夕日と海

日々の感動を載せて

金沢から諸磯湾へ

2018-07-12 19:42:29 | 徒然なるがままに

金沢から三浦市に引っ越した。そして、混声合唱団を探して、天使の歌声に出会えた。

でも、今回は、金沢で出会った歌を記しておこう。

 金沢の合唱団で歌ったのが、
大木惇夫の作詞、佐藤眞の作曲、「土の歌」

 ー日本のうたごえ祭典 in いしかわ・北陸ー
で所属した合唱団そして参加した地域の合唱団の人々と歌ったのが、
山ノ木竹志の日本語詞、「アメイジンググレイス」

 その頃、ネットで見つけたのが
谷川俊太郎の作詞、武満徹の作曲、「死んだ男の残したものは」
この曲は、「ベトナム戦争」のさなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられ、友竹正則によって歌われたそうだ。

その歌詞の3番には、

死んだ子供の残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった

そして、5番には、

死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない

作詞家は詩にのせて、作曲家は曲にのせて、歌を届ける。想いを込めて。私は歌う、そして書いておきたい。
生かされている今、考えていることを、名前のあるひとりの命の歴史を。

私の「君死に給うことなかれ」

2017-12-06 16:32:16 | 金沢にて
 「この世界の片隅に」というアニメ映画をご覧になりましたか。日本中で多くの方々を感動させて今も尚ヒットを続けているそうです。

「この世界の片隅に」は、昭和19年、広島県呉市に嫁いだすずさんの戦前から戦後の生活そして生き方を描いています。
 すずは言います。
「周作さんありがとう、この世界の片隅にうちを見つけてくれてありがとう周作さん」
すずは、「記憶の器となって」交わった人々を思い出す、暖かく抱くように今はいない人々を思い出す。亡くした右手を思い出す。クレヨンや鉛筆で周作さんの顔や死んだ人や、四季折々の田舎の絵を描いていた右手を。
 私の母は、呉市で育ち、広島市に嫁ぎました。子供が4人いました。末っ子の照子は大層可愛い子だったそうです。昭和20年10月18日、庭にあったイチジクを子供達が食べていて、照子も食べたらしい、それがもしかしたら身体に悪かったのか(母はそう思っていたようです)、一緒にその場にいた兄が異常を感じて母を呼んだそうです。飛ぶようにしてやって来た母は照子を抱いて号泣していた、と兄は語ってくれました。母は、遺体を焼くマキの火は、2歳の栄養失調で小さな子供の身体を焼くには余りに強いので灰しか残っていなくて、と亡くなる十数年前に私に書き残しました。
その後、22年に生まれたのが私です。母は、幼い私を連れて歩くことが多かったのですが、母のうつろな眼差しは私に向けられるより遠くを彷徨う様子だった、と思うのです。戦争・原爆という異常な事態に必死に生きる家族の中で心を病んでいたのではないか、と今思うのです。
「君死に給うことなかれ」私のその想いはこれからもまだ続きます。

テロの脅威から思うこと -君死にたまふことなかれ 与謝野晶子ー

2017-07-07 21:08:39 | 金沢にて
 なぜだろう、人が人を殺めて正しいと主張することが普通になってしまったのは。
 世の中の賢人たちはその構図を解くことに夢中で、責任追及で夢中で、もっと人の根源にある、人を心より愛おしむという大事な営みを説かないのだろうか。
 死ぬつもりではないのに、その時そこにいて巻き込まれた人がある。自分で死を選んだ人は、その時、そこにいて死ぬ人の一人ひとりの歴史を知らないだろう。あなたと同じように生きてきたわけではないこと、親しい友人や、親や子供、恋人、上司、職場、好きな歌、スポーツの応援、あなたと違うけど、喜びの湧き出る温かさを同じように求め、暖かい肌の尊さを知っているに違いないのに。そして、幸せを求めていつも苦労しているけど、人を殺めるとは考えない人々だのに。
 多くの人が原爆で死んだ広島の参事、そして戦後、私の母は、末の子供が戦後の食料・栄養不足で亡くなった時、半狂乱になって大声で泣き続けたそうだ。
 その後の世界は、今やっと秩序が育ち、宇宙に浮かぶ地球を守ろうと知恵を働かせ、より良い選択をしてきた、と思っていたのに。
 与謝野晶子という詩人が世に問うた歌がある。読んでほしい。そして、英知を寄せて誰もが生きていい権利を持つその仕組みや希望のある将来を示して欲しい。平和な世界の構築を改めて考えてほしい。大人が出来ることの大事な一つ、この世に生まれて来た小さな命を育てることに目を向けてほしい。
与謝野晶子:「君死にたまふことなかれ」(旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)より、一節を紹介したい。

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末《すゑ》に生れし君なれば
親のなさけは勝《まさ》りしも、
親は刄《やいば》をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四《にじふし》までを育てしや。

続けて 茱萸の木は、

2017-07-07 17:07:43 | 金沢にて
 受粉の心配をした私の茱萸の木ですが、なんとしたことか、何か良からぬことがあり、虫がつき、食い荒らされて葉も花も変色しているではありませんか。慌てました。直ぐに近所の「カーマ」というお店に駆けつけました。
 住まいの近くではありますが、ご近所さんたちは車で乗り付けるお店、私は坂道を転がるように歩いて行かなければなりません。
 カウンターで、あれこれ訴えて対処方法を聞いたところ、専門家(?)らしき人を連れてきました。勧めてくれたのが「ベニカグリーン」という薬剤でした。収穫の前日まで野菜にかけて大丈夫、だそうです。3日ほど噴霧してみました。悔しいことに益々ひどいことになり、縮れた葉が落ちてしまいます。文句を言いたいと「カーマ」へ行ったのですが、小心者の私は何も言えずに、「松葉ボタン」を4株買って、帰ってきました。
 決心しました。二株の茱萸の木を担いで、坂道に面した斜面の私のささやかな植物たちの生息地へ持ち込み、移植しました。
これで、きっと生き返るに違いありません。次なるご報告をお楽しみに。

そして、1年、茱萸の木の白い花

2017-04-17 11:40:00 | 金沢にて
 1年前、私がこの地に移住して、今、まだここで生きていて、何をしようとするのか、何を観ようとするのか、何を考えるのか、改めて記してみよう。やはり文字だけで表現しよう。

 今月、私は70歳になってしまった、70年も生きているわたし。文章投稿休止の間、昨年の後半は、東京で「第9」に参加するため毎週、新幹線で練習会場に出かけました。最高の贅沢でした。そしてその後、今年になってからは入院された方の介護というかお見舞いというか、毎日病院に出かけました。こうした経験、半年の間にたくさんの勉強をしました。一つ一つが新体験でした。またの機会に触れることもあるでしょう。
 
 70歳の誕生日に、思いがけないことにベランダに置いていた鉢植えの一つ、茱萸の木に白い花が咲いているのを発見しました。東京から一緒に移住した鉢植えの茱萸の木、もう実をつけるまで待てないかも、と思った矢先の出来事です。
 茱萸の実は赤い楕円形をしています。粒粒が表皮にあって、サクランボのように綺麗でかわいくありませんが(いやいやそれは見る人によっては可愛いとおっしゃるかもしれませんが)、サクランボと同じく食べられます。酸っぱい味がしたと思います。5、6歳頃、確かにその実を食べた私です。
 東京で暮らしている頃、たまたま通りがかったお宅の前に無造作に切っておかれていた茱萸の木を見つけたものですから、その作業をしている方に「いただけないですが?」「昔、この実を食べたことがあって懐かしい、、、、」などと話しかけてみると、お母様が育てていたけどもう世話が出来なくて、とおっしゃいます。どうぞお持ちくださいとおっしゃいます。おしゃべりして何本か持ち帰り鉢に植えてみました。ベランダに置いて10年以上になりますが、数本のうち、2本は背丈位にまで育ちました。が、花も、当然実も付きませんでした。白い花にも出会えないままでした。
 
 私は今、受粉の心配をしています。風の力で何とかなるかしら?
 続く