能登のよさこい






よさこいに無関係な事も多くUPされます。

地蔵参り

2016年08月23日 07時02分38秒 | 諸々
今昔

番場で行われていた頃は



画像左端の浴衣の少年が私です、小学生ですが学年は分かりません。



このように夜間外で行われていました。

そして今は





日中の平日と云う事でほぼ老人会です。夏休みですが子供の姿がありません。

子供どころかその親もいないのが現状です。


お地蔵さん

2016年08月22日 07時08分05秒 | 諸々




番場の地蔵さん

(1)前田利家が今から397年前の天正10年、石動山の衆徒と一戦を交えた時、一山は戦塵の巷と化し、天平寺300余坊は鳥有に帰したが、それから5年後の天正15年、前田利長(利家の長男、二代目藩主)が、天平寺の再興に携わった頃、役僧の一人が、赤浦へも勧進に巡錫された。
  そして番場の橋に差しかかった時、向こうの方から一人の侍と出合い、お互いに先を争い一歩も譲ろうとせず、其 で喧嘩となり、遂に役僧は負けて侍に斬り殺され、果かない最後を遂げてしまった。
  在所の人は哀に思い、亡骸を番場の中洲に埋め、其 に地蔵を祀り、供養をしたとの傅説である。(傅承)
附記
錫杖を持っておられる大きい方の地蔵さん
◎傅説に寄れば、役僧の亡骸の上に一本の杉を植えたそうで、それが今も尚枯れずに傾いたまま生き続けているとの事である

(2)明治元年(112年前)神佛混淆は禁ぜられ、神社所属の別当僧は復職を命じられたので、石動山天平寺全山衆議し、還俗を申し合わせたが、玉演法印は、石道山復興の一念やみ難く同志と相謀り、手分けして東奔西走中、遂に病気となり、明治14年11月21日67才を以て、事成就せず、赤浦で果かない生涯を終えたとのことである。
  後日村の信仰心深い人達が話し合って、亡き玉演法印供養のためにと、新しい地蔵さん一体を作り、番場の地蔵さんの側に、これをお祀りしたとのことである。
 その地蔵さんを村人たちは玉演地蔵と云うようになった。(傅承)

附記
小さい方の地蔵さんである。
そして現在二体の地蔵さんが番場に祀られている。
◎玉演法印は、柳田村武藤家出身で、同家に位牌・過去帳あり
◎法印の墓に、当山(長福寺)中興大阿玉演和上
  

黒部

2016年08月21日 07時26分04秒 | 諸々
スイカではないはずですが





楕円です。11kgありました。でも



でもって、食べたらビックリこれが美味しいんです。

前回は収穫が早くて中は淡いピンクでしたが、今回は少し遅かったようです。

管理不足でいつ実がついたのか把握していませんでした。

畑にはまだいくつか実がありますが、これらも適期収穫日がわかりません。

そもそも

2016年08月20日 08時38分03秒 | 諸々


この石権現(いしなごんげ)って何です?

私の所では子供の頃から石の事を「いしな」と言い、小石は「いしなんこ」と言っていた。

町内の歴史研究家がまとめた物によると

市杵嶋社

通 稱 石ナ権現とか、番場の神様と崇拝されてきた
祭 神 市杵島姫命
鎮座地 赤浦新リノ38番地 面積13歩
祭 日 8月18日 於 番場

由緒
明治25年頃迄、通称石ナ権現山(A氏所有山、6ノ39番地)に鎮座しておられたが、白山神社より6町程(約600m)彦三谷内から、向山の峰道を行った峽にて毎年お祭りを行なって来たが、天候とか距離的において不便を感じ、現在地の番場へ御遷座されたとの事である。
頃は明治26年頃で、当時の区長、区長代理等が指揮をとり、若い連中が丸太棒を4人で担ぎ、交替で担いで運ばれたとの事である。
通行路は右山の峽いから一旦向山の峰道へ上り、それから大谷道へ下り、八木道を通り、浜道へ出て番場の現在の鎮座地まで運ばれたとの事である。

傅説
 古老の話によれば、或る晩、里人の霊夢に権現様が現れ、「汝よ 我を石ナ権現山から 番場の中洲へ 速やかに遷し給え」との事で、夢のお告げを受けた里人は、早速、区長にお知らせしたところ、同氏は神主と相談し、次いで在所の寄合いをした結果、番場へ遷座申し上げることになった相である。
 右御遷座に際し、白山神社に於いてその奉告祭を取り行ったとの事である。

祭日について
 御遷座当時より10月18日を祭日と定め、毎年10月18日にお祭りを執り行って来たものであるが、この祭りを二度祭りと称していた。
 ところが昭和6年、白山神社が村社に昇格し、11月26日に新嘗祭を執行されることになってから、10月18日の石ナ権現さんのお祭りを白山神社において新嘗祭と同時に併せて執行されることとなり、終戦時迄続いたが、終戦後社格廃止となりたるも、新嘗祭は勤労感謝祭と名称は変わったが、11月26日(俗称大根まつりと言って11月18日にいつの日からか変更されている)にお祭りは行なわれている。
 一方、石ナ権現の祭事は、8月18日に番場で以前通り執行されることになり、現在迄続いている。
 8月18日に定めたのは、当時赤浦壮年会が在所の娯楽として、子供の相撲大会をしようとの話がもち上り、一層勧進相撲と云うことにして神主を招き、お祭りをして貰ったらと話が進み、それでは石ナ権現のお祭りの後で子供相撲をと云うことになり、その日取りを8月18日と定めたのに始まり、その慣習が今日に続いているのである。


A氏・区長・区長代理の個人名も記されていますが、お名前は控えさせてもらいました。