近畿いなさ会

島根県立大社高校関連の情報

名投手 北井正雄

2018-08-27 07:39:19 | 野球部アーカイブ
 1936年(昭和11年)日本プロ野球は産声を挙げた。その中に、東の沢村・西の北井といわれた名投手がいた。北井正雄、旧大社中学を卒業し関西大学でエースとして活躍し、創設された阪急ブレーブスに入団。初年度は、12勝6敗、防御率1.79、打率3割2分5厘という堂々とした成績を残した。ところが翌年の夏、病に倒れ急逝。僅か一年と三ヵ月のプロ野球人生だった。

北井投手最期の出場
 翌1937年(昭和12年)のプロ野球は、春・秋の2シーズン制で、3月26日に開幕した。北井投手は病(肺結核)のため、登板から遠ざかっていたが、6月24日金鯱戦に先発登板、5イニング投げ被安打9、失点3だった。相手投手は古谷、北井投手がプロ入り最初の敗戦の時の全く同じチーム、同じ投手という奇縁だった。以後、2度とマウンドに立つことはなかった。
 マウンドには立たなくなったが、打撃を変われ、最終登板となった翌日から5番打者、野手(レフト)として出場している。
 打者としての6試合が北井の最後の出場となった。成績は次の通り(3日の試合は4番打者として出場)。
・6月26日(対イーグルス)4-2  ・7月1日(対セネターズ)4-0  ・2日(対セネターズ)4-2  ・3日(対タイガース)4-1  ・4日(対タイガース)4-1   ・7日(対金鯱)5-1

7月中旬 入院
8月7日 肺血腫に腸チフスを併発し、谷岡病院で死去。享年25歳。

1936年(昭和11年)12勝6敗 防御率1.79 打率3割2分5厘
1937年(昭和12年) 2勝4敗 防御率3.33 打率3割1分9厘

 日本プロ野球草創期、東の沢村・西の北井と言われた北井正雄投手は、我が母校大社高校の誉れである。170余センチの体から投げ込む鋭くスライドする球は、スライダーの元祖といわれ、強打者をきりきり舞いさせた。そして与四球の少ないコントロールの良い投手であった。しかも、打撃センも良く3割バッターとしても活躍し、時には3番打者、4番打者としてチームに貢献している。

悲運の第1回大会

2018-08-25 16:59:34 | 野球部アーカイブ
大正4年、朝日新聞社主催による全国中等野球大会は、この年から始められた。全国を10地区に分けて地区ごとに予選を行い、その代表が大阪府豊中球場で全国一を争った。

・部 長 後藤蔵四郎 ・コーチ 飯田五郎作(早稲田) ・主 将 千家剛麿 ・選手監督 三明永無(5年) ・記録係 森山善太郎 ・投 手 千家剛麿(5年 )・捕 手 奈良井明義(5年) ・一塁手 福田稲夫(5年) ・二塁手 秦 昇一 ・三塁手 遠藤 寿(5年)・遊撃手 山根慎一(5年)・左翼手 山根 斎 ・中堅手 児玉直市 ・左翼手 猿木真吾 ・北島国一郎  ・尾原勝吉

 第1回大会の山陰地区予選は、前々年の杵築中と米子中の試合での不祥事の関係で行うことが出来なくなっていたので、島根県・鳥取県でそれぞれ代表校を選出して決定戦を大阪府豊中球場で行うことになっていた。上記の布陣で臨んだ島根県大会の決戦は杵築中と松江中となった。8月8日午後3時より杵築中グランドで開催された。

杵築中 (三)遠藤 (遊)山根 (投)千家 (捕)奈良井 (一)福田 (二)秦 (中)児玉  (右)猿木  (左)山根  39打数 4安打 10盗塁 1犠打 9得点
松江中 (投)森脇 (左)森山 (三)平井 (一)藤岡 (捕)井川 (二)篠原 (右)小笠原 (遊)鈴木 (中)西川 33打数 3安打 7盗塁 0犠打 3得点

松江中初回に1点先取、3回に杵築中2点を取り次いで3点を加え、結局、9対3で勝利し鳥取県勝者との決定戦に臨むこととなった。
 山陰代表決定戦は、8月15日午後2時半から豊中球場で行われた。この決定戦は朝日新聞の努力によって実現したという。

先発メンバー
鳥取中 (三)上田 (遊)竹岡 (三)平井 (一)藤岡 (捕)井川 (二)篠原 (右)小笠原 (遊)鈴木 (中)西川
杵築中 (三)遠藤 (遊)山根 (投)千家 (捕)奈良井 (一)福田 (二)秦 (中)児玉  (右)猿木  (左)山根

試合結果
鳥取中 001 000 103 = 5
杵築中 100 001 000 = 2

試合経過
 初回、杵築中の攻撃、1死から山根慎一が2盗3盗し千家の二塁ゴロで先制する。鳥取中3回の攻撃、無死満塁となるも2者打ち取られたが四球押し出しにて同点となる。6回杵築中の攻撃、山根三塁に快打しまたも2盗し3盗の時三塁手捕逸し生還。7回鳥取中追いつき、9回猛襲し3点を追加。3対5にて山陰の優勝校は鳥取中が手にする。試合後の挨拶で千家主将の言葉が、翌日の新聞紙に美談として掲載された。「戦い終われば同じ山陰同志、豊中での健闘を祈る」と激励した。また大会後の朝日新聞社第1回全国野球大会記録に、同じ三つの美談として所載されている。一つは兵庫県大会の優勝戦に負けた関西学院の広瀬主将は、兵庫県のために奮闘してくれ給えと激励。そして全国大会決勝で京都二中に負けた秋田中の選手が「京都二中万歳を連呼した。何たる悲壮な光景であろうと記している。この三つの美談の中に、我が杵築中が入っていることも誇れることではないだろうか。

 余談、鳥取中との試合では、ほとんどの選手が下痢に悩まされていたという。ほとんどの選手が初めて上阪し、初めて見るイチゴ・レモンの氷水に驚いたが暑い盛でもあり食べ過ぎてしまった。そのうえ、カビの生えた餅を当日の朝食べさせられたのが更に下痢を酷くさせた。これは、端午の節句につくった餅を食べると武運長久という杵築町のいわれによる。6回の守備の時、中堅の児玉選手の姿が見えない、一生懸命探していると、「ここだ。ここだ。」と便所の中から声がしたというエピソードが残っている。
 杵築中に勝ち全国大会に出場した鳥取中は、第1試合の後攻めとなり第1回全国大会の第一球を投じる栄誉を得ている。そして、相手の広島中に勝利し大会勝利第1号という高校野球大会球史に残る1勝を得ている。
 鳥取西校(旧鳥取中)と大社校(旧杵築中)は平成20年5月6日(火)鳥取県岩美町営球場で親善野球試合を行った。この年、全国高校野球大会は豊中球場で第1回大会が開催されてから90回目の記念開催となっている。本日の交流試合及び親善試合は、鳥取中の鹿田一郎投手が大会第一球から90回目の節目の年を迎える。この夏の甲子園大会を前に、当時の鳥取中学対杵築中学の知られざる歴史の1ページを振り返りながら、両校野球部が世代を超えて交流を深めることを願い、今後の躍進を期するものです、とあいさつにある。

私のキャプテン時代

2018-08-25 16:45:05 | 野球部アーカイブ
昭和6年度主将 加本一久

 前年のチームの主力で、しかも名投手北井、山口、田中、来間等が全部卒業した後は、極めて弱体チームになってしまい、もう学校側も、先輩もファンも諦めて見向きもされない有様だった。従って後援会の寄付金も集まらければ、コーチも頼めない状況で、細々と部費でまかない、練習は私がノックバットをとってフィルディングをする始末だった。時々土曜日は春日先輩が来られて練習をみていただいた。そうしたチームだから他流試合をすれば大抵惨敗するのが常だった。
 それでも大会前はお定まりの合宿練習ということになった。ところがどうもチームワークがうまくない。弱いことで諦めと嫌気がさしたのかサポタージュが始まった。殊に5年では選手私が一人、マネージャーが原氏と二人きり対し4年、3年の選手が大部分を占めていておさえがきかない。練習のスケジュールもこの連中に反対されては運びがつかない。それがとうとう爆発して大喧嘩になった。確か大会2週間位前だったと思うが、私は主将として従わない選手は除名するといい、みんなもそれならやめるという。どうにもならない破目に決裂してしまった。私はレギュラーを除名しても補欠でチームを再編して、どんなに弱くても母校の名誉にかけて大会出場をする覚悟だった。お蔭で練習はストップとなりテンヤワンヤの大騒ぎをしているのを先生や先輩が心配され、当時の竹野屋旅館の主人や竹内さんが仲に入られ、スッタモンダの挙句、仲直りをさせられ出直すことになった。この騒動は2~3日続いたと思うが、弱いチームがいよいよ情けない有様で、もう大会に出場して勝とうとする意欲よりも何とかして恥ずかしくない試合をすることのみが精一杯だった。
 ところが意外なことに「雨降って地固まる」というのが、若い世代の純真なスポーツマンシップのよさというか、喧嘩はしたが、いざ固まってやろうという気になると不思議なほどのチームワークが出来上がったものである。「どうせ敗けるならやれるだけやろうぜ」という心意気がみんなに相通ずる気魄となってきて、それから10日間はまるで打って変わったような練習になった。一同火の玉となって伝統と名誉のために戦おうということになった。
 当時私等のチームがどの位弱かったかを示す証拠にこういうのがある。朝日新聞社が大会前に「山陰大会では何校が優勝するか」という懸賞募集をしていたが、本命の松江中学やら名門鳥取一中は数千から1万近い票が集まっていたのに反し、大社はわずか13票でビリから2番目だったと思う。それも私の友人等が可愛相だから入れといてやろうという友情から集まったもので、何も優勝を期待したものではなかった。
 それが大番狂わせで優勝したのだからたまらない。さしづめ競馬なら大穴というところだったろう。友人等も全部入賞して思わぬ賞品にありついて大喜びだった。

山陰大会での出来ごと


 大会の抽選で、緒戦で山陰の名門鳥取一中と当たった。いわば宿敵であり、私にとっても2年連続して苦杯をなめさせられた怨敵である。なにしろ実力ではダンチの有様ではとてもまともに戦えない。
 そこで私はみんなを集めて決意を新たにし当たって砕ける覚悟で刃向かうことを誓い合った。私等の約束は打てなければデッドボール、塁へ出たら盗塁してぶっつかる。守備は身体でとめる。というようなもので反則も覚悟の意気込みだった。そして敵がい心の固まりで戦った。ところがそれが功を奏したのか一進一退の経過でスコアの示す通り遂に逆転勝ちをした。
 それからがさあ大変、まさかファンや、学校側も鳥取一中に勝つとは夢想だにしなかったことが実現したのだから耳目を疑ったことだろう。早速にわか仕立てののぼりやら太鼓を持って続々とかけつける。激励に先生や先輩がやってくるわ。今までとは打って変わった雰囲気になったわけだ。こうなるとえらいもんで選手の意気込みも変わってくる。前年のチーム力と話にならない弱体チームが怨敵で名門鳥取一中を敗ったというプライドめいたもの、ファイトさえあればやれるという自信めいたものが急にもりもり湧いてきて何だか付焼刃のチーム力が出来上がってきたのである。それから調子に乗って、さらに強敵島根商業を第2戦で敗り、優勝戦出場となった。
 この間に大変な事態が発生したのだ。
 それは準優勝戦で松江中学対倉吉中学の試合のことだった。当時の松江中学は最も有力な優勝候補で力の入れようは大したものだった。そのうえ会場が松江高校グランドで地の理も得ており万余のファンや応援団が力の限り声援していた。その試合半ばで問題が起きた。倉中の攻撃の時、3塁ランナーが外飛でホームを衝いた際離塁が早過ぎたという抗議が松中から出た。勿論主審はホームインを宣告したがやや塁審があいまいだった。
 トラブルは結局判定通りになって一応納得したかに見えて試合は続行されたが、それが原因でもなかったが結局僅差で松中が敗れたのだ。さあそれからファンが承知をしない。試合は先の誤審が解決していないから無効だと文句をつけ出した。勿論主催者側はこれに応じないため大騒ぎになり、松中側はあくまで再試合を要求し、しまいにはヅスを手にして審判団を脅迫する不祥事になった。審判団は身の危険を感じて米子辺りに姿をくらました。そのため大会は中断され、再開困難の様相を呈してきた。そこで朝日新聞はこの事態解決策として山陰大会の優勝戦のみは甲子園で全国大会の前に結構する案を呈示してきた。それに対して私共は絶対反対を表明し、地方大会はあくまで地方でケリをつけて全国大会に臨みたいと強調した。いわば私等としては、漁夫の利といえる立場で、倉吉と松江が喧嘩をしている場が松江であるため、倉吉との試合になれば強力な応援ということになる。そんな打算は別として大騒動の挙句、松江で予定通りにして優勝戦を決行することになった。確か2日位おいて開催された。それが前代未聞の武装野球となった。警官がスタンドの上下にずらりと一列横隊になって観衆に向いて並び、選手のスタンドはダイヤモンドの近くに前に出す警戒振りだった。空きびんや果物が飛んで来ない用心だが、何だか殺風景なもんだった。いざ試合開始となると喧々ごうごうたる野次、ばとうが倉中側に浴びせつけられ誠に凄惨たるものとなった。
 倉中のナインは全く固くなり、応援団も手も足も出せない有様で、これが純真たる学生野球かと思われるほど、こだわった、興奮と殺ばつたる試合であった。
 このことは後に中等学校野球のあり方に対して非常に問題となり、制度改革のきっかけになり、野球史上汚点を残したものであった。この騒ぎで試合は逆転し、全く拾いものをしたように私等は幸運の勝利を得た。
 およそスポーツの勝利とは、それ相当の実力とチャンスに伴う運とに恵まれてこそ訪れるものだろうが、私達の場合は実力なし、ただファイトの固まりと思いがけないトラブルとラッキーチャンスでいわば棚からぼた餅式の優勝であった。
 私は何だか優勝してからも唖然たる気持ちで優勝をしみじみと身に感ずるにはかなりの時間がかかったように思う。
 先輩、ファン、学生等の狂喜乱舞、感激振りはすさまじいもので、殊に前年に卒業したナイン達はうれしいやら口惜しいやらで何かわめきながら泣いていたのも無理からぬことだった。
 この動乱の大会終了後、私等は松江市内をオープンカーでパレードをし、それから一畑電鉄の好意による特別仕立3両連結の電車で大社に引き上げた。駅頭にはおびただしい歓迎の人だかりで街には高張り提灯が出され大太鼓をかり出して大変な出迎えとなった。私共は駅のバルコニーに上げられて、そこから優勝の報告とお礼を述べた。
 それから提灯行列やら祝賀大会が続き、風船玉のようなフアフアした気持ちだったが、流石にうれしくうれしくて仕様のない顔つきだった。

あこがれの甲子園で選手宣誓


 やっと興奮が冷め、お祭り騒ぎが納まって、甲子園行の準備にかかった。いろいろと練習のスケジュールの中に米鉄との練習試合が計画された。ちょうど出発一週間位前だったと思う。この試合で捕手の私が大けがをしてしまった。それは私等が守備で一塁ランナーがヒットエンドランをやろうとして打者がチップしたボールが私の右人差し指にもろにぶつかった。指間は裂けるし指骨は折れたようで早速病院に運ばれ手当をしたが、当分出場出来ない大けがだった。
 右手を吊ったまま、治療に専念せざるを得なくなった。それでも捕手の代わりが十分でなく、何とかして出場しなけりゃならんので随分あさって加療した積もりだった。甲子園に着いても先輩の勝部医院にお世話になって治療を続けたが、勿論この間練習は全然出来なかった。
 晴れの檜舞台、しかも夢に見た甲子園の土を踏むのにこのざまは誠に情けなかったが、とにかく出場することを決めた。
 甲子園での抽せんの結果は大社中学が入場式のトップとなり、私は思いがけなく選手代表に選ばれた。そこで晴れの入場式の時は私が宣誓を行う栄光を担うことになった。
 朝日新聞社より示された宣誓文は確か「第17回全国中等学校野球大会の開催に際し、われ等参加選手一同は大会の規則を守り、あくまで正々堂々戦うことを宣誓します。参加選手代表、大社中学主将、加本一久」と確かこんな文句だったと思う。
 マイクの前で固くなりながらも10万の観衆を前に、また全国のファンの耳に宣誓することは全くのラッキーボーイだったと思う。
 試合の方は第1戦不戦勝、第2戦京城商業と追いつ追われつで辛勝、第3戦で小倉工業に大敗を喫した。全く手のつけられない惨敗ぶりだった。今までラッキーの連続だったのが遂に馬脚を現し、恥さらしの実力露呈という始末となった。ただ弱いだけなら未だしも私の指の負傷をおしての出場はかなり守備戦力に影響したことは事実だった。敵が塁に出れば3塁まではほとんどフリーだった。飯山投手も棒球となって散々打ち込まれもすればエラーも出る始末で一挙に粉砕された形だった。やはり身につけたハードトレーニングによる実力とファイト、それに加えてラッキーチャンスがあってこそ勝利をもたらすものであって、ただしゃむにファイトだけで何時までもつなげるものではなかった。大会前のゴタゴタを起こしたころと余り時間も腕もたっていないはずだから、すっかりもとのもくあみに帰ってしまったわけである。
 当時のナインもその後戦死や病死をしてほとんど生存してる方が少ない位である。
 昔日の数々の想いで話をするにも全く機会もないままにここ30余年を過ごしてきた。
 私は懐かしいそのころのことを忘却から引っ張り出してくれた安食氏等のこの企てに感謝するとともに物故した諸兄の霊に対して謹んで冥福を祈りつつこの一片を捧げたい。
1964年(S39)3月29日

北井監督の教え

2018-08-24 16:33:34 | 野球部アーカイブ
 情熱の恩師、北井監督の口から出てくる言葉は、「お前たちを甲子園に連れていってやる!」私の心の内は、高い高い雲の上にあるような甲子園なのに、本当によく口にされる監督さんでした。
 昭和35年夏の大会、まだ県予選がはじまったばかりの夜のことです。松江の赤木旅館の風呂で北井さんと数名のチームメートと気持ちよく、一つの勝利を味わっていたとき、北井さんの口から突然、「お前達を甲子園に連れて行く!」と力強く言われた。私達選手は、あの夢にまで見た甲子園に出場できるなんて考えてもみなかったときのことなので、力強く自信に満ちたひとことで、頭のすみに甲子園というマンモス球場を植えつけていただいたように思われました。
 この年の夏は、一回戦、二回戦コールド勝ちでしたが、続く準決勝からは、やや苦しみながらも勝ち進み県優勝、続いて西中国大会も優勝しました。私達にあの風呂での話を実現させていただきました。
 北井監督は、言葉だけでなく、練習一つ一つの内容に真心が入っていました。我々にとっては、苦しいはずの個人ノックの中でも、一球一球に甲子園に行くのだ、これが取れれば甲子園でも通用する選手になれるのだ。本当に心をこめられたノックの雨であったことを思い出します。
 監督は練習を休まれたことは一日たりともありませんでした。
 ある日のこと、監督は、知人の結婚式があるとの連絡があり、私達は当然休まれるだろうと少々喜びを感じながら練習に入りました。いよいよ練習も終わりに近づいてきたとき、監督は式服の姿でグランドに直行されたのです。やや酒も入っていたようですが、グランドに入るなり個人ノックでした。この日は、縁起のいい日だというのでさらに厳しいノックの雨、それも一球一球に甲子園という言葉が出てくるのです。
 この機会に、思い出に残った練習内容も紹介させていただけば、冬季には、毎日のメニューが変わり、きょうは日御碕、明日は鵜鷺往復、又次の日は弥山登頂ランニング、来る日は奉納山往復30回と、今では考えられないトレーニングをやらされました。当然監督はバイクで伴走。これで終わるのではありません、くたくたになり学校に帰ると、キャッチボールから始まる普通の練習をするのです。これが北井流の軽い練習だったように思います。このようにからだ全身に、強い体力、粘り強い精神力をうえつけ、あの夢にまで見た甲子園を浸透させられたようにも思われました。
 私達、社高14期卒業生は幸せものです。野球に関しては厳しく妥協をゆるされなかった北井さんですが、野球を通し、人間を作りあげ、社会性を学ばさせていただき、又精神力をつけていただいたうえに、甲子園には2年連続出場させていただくことができ、すばらしい思い出を残させていただくことができました。
 私は、中学校の監督を23年間やっておりますが、27年前の北井さんのお教え通り、人間味あふれる厳しい指導、基本に忠実な野球に取り組んでいるつもりです。でも、まだまだ北井さんのような指導術には届きません。今後も続けて勝負師北井監督に学んだことを大切にし、北井野球を受け継いでいき、自分の野球人生の中に生かしていきたいと考えております。

大社高校 第80回大会の栄誉

2018-08-24 16:23:17 | 野球部アーカイブ
1998年(平成10年)8月6日、第80回全国高校野球選手権大会の開会式が甲子園球場で行われた。校旗を堂々と掲げ、各地区予選を勝ち上がった出場校の入場行進に先立ち、別個のユニフォームの15名の野球部の主将が行進を行った。その中に、大社高校野球部主将、浅井健次の姿があった。1915年の第1回大会から、この80回大会まで一度の欠場もなく連続出場している高校の野球部主将15人が堂々の入場行進をした。

入場行進順
松江北高校  松江中   島根県松江市
大社高校   杵築中   島根県大社町
米子東高校  米子中   鳥取県米子市
鳥取西高校  鳥取中   鳥取県鳥取市
桐蔭高校   和歌山中  和歌山県和歌山市
兵庫高校   神戸二中  兵庫県神戸市
神戸高校   神戸一中  兵庫県神戸市
関西学院高校 関西学院中 兵庫県西宮市
市岡高校   市岡中   大阪府大阪市
同志社高校  同志社中  京都府京都市
山城高校   京都五中  京都府京都市
西京商高校  京都一商  京都府京都市
岐阜高校   岐阜中   岐阜県岐阜市
時習館高校  愛知四中  愛知県豊橋市
旭丘高校   愛知一中  愛知県名古屋市

 全国野球選手権大会第1回大会の出場校は73校だった。現在も学校が存続し、連綿として野球部活動を続けている貴重な15校であるが、その中で人口2万人弱の町にある大社高校がその栄誉を担っているのは一段と輝きを増している。大社高校野球部の創部は、1901年(明治34年)で、当時プロ野球も六大学リーグもない時代だった。高校野球大会の前身である中等学校野球大会も無い時代である。前年慶応大学野球部が創設され、次年、早稲田大学に野球部ができた。大社高校は、早稲田大学と同じ歴史を持つ。大社高校野球部のスタートは、5年生6名、4年生6名、3年生5名、2年生4名、1年生1名の総勢22名による。捕手以外は素手で、アンダーシャツ姿で練習をしたという。