喫茶・野菊

ゆるく書いています。

あまくち。

2017年06月16日 | 日記
時に、
親にきちんと躾けをされた子どもをみると
実に清々しく気持ちがいいものだ。

きちんと躾けのされた子どもは
「子どもらしさ」という宝刀を
そう簡単に見せない。

集団のなかにおいても
さっと空気を読んで、
黙る時は黙り、
話すタイミングをわきまえている。

突然何かわけのわからないことを言い出して
大人を困らせたり、
教室の静寂をつんざくような発言はしない。

「子どもらしく」振る舞う前に
「他人様に迷惑をかけない」という
躾けが行き届いているのだ。

大人は毎日忙しく働いて、
子どもに向き合えない時もある。

けれど
躾けができていれば、
子どもは寂しがることはない。

「せめて親に迷惑をかけないようにしよう」と
小さな頃からの躾けが進化し
自分を律するようになる。




自由は無料ではないし
その辺から湧いてくるものではない。
まして家のなかにころんと落ちているものでもない。

誰にでも該当するチャリティなものではないのだ。

自由は

働いたあとの対価として
与えられるものなのだと
躾けのひとつとしておしえてあげよう。

イクメンだ何だと騒ぐ時代。
「しつけ」という言葉は
とっくの昔にお亡くなりになったようだ。

こういうことをいうと
子どもがかわいそうだとか
大日本帝国主義かと揶揄されるが、

躾けの入ってない子どもの行く末たるや。

私は生まれつき不謹慎なので
子どもを犬に例えるが
躾けの入ってない犬は悲惨極まりない。

手に負えなくなって
ジモティーに出したりされる。

自分の子どもを甘やかすのは
「自分の家でやってくれ、見てるのも不快だ!」と言ったのは
私の友人である。

「あの母親、子どもが大人になるってことを忘れてるんでしょ」と
吐き捨てるように私は返した。

「やだねぇ」
「やだよぉ」

子どもに甘口カレーばかり食べさせていると
大人になって
「こんなの辛くて食べられない」とか言い出しますよ。

「じゃあ、喰うな」

いっけんらくちゃく~♪










何度目かの大津波。

2017年06月11日 | 日記
こう雨ばかり降られると
庭の雑草がよく育つので気が気ではない。
雨粒が大地に染み入るように沈んでいく。

やがてその雨粒は
地中深くまでたどり着いて
川の流れのなるのだろう。

川の水は
それが本意でないにしろ
いつかは
海とまじりあうことになる。

おそらく河口では
川の水と海水との
ささやかなせめぎ合いがあり、
圧倒的な海水の前に力なく
川の水は海にとけこんでいく。

あっけなく
真水から海水になった川の水の行く末はひどいものだ。

大いなる他力。
大地の変動や力が起きるのを待ち焦がれ
海嘯やポロロッカとなって逆流することを夢みるようになる。

ありえないことは
ある日突然、予告もなしに起きる。
簡単にできそうなことは
準備をしても意外にできなかったりもする。

6月の冷たい雨は、
時に何度目かの津浪を想像させた。

どうしたら
命を落とすことなく
離婚できるのだろうーーー。

妻が夫に離婚をしてほしいと言うと
夫が逆上して妻を殺す。
こういったたぐいのバカげた事件はしばしば起こる。
妻に人生のすべてをかけ、
普通の大人がしていることをしてこなかった夫に多くみられる現象だ。

これから先はすべて
「妻が居なければ」をつけてください。

食事ができない。
洗濯ができない。
ゴミ出しの日がわからない。
我が家のメインバンクがわからない。
ATMで一度もお金をおろしたことがない。
暗証番号がわからない。
家の中に何があるのがわからない。
子どもがどこに住んでいるのかわからない。
住宅ローンなどの借金をどうしていいかわからない。
保険のこともわからない。
印鑑がどこにあるかわからない。
ひとりで生きていけない。
何にもわからない。

こういった夫は
妻に離婚を言い渡された瞬間
自分が困る、生きていけないとパニックになり
そんなことをいうやつは!と
妻の首を絞めたりする。

殺すつもりはなかったというけれど
たいてい死んでしまう。
包丁で刺されるかもしれない。
グーで殴られるかもしれない。
物が飛んでくるかもしれない。

話し合いもくそもないかもしれない。

もう死んでもいいや、と思ったら
離婚を切り出そうと思う。

嫌いなひとと同じ屋根の下で暮らすのは
困難を極めてきた。

大津波。

これで何度目なのだろう。

9月に息子が結婚式をあげるという。

それが終ったら…
何とかならないだろうか。

この思いが
5分ごとの陣痛のように
襲ってくる。

なぜ嫌いになったのかは
27年間の積み重ねと
私への評価や対価の不満なのだろう。

せめて対価に不満がなければ
いばりくさっていても
我慢強い私は耐えられる。

「もっと稼げ!」

この言葉は
そっくりそのまま夫に返して

いよいよ離婚に踏み切りたい。














再婚する夢をみた。

2017年06月07日 | 日記
結婚して何十年も一緒に暮らして
何の不満もなく
夫を愛し続けているキトクな妻たちがテレビに出ていた。
公共の電波を使用して
夫婦が仲良くやっているさまをタレ流しにされると
ヒジョーに不快である。

日本人なら
自分チの人間のことを他人に話す時、
相手に不快な気持ちにさせないよう
へりくだって言ったものだ。

それがいまはどうだろう。

自分の夫を「ダンナさん」とかねぇ、
「ダンナ」と「さん」て、
ダブルで敬称つけるんじゃない。

私は自分の夫にかなり不満があるので、
もう2度と結婚なんてしないし
チャンスがあれば離婚したいと思っている。

それなのに
嗚呼
それなのに

昨夜は、いつもお世話になっている
馬牧場のSさんのところで再婚している夢を見た。

朝起きて、軽くお化粧をほどこし、
馬小屋を見て何事もないかを確認した後、
質素だけど、あたたかい朝ご飯を作っていたら、
Sさんが馬小屋から戻って来て
お義母さんと3人で「いただきます」。

午前中にしなければいけない家事を済ませ、
愛馬に跨った私は
そのまま放牧地のSさんの元に行って
「少し休まない?」といって木陰に促した。

水筒にはアイスコーヒー。
大きめのどら焼きを半分ずつにして食べる…

「あとで買い物に行くけど、何か買ってくるものはない?」と訪ねた。

何もないよ、気をつけて。あ、お金はあるかい?というSさんは
ポケットから財布を出して
私に手渡してくれた。

「大丈夫、この前もらったのがまだあるの」といって
財布をSさんのポケットにねじ込んで
また馬に跨って放牧地をあとにした。。

なんてなんて
現実的で素敵な風景なのだろう。

「幸せだな。ここに来てよかった」と
思っている私。

年老いた愛馬も
ここなら最後まで一緒に居られる。
Sさんは優しい。
私にも気遣いがある。

書き物に追われることもなく
毎日、馬たちの様子をみて生きていく。

朝、目覚めたら
「そうだ、離婚したら、Sさんのところにいこう」

そんなことまで思った。

どんなけ嫌な毎日なのだろうか。

また階下で
「俺のアイスがない!お前喰ったのか!買ってこい!」と夫が怒鳴っている…。



いい加減




シネバイイノニ。

「それはどうか?」と思う、ゆるまとめ。

2017年06月04日 | 日記
唐突だけど、

私はあまりにも「女性のために!」を連呼する女性政治家や
プロ市民団体の輩を見つけると引いてしまう。

今の世の中、どうかすると戦後かと思うくらい
「女性女性!」という。

もっと女性が働きやすくだとか
女性のために専用ナニガシを作るべきとか
差別をなくそうして
かえって性区分しているように感じるのだ。

どうだっていいじゃないか。

そうやってヒステリックに
女性女性っていうから
「すぐ女は…」って嫌われるんですよ。

まぁ、百歩譲って嫌われてもいいだろう。
女性は弱いという時代は
とっくの昔に歴史博物館入りしているにもかかわらず
「まだゆーか!」と私は思うのだ。

女は
男が逆ギレするくらい
立派で強い口を持っており、
ともすると
夫婦ケンカで殺されてしまうほどだ。

私は別にリベラルでもなんでもないけど
特に性別を口にしないようにしている。
「らしく」あればいいんでないかと思う。

子育てについて
男に協力を仰ぎたいくせに
女性女性と言うでなし!

女なら意地を見せい!と思うのだ。

男の力なんぞ借りなくても
立派に子育てしてみせるわい!と
なぜ言えないのそこの
女性女性いう輩ども。

主張していることと
実はやってほしいことが矛盾していると思わないのか。




あと、

人権とか傷つかないようにとか
守りましょうとか
うるさいよと思う。

ひとは

他人を傷つけ、そして傷つくもの。

そんなこと言わなきゃよかったと贖罪するからこそ

人間になっていくというのに。

守られ、
傷ついたことのないひとに
何がわかるというのか。

傷ついたから、私はそんなことしない。
傷つけてしまったから、後悔をする。

実に人間臭く、そうやってのたうちまわって生きていくのが
人間だろう。

誰かを傷つけたら謝罪をするね、こころから。

守られてばかりで傷ついたこともないひとは
表面的に幸せかもしれないけれど、
実質の向上は計れない。

失敗して泣いたりわめいたり
悩んだりいろいろだ。

自死をする若者もいるけれど、
それはしかたのないことだと
ほとんどの人は
心の奥底で思っているけど
表だって言えないだけのことだろう。

「死にたかったら死ねばいいよ」

これは私が泣いてわめいて
高校の野球部を辞めさせてくれとほざいた息子が
「辞めさせてくれないと死ぬ」と
親を脅迫しるようなマネをした直後に
私が言い放ったひとことだ。

そしてひとことつけ加えた。

「そんなくだらんことで、お前は死ぬんだな」

そうしたら
自分で普通に退部して
普通に退学して
普通に次の通信制高校に行った。
甲子園に行った直後の話だ。

私のひとことで
本当に死んだかもしれないが
それはそれまで。

その後私は一生贖罪をして生きることになっただろう。

それも、

しかたのないこと。

世の中にはしかたのないことが
あふれかえっているのに
「そこに何かの責任を求める」のは危険な行為なんじゃない?

努力を怠ってはいけないが
「しかたのないこと」に悩む必要はないということだ。

愛情をかければかけるだけ反発した我が子。
よしわかった、もうしない、と
「あんたのことは我が家の中心ではない」と知った息子のその後は
それはそれは善良な青年となった。

なんでもよく話してくれる
優しい子に育ってくれたのは奇跡と言うほかないけれど

うちの息子のように
愛情をかければかけるほど
心に寄りそおうとすればするほど
猛烈な勢いで怒りに火がつき
人格が崩壊しそうになる個体は

存在する。

ほったらかしにするのが
母として
一番難しいことだったなぁ…。