このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

世界に先がけ清潔都市を実現していた江戸

2017年05月21日 | 日本

江戸後期、江戸の町は人口が百万を超す世界一の大都市であった。それと同時に、世界で最も清潔な町であったとも言われている。

 

18世紀後半、日本を訪れた西洋人が、江戸への道中、あんまりの悪臭に失神したという話がある。これは、町や村の各家の便所が往来に向けて作られていたことや野壺から発するニオイのせいだが、江戸時代の日本が悪臭にまみれていたというより、食習慣や生活習慣の違いからくる経験のない異臭にダメージを受けたというのが真相と思われる。

 

事実、江戸後期の日本の各家に便所が作られていたのは、ヨーロッパと比べても汚水の処理システムが数段に進歩していたことを示すものです。町の悪臭ということなら、ヨーロッパの近代都市の方がはるかにひどかった。

 

パリでは、アパートの汲み取り式共同トイレは、不潔でほとんど利用されず、オマルにした汚物を窓から投げ捨てることが多かったという。また、市中に公衆トイレがなく、人々は至るところで排便していた。これに馬糞、生ごみなどが加わり、悪臭に包まれた町だったのです。

 

ロンドンでは糞尿、汚水はすべてテムズ川に流されていたが、この汚水のため悪臭がひどかった。1858年夏には「グレート・スティング(大臭気)」という大パニックが起きている。テムズ川から大発生した悪臭が町中に流れ、恐怖にかられたロンドン市民が逃げまどったという事件です。

 

同じころ、江戸の隅田川では、「月もおぼろに白魚の篝(かがり)も霞(かす)む春の宵」と、隅田の清流で白魚漁をする風物が優雅に歌われていた。春には花見に沸き、夏には花火見物に酔いしれる。日本人の川との古くからの付き合い方なのだ。

 

都市の廃棄物のほとんどは人間の糞尿といっていい。江戸が世界最大の百万都市でありながら、世界一清潔な都市を実現できた理由は、糞尿のリサイクルシステムにある。

 

日本では鎌倉時代から人糞尿を肥料にする下肥農業が行われていたが、人口の少ない農村では、都市からわざわざ人糞尿を購入していた。人糞尿は農業生産に欠くことのできない貴重な肥料だったからです。

 

当然、江戸の人糞尿も下肥として農村へ売買されていた。江戸、大阪、京都の大都市では、町の角々に共同便所が作られ、完璧にリサイクルされていたという。しかも農業の発展とともに下肥の需要は増し、値上がりするほどだった。ヨーロッパのように捨ててしまうことは、もったいなくてできなかったのです。

 

この有機農法と結合した合理的システムに、当時訪れたヨーロッパ人は異口同音に感嘆した記録を残している。江戸期に十二回訪れた朝鮮使節団が記した報告も、日本の都市の清潔さと美しさを強調している。世界に冠たる「衛生都市江戸」はそれほど驚異として外国人の目に映っていたのです。

 

一方、江戸の水道はどうだったでしょうか。

水道の起源は、天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入り、家臣大久保藤五郎に命じてつくらせた小石川上水(後の神田上水)があり、神田川から江戸城下に引いたこの小石川上水が日本最古の水道になります。

 

その後、江戸の発展により、玉川上水(1648)、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水など6つの上水がつくられた。これらは、17世紀半ば、地下式上水道として、総延長150キロという世界最大の上水道にまでなったのです。そして、江戸の人口の六割に水道が普及していました。

 

ヨーロッパではこの時期(17世紀)、唯一ロンドンで地上式の延長30キロの上水道が建設されているが、世界で2番目のものだそうです(古代ローマの水道は除きます)。

 

なぜ、この時期の日本にこういう上水道ができたのか、と思いますが、一つには江戸の町が元々湿地帯の上にあり、いい井戸が掘れなかったという事情がありますが、もっと大きな理由は、日本人のきれい好き・清潔好きがベースにあったと思います。気候風土の影響もあるのでしょう。

 

日本列島をくまなく縦横に走っている河川が、いずれも清冽な川であり、清く、美しい川だったからだと思います。というのも、日本列島の急峻な山岳から発する川は、たいがい急流です。平野部でもかなりの速度で流れています。川水が美味しく清潔である理由もここにあります。

 

誰もがあたりまえに思っているこの川のあり様は、日本の地形的な特質によっているので、世界的にみると決して典型的なのではありません。むしろ少ないと言っていいと思います。

近くでは韓国の洛東江は上流・下流の高低差が少なくて、流れているようにみえません。淀んでいるみたいです。中国の揚子江も同様ですが、ヨーロッパでも大体がそういう河川です。

 

江戸の町中では大部分が地下に木管(樋・枡)で埋設されていました。樋・枡には地形や水勢によって、埋枡(地下)、高枡・出枡(地上)、水見枡(蓋があり、水の質(清濁)と量(増減)を検査)、分岐枡、溜枡などがあった。

完成後の玉川上水系は江戸城内をはじめ四谷、麹町、赤坂の高台や京橋方面を給水し、総延長85キロだった。

 

取水口の羽村村から四谷大木戸までは開渠(掘割水路)で高低落差が92m、ちょうど馬の背に当たるところに水路が作られ、後に出来る分水が巧みな自然勾配で途中の新田集落を潤した。四谷大木戸より先は江戸の町に入り暗渠化されていた。

 

水質・水量管理もされており、水番人が見回り塵芥を除去し水質を保全し、水量の調節も行っていたのです。

取水口の番人は上流が豪雨の時は水門を閉じ、濁り水を川に還流し、逆に日照り続きで渇水時は給水制限をしていた。

当時、これほどの規模の飲用水専用の人工的水路は江戸の外に世界のどこにも見あたらなかったのです。

 

明治維新のあと、江戸の水道は東京府(東京都の前身)に受け継がれた。複雑な水道システムはとても、素人の手に負えないから、水番人達はそのまま東京府の職員となって水道の維持に当たった。現在の東京都水道局は徳川幕府水道役所の直系の子孫という世界的な名門なのです。

 

---owari---

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 孤独の時 | トップ | 老人ホームにみる中央計画経... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本」カテゴリの最新記事