私たちは、「私」がいる前はどこにあったのか?
それは、わからない。
けど、「私」は地球の一部であったのは確かです。
考えてもみますとこれが「私」というのは肉体を指すことがあります。
肉体といえども肉体の細胞は数ヶ月間で新しい細胞に入れ替わります。
先ほどこれが「私」という「私」はどこにいるでしょうか?
では、肉体ではない「私」とは誰か?
それは「私」といったときのイメージ上の「私」は「私」でしょうか?
イメージ上の「私」を考えてみましょう。
イメージ上の「私」は、17歳の子供の頃の自分を指した「私」と25歳の大人の頃の自分を指した「私」は同一人物でしょうか?
そんなことはないはずです。
17歳の頃のイメージ上の「私」は、思春期特有の全能感やバランスホルモンの変化からkる気分が変化しやすいのがイメージ上の「私」ではないでしょうか。
では、25歳の頃のイメージ上の「私」は、仕事をやり始め仕事上のルールや社会のルールを覚え始めた頃のイメージ上の「私」ではないでしょうか。
17歳の頃のイメージ上の「私」と25歳の頃のイメージ上の「私」は私ではあるけれども「私」ではありません。
そうやって考えていきますと「私」は誰でしょうか?
「私」が「私」というときの「私」は誰でしょうか?
話を元に戻して、肉体の「私」とイメージ上の「私」は誰かを考えてみたいと思います。
「私」というときの「私」は、今は大人です。
大人ということは子供の頃があり、赤ちゃん、胎児、精子だった頃があります。
さかのぼりますと精子は、父親の食べた地球の食べ物のエキスが精子の素です。
地球の食べ物のエキスは、何かしらの食べ物の種子と水と大地と太陽の光でできています。
それらの食べ物の必須要素は、10年前、50年前、100年前どこにあったのか?
地球には存在したかもしれないけれどわからないです。
肉体の「私」とイメージ上の「私」はわからないのです。
肉体でもイメージ上の「私」は「私」ではないとすると「私」は誰か?
これは私ではないと探求した先にある静寂。
ただ一つの覚醒、それが意識のことではないでしょうか?
静寂=意識=存在=至福。
それが私です。