住所:山口県下関市吉田1184
東行庵(とうぎょうあん)は、曹洞宗の寺院で、長府毛利家の菩提寺である功山寺の末寺である。
東行庵の地は清水山といい、幕末の頃奇兵隊軍監山縣有朋(当時は狂介)は麓に草庵を建て
無鄰菴と名付けていた。慶応3年(1867年)4月、高杉晋作(号は東行)の遺言により、遺骸を
奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人おうの(谷梅処)が出家し、
山縣は明治2年(1869年)無鄰菴を梅処に贈ったという。
現在の東行庵は明治17年に伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたという。
長州藩維新志士の墓
高杉晋作の側室・梅処尼(ばいしょに)の墓。
福田公明(福田侠平)の墓
奇兵隊参謀・軍監となり奇兵隊の育成に努めたが、明治元年(1868年)戊辰戦争で
北越方面に戦った後、病を得て同年11月14日下関にて40歳をもって歿した。
高杉晋作の墓
高杉晋作像
同町にある吉田温泉 晋作の湯。
東行庵(とうぎょうあん)は、曹洞宗の寺院で、長府毛利家の菩提寺である功山寺の末寺である。
東行庵の地は清水山といい、幕末の頃奇兵隊軍監山縣有朋(当時は狂介)は麓に草庵を建て
無鄰菴と名付けていた。慶応3年(1867年)4月、高杉晋作(号は東行)の遺言により、遺骸を
奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人おうの(谷梅処)が出家し、
山縣は明治2年(1869年)無鄰菴を梅処に贈ったという。
現在の東行庵は明治17年に伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国諸名士の寄付により建立されたという。
長州藩維新志士の墓
高杉晋作の側室・梅処尼(ばいしょに)の墓。
福田公明(福田侠平)の墓
奇兵隊参謀・軍監となり奇兵隊の育成に努めたが、明治元年(1868年)戊辰戦争で
北越方面に戦った後、病を得て同年11月14日下関にて40歳をもって歿した。
高杉晋作の墓
高杉晋作像
同町にある吉田温泉 晋作の湯。