありがとう」って言わないんです、最初はなぜ言わないんだろうと不思議だったんです。

なぜ言わないかだんだん分かってきました、物乞いにお金をあげている人はお金持ちです、あげている人はこれが善行なんです。

物乞いから見ると目の前にいる金持ちを一歩天国に近づけていると思うんです。ですから「コーラン」の一節をグチュグチュとつぶやいたりしますが「ありがとう」って言う筋合いはないと思っているんです。

これが大事なんです、物乞いの人と一緒にする訳ではないんですがイスラムの国では障害を持っている人が暮らすのが楽なんです。障害を持っていることで親御さんや周りの人が悩むということが格段に少ないんです。

障害を持っている人が周りにいることや行き会うと言うことはその人に親切にしなくてはいけないんです。

これは人間の道徳の話ではないんです、神が下しているんです、超越的絶対者である神が「優しくしろ」と言っているのです。もちろんそこで善行を積めば得点になるんですから天国に近づくんです。

見方を変えて障害を持っている人があなたに善行を積ませてあげる存在として見てたらどうでしょう。例えば高齢の方であれ障害をお持ちの方であれ同じことになるんです、あるいは旅人でも同じことになるんです。

そこにそう言う人が居てくれたから自分は今日善行を一つ積むことが出来たのだと言うことになるので「どうしてこうなっちゃんだ」「どうしてこうなるだ」と悩むことが少ないんです。そして外国人の場合は旅人ですから優しくしなければならないんです。

そして、この善行を積んだことを「今日はやったぜ、旅人の日本人に優しくしてやった」などと思うとこれダメなんです。神様は超越的絶対者なのでお見通しなんです。
イスラムの人たちは「意図(どういう考えでしたか)」を大事にします。「意図」が悪いと神様に見抜かれてしまうのです。ですから親切にするときは無心でして下さいます。

すこし戻りますが「人間はダメと言ったって所詮やるだろう、欲望に弱いものだ」と言うのが私から見てイスラムの基本的な人間観だと私は思います。

イスラム教徒は六つのことを基本的に信じています。
1、絶対の神である「アッラー」
2、神様と預言者をつないでいる天使「ジブリエール」これは「大天使ガブリエル」のこと。
3、「使徒」預言者のこと、先輩のユダヤ教やキリスト教の一神教も入ります。
4、「コーラン」神様の至高のメッセージですから粗末に扱ってはなりません、先輩の「旧約聖書」なども入りますしその内容が「コーラン」の中にそのまま踏襲されていることもあります。
5、「来世」天国と地獄です、地獄は過酷延々と火に焼かれると描かれています。
6、「ヨテイ」定める命令「定命」です、イスラム教徒の人に怒られるかもしれませんが、これは明日のことなんて神様しかわからないと言うことです。
例えば明日の朝9時に仕事のミーテングやりますと言っても、明日の朝9時に自分がそこにいるかどうかは「アッラー」がお決めになることだ。「インシャーラー」といいます「アッラー」が望み給うなら自分はそこに来るだろうということです。
中東などでビジネスをやっている人は「インシャーラー」と言ったら約束を守らないと思うわけですが違うんです。日本だってそうですが明日の朝になると家族が病気になったり、交通機関が乱れて来ることが出来ないかもしれない。だから9時に来るなどと断言することは実に神を恐れない不遜なことと思っているわけです。

 イスラム圏の人と話すと日本人は勤勉だし経済も技術も発達しているがなぜ自殺者が
多いんだと聞かれます。私は日本人でイスラム教の信者でないので「責任感が強くて」と
かいろんな説明を試みました。しかし全く理解されたことはありません「なんでそんなこ
とで死ななければならないのだ」と言われます。

 考えてみればその通りなんです、だって仕事がうまくいくかどうかなんてどんなに努
力してみても神様の考えることだ、努力はしますけれど最終的に結果がどうなるかなん
て神の手にあることで人間があれこれ言ってもしょうがないと思うわけです。

 この発想をしていたらストレスで病気になんかなりませんよ。確かに進歩もあまりな
いかもしれませんが、しかし日本人が刻苦勉励を重ねて日本をここまで繁栄に導いてき
ましたが、そろそろ立ち止まって考える必要もあるのではないかと考える時期に来たの
ではないでしょうか。

 特に今超高齢化していく中で病気や認知症の様な障害を抱えていくことになりますが、
イスラム教徒の方はそういうことは起きるかもしれないがそれをあまりくよくよ思い悩
まないんです。
 そういうことは起きるかもしれないでも、なんでこうなったんだろうって自分に返っ
てくるような責任の問い方をしても本当はしょうがないことって多いじゃないですか、
その思考メカニズムにならないんですイスラム教徒の方は。

だって、どうして認知症になったんだと言っても、それは神様がそう決めたからなった
んで、あんたのせいでも周りのせいでもない、これが社会のコンセンサスだったら楽だと思いませんか?もしそう言う発想をしていたら確かに日本ここまで進歩しませんよ、だけどそろそろ日本もそう言う発想が必要だと思いませんか?

イスラム教徒の行いの方の話をします。ぜんぶで5つあるんですが、最初に「信仰告白」と言う事をします、「アッラーのほかに神は無し」ムハンマドはアッラーの使徒だと言います。これをイスラムの信者の前で心の底から信じていればですが、2回言いますとイスラムの信者になりますので注意してください。
「礼拝」は一日五回メッカの方に向かってします。
「喜捨」弱い人たちをたすけるために利益の一部を差し出す。これはあくまで神に差し出してそれを分配すると言う事です。
「斎戒」断食のことです。
「巡礼」一生に一度メッカに大巡礼をすること。

イスラム教徒の方は「人間が一番偉いと思わない人」「弱い人を助けずにはいられない人」「神がいるからそのルールの中で生活をエンジョイする人」「死後の来世を信じていて天国に入りたいと願っている人」そして「人と人の間に線引きをしない人」です。

ですから非常に生き易い社会と言えます、良いことも悪いことも結果は「インシャーラー(神様のご意思のままに)」になるわけですし、ほかにも「アムマムドリンラー(神様のおかげで)」「マーシャンラー(神様のお恵みがあった)」などがあります。

 なんでそう言うイスラム教徒がテロを起こすのかと言う事です。それは今まで申し上げた価値を完全に踏みにじられた時です。
 イスラム教徒が何に激しく怒るかと言うと「女性とお子さんのご遺体」なのです。だってイスラム教徒は弱者を助けなければいけないのです。

男性は残念ながらそんなに悲しんでもらえないのです。男性は皆戦闘員扱いなのです、プロの軍人か市民かは関係ないんです成人していれば皆ジハード(戦闘員)の義務があるんです。

 日本のメデイアには絶対出てきませんが、中東で起きているシリアとかイラクなどの内戦で起きているお子さんのご遺体写真がネット上にあふれているんです。
 それを見た時のイスラム教徒の怒り激怒と言うものは止めようがない、そでもじゃあ自分がそこに行ってテロリストになって戦争に出ていこうなんて言わないですけど、言わないですけど、毎日、毎日そんなこと繰り返していたらいい加減このひどい状態とりわけ弱者の女性と子供が殺される続ける状態に対して、自分は戦うんだと言いだしてしまう若者たちが出てきますって、それは間違いなく出てきちゃうんです。

 つまり一つは見捨てられ居場所を失った人々の怒りの爆発、もう一つは戦争で女性と子供の命を奪い続けた結果暴走する人たちが現れた。

 空爆を受けた場合ご遺体はバラバラになります、そのバラバラになった肉片を一つ一つ一生懸命丁寧に拾い集めている市民がたくさんいるんです。

 いいですか、我々見ていないだけなんですよ、しかも今日話したことはほんの一端だけです。実はイスラム教徒の方は非常に優しいです、もともと何にもなければ我々をイスラム教徒であるかそうでないかさえ線引きをせずに非常に優してくれます。

 その人たちだからこそ逆にこういうシーンを毎日何百何千何万と見続けていたら、そりゃあこういうことをする敵と戦うんだと言う人間は出てきますよ、これは止めることは出来ません。
 
 もう一つ、今イスラエルとパレスチナの間をこんな5メートルもある壁で隔てているんです、イスラエルがパレスチナが入ってこないようにと。

(中東の国々の国境線は直線的が多い)じゃこの国境線は誰が引いたかと言うと100年前にここはイギリスの影響力があるところと、ここはフランスの影響力があるところと、イギリスとフランスが引いたんです。

 このように分けた後に今の国の形が出来たのです。こんなふうに無理やり国の形を作ったために実はどこの国も民族が混じってしまいます、あるいは親戚なのに線を引かれたために封じ込められて全然会えなくなってしまうケースがたくさんあります。ですからどこの国も独裁的です。最初から自分たちで国を作ろうなんて思って作った国はトルコだけです。

 今シリアから膨大な数の難民が隣国に逃れています、トルコ国内だけで270万人レバノンに100万人ヨルダンに65万人と言われています。この難民はトルコからギリシアへそしてヨーロッパに逃れていきましたが厳しい状況にさらされることになりました。

難民の多くはイスラム教徒なのでヨーロッパ側ではこれ以上イスラム教徒が増えると、ヨーロッパのアイデンテテイが失われると主張する政党がいま非常に力を持っているんです。イギリスのEUから脱退したい理由の一つにシリアからの難民をEUから割り当てられるのが嫌だという気持ちがあります。

 私は去年トルコの西の端のイズミールに行き、密航業者の手によってトルコからギリシアにボートで渡っていく前の難民の様子を見ました。
密航御者に一人当たり15万円から18万円を払って夜中に海岸に行ってみると、ボートが来なかったり来てもボロボロのボートだったり、昨年(15年)の9月にはボートに船外機も付いていませんでした。
救命胴衣という黒い袋を手にしていましたが偽物です中身はただの発泡スチロールです。去年1年間でエーゲ海を超えた人で7千人から8千人の人が命を落としました。

昨年(15年)の9月の冒頭にアランクルデイちゃんと言う男の子の遺体がトルコの海岸に打ち上げられました。
その時だけ一瞬世界はこの問題を直視しようとしましたが即座に忘れちゃいました。なぜ忘れちゃったかと言うと「うちは嫌だよ」「ドイツが入れたいならかってにいれたら」「もうこれ以上イスラム教徒なんかいらない」つぎつぎにこういう声が高まって皆で押し付けあったのです。

 いいですか、こういう難民の人たちは「なんだヨーロッパは人道人権の国ではなかったのではないか、そうではなかったのだ」と思います。こう言う状況に置かれれば置かれるほど次はこの人たちの中からテロリスト出てきますよ。

 時間が来ました、以上でイスラム教徒の人達の話を終わります。

 以上がしょぼつく目をこすりこすりほぼ一か月かけて出来上がったのですが、その後に内藤教授の著書「となりのイスラム」がベストセラーになったいること、NHKの放送はここで↓
http://www4.nhk.or.jp/bunkakouenkai/22/ 文化講演会→ストリーミングで聴く
で聴くことができることを知りました。

徒労だったとがっかりしたのですが著書を読む前の予備知識になるのではと、聴くのは後戻りできませんが文章は行きつ戻りつができると思いブログ投稿しました。

尚、8月14日の認知症最新研究も勧めます。終わりのほうのアメリカの修道女の話を聞きなんとなく安心しました。