ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「回向」

2019-10-08 18:29:28 | 解説・入菩提行論



第十章 回向


【解説】

 さあ、いよいよ「入菩提行論」最後の章、回向の章です。
 実はこの回向の章についても、いわくがあります。
 その昔、「入菩提行論は十章まである」と主張する僧達と、「九章までである」と主張する僧達の間で、論争が起こったそうです。そこで、当時南インドにいたシャーンティデーヴァのもとに使いが送られ、それに対してシャーンティデーヴァは、「十章まである」と答えたとする話が残っています。
 この話が本当かどうかはわかりませんが、その後も、この十章の真実性を疑う説はあったそうです。
 しかし私にはその真偽を確かめるすべはありませんし、また、どちらにしろ回向というものが修行の中で重要な項目であることは確かですので、最後にこの回向の章についても、私なりの本文のまとめと解説を行なってみたいと思います。

 回向とは、「回し向ける」と書きますが、文字通り、自分の修行の功徳を、衆生の幸福、そして自他の悟りのために回し向けることです。

 功徳とは、全てを達成する源となるエネルギーのことです。自分がエゴに基づく現世的な欲望や願望を持っていると、せっかく積んだ功徳も、そういったエゴの願望を達成する方向に使われてしまいます。それを防ぐために、こういった回向の詞章を唱え、回向の心を修習することによって、封印するのです。ただただ、衆生の幸福と、自他の悟りのために、自分の功徳が使われますようにと。




【本文】

 菩提行に入ることを念じつつある私の功徳--それによって一切の人々は、菩提行を飾りとする者でありますように。

 全ての方向において、心身の苦難に悩んでいる人々の限り、それらの人々は、私の功徳によって、安楽歓喜の海に至りますように。

 輪廻の終わるまで、常に彼らに安楽の消失がありませんように。世の人々は、絶えず、菩薩の安楽に至りますように。

 もろもろの世界に地獄のありとあらん限り、そこにいる生類は、スカーヴァティ(極楽世界)の安楽歓喜を喜び楽しみますように。

 地獄の寒さに悩む者は暖かさを得ますように。熱に悩む者は冷涼となりますように。菩薩の大雲から生じた水海によって。

 地獄の刀の葉の林は、天の喜びの園の光輝と変じますように。また、地獄の棘ある樹は、天の如意樹となりますように。

 カモメ、鴨、白鳥、ガチョウなどの妙なる鳴き声がする美しき池により、高き蓮華の香りによって、地獄の諸方は、楽しくありますように。
  
 地獄の炭火の集積は、宝珠の集積となりますように。燃える火の床は、水晶の床となりますように。衆合地獄の山は、スガタ(仏陀)の満ちる供養の殿堂となりますように。

 地獄の炭火に焼かれた石と剣の雨は、今より、花の雨となりますように。そして、地獄の剣の戦いは、今、遊戯のための花の戦いとなりますように。

 その肉は全て落ち去り、百蓮華のごとき白い骨の体となり、地獄のヴァイタラニー河の火の様な水に沈む者達は、私の善の力によって、天の身体を得、神の妃たちと、天のマンダーキニー河に住しますように。

 ヤマの従卒および恐ろしい地獄のカラスとハゲタカは、突然に闇があまねくのぞかれたのを、おびえながら眺めるだろう。そして「この楽しみと喜びを生ぜしめる好ましい光明は誰の者か」と言って、上方を眺め、天空に止まって光を放つヴァジラパーニを見、その喜びの衝撃によって、悪業が消え去り、彼らはヴァジラパーニとともにあるであろう。

 蓮華の雨が降る。それは香水と混じり、地獄の火を寂として消すのが認められる。そこで地獄の者達が「これは何事だ」と嬉しさにあふれて考えると、彼らの前に青蓮華手菩薩が現われるであろう。

 来たれ、友よ。速やかに来たれ。恐怖を捨てよ。かの猛火を恐れさせない有髻の童子(マンジュシュリー)がいらっしゃった。その威力によって、全ての悩みは消えうせ、喜びの躍動が始まった。そして、菩提心と、全生類の救いの母である、慈悲とが生じた。

 君達よ、彼を見よ。その足元の蓮華は、(礼拝する)神々の百の王冠に輝き、その眼は慈悲の涙に潤むを。また、彼を褒め称える幾千の天女の歌声響く妙なる楼閣から、その頭上には、あまたの花が雨のように降り注ぐを。マンジュシュリーを面前に見て、地獄の者達の歓声が、今、発せられますように。

 かように、私の善によって、彼ら地獄の者たちが--楽しく涼しく薫り高い風と雨を伴うところの--サマンタバドラを先頭とする菩薩の雲集を見て、歓喜を起こしますように。

 地獄の人々の激しい苦しみと恐怖が静まりますように。全ての悪趣に住する者たちが、悪趣から解放されますように。

 動物界において、互いに食い合う恐怖がなくなりますように。餓鬼界は北のクル州における人々のように楽しくなりますように。

 聖アヴァローキテーシュヴァラの手から滴る乳の流れによって、餓鬼は満たされ、沐浴し、常に冷涼となりますように。

 盲人は常に色形を見、聾者は音を聞きますように。また妊婦達は、マーヤー夫人のように、無痛に分娩しますように。

 衣服・食事・飲料・花輪・香水・装飾品・その他願わしきもの、功徳に適合する全てのものを、衆生が得ますように。

 臆病なる者が、恐怖なき者となりますように。激しい憂いに悩める者が、喜びを得ますように。不安なる者が、不安なく確信ある者となりますように。

 病人が健康になりますように。全ての束縛から解放されますように。無力なる者が能力を得ますように。衆生が互いに親愛の心を持ちますように。

 全ての道行く者に、全ての方位が恵みを与えますように。いかなる目的のために彼らが行こうとも、方便をもってそれらが成功しますように。

 船路の旅を行く者の望みがかないますように。安穏に岸に達し、親戚と喜びをかわしますように。

 荒野の道に迷える者が、旅人と行き会いますように。そして、盗賊やトラなどの恐れなしに、疲れなく進みますように。

 眠れる者、狂った者、怠惰な者、病人、森で迷った人、寄る辺なき者、幼児、老人らに対して、神々が保護を与えますように。

 衆生は全て不慮の災いを免れ、信と智慧と慈悲を具え、良き容姿、良き行ないを持ち、常に前生を憶念しますように。

 虚空蔵のごとく、無尽の宝を持つ者となりますように。争いなく、安らかに、自由な者となりますように。

 気力乏しき衆生は、気力盛大となりますように。醜い者は美しくなりますように。

 世の女性達は全て男性となりますように。卑しい者は高貴となりますように。しかも、高慢を滅ぼす者でありますように。

 私のこの功徳によって、全ての衆生は残りなく、すべての罪悪を止め、常に善をなしますように。

 菩提心を捨てず、菩提行に専心し、かつもろもろの神々に完全に守られ、全ての魔のカルマを捨てますように。

 全ての衆生は、無量の寿命を得ますように。常に楽しく生きますように。死という言葉すらも消えうせますように。

 また、全ての地域は仏陀と仏陀の子(菩薩)に満ち、如意樹の園により、心地よい法の響きによって楽しくありますように。

 大地はいたるところ、小石などがなく、手のひらのごとく平らで、柔らかく、瑠璃よりなれるものとなりますように。

 菩薩の大集会のマンダラは、いたるところに座を占めますように。彼らの輝きによって、大地を飾りますように。

 衆生によって、鳥から、全ての樹から、光線から、虚空から、法の響きが休みなく聴き取られますように。

 彼らは常に、仏陀、仏陀の子(菩薩)とともにありますように。そして無限なる供養の雲によって、世界の師(仏陀)を供養し奉りますように。

 神は時節たがわずに雨を降らせますように。そして穀物は豊かに実りますように。また世間は富裕となりますように。王は正しくありますように。

 さらに、薬草は効力がありますように。マントラは、唱える人に成就しますように。ダーキニー、羅刹等は、慈悲深くありますように。

 いかなる衆生にも、苦しみがありませんように。罪人になりませんように。また病がありませんように。下劣でありませんように。征服されませんように。悪意ある者になりませんように。

 僧院は経典の読誦に満ちて栄えますように。出家教団を維持するに必要な条件は永遠にありますように。出家教団はその目的を成就しますように。

 出家僧は、識別智を得、教学を好む者でありますように。勤勉な心で瞑想を修めますように。心の散乱を離れた者でありますように。

 尼僧はよく布施を受ける者でありますように。論争と憂いを離れてありますように。また、全ての出家者は、戒を完全に守る者でありますように。

 戒をまだ守れない者は、常に罪悪を滅ぼしていくことに心を向けますように。

 善趣に生を受けた者は、そこで誓願を全うしますように。

 賢者は尊敬され、供養を受け、施食によって生活する者となりますように。心の相続は清らかで、諸方に名声高き者となりますように。

 悪道の苦しみを受けず、難行をせず、ただ一つの神々しい身体によって、衆生が仏陀となりますように。

 全ての衆生は、全ての正覚者にあらゆる供養をなしますように。仏陀の不可思議なる楽によって、無上に楽しき者となりますように。

 菩薩達の、世のための願いが成就しますように。かの救済者たちの考えるところは、衆生のために実現されますように。

 独覚と声聞が安楽でありますように。神々、阿修羅、人間によって、常に尊重をもって供養されつつ。

 前生の憶念と出家の状態とを、私は常に得られますように。マンジュシュリーの祝福によって、歓喜地を得られますように。

 どのような座法で(瞑想しても)、私は力に満ちて時を過ごしますように。全ての生において、識別智に住する一切の条件を得ますように。

 さらに、私がまみえたいと願い、またあることを聞きたいと願うとき、かの救済者マンジュシュリーを妨げなく拝めますように。

 十方の虚空の果てに至るまでの全ての衆生の利益を成就するために、マンジュシュリーの行ない給うところと同じ行ないが、私にも現われますように。

 虚空が永続する限り、また世界が永続する限り、私は世界の苦しみを滅ぼす者として永続しますように。

 どのような苦しみが世界にあろうとも、その全てが私にもたらされ、(他に及びませんように)。そして全ての菩薩の浄行によって、世界が安楽でありますように。

 世界の苦しみに対する唯一の医薬であり、全ての幸福と楽の源である教えは、供養と尊敬を伴って、長くあり続けますように。

 その恩恵によって智慧が清らかとなるように、私はマンジュシュリーに帰依いたします。また、その恩恵によってそれが増大するように、すばらしき師と法友に頂礼をささげます。


【解説】

 さあ、これでついに、「入菩提行論」の全てが終わりました。この回向の章については、読むだけである程度理解できると思いますので、特に詳しい解説はいたしません。

 もう一度この入菩提行論の全プロセスをまとめますと--

①菩提心のすばらしさを賛嘆する。
②仏陀や菩薩方に供養をし、自己の悪業を懺悔する。
③菩提心を受け保つことを誓う。
④菩提行に怠けずに励む。
⑤正念正智を守る。
⑥忍耐する。
⑦よりいっそう精進に励む。
⑧現世を離れ瞑想に励む。
⑨空性の智慧を得る。
⑩全ての功徳を、衆生の幸福と自他の悟りに回し向ける。

 --このようなプロセスですね。すばらしいですね。
 これを見ればわかるように、六つのパーラミター(布施・持戒・忍辱・精進・瞑想・智慧)を土台とし、そこに菩提心についてのより深い考察や、正念正智の教えなどを入れることで、より実践的な、菩薩行の入門書となっています。

 願わくば、このすばらしい教えが、あまねく世に広まりますように。
 このすばらしい教えによって、輪廻に迷える全ての衆生が、菩薩の道を歩きますように。
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「一切は虚空に等し」

2019-09-28 19:52:14 | 解説・入菩提行論


【本文】

 感覚は心とともに生じるのであるから、心によって感受されるということはない。
 感覚が心とともに生じた後に、その感受が生じるのであると主張するならば、それは想起されているに過ぎない。

 自らが自分自身を感受することはないが、他のものによっても、感受されることはない。感受の主体は全く存在しない。それゆえ、感受は真実には存在しない。

 このように、心身の集合体に本質がないとき、誰がこれによって苦しめられようか。また一体誰に対して、会うとか別れるとかいうような欲求が生じようか。

 心は感官にはない。色形などにあるのではなく、両者の中間にも存在しない。心は内にもなく、外にもなく、他のところにもない。

 身体にもなく、身体の外にもなく、(身体と)混じり合っているのでもなく、単独でもない。全く心は存在しない。それは実在ではない。それゆえ衆生は、本質的にニルヴァーナに入っているのである。

 もし知識が知識の対象より先にあるなら、その知識は何を認識して発生するか。
 また知識が知識の対象とともに生ずるとすれば、それは何を認識して生じるのであろうか。
 また知識が知識の対象の後に生ずるとすれば、(刹那性の知の対象は、知が生じるときにはすでに滅してしまっているはずなので)その知はどこから生ずるか。


【解説】

 前節において、この肉体に関しての考察、つまり四念処の中の身念処の考察がなされました。
 それに引き続いて、受念処、すなわち感覚、感受作用というものへの考察、そして心念処、心についての考察が、ここにおいてなされています。
 四念処は、さまざまな角度からの考察が可能ですが、この流れにおいては、「空である」ということをポイントとして、考察が展開されていますね。これについても各自で読み、思索の材料にしてください。
 思索のポイントは、言葉の意味を探りつつも、言葉にとらわれないことです。シャーンティデーヴァが本当に言いたかったことを読み取るには、第一~八章までの修習と実践、そしてその他のさまざまな修行も必要だと思います。
 そして本文は、四念処の最後の法念処、すなわちすべての事象への考察から、この智慧の章のまとめへと入っていきます。



【本文】

 (すべての事象は)なんら、もろもろの条件や、集合体によって確立しているのではなく、他より来るのでもなく、とどまっているのでもなく、過ぎ去るでもない。
 幻と異ならないのに、愚人は真実と考えてしまうのである。

 幻によって作り出されたもの、およびもろもろの原因によって作り出されたものは、どこから来て、どこに去るか。考察せよ。

 現に存在している存在物にとって、もろもろの原因は一体何の必要があろうか。
 
 非存在であるときに存在物がないとするなら、一体いつ存在物は現われるであろうか。存在物が現われない限り、非存在は消え去らないであろう。非存在が消え去らないのであるから、存在物が現われる機会はない。

 存在物も、非存在の状態(本質)にはならない。(一つの事物が)二種の本質を持つということになってしまうから。

 このように、消滅もなければ生起もない。

 それゆえ、この全世界は、生起することもなく、消滅することもない。

 もろもろの輪廻世界は夢のようなもので、芭蕉のように核心がない。ニルヴァーナに入った者と入っていない者も、真実においては相違はない。
 
 かように諸法が空であれば、何が得られ、何が奪われることになろうか。
 誰が誰に対して尊敬したり、あるいは軽蔑せられるであろうか。

 楽や苦しみがどこにあろうか。何が好きで、何が嫌いか。何が渇愛であるか。その本質を探求するとき、どこに渇愛があるか。

 この生命世界を考察するなら、誰が実にそこで死ぬであろうか。輪廻の中で、誰が敵になり、誰が親族であり、誰が友人であろうか。一切を虚空に等しと理解せよ。


 人々は自ら楽を求めつつ、争いごとや嬉しさを原因として、怒ったり喜んだりする。悲哀や苦悩や落胆や、互いに切り合い断ち合い、ひどく惨めな有様で生活を送る。

 あたかも水浴しては繰り返しまた火に入るように、善趣に来ては、満たされることなく繰り返し楽を享受し、死後に永い間苦しむ。耐え難い悪趣に陥っているにも関わらず、惨めな人々は、自らを幸福であると思いなす。

 いったいいつ私は、無所得(空の立場)によって、恭しく功徳の資糧を積みながら、有所得(対象的認識)の見解のために破滅している人々に、空性を説こうか。


【解説】

 さあこれで、「智慧の完成」の章は終わりです。

 この章の真意を理解するためには、繰り返しになりますが、他の章の理解と実践が不可欠であると思います。

 そしてある程度この章の内容を頭で理解したと思ったとしても、真の理解は、実際に悟りを得るまでは訪れないと認識してください。自分の理解にとらわれると、また新たな過ちに陥ってしまいます。

 「入菩提行論」第一章から十章までの修習と実践により、いつの日か多くの人々が、実際に空性の悟りを得、輪廻の幻から解放されることを願ってやみません。



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「無我の修習」

2019-09-19 07:12:17 | 解説・入菩提行論




【本文】

 もし音の知覚が(我の本質であるならば、我は常住であるから)音は常に把捉されていなければならない。しかし、知覚されるところの音がない場合に、何を知覚してそれが知であるといわれるか。

 もしも(対象を)認識しないものが知なら、木材も知だということになってしまう。だから、知覚の対象を欠く知は、存在しないことが確かである。

 その(我)が、まさしく色形を知覚するのであるならば、何ゆえに(同時に)音を聞かないのか。
 「それは(対象としての)音を欠くためである」というなら--それでは、それは音の知覚ではないことになろう。

 音を把捉する性質のものが、どうして色形を把握する性質のものでありうるか。同一の人物が父でもありかつ子でもあると分別されるけれども、これは真実によるのではない。
 
 (サーンキヤ哲学でも、万物は)サットヴァとラジャスとタマスからなる。したがって父も子もないはずである。--しかし、それが音の把捉に従事している間は、(色形を捉えるという)彼(知)の自性が認められないのである。

 それ(音の知)は、他の相によって(色形も捉える)。あたかも俳優のごとくである(というなら)、
 --ならばそれは無常であろう。
 それはまさに性質を異にする、というなら、
 --それを同一なりとは、前代未聞である。

 他の性質は、真実ではない、というなら、 
 --その本来の性質を説くべきである。
 もし、知性がそれである、というなら、
 --一切の人間が同一となる結果となろう。

 そして、思考力のある者と、思考力無きものとの間にも、同一が成り立つことになろう。なぜなら、この二つは、ともに存在性を(本性と)しているから。
 もし「区別は誤謬である」というなら、
 --それなら、類似は何に基づいて成り立つか。

 さらに私は、布のように、決して本来の非思性から、思考力がないのではない。
 「思考力と結合して知者となるのだ」というなら、
 --知を失うときは、それは滅びることになろう。

 もし、我は不変であるというなら--それが思考力と結合するに何の意味があるか。かくして、知を欠き行為を欠く虚空に、我性を帰することになろう。

 「我がなければ、行為と果報の因果の関係が成立しない。なぜなら、カルマを作って(カルマの作者が)滅びるなら、将来誰に果報が返るというのか」というならば、
 --我々両者において、行為の主体とその果報を受ける主体とは、(この世と来世などとの)別があるのだと明らかに認められている。また我は(非知で無活動であるというから)、そこには活動しない。したがって、それについて争うのは、無益ではないか。

 行為をなしたものが、必ずその結果を得るという現象は、認められない。刹那の相続を一つ(とみなすこと)をよりどころとして、「行為をなした者が、行為の果報を受け取る者である」と教えられたのである。

 過去の心も未来の心も我ではない。なぜなら、それは現に存在しないから。そこで、現在の心が我であるとするのは、(それも不可である)。この場合にも、滅したときに、我が存在しないからである。

 あたかも芭蕉の幹を切り裂けば、何も残らないように、精察をもって探求すれば、我も非存在なるものである。

 「もし衆生が存在しないならば、慈悲は誰のためにあるか」というならば、
 --それは、達成される目的のために、許された迷妄によって妄分別されたものである。

 衆生が存在しないなら、達成されるべき目的は、誰のためか(というならば)、
 --そのとおり(「至高の意味の真理」の立場からすれば、誰のためでもない)。迷妄によって、目的に対する努力がある。しかし(衆生の迷妄なる)苦しみを鎮めるという目的に対する迷妄は、禁止せられない。

 これに反し、我に関する迷妄からは、苦しみの因である我執が増大する。
 「それから免れることはできない」というなら--無我の修習が最も優れている。



【解説】

 この辺は今度はおそらくサーンキヤ哲学等を相手に想定した対論ですね。この辺も、興味がない人は読み飛ばしてもらってもいいと思います(笑)。

 ところで、「ヨーガ・スートラ」に代表されるヨーガ派の哲学はサーンキヤ哲学に近いわけですが、私は個人的には、サーンキヤも、ヨーガ派も、中観派も、唯識派も、原始仏教も、あるいはヴェーダーンタの不二一元論や、ギーターなどのバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどの見解も、あるいは密教も、ゾクチェンも、マハームドラーも、すべて認めます。
 その見解から、この中観派の見地から他派を論破していく類の論書をどう考えるか、ということに関しては、いろいろと思うところはありますが、話がより複雑になりますので、詳しくはここには書かないでおきます。

 しかし大まかなわたしの感想としては、(この章が後世の挿入という説もありますが、仮に本当にシャーンティデーヴァの言葉とだとすれば)、シャーンティデーヴァは、他派と自派がどちらが正しいかどうかというようなレベルの話は、どうでも良かったのではないかと思います。シャーンティデーヴァなら、他の章を見る限り、言葉の哲学的追求よりも、この論書を読んで実践して読者が実際にいかに利益を得るか、ということに、この章においてもポイントを絞るはずだからです。
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「空性を修習せよ」

2019-09-19 06:59:08 | 解説・入菩提行論


【本文】

 勝者(仏陀)も幻に等しいとすれば、どうしてそれから功徳が生ずるか(と問うなら)、
 --もし(勝者が)実在すれば、どうしてそれが生ずるか。

 もし衆生が幻に等しければ、死んだ者がどうして転生するか(というなら)、
 --それを生ぜしめる条件の集合がある間は、幻も成立している。単に長時の相続だけで、衆生がどうして真実に存在するといえるか。

 幻の人を殺したりしても、心がないから罪悪にならない(ということになるではないか、というなら)、
 --それでもそれが、心の幻を備えている以上、悪業や善業が発生する。

 マントラ等には、(幻の心を作り出すような)能力はないから、幻の心なるものは生じ得ない(というなら)、
 --幻にはいろいろな種類がある。それらはいろいろな条件から発生する。 

 一つの条件が、全てを生ぜしめる力を持つことは、いかなる場合にもありえない。「至高の意味の真理」において滅している者が、もし世俗で輪廻するならば、仏陀もまた輪廻するであろう。それならば、菩提行に何の意味があるか(というなら)、
 --もろもろの条件が断たれない間は、幻もまた滅びない。しかし、もろもろの条件が断ち切られれば、「隠された限定的真理」の意味においても、生はなくなる。妄想がないときに、誰が幻を知覚するか。

 汝にとって、幻が存在しないとき、何が知覚されるというのか。

 それはまさしく心そのものの形相であり、それが心より別のものとして真実に存在する(というなら)、
 --その幻の対象は、心そのものであり、誰が何を見るのであるか。世尊もまた「心は心を見ない」と説かれた。

 あたかも刀の刃がそれ自体を切らないように、心もまたそのとおりである。

 もし、それは灯明のように、それ自体を照らす、というならば、
 --灯明は照らし出されるということはない。暗闇に覆われていないから。青が青であるためには、水晶(が青く見えるために他の助けを要するの)と違い、他を必要としない。

 かように、ある物は他を必要とし、ある物は必要としないことが観られる。

 青は、青たらしめられない限り、青ではない。したがって、青たるべき因を必要とする(というなら)、
 --もともと本質が青である物を、誰が進んで青にしようとするであろうか。

 灯明が照らすことは、識別作用がこれを知り、会得される。しかし、識別機能が(外界を)照らすということは、誰がこれを知り、会得されるというのか。

 それが照らすか照らさないか、誰もこれを見ることはできないのである。ゆえに、それを説くことは、「子供を産めない女が産む娘の戯れ」について論ずるように、無益である。

 しかし、もし識別作用に、自己を識別することができないとしたら、どうして人は回想をすることができるのか
(というなら)、
 --他を知覚すると、それと連合して回想が生ずる。あたかもネズミに用いた毒が、後に雷鳴によって効果をあらわすように。

 他の条件と結合すれば、心は他人の心をあらわす(たとえば占い師の技術や、聖者の他心通等によって)。ゆえに、心が自己を照らし出す(事も可能である、というなら)、
 --目に魔法の薬を塗って(隠された)瓶を見ることができたとしても、それは瓶そのものを見ているというわけではない。

 (我々は「隠された限定的真理」の見地においては)、直接に経験された知識、他人から教えられた知識、推理による知識等を、拒まない。しかし、真実の立場からは、経験したことを実在と考える分別を、苦しみの原因として排斥する。

 もしも「幻は心と別のものではない」というならば、それは「別でないことはない」とも分別せられる。もしも「それは実体である」というならば、なぜそれは「心と別ではないもの」でないのか。もしも「心と別ではないもの」とすれば、それは実体としては存在しないということになる。

 幻は実在しなくても見られるように、心も(究極の立場からは実在しないけれど)、見る働きがあるのである。

 もし、輪廻は真の実在をよりどころとして現われる、というなら、
 --それは心よりも異なり、あたかも虚空のようである。

 真実に存在しないものが、実在に依存したからとてどうして作用を有するものとなることがありえようか。実に汝(の学説)では、ただ非存在を伴う心のみが存在する結果となろう。

 心が認識の対象を離れたときには、全ては如来となろう。したがって、心が「唯心である」と分別するときにまた、いかなる功徳が得られるか。

 (世界は)幻に等しいと認識しても、それでどうして煩悩が取り除かれるか。魔術の幻によって作り出した女に対し、魔術師自身が愛を感ずるということがあるではないか。
 それは、魔術師に、認識の対象に対する煩悩の潜在的可動力が断ち切られていないからである。したがって、その女を見たときに、彼には「空」の潜在的影響力が無力なのである。

 空性の潜在的理念を堅く植えつけることによって、「事物が実在する」という潜在的理念は消滅する。そして「何ものも存在しない」と反復修習することによって、後にその「空性の潜在的理念」もまた捨てられる。

 「それは存在しない」と考えられた事物を、もはや人が認めないようになれば、よりどころを失った「無きもの」がどうして心の前に現われるであろうか。

 存在するものも存在しないものも心の前に現われないときには、他によるべき道がないから、心はよりどころを失って静寂となる。

 あたかも如意珠と如意樹とが人々の願いを満たし実現するように、導かれるべき衆生(の善根が熟し)、(過去世で菩薩だったときに立てた)誓願によって、勝者(仏陀)の姿が仰がれる。

 あたかも蛇使いが、柱に調伏の呪法を行なって後に死去しても、彼の死後にも永い間、蛇の毒を消し鎮めることができるように、--菩薩行によって調伏の呪法がかけられた仏陀の柱も、その菩薩の死後も、すべての働きをなす。

 (世俗的な)心がない(仏陀)に供養して、どうして果報が得られるか(というなら)、
 --現にまします仏陀と、すでに亡くなった仏陀と、いずれに対しても(供養の功徳は)等しいと、聖典に説かれるからである。
 そしてアーガマ(原始仏典)に拠れば、それによって、あるいは世俗的な、あるいは真実の果報がある(とせられる)。
 「真の仏陀に対してなされた供養に果報がある」というのは、なぜであるか。それは、そのとおりにアーガマに説かれているからである。

 サティヤ(=苦集滅道の四つの真理)を見ることに基づいて解脱が得られる。空性を見る必要がどうしてあるか(というなら)、
 --この道以外に覚醒は得られないと、(大乗)聖典に説かれているからである。

 しかし、大乗は(仏陀の真実の教えであると)証明されていないではないか(というなら)、
 --どうして汝のアーガマは、仏陀の真実の教えと証明せられるか。

 それは、我と汝の両者ともに権威を認めているからである(というなら)、
 --それは最初から(汝が信じる前から)権威を持っていたわけではない。

 いかなる理由によって汝が自己のアーガマを尊重しようとも、それと同じ理由によって、大乗を尊重せよ。もし、我々両者以外の他の異教も真理であるとするならば、ヴェーダなども真理であるということになってしまうであろう。

 もし、「大乗は論争があるから、大乗聖典は捨てるべきである」というならば--汝は自己のアーガマを捨てるべきである。なぜなら、汝は外道と論争するのみならず、(同じ小乗の中で)自派の人々と論争し、他派の人々と論争をなすから。他のアーガマも、(同じ理由で捨てねばならない)。
 
 仏教はビクシュたることを根本としている。しかし、心が対象に執着している人々には、真のビクシュたることは困難である。またニルヴァーナも困難である。

 もし煩悩の放棄によって解脱が実現されるというならば、解脱は、直接それに引き続いて現われねばならぬ。しかし、彼ら(煩悩を放棄した人々)の中に、煩悩を伴わないカルマではあるが、結果を生ずるカルマの力のあったことが、(アーガマに)明らかに示されている。

 もし彼らに渇愛、取著がすでにないと断定するなら--煩悩とは結びつかないとしても、無智と同様に、彼らに渇愛がないということが、どうしてありうるか。

 渇愛は感受を条件としている。しかるにその感受が、彼らに認められる。さらに、対象を伴う心は、あちこちに関わらざるを得ない。

 空性(の自覚)なくしては、心は繋縛せられる。そして再生(の苦しみ)を受ける。あたかも無想定(の瞑想)において、一時的に心の働きが滅しても、再びまた生起するように。ゆえに、空性を修習せよ。

 「対象に惑い悩める人々は、(空性の教えを聞いて)愛着と恐れを起こすがゆえに、対象の束縛から離脱しないで、輪廻界に住みついてしまう。これが空性のもたらす結果である」--と、空性の教えに対するかような非難は、根拠がない。だから疑うことなく、空性を修習すべきである。

 空性の教えは、煩悩による障害と、全智を妨げる障害の、闇を対治するものである。ゆえに、全智を欲する者は、なぜそれを速やかに修習しないか。

 苦しみを生ずる事物に対して、恐れは生ずるであろう。しかし空性は苦しみを鎮める。どうしてそれに恐れが生ずるか。

 もし私がなんらか(実在する)ものであれば、あれやこれやに対して恐れも生じよう。が、私はなんら実在物でないとすれば、誰に恐れが生ずるか。

 歯、毛、爪は私ではない。骨もそうでなく、血も私ではない。鼻水も、痰も、膿も、唾もそうではない。

 汗も脂も腸も私ではなく、内臓も私でなく、大便小便も私ではない。

 肉も私ではなく、筋も、体温も、風(呼吸、生命エネルギー)も、私ではない。(目等の)孔も私でなく、眼耳鼻舌身意の六識もすべて私ではない。



【解説】

 本文が長く続きましたが、ここは細かい解説はしません。各自でお読みください。

 この文の前半においては唯識派を、後半では原始仏典を奉ずる人たちを対象に、空性の教えの重要性が論じられています。このように対象を設定した論争的内容は、大乗仏教の論書によく見られるスタイルですね。しかしその論争的論理展開に眼を奪われるのではなく、頭をやわらかくして、この章が伝えたい真意を受け取ってほしいと思います。
 もし受け取れないならば、あるいは誤解しそうならば、無理せずに、まずは第一章~第八章までの内容を、繰り返し学び、実際に繰り返し実践すべきでしょう。その方が、この「智慧の完成」の章を論理的に理解しようとするよりも、実際に「智慧の完成」に近づく早道だと思います。
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「賢者の道」

2019-09-17 08:18:23 | 解説・入菩提行論



【本文】

 この身を保護すればするほど、それはいっそう軟弱となり、ますます堕落する。

 かように堕落しても、その欲望は、この全大地をもってしても、なお満たしがたい。それゆえ、誰がその願いを実現しうるか。


【解説】

 欲望に妥協し、この身体を甘やかせば甘やかすほど、身体、というよりも五蘊といったほうがいいでしょうが--この身体をよりどころとしている自我は、甘やかせば甘やかすほど、軟弱となり、そしてその堕落した欲望には、終わりがありません。以前は耐えられた欲望にも耐えられなくなり、また、その欲望の増大には終わりはないのです。



【本文】

 不可能を願う者には、煩悩と幻滅が生ずる。しかし、あらゆるものに対して期待をかけない人には、衰えない幸福が訪れる。

 だから、身体に願望を増させる余地を与えてはならない。希望によって触れられることのない事物が、まさにすばらしいのである。


【解説】

 入菩提行論は、さまざまな多様な教えを含み、それは読む人のバックボーンによって、さまざまな読み取り方ができるでしょう。
 私は前にも、入菩提行論はまるで「バガヴァッド・ギーター」のようだ、と書きましたが、この部分も、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの教えと同様の雰囲気を、私は感じますね。
 もう少し具体的に解説しますと、つまりこれは大乗仏教や密教でもよく言われるように、「希望と恐怖と幻滅を捨てなさい」ということですね。
 我々は明日の自分の生死もわからないような無智であるにも関わらず、根拠のない欲望・希望を持ち、それが得られないのではないのかという恐怖を持ち、得られなかったときに幻滅・落胆を感じます。
 そうではなく、自分の全てを仏陀・菩薩方に任せ、一切の期待と恐怖を持たずに、なすべき事を誠実にただ為し続ける。--この生き方こそが、まさにすばらしい、至福にいたる生き方なのです。



【本文】

 灰の状態に帰し終わるべきこの身体は、本来、無活動で、他によって活動せしめられる。それはものすごい不浄の像である。どうして私はそれに執着を持つか。

 それが生きていようと死のうと、この機械が私に何の関係があるか。土くれ等とそれの間に何の違いがあるか、ああ、我執よ。汝は滅びがたい。

 肉体に味方することによって、無益に苦しみが得られる。この木片に等しいものを、憎み、あるいは親しんで、何の役に立つか。

 それ(肉体)を私が守っても、あるいはハゲタカ等が食っても、それ(肉体自体)は愛著も憎悪もない。なぜ私はそれを愛するか。

 それがむごく取り扱われれば私は憤りを覚え、敬われれば私に満足が生ずる--しかるに、その物(肉体)自体はこれを意識しないとすれば、私の心労は誰がためになされるか。

 この身体を愛する人があれば、彼らはもとより私の友達である。全ての人は各自の身体を愛する。しからば、彼らはなぜ私の愛すべき人々でないか。


【解説】

 この辺は、この第八章の最初のほうでも追求されていた、身体に対する検討ですね。これらは各自でまた思索してほしいと思います。

 そしてここから、この章のまとめへと入っていきます。



【本文】

 かようなわけで、私は世界の幸福のために、惜しげなく我が身を捨てた。ゆえに、多くの過失があっても、これ(わが肉体)が保たれているのは、行為の道具としてである。

 以上で、世間の所行は十分に述べられた。「不放逸」の説法を憶念しながら、惛沈と睡眠を避けて、私は賢者の道を進もう。

 そのために、心を自己のよりどころに密着させて、邪道から引き戻し、障害を除くために、私はサマーディを行ずる。


【解説】 

 今まで述べてきた正観によって、結論として、世界の幸福のために、惜しげなく我が身を捨てた、とシャーンティデーヴァはいいます。
 それはまず自分自身のためでもあります。この身体や五蘊への執着が、苦しみの因だからです。
 そして同時にそれは他のためでもあります。誰かがまずその道を歩き、我が身を捨てることこそが至福への道であるということを示さなければ、無智なる衆生はこの輪廻の苦しみの中から永遠に解放されないからです。

 我が身を捨てた、といいつつも依然としてこの身体・五蘊が保たれているのは--行為の道具、つまり、菩薩としての、菩薩行をするための、「ただの道具」としてあるだけなんだ、ということですね。

 バクティ・ヨーガでも、自分という存在を、神の「ただの道具」であることを理想としますね。

 さあ、そしてここまでにおいて、この世間においての具体的な菩薩行の実践内容については、十分に述べられた、といいます。
 そしてたとえば入菩提行論の第四章のような、不放逸(怠けないで励むこと)についての教えを何度も学び、自分の心を鼓舞しつつ、怠け心や心身の愚鈍さを捨てて、賢者の道を進もう、と。つまりここまでに述べたような菩薩行を、怠けずに実際にひたすら実践しよう、ということですね。


 最後の一文にある「自己のよりどころ」とは、仏・法・僧のことといっていいでしょう。
 もっと具体的に言うと、お釈迦様、そして大乗仏教で定義されるもろもろの仏陀、そして仏陀と同一であるとみなされる自分の師匠。--これらを第一のよりどころとします。
 そして、正しい教えを何度も何度も繰り返し学び、それを自分の生き方の指針とします。--これが第二のよりどころですね。
 そして、菩薩の道を歩む善き先達や友がいるならば、彼らと接し、良い影響を受け、それを第三のよりどころとします。

 このようにして、自分の内外のさまざまな邪な法、邪な道から自分を引き離し、三宝にのみ心を密着させて、サマーディに入ろう、と。--これで、入菩提行論の第八章「禅定の完成」の章は終わりです。


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「利他のために身をささげよ」

2019-09-17 08:13:16 | 解説・入菩提行論


【解説】

 さあ、次も前回からの引き続きで「自他転換」についての教えが続きますが、今回のところは、ちょっと読み方が変わってきます。即ち、

私=真理に基づいた自分の意思

汝=自分の心

この者=自我意識

 このような意味に頭の中で変換して読んでみて下さい。
 つまりこの部分は、真理に基づいた自分の意思が、自分の心に対して、自我意識(エゴ)の扱い方を説いているところなのです。

 この部分は、まず全体をサーッと載せて、その後で改めて詳しく解説するというふうにしたいと思います。


【本文】

 またこの者は安楽から転落せしむべきであり、常に我々(衆生)の苦難を背負うべきである。我々全ては、この者によって百度も輪廻の苦難を受けた。

 汝が自己の利益を追求している間に、無量のカルパが過ぎ去った。その大きな骨折りによって、汝はただ苦しみだけを得た。

 そこで、私の懇請にしたがって、汝は遅疑なく、それ(利他行)のために身をささげよ。それが後に有利となることを、汝は見るであろう。なぜなら、ムニ(聖者)の言葉は確かであるから。

 もし過去に汝によってこの(利他の)行為がなされたならば、仏陀としての至上の安楽に達し他であろう事はもちろん、かかる(惨めな)状態は現われなかったであろう。

 それゆえ、無関係の赤白二滴において、汝が自我意識を構成したように、それを他人においても認識せよ。

 他人のために密偵となれよ。そして、この身に何でも(有用と)認めたものがあれば、その一つ一つを取り出して、他人のためになることを行なえ。

 これ(自分の自我)は安らかで、他は苦しい。これは尊く、他は卑しい。また他は働き、これは働かない。--と知ったならば、汝は自我に嫉妬を発せよ。

 自我を楽から振り放せよ。そして他人の苦しみに当たらせよ。
 「この者がいつ何をなすか」と、この者の欺瞞を省察せよ。

 他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。この者の過失は、わずかであっても、マハーム二(大聖者)の前に明らかにせよ。

 他人の大きな名声を称えて、この者の名声を曇らせよ。卑しい奴隷のように、衆生の用にこの者を供えよ。

 この者は過失に満ちている。だから偶発的なわずかの徳でほめるに値しない。この者の徳を誰も認識しないようになすべきである。

 要するに、自我のために汝が他人を害した--その害悪の一つ一つを、衆生を利益するために、自我にこうむらせよ。

 この者に饒舌となるような力を与えるな。恥じらい深く、臆病に、内気に、花嫁のような状態にあらしむべきである。

 「かようになせ、かく振舞え、これをなすな」と、かようにこの者を汝の支配下に置くべきである。そして命令に背くときは、罰すべきである。

 ところで、心よ。私がかく言っても、汝はこれを実行しないであろう。そこで私は汝を罰するであろう。全ての過ちは、汝に依存している。

 私に見られて汝はどこに行こうとするか。私は汝の全ての傲慢を打ち砕く。私が汝によって滅ぼされた時期(もあったが)、それはすでに過ぎ去ったことで、関係がない。

 「今でもなお私の自利が遂げられる」という期待を、汝はここで捨て去れ。私は多くの艱難を顧みず、すでに汝を他人に売り渡した。

 もし私が怠惰のために、汝を衆生に与えないなら、汝が私を地獄の獄卒の手に渡すであろうことは、疑いがない。

 またそのとおりに、汝は幾度か私を(地獄の獄卒の手に)渡したので、私はこれまで長く苦難を受けた。その敵意を思い起こして、私は自利の奴隷である汝を殺す。

 もし自我の愛が汝にあるならば、自我を愛してはならない。
 もしこの自我が守られねばならないならば、守るのは正しくない。



【解説】

 それでは、最初の方から解説をいってみましょう。

 まず、自我に対して、衆生の苦しみを背負わせるべきだ、といっています。
 今まで、我々--それは自分も含めて、世界の衆生たちは、この「自我意識」というとんでもないやつのために、数え切れないほどの、輪廻の苦しみを味わわされてきたのです。



 「汝が自己の利益を追求している間に、無量のカルパが過ぎ去った。その大きな骨折りによって、汝はただ苦しみだけを得た。」

--これは大変耳が痛い、そして心に刻みつけなければならない言葉ですね。
 よって今すぐに、心を入れ替え、自我を捨てて、利他行に身をささげなさいと、自分の心に言い聞かせているわけですね。そしてそれこそが、実は、自分も他者も至福に至る道なんだと。それはお釈迦様をはじめ、多くの聖者が説いてきた道なんだと。



 「そこで、私の懇請にしたがって、汝は遅疑なく、それ(利他行)のために身をささげよ。それが後に有利となることを、汝は見るであろう。なぜなら、ムニ(聖者)の言葉は確かであるから。
 もし過去に汝によってこの(利他の)行為がなされたならば、仏陀としての至上の安楽に達し他であろう事はもちろん、かかる(惨めな)状態は現われなかったであろう。」

--もし遥かな昔から、我々が自我の奴隷とならず、利他行に身をささげていたならば、今頃は仏陀として至上の安楽を得ていたであろうし、今のような、悪業と苦しみにまみれて輪廻を浮沈し続ける惨めな状態はなかったであろう、と言っているのです。
 だから我々はもちろん、今からでも心を入れ替えなければなりません。今までは多くの悪縁に阻まれ、無智に覆われ、この真実を理解することができませんでした。しかし今我々が、人間として生まれ、仏教と出会い、この入菩提行論と出会い、このような教えを目にする機会に遭遇したということ自体が、我々の生き方を、地獄から仏陀へと180度変える、類まれなチャンスなのです。



 そしてこれ以外にも、ここまで説かれてきた「自他転換の教え」のいくつかが、また繰り返されていますね。全部は解説しませんので、その辺はこの第八章全体を見て、修習し理解してほしいと思います。



 「自我を楽から振り放せよ。そして他人の苦しみに当たらせよ。
  『この者がいつ何をなすか』と、この者の欺瞞を省察せよ。」

--ここも厳しい言葉ですが、これくらいやらないと、自我はなかなか破壊されないんですね。
 非常にずるがしこく、悪意に満ちた敵として、自我意識を見るべきです。そして自我意識に楽を経験させることなく、他人の苦しみを積極的に背負わせます。
 そしてこの自我意識が、少しでも真理から外れた行動をとらないように、監視し続けるのです。



 「他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。この者の過失は、わずかであっても、マハーム二(大聖者)の前に明らかにせよ。」

--これもすばらしいですね。
 「他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。」--これには、二重の意味があるでしょう。その一つは、カルマの法則についてですね。カルマの法則からいけば、悪業の果報は、もちろん悪業をなした本人にのみ返ります。これは絶対的な法則です。それはわかっているのですが、ここにおいては、他人がなした悪業の果報さえも、自分に返りますように、と言っているわけですね。
 もう一つは、現実的な果報ですね。たとえば誰かが何かの悪業や失敗を犯して、現実的に何か困った状態になったとします。その場合、その困った状態を、全部この自分の自我に引き受けさせろ、ということですね。
 そして逆に、自分が何か過ちを犯した場合は、決してあいまいにしたり隠したり、あるいは他人のせいにしたりすることなく、聖者の前に明らかにせよ、ということです。



 「他人の大きな名声を称えて、この者の名声を曇らせよ。卑しい奴隷のように、衆生の用にこの者を供えよ。
 この者は過失に満ちている。だから偶発的なわずかの徳でほめるに値しない。この者の徳を誰も認識しないようになすべきである。」

--普通、人間のエゴは、これとは逆の方向に働きますね。自分の徳は、わずかであっても、みんなに知ってほしいと思うし、それと相対的な意味で、他人はできるだけ称賛されないように、という汚れたエゴの性質があります。
 それを全く逆転させた意識の訓練をここで提示しているわけですね。これも、思考訓練として、実際に実践すべき教えです。そして自分の徳を隠しつつ、ひたすら、奴隷のように、衆生の利益のために働くのです。





 「要するに、自我のために汝が他人を害した--その害悪の一つ一つを、衆生を利益するために、自我にこうむらせよ。」

--自我意識(エゴ)によって、自分は過去において、他人に対してさまざまな悪しき感情を持ち、また実際に他者に被害を与えてきました。そしてこのエゴをほうっておくなら、これからも同様のことをするでしょう。だからその修正の荒療治として、今まで自分が他者に加えてきた悪しき思いを自己に向け、自己を他者の召使のようにみなさなければいけないわけです。



 
 「この者に饒舌となるような力を与えるな。恥じらい深く、臆病に、内気に、花嫁のような状態にあらしむべきである。
 『かようになせ、かく振舞え、これをなすな』と、かようにこの者を汝の支配下に置くべきである。そして命令に背くときは、罰すべきである。」

--この辺は、第五章「正智の守護」で展開されたような、正念正智ですね。それをもっと強烈に言っていますね。自我が真理の教えから外れないように監視し、その命令に背くときは、自ら罰しなさいと。




 「ところで、心よ。私がかく言っても、汝はこれを実行しないであろう。そこで私は汝を罰するであろう。全ての過ちは、汝に依存している。」

--これは大変おもしろいですね。「真理を知る正しい意識」が、「自分の心」に対して、自我を徹底的に痛めつけ、捨て、壊せと、ひたすら命令してきたわけですが、しかし、「そうはいっても、お前は結局それを実行しないだろうな」と、いきなりあきらめているわけです(笑)。よって「真理を知る正しい意識」は、その自我にとり憑かれ、自我の言いなりになっている「自分の心」を、自我もろともに罰しようというわけです。結局、お前がいつも自我の言いなりになっているから、あらゆる過失がおきるんだ、と。




 「『今でもなお私の自利が遂げられる』という期待を、汝はここで捨て去れ。私は多くの艱難を顧みず、すでに汝を他人に売り渡した。」

--汝(すなわち自分の心)を、他人に売り渡した、という表現は強烈ですね。
 他人に売り渡してしまったのだから、もうお前(自分の心)は自由ではないんだよ、他人の幸福のために働かなければならないんだよ、ということですね。




 「もし私が怠惰のために、汝を衆生に与えないなら、汝が私を地獄の獄卒の手に渡すであろうことは、疑いがない。
 またそのとおりに、汝は幾度か私を(地獄の獄卒の手に)渡したので、私はこれまで長く苦難を受けた。その敵意を思い起こして、私は自利の奴隷である汝を殺す。」

--自利、利己主義、自我意識の奴隷となってしまっている自分の心。この自分の心は、我々を地獄の獄卒の手に渡し、我々は地獄で散々苦しめられてきたのです。
 だからその敵意を思い起こし、自分の心を自由にさせずに、他者に売り渡すのです。そして最後は、そのような自分の心を殺すというのです。--もちろんこれは、解脱、あるいは自他の区別の超越の比喩ですね。この辺は、この強烈ながら深い意味を持つ美しい一連の表現の真意を、柔軟な心と智慧をもって読み取らなければなりません。




 「もし自我の愛が汝にあるならば、自我を愛してはならない。
  もしこの自我が守られねばならないならば、守るのは正しくない。」

--これも修辞的で美しい真実の教えですね。

 しかし意味が取り違えられるといけないのでもう少し噛み砕いて書きますと、

「もし自己を愛する(=自己の幸福を願う)ならば、『自己を愛する』という行為は、逆の結果(自己の苦悩)を生むので、自己の幸福を願う者は、自己を捨てなさい。
 もし自己を苦悩から守りたいならば、『自己を守る』という行為は、逆の結果(自己の苦悩)を生むので、自己を苦悩から守りたいと思う者は、自己を守ることをやめなさい。」

 この辺は、前にも書きました、ダライ・ラマ法王の、『真のエゴイストは、利他の実践をする』という言葉にも通じますね。

 また、『ラーマクリシュナの福音』にも、こんな言葉があります。

『私の幸せ、いつ来るの?
 それ、その私を捨てたとき。』

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「自他転換の思考実践」

2019-09-16 20:17:52 | 解説・入菩提行論



【解説】

 さて、いよいよこの禅定の章における、「自他転換」の教えも、架橋に入ってきました。

 次の部分は、この論書における非常に重要な部分です。そしてこの部分は、さまざまな解説書を見る限り、さまざまな解釈がなされているようです。その中には、私の解釈とは全く違う解釈もありましたが、ここではあくまでも私が正しいと感じる解釈でまとめさせていただきます。

 まず以下に一まとまりの本文を長めに載せますが、この文章において、「この者」「彼」とは、自分のことを指しています。そして「私」とは、自分以外の全ての衆生のことを指しています。

 つまり、この前までの部分で展開されていたように、「他の衆生」を自分とみなし、「自分」を他者とみなす「自他転換」の教えの、実践例がつらつらと展開されているわけです。

 既述のように、この教えにおいて、「全ては一つ」「自他の区別はない」という考えは必要ありません。
 そもそも「自他の区別はない」というその境地というのは非常に高い悟りの境地であり、頭でその言葉を理解したからといって、実際はその意味を本当に理解できているわけではありません。しかしそうであっても、「自他の区別はない」という観点から、心の訓練と日々の実践を続けていくのが、「自他の平等視」の教えですね。これはこれでとてもすばらしいと思います。
 しかし「自他転換」の場合は、どうせ真に悟りを得るまでは、自己を大切にし、他者を大切にしないという、エゴの欺瞞性は最後まで残るわけですから、その自他の不平等視、A(自己)を徹底的に愛し大切にし、B(他者)は不幸であれ、というエゴのおろかで汚い部分が依然として存在するのを認めた上で、そのAとBを入れ替えなさいと言っているわけです。

 私がなぜこの教えを絶賛するかと言うと、私自身、この教えを実践してみて、非常に効果があったからです。この部分のみならず、この入菩提行論というのは、まさに実践者向きの教えであると思います。単に言葉を追いかけるよりも、本当に修行して、仏教の奥義、菩薩の道を究めたいと考えている人にとって、この入菩提行論というのは、非常に大きなインスピレーションと実際の効果をもたらしてくれるでしょう。

 この「自他転換」の教えも、もちろん、実際は完璧に「自他転換」ができるわけではありません。あくまでそれは、心の中でのイメージ、思考の訓練に過ぎないといっていいでしょう。
 しかし、まあ、「自他平等」というのは数字で表せるものではありませんが、仮に「自他平等の境地」を、「自分50:他者50」の境地だとします。そして現実的な自分の意識を、「自分99:他者1」だとします。
 この人が、「自他平等」の教えを聞いて、納得し、「自他の平等視」の修行に励んだとします。つまり、99:1を、50:50に近づけようとしたとします。
 しかし実際に50:50にいたるのは、非常に難しいでしょう。たとえば10年間、「自他平等視」に励んだとして、99:1が、95:5とか、90:10くらいにでもなれば、それはもう大成功と言っていいと思います。
 それに対して、「自他転換」の教えは、「50:50」ではなくて、「自分0:他者100」を目指しているのです。いや、もっといえば、「自分-20:他者120」位かもしれません(笑)。しかしこれくらいハードな点を目指して、やっと、99:1が、80:20とか、70:30とかになっていくんですね。
 だからこの教えももちろん、方便というか、テクニカルな教えといっていいでしょう。「自他転換」といっても、本当に自他転換が達成されるわけではなく、意識の中で「自他転換」の思考を練習するうちに、「自他平等視」よりもスピーディに、「自他平等」に近づくというわけです。

 といってももちろん、人にはいろいろなタイプがありますので、全ての人にこの「自他転換」の教えが合うというわけではないかもしれません。ですからこれは、気に入った人が実践してみたらいいと思います。
 また、この「自他転換」の真意を取り違えると、卑屈になったり、悪い意味での自己否定に走る人もいるかもしれません。そうなったらマイナスですね。だからこの教えの実践には、ある程度の智慧と、教えに対する信、そしてそもそも自分はこの道を究めたいのだという強い求道心が必要ですね。

 さあ、前置きが長くなりましたが、「自他転換」の実践例に入っていきましょう。

 繰り返しますが、この本文において、「この者」「彼」とは、自分のことを指しています。そして「私」とは、自分以外の全ての衆生のことを指しています。そのように頭の中で変換して、お読みください。つまり自分を他者の位置において、まるで客観的に他人を観るように、「この者は・・・」と、自分のことを述べているわけです。



【本文】

 小劣な者があればそれらを自分とみなし、また自我を他人とみなして、心に分別を加えず、嫉妬と傲慢とを、(次のように)観察すべきである。

「この者(=自分)は敬われ、私(=他者)は敬われない。この者は所得があり、私はそのようにない。この者はほめられ、私は非難せられる。私は苦しみ、この者は楽しむ。
 私は仕事にいそしんでいるのに、この者は安らかに休んでいる。確かにこの者は世間において偉大であり、私は卑しく徳がない。
 徳なき者はなんの役に立つか。全ての人の自我は、徳を備えている。人あれば、それに比べて、私の方が卑しい場合もあり、また勝っている場合もある。
 私の徳行と見解とに、欠けるところ等があれば、それは煩悩の力による。私の力によるのではない。できうれば私は癒されねばならぬ。私は(そのための)苦痛を忍受する。
 この者にとって私が癒しがたいとしても、何ゆえに彼は私を侮辱するのか。この者は有徳でも、その徳が(彼に限られるなら、それは)私に何の用があるか。
 人が悪趣という猛獣の口にあるのに、この者は全く哀れみをもたない。しかも徳におごって他の賢者を凌駕しようと望む。
 彼は、自分と等しい自我を見て、己の優越を増すために、争いによってすら、自己の所得と尊敬を勝ち得ようと、努力するであろう。
 私の徳は世間いたるところで、表明せられたいものだ。また、いかなる徳がこの者にあっても、それについて誰も聞かないようにありたい。
 私の過ちは隠されてありたい。私には尊敬があり、この者にはそれがないようにありたい。いまや私に所得は得やすい。私は敬われ、この者は敬われない。
 ついに我々は、彼が虐待せられ、全ての人々に笑われ、ここかしこで非難の的になっているのを、はなはだ喜んで見る。
 この惨めな状態において、この者は実に私と競おうとしている。この者にそれをなすほどの博学、智慧、美、家柄、財があるか。」--と。

 かように、自分の徳があちこちで称賛されるのを聞いて、身の毛もよだつほどに喜び、私は安楽歓喜を味わうであろう。

 またこの者に所得があるなら、我々は力を用いてそれを掴み取るべきである。ただし我々の仕事をこの者がするならば、生命の糧だけは給与して。



【解説】

 さあ、今回は、できるだけ読み違えをしないように、本文の前に、この読み方を長めに解説しました。あとは各自で読み、その意味を思索し、できれば実際にこの内容を自分に当てはめて瞑想してみたり、あるいは実生活の中でこのようなイメージで活動してみてください。
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「彼に属すべきこの眼」

2019-09-16 19:51:10 | 解説・入菩提行論



【本文】

 他界のことは別問題としても、雇い人が仕事に励まず、主人が給金を与えなければ、現実的に業務は成功しない。

 お互いの和楽から生じる、可見(この世)と不可見(他界)の安楽歓喜を捨てて、惑える人々は、互いに苦しめあい、その結果恐ろしい苦しみをなめる。

 苦しみと危険が多いほどに、世間には艱難が多い。その全ては、自我への執着から生ずる。かような執着は、私に何の用があるか。



【解説】

 来世とか三界とかニルヴァーナとか、瞑想しないと認識できない世界はひとまずおいていて、この現世と呼ばれる世界だけに目を向けたとしても、お互いが相和合し、お互いがお互いのためになすべき事をなして初めて、全てはうまくいき、安楽や歓喜が成立します。

 しかし実際は、互いのエゴによって、互いに苦しんだり、うまくいかなかったりすることが多いものです。結局、全ての苦しみ、デメリットは、すべてエゴ、自我への執着から生じるのだと、シャーンティデーヴァはここでも言い切っています。そんなもの(自我への執着)に、私は用はないんだと。



【本文】

 自我を捨てないでは、苦しみを捨てることができない。それは、火を捨てなければ、やけどを免れないに等しい。

 それゆえ、己の苦しみを鎮め、また他の苦しみを取り除くために、私は自我を他に与え、他を自我として受け取る。


【解説】

 この一行目は、とてもシンプルで、ストレートで、美しい教えだと思います。

 火がやけどの直接原因であって、やけどを免れるには「火を捨てる」という選択肢以外ありえないように、自我への執着のみが苦しみの直接原因であり、自我を捨てないでは、苦しみが消えることはありえないのだ、とはっきりと述べているのです。
 言い方を変えれば、苦しみとは自我意識の別名であり、自我意識とは苦しみの別名であるともいえるでしょう。だから、自我への執着(エゴ)を持ちつつ苦しみから逃れたいというのは、ナンセンスであり、不可能なのです。

 しかしこの「自他の転換」の教えを使えば、自分と他者の苦しみを取り除くことができるというのです。





【本文】

 ああ、心よ。汝は他と結合しているとの決心をなせ。全ての衆生の利益以外に、汝は他のことを考えてはならない。

 彼に属すべきこの目等をもって、自己の利益を見ること等は、ふさわしくない。他に属する手等をもって、自己の利益を作り出すことは、ふさわしくない。

 それゆえ、衆生のために心を一筋にし、この身において有用と認めるものは、その一つ一つを取り出して、他人のためになることを行なえ。


【解説】
 
 自分の心に対して、「他と結合しているとの決心をなせ」と命令しています。「全ての衆生の利益以外に、他のことを考えてはいけない」と。

 我々のエゴ、無明は、まず自分と他者をはっきりと分けます。境界線を引くわけです。もちろん、この自己と他者の境界線を打ち破り、自己と他者の同一性を悟れれば一番いいのですが、なかなかそう簡単にはいきません。「自分と他人は同一である。区別はない」という教えは、美しく、またそれを聞き、少し理解することによって、一時的に少し優しい気持ちになるかもしれません。しかし依然として自我への執着は消えてません。
 それを実質的に変えていこうという強烈な方法が、「自己と他者の転換」なんですね。

 まず、自己と他者の境界線がある。自己と他者がはっきりとわかれている。これはもうしょうがない。悟っていない以上、なかなかその境界線を取り除くことはできない。ならばその境界線はそのままにして、自分の心に対して、「自己」ではなくて「他者」の側につけと、命令しているのです。

 さあ、もう今以降、私の全ては、衆生のものです。私の全ては、衆生の幸福のためにのみあります。
 この目も、衆生のものですから、他人の目をもって、自分の利益を見るのはふさわしくないですね。それでは泥棒になってしまいます。だからただただこの目で、衆生の利益のみを探すのです。
 この手も、衆生のものですから、他人の手をもって、自分の利益を作り出すのもふさわしくありません。だからただただ衆生の幸福を作り出すためにのみ、この手は使われるべきです。

 このように、自分の中に、何かのためになるものを見つけたならば、その一つ一つを、自分ではなく、他者のためにのみ使えと、そのように確固とした決意をなせ、ということですね。
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「最高の秘密」

2019-09-14 21:45:16 | 解説・入菩提行論






【本文】

 自己と他者とを速やかに救おうと願う者は、自他の転換という最高の秘密を実践せよ。


【解説】

 ここまでは、「自他の平等視」という教えがさまざまな角度から説かれてきました。それは、大乗仏教のみならず、仏教やヒンドゥー教の多くの箇所で説かれる、慈悲の基本となる、すばらしい教えですね。
 しかしここから、さらにそれを上回る教えが登場します。それが「最高の秘密」と表現される、「自他の転換」という教えであり、自分と他者を速やかに救おうと願う者は、この教えを実践しなければならないというのです。
 その教えの具体的本体はもう少し後で出て来ますが、ここから、その「自他の転換」の教えにつながるさまざまな教えが展開されていきます。
 そしてこれら「自他の転換」の教えこそが、シャーンティデーヴァ、入菩提行論の持つ最大の特長であり、オリジナリティであり、そしてそれは後の仏教にも大きな影響を与えた、非常に深遠で価値のある教えであると思います。

 簡単にいえば、「自他の平等視」とは、文字通り、自分と他者を同じように見るということですね。自分を愛するように、他者も愛しなさい、ということです。
 しかし「自他の転換」とは、平等ではなく、他者を自己のようにみなし、自己を他者のようにみなしなさい、ということです。

 さあ、それでは、その「最高の秘密」である「自他の転換」の教えの世界に入っていきましょう。




【本文】

 自我を過度に愛著するがために、わずかの危険すら恐怖を生じさせる。恐怖をもたらすこと敵のごとき自我を、誰が憎まないか。

 それは、病、飢え、渇き等を対治しようと願って、鳥、魚、獣を殺し、また路上要撃者となり、所得と尊敬を得るために父母すらも殺し、三宝の財を盗んで、無間地獄の火を燃え上がらせるものである。

 かような自我を、いかなる賢者があこがれ、守り、あがめるであろうか。また誰がそれを敵と見ないであろうか。またそれを尊ぶであろうか。


【解説】

 これは非常に智的な分析ですね。
 自我に強く愛著しているので、ほんのわずかなことにも、我々は恐怖を感じます。
 我々に恐怖を感じさせる最大の要因は、外的な敵ではなく、この自我そのものなのです。
 もし常に自分に恐怖を与える因となるものを「敵」と呼ぶとするならば、我々にとっての最大の敵は、「自我意識」ということになるのです。

 そして自我が「敵」であることの理由が、さらに二番目の詩で語られています。
 自我を守ろうと願うゆえに、我々は殺生をしたり、強盗をしたり、またあるときには自我(エゴ)によって、父母を殺すこともあれば、仏陀や聖者にささげられた供物を盗むことさえもあるでしょう。自我のゆえに、大いなる悪業を積み、我々は地獄に落とされるのです。つまり我々に悪業を積まさせ、我々を地獄に突き落とす、これ以上ない最悪の敵--それこそが、ほかでもないこの「自我意識(エゴ)」なのです。

 そのような自我(エゴ)を、賢者は大事にしません。そして敵と見るのです。 



【本文】

 「もし人にこれを与えるなら、私は何を食べよう」と、かく考える者は、自利のために餓鬼となり、「もし私がこれを食べたら、何を人に与えよう」と、かく考える者は、利他のために神々の王となる。

 自我のために他を苦しめれば、その人は地獄等で煮られる。
 しかし、他のために自我を苦しめれば、全ての幸福を得る。

 自我を(人の上に)高めようと願えば、悪趣に生まれ、下賤となり、おろかとなる。
 しかしその願いを他人に移し行なえば、善趣に生まれ、名声を高め、賢くなる。

 自我のために他人に命令をすれば、(後に)召使の状態を経験せねばならない。
 しかし、他のために自我に命令すれば、(後に)支配者等の状態が得られる。

 この世で苦しんでいる人々は、すべて(前世等で)自利をはかったためである。
 この世で楽を得ている人々は、すべて(前世等で)利他をのぞんだためである。

 多くを言う必要がどこにあろう。自利を求める愚者と、利他を行なう聖者の区別を、見るべきである。
 
 自己の楽を他人の苦しみと転換しない者は、確かに仏陀となることができない。輪廻界においても、どこから彼に楽が生ずるか。

 

【解説】

 自我をとって生きる場合と、利他のために生きる場合の果報の違い--つまり前者は苦しみを生み、後者は幸福を得るわけですが--その例がいろいろと挙げられていますね。

 そしてそのまとめ、結論として、
「この世で苦しんでいる人々は、すべて(前世等で)自利をはかったためである。
 この世で楽を得ている人々は、すべて(前世等で)利他をのぞんだためである。」
と言い切っています。

 これは事実なのです。単なる道徳的な方便の言葉ではなく、この世の法則、事実なのです。

 この点について、ダライ・ラマ法王は、ユーモアたっぷりに、「真のエゴイストは、利他の実践をする」とおっしゃっています(笑)。つまり、利他こそが自己に幸福をもたらすのだから、本当に自己の幸福を追求する者(エゴイスト)は、利他の実践をするはずだ、ということですね(笑)。しかし実際は、エゴにとりつかれた人は、そのような智慧の目が持てなくなっているので、幸福になりたいと願いながら、実は自己を苦しみに突き落とす自我(エゴ)を、常にとってしまうのです。

 だから我々は、エゴを守り、自我の欲求を満たす生き方が幸福を生むのだという錯覚を--永い永い間抱き続けてきたこの錯覚を--この入菩提行論などを何度も繰り返し読むことによって、訂正していかなければなりません。利他こそが、自我を捨てて利他の実践をすることこそが、ただ我々を幸福にするのだということを、まずは何度も学び、考え、信じ、理解し、実践し、その果報を実際に何度も繰り返し経験することで、心に悟らせなければなりません。

 これもまた「最高の秘密」なのです。このような「最高の秘密」の教えに出会えた方は、大変幸運な衆生だと言えるでしょう。これは千載一遇のチャンスです。この類まれな機会を生かし、この教えを実践するかどうかは、あなたしだいです。
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「菩薩の渇望」

2019-09-12 16:28:17 | 解説・入菩提行論


【本文】

 しかし、慈悲には多くの苦しみが伴う以上、なぜ努めてそれを起こさせるのかといわば--世の苦しみに思いをはせれば、どうしてこの慈悲の苦しみが大きいといえよう。

 もし一人の苦しみによって多数(の人)の苦しみが消え去るならば、自他を哀れんで、その(自分ひとりの)苦しみは生ぜしめらるべきである。

 そこで、スプシュパチャンドラは、王の加害を予想しながらも、自己の苦しみを避けて、多くの人々を破滅させようとはしなかった。

 かように、相続を正観し、自己が幸せでも、他者が苦しんでいれば自分も等しく苦しいと考える人々は、あたかも白鳥が蓮華の池に潜るように、無間地獄に沈む。


【解説】

 この辺はとても感動的ですね。

 慈悲行には確かに苦しみも伴いますが、それとは比べ物にならないほどの大きな苦しみで、世の衆生は苦しんでいるのです。
 しかも、何度もでてきたように、彼ら欲望に憑かれた衆生の苦しみは、苦しんだからといって成長や進歩や浄化があるわけでもない、意味のない苦しみです。しかし菩薩行の苦しみは、自分にも他者にも多くの恩恵を与える苦しみなのです。よって喜んでそこに飛び込んでいくのです。

 スプシュパチャンドラというのは、仏典にでてくる聖者です。昔、スプシュパチャンドラという聖者は、法に反対する王に迫害されることが予想できる状況でありながら、恐れずに国民に法を説きに行き、王に虐殺されたそうです。
 彼が虐殺されるときの苦しみは、国民が煩悩に覆われ、真理の法を知らずに生きていく事による苦しみに比べたら、全く小さなものだと、スプシュパチャンドラは考えたのでしょう。そしてそれをできるのは、自分しかいないのだと。
 そういう意味では、周りの者よりも早く、法にめぐり合った人というのは、そのような責任があるといえます。つまり前にあげたたとえの中では、その人は、体中を苦しみから守る「手」なのです。彼がやらなければ、誰も救えない人がいるのです。
 菩薩はそのような自覚、覚悟をもたなければならないのです。



【本文】

 衆生が解脱したときに、歓喜の海にあふれる彼ら(菩薩)は、それをもって満足すべきではないか。味気ない(個人の)解脱に、何の用があるか。

 かようなわけで、他人の利益をなしても、おごるべきでなく、また、誇るべきでもない。果報を期待すべきでもない。ひたむきに他人の利益を渇望してなすべきである。



【解説】

 「味気ない個人の解脱に、何の用があるか」と、スパッと言ってもらうと、気持ちいいですね(笑)。
 誰かが修行を進めること、そしてもちろん解脱することは、菩薩にとっては大変な歓喜なのです。それは偽善ではなく、本当に歓喜なのです。
 菩薩行そのもの、そして他者が修行を進め、苦しみから真に解放されることが菩薩にとっては喜びであり、その喜びのために菩薩は行動しているのですから、他者に利益を与えても、おごったり、慢心に陥ったりするべきではないということですね。

 そしてひたむきに他人の利益を渇望しろと!--ここは重要なところです。なぜなら、ここで渇望と訳されている言葉は、トリシュナー、タンハーといい、12縁起の法の一つでもありますが、普通はそれが「苦しみの因」だとされているからです。お釈迦様も、「四つの真理」の教えの中で、この渇望・渇愛(タンハー)こそが苦しみの生じる原因であるとはっきりと定義しています。
 しかしそれがここでは、肯定されているのです。それは賢明な方ならお分かりでしょうが、渇望の因と果が違うのです。苦しみの因となる12縁起の渇望の因は、もとをたどれば「無明」です。無明から、誤った輪廻の経験の残存印象がよみがえり、誤ったものの見方が根付き、苦しみの自我(五蘊)が形成され、自と他の区別がはっきりとし、そこで生じる苦楽の錯覚に対して、強烈に「渇望」するのです。それが強い執着となり、輪廻の苦しみが生じるわけです。
 しかし菩薩の渇望の因は、無明ではありません。逆に明であり、智慧であり、慈悲であり、あるいは偉大な仏陀や菩薩との縁であり、あるいは過去・過去世の偉大なる発願です。
 それらを因として、菩薩としての見解が生じ、菩薩としての自覚が生じ、そして「他者に利益を与えたい!」という渇望が生じるのです。それは「全ての衆生を一人残らず救いたい!」という強烈な執着となり、実際に菩薩行を行ない、そして衆生が救われるのを見て、菩薩は歓喜に震えるのです!
 無明から生じる渇望は衆生を輪廻に縛り付けますが、菩薩の渇望も、菩薩を輪廻に縛り付けます。彼は最後の衆生が輪廻を出るまで、自分もこの輪廻から去るつもりはないでしょう。

 入菩提行論は全体的にすばらしい論書ですが、特に今回の部分の本文と解説を書いていて、私はえもいわれぬ強烈な歓喜に包まれっぱなしです(笑)。
 それどころか、この第八章は、この後もさらにすばらしい教えが展開されていきますので、お楽しみに(笑)。




【本文】

 そこで、あたかも誹謗にいたるまで(全ての危害に対して)、私が自我を守ると同様に、私はまた他人に対しても、保護の心、慈悲の心を起こす。

 己に関係のない赤白二滴に関して、なんら実体がないのに、反復修習によって、「私」という知が生ずる。

 そもそもこの身体という「自分ではないもの」を自己と認識しているのに、他人の身はなぜ自己として認識されないか。

 自己を欠点ある者、他を徳の海と認識し、我性の捨離と、他人の受容とを観ずべきである。

 身体の部分として手などを慈しむように、なぜ衆生を、世界の部分として慈しまないか。

 この自我でない自己の身に、反復修習によって我意識が生ずるように、他人に対しても、反復修習によってそれを自我と見ることが、なぜ生じないか。

 かようにして、他人の利益をなしても、おごりも誇りも現われない。まして、報酬の期待は生じない。自分自身を楽しませているに過ぎないから。

 そこで、苦しみや憂い等から、己を守ろうと汝が願うように、そのように、保護心と慈悲心とを、世界に向けて反復修習すべきである。

 困難のために事を中止してはならない。なぜなら最初それを聞いただけでおそれを感じた事柄さえも、反復修習の力によって、それがなければ全く喜びを感じないほどになるから。


【解説】

 「私」は、「私」が被害にあうことを極度に嫌い、それは肉体的にも、精神的にも、たとえば悪口を受けることからも、自分を守ろうとしますね。
 それと同様の思いで、何とか他の衆生に対しても、心から、苦しみから守ろうという気持ちを起こすべきだということですね。その理由は、これまでに述べてきたとおりです。

 「己に関係のない赤白二滴」というのは、父母の精子と卵子のことです。
 つまり、そもそも自分とは関係のない、ある男性の精子と、ある女性の卵子が受精し、新しい肉体という物質が生じました。それは、今までさまざまな角度から繰り返し説いてきたように、なんら実体がないものです。しかし私達はその実体がない肉体という物質に対して、「私」という思い、自我意識を、繰り返し繰り返し、生まれたときから反復修習してきたので、もう確固たる「私」という思い込みの自我意識は強固に根付いてしまっているのです。
 しかしそれは逆に言えば、単に反復修習によってそうなったに過ぎないのですから、同様に、他者に対しても、「私である」という反復修習をひたすらするならば、自分と同等に他者のことを観ることも、当然可能である、ということですね。

 そのようにして、全宇宙の衆生に対して、自分が自分に向けるのと同等の保護心・慈悲心を向けるよう、ひたすら反復修習しなければなりません。
 
 それはとても大変なことに見えるかもしれませんが、どんなことでも、反復修習の力によって成し遂げられないものはないのです。よって勇気と確信を持って、これらを反復修習し続けましょう。




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「自他の平等視」

2019-09-09 06:57:09 | 解説・入菩提行論


【本文】

 以上のべた仕方などによって、「現世から遠く離れること」の功徳を修習して、雑念を止め、菩提心を修習すべきである。


【解説】

 これまでに述べてきたような内容によって、現世を捨てる修習をするわけですが、それは何も利己的に、わずらわしいものから離れて自分だけ救われようとしているわけではありません。あくまでも大きな目的は、菩提心、慈悲、つまりいかに衆生を救おうか、救える菩薩になるか、ということにあります。
 そのための手段として、まずは自分の中の、現世に対する錯覚を取り除いておかなければならないのです。
 日本の大乗仏教は、一つの宗派が一つのパターンの教えを伝えるというようなところがありますが、インドやチベットの大乗仏教は、大乗といってもまずは原始仏教的な「現世の捨断」的な教えから入り、それを土台としてその上に慈悲や空性といった大乗の諸要素を総合的に学んでいくようなところがあります。大前提として、現世を捨てる心がまずなければ、本当の意味で空や菩提心の世界には入れないということです。
 といってももちろん、現世放棄の心が完全に身につくには時間がかかりますから、実際は平行して進められていくわけですが、それでもある程度の現世放棄の理解と心構えは必要でしょうね。そして空性の悟り、菩提心、現世放棄、これらにそれぞれ励むことにより、一つが他の進歩を補うような形で、相乗的に進んでいくことでしょう。
 



【本文】

 はじめに深く注意して、次のように他者と自分との平等性を観察せよ。
 すなわち、全ての人は、われと等しい苦楽を持つ。彼らは私と同様に守られねばならぬ。

 あたかもこの身体が手や足などの区分によって多くの部分からなるにも関わらず、一体として保護されねばならないように、この全世界も雑多の人々からなりながら、全て苦楽を共にする点において、全く前者に等しい。

 たとえ私の苦しみは他人に悩みを起こさしめないにしても、私の苦しみは、やはり自我愛のゆえに、私にとっては忍びがたい苦しみである。
 
 同様に、他人の苦しみは私自身に知覚せられないとはいえ、やはりそれは、自我愛のゆえに、彼にとって忍びがたい苦しみである。

 私は他人の苦しみを滅ぼさねばならない。それは私自身の苦しみのように苦しみであるから。私は他人を哀れまねばならぬ。自己が生ける者であるように、彼らも生ける者であるから。

 私も他人も等しく安楽を好んでいる。それなのに、どんな特権があって、安楽に対する努力を私にだけ向けるのであるか。

 私も他人も危険と苦しみを好まない。しかるに、どんな特権があって、己の分はこれを防ぎ、他人の分は防がないのか。


【解説】

 さあそしていよいよ、菩提心の教えの検討に入っていきますね。

 そのまず第一は、自分と他人の平等視についての教えが、さまざまな角度から検討されていきます。

 他者が理解してくれなくても、自分の苦しみは自分にとっては大変な苦しみです。
 同様に、自分が感じることができなくても、他者の苦しみはその人にとっては大変な苦しみなのです。
 だから自分とか他者とか区別をすることなく、この世界の苦しみ自体をすべて滅尽しなければならないのです。

 すばらしい教えですね。

 このシンプルな教えをすんなり理解できればそれでいいのですが、なかなかこれだけでは心は納得しないので、より深い検討へと入っていきます。
 


【本文】

 他人の苦しみは私を悩まさないからそれを防がないというなら、未来に受けるべき身の苦しみは、私を全く悩まさない。それなのに、なぜそれを防ぐのか。

 それは、現在の私と全く同一である--というのは、誤った妄分別である。なぜなら、死せる者と、生じる者とは、それぞれ別のものであるから。



【解説】

 さあ、ここからは、さまざまな角度から、自己と他者を平等視することの正当性が追求されていて、面白いですね。

 まず最初のこの部分は、非常に深い意味があると思いますね。

 私達は、当然、未来の自分のために、未来の自分が幸福になり、不幸を避けるように、努力します。

 しかしここでは、「未来の自分」と「今、周りにいる他者」は同じだと言っているのです。

 ここで、『「今の自分」と「未来の自分」は違う。なぜなら、瞬間瞬間、「自分」を構成する要素は移り変わっているから・・・』というオーソドックスな解説を展開させることもできますが、それは皆さんに思索してもらうこととして、ここではまた違う角度から解説してみたいと思います。

 まず、カルマの法則から言うならば、「今、周りにいる他者」に対して行う行為が、そっくりそのまま、「未来の自分」に返ってきます。だから、「未来の自分」の幸福を願うなら、「今、周りにいる他者」を幸福にすべきなのです。そういう意味で、自己と他者は平等であるともいえます。

 また、もう少し視野を広げて、カルマや縁の問題を検討してみますと、実際、縁によって自分の周りにいる人たちというのは、「過去の自分」「未来の自分」「現在の自分」のいずれかと同じ要素を強く持っている人たちばかりなのです。その同じ要素の中で、カルマのやり取りをしているのですから。
 もっと視野を広げるなら、今、縁がないように見える人でも、実際は無数の輪廻の中で、何らかの縁を持ったことがあるだろうし、これからも持つでしょう。ということは、この宇宙の全ての衆生が、「過去の自分」「未来の自分」「現在の自分」といった要素を持つ存在なのです。
 だから、「未来の自分」に心を配るのと同様に、他の魂にも心を配るべきなのです。

 この辺は言葉に表しにくい部分でもありますが、結局、自分と他人に区別はないというのは、真実なんですね。それは概念的なものではなくて、すべては「自分の世界」なので、「他者」と錯覚しているその対象を苦しめることは、イコール自分を苦しめることにつながるのです。彼らを幸せにすることは、自分を幸せにすることなのです。この秘密に、早く気付かなくてはなりません。


 さあ、そしてまた別の角度からの検討が、この後も続いていきます。




【本文】

 もしも、いかなる苦しみでも、それを感受する者がまさに防ぐべきである--と考えるなら、足の苦しみは手の苦しみでないのに、なぜ足の苦しみが手で防がれるか。

 それは不合理だけれども、自我意識から起こる事である--というなら、自己のものでも他のものでも、不合理は極力除かれねばならない(すなわち、自己と他者は別であるという見解も除かれねばならない)。


【解説】

 本来、実質的な意味でも、カルマ的な意味でも、この宇宙の衆生は、一つであって、かつ多です。同一であると同時に、多様性がある。それはちょうどこの身体のようなものです。

 身体は、大雑把な意味では、各パーツの集まりに過ぎません。骨がそれぞれ関節にはめ込まれて組み立てられ、筋肉が腱でつながれ、中に内臓が配置され・・・といった感じですね。もっと微細に言えば、身体も細かい原子の集まりに過ぎず、大きな単一の物体ではありえません。そのような多くのパーツや原子の集まりに過ぎないのに、「身体」という一つの概念でくくられ、それを我々は「私」と呼んでいるわけです。

 この大きな「私の身体」というあいまいな概念で結ばれた手や足、骨や肉、そしておのおのの原子は、苦楽をともにします。足が危険に襲われたとき、手で防ぎます。それが器用さを特性とする手の役割だからです。「俺は手だから、足の危険なんて知ったこっちゃない」なんては思いません(笑)。

 この宇宙の衆生も本来は同じようなものだということですね。自分が他の幸福のためにできることがあったら、それはやらなければいけない。しかし我々は無智に覆われ、「この部分だけが私である」「私だけが幸福であればいい」という自我意識を、あまりにも永い間持ち続けてきたために、この「全てが一つであると同時に多様性がある」という衆生の真実を忘れてしまっているのではないかと思います。

 もちろん、「全ては一つである」と口で言うだけでは駄目です。そのような悟りっぽい感覚に浸るだけでは、逆にそれはマイナスです。そうではなく、この論書に書かれているようなさまざまな方法で、実際に自我意識を弱めていく実践を行ない、全てが一つであると同時に多様性があるという真実を、実際に悟らなければなりません。



【本文】

 (現在の瞬間と次の瞬間の間の)個体の相続、および一個の身体などとして認識される「部分の集合」は、仮想のものである。あたかも、行列や軍隊などがそうであるように。かようなわけで、それに苦しみの属する主体は存在しない。それは誰のものでありえようか。

 一切の苦しみは、いずれも差別なく主体のないものである。それらはまさに苦しみであるがゆえに、避けられなければならない。なぜそこで(自他という)制限を設ける必要があるか。

 なぜ苦しみは避けられねばならないかといわば--その点に関しては万人に異論がないからである。もし避けられるべきならば、全ての苦しみが避けられるべきである。もし避けるべきでなければ、他の全てと同様に、自我の苦しみも(避けてはいけないということになる)。


【解説】

 ①固体の相続--これを「行列」という言葉でたとえていますが、私は現代ではこれは「映画のフィルム」でたとえたほうがわかりやすいような気がします。
 映画のフィルムというのは、もちろん、一コマ一コマ、違う静止画像があって、それがすごいスピードで連続で流れていくことによって、一つの流れを持つ映像に見えるわけですね。
 たとえばただ黙って座っている男のシーンがあったとします。それは普通に男がそこに存在して、何も動かずに座っているだけのように見えますが、実は微妙に違う一コマ一コマの連続の映像なわけです。 
 同様に、我々の世界も、我々自身も、カルマ的にも、物質的にも、精神的にも、一瞬一瞬、移り変わっているのです。物質的な意味では、我々の感知し得ない世界で、常に激しい原子の運動が繰り返されています。心の無常性は誰もが知るところでしょう。そしてカルマ的には、カルマによって現われるこの一瞬の世界と、次の一瞬の世界は、実は全く違うのです。しかし似た部分を多く含む場合が多いゆえに、一つの実体が永続しているように見えるのですが、実は永続して存在している実体はないのです。

 ②部分の集合--これは上述のように、この身体一つとっても、確固たる単一の実体があるわけではなく、多くの部分が集まったものをなんとなく「私の身体」と呼んでいるだけだということですね。
 昔、小学校の国語の教科書で、スイミーという物語があったように記憶しています。小さな魚の群れが、大きな魚に勝つために、群れで固まって、一匹の大きな魚のような姿を作り出し、敵を追い払うような話ですね。これなんかまさにそうですが、本当はそんな一匹の大きな魚なんかどこにもいないのに、敵はその小魚の群れに大魚の幻影を見てしまい、恐怖して逃げていくわけです。
 同様に、我々も、部分の集合に過ぎないこの身体に、単一の存在の幻影を見て、実体視してしまうんですね。
 実際はそれは身体だけではなく、感覚の経験、無数の心のイメージ、過去の経験の記憶、そしてそこから生じる識別作用--これらを五蘊といいますが--これら一つ一つもとらえどころがなく、実体がないものですが、その実体のないものの集まりを、なぜかあいまいに実体視し、「私」と呼んでいるわけです。

 このように、瞬間瞬間移り変わるゆえに実体がないし、しかも、その瞬間だけを見て取っても、さまざまな要素の集まりをあいまいに「私」といっているだけのもの。そのあいまいな「私」という感覚であらわされる現象が、瞬間瞬間、形を変えている--これが「私」の正体ですね。だから当然、「私の苦しみ」といった場合も、全く実体がないのです。多くの部分からなるものが、瞬間瞬間、移り変わっている。一体そこで生じる「苦しみ」というのは、誰の苦しみなんだ、ということですね。まったく主体性がないのです。誰が苦しんでいるのかという、その主体がどこにもいないのです。

 しかし、主体がないにも関わらず、我々は厳然と苦しみを経験しているわけです。ということは、もともと主体がないのだから、「私の苦しみは防ぎ、他の苦しみは防がない」という発想自体がナンセンスだということですね。主体がないのだから、「私の苦しみ」という認識も間違いだということです。ただそこには、「苦しみ」があるだけなのです。

 だから問題は、この「苦しみ」という現象を滅するのか、滅さないのか、ということですね。そして万人が、つまり全ての衆生の自我意識が、この苦しみを避けようと思っています。だから「苦しみ」は、取り除かれるべきなのです。私とかだれかれの苦しみではなく、まさにこの「苦しみ」というあいまいな現象自体が、滅されるべきなのです。それを感じている主体の設定があいまいなので、「私の苦しみを滅し、他の苦しみは滅さない」という発想自体が、ありえないということですね。滅するなら自他の区別なくすべての苦しみが滅されなければならないというわけです。
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百億分の一によって」

2019-09-06 18:26:48 | 解説・入菩提行論



【本文】

 また、肉体はかように不浄であるにも関わらず、資金なしには得られない。そのために人は資金獲得の苦労をし、さらに地獄等で苦難を受ける。

 子供は資金を得る力がない。青年においては、何を楽しむのであろうか(楽しむ金がない)。壮年は資金を得るためにむなしく過ぎていき、老人は愛欲に何の用があろう。

 ある者は下劣な欲望に駆られ、日暮れまで活動して疲れ果てながら、家に帰って、死せるもののように床に横たわる。

 ある者は長旅(商用の旅、または討征軍)に加わって、他国にとどまるという苦しみをなめ、妻子のために働きながら、それらと数年間もまみえない。

 愛欲にくらまされて、いわばそのために自我を売り渡した目的物は、彼らに得られない。しかるに、彼らの寿命は、他のために働くことによってむなしく過ぎ去る。

 他の者は自我を人に売り渡し、常に使いのために駆使せられ、その妻は森のこずえの下などで子を産む。

 ある者は、生きるために、生命を保てるかどうかも疑わしいのに、戦争に突入する。
 また、名誉を得ようとして、かえって奴隷とせられる。
 愛欲にくらまされた愚か者達よ。

 ある他の者は、欲望を追求したために切られ、また串刺しにされ、火に焼かれ、槍で殺されるのが見られる。

 それを手に入れること(の苦労)、守ること(の苦労)、なくなった場合の失望があるのだから、(現世)の利益は無限の不利益であると知るべきである。財に心を奪われた者は、そのわずらいのために、生存の苦しみを免れる機会がない。

 かように欲望を追求する者の苦難は多く、欲望を楽しみ味わうことはわずかである。それはあたかも、(重い)車をひく家畜が、ただわずかの食物を得るがごとくである。


【解説】

 ここもしっかりと皆さんで思索してほしいですね。現代日本ではまた別のさまざまの事例が検討できるでしょうから。
 そして結局、この一連の文章が一番言いたかったのは、この最後の一文ですね。「欲望を追求する者の苦難は多く、欲望を楽しみ味わうことはわずかである」ということです。それはリアルに検討すればそのとおりなんですね。それを一生懸命ごまかして、自分は欲望によってとても幸福になっているような錯覚がある人もいますが、リアルに検討してみると、上記にあげられたように、欲望の果報自体を味わう時間や量というのは非常に短く、それを得るまでの苦労、それを守る苦労と恐怖、失ったときの苦しみ、そしてその他、付随するさまざまな苦しみ・・・などをトータルで観察すると、欲望を追いかける人生は、苦しみまみれじゃないかと、なぜそんな人生を歩むのかと、智者・賢者から見ると見えるわけですね。
 そしてそのような生き方を、家畜にたとえています。一日中、こき使われて、草とか残り物とかのわずかな食物しか与えられない、牛とか馬とかのイメージですね。
 そういえば昨年、インドのラージギルに行ったとき、そこは街中をリキシャーさえも走っていない田舎で、遠出するには馬車で行くしかないので馬車に乗ったのですが、その馬がなんだかすごく辛そうで、しかも運転手が、全く情のかけらもなく、馬を鞭で打ってこき使うんですね。そして与えるえさも、本当に、あまり質の良くなさそうな草だけで。これはまさにこのたとえ話のイメージにぴったりの光景でしたね。
 マーラ(煩悩によって輪廻を支配する魔王)の家畜であるわれわれは、欲望によって得られるわずかな楽しみというえさを求め、その何倍もの多くの苦しみを耐えるのです。このような不当な家畜の立場から、脱却したいと思いませんか?



【本文】

 家畜さえも得るにやさしいわずかの楽しみのために、悪しき運命(過去の悪業)にくらまされた者は、この得がたい恵まれた人生をむなしく浪費する。
 
 その苦労の百億分の一によって、仏陀となることができる。欲望を追求する者の苦しみは、菩提行の苦しみよりもはるかに大きい。しかも彼ら(欲望を追求する者)は覚醒を得ない。


【解説】

 さあ、ここで、ものすごいことが明かされていますね。
 過去の悪しきカルマに翻弄された者は、この貴重な人生を無駄にし、欲望のわずかな楽しみを得るために、多くの苦しみに人生を浪費します。
 しかしその、欲望を追求するときに生じる苦労の、たった百億分の一の苦労によって、仏陀になることができるというのです!
 菩薩として生き、修行し、仏陀を目指す道--それが菩提行ですが、この道は、とても苦しく、激しく、つらいイメージがあるかもしれません。もちろん、修行における苦しみ、苦労というのは実際に多々あるわけですが、そんなものは、欲望を追いかける者たちの苦しみに比べたら、比較にならないほどわずかな苦労だということですね。
 しかも、菩薩行よりも膨大な苦しみを味わう、その欲望追求の人生を歩んでも、彼らが悟ったり、仏陀になったりするということはありません。単に悪業の上に悪業を積み重ね、心を汚し、雪ダルマ式に悪趣の道に突っ込んでいくだけです。
 だから智慧ある者は、この辺をしっかりと考えるべきです。考えるコツは、まず頭で理解し、そして次にそれを自分の心に納得させることです。

「お前が望んでいる方向(欲望追求)には、たしかにわずかな楽しみがあるかもしれないが、それと不釣合いな膨大な苦しみも常にセットなんだぞ。しかもそこで悟りを得ることなどもちろんなく、どんどん心もカルマも汚れ、苦しみも増していくだけなんだぞ。
 それに対して菩提行の道は、一見苦しく見えるかもしれないが、実際はそこで生じる苦しみは、欲望追求の苦しみよりはるかに少なく、そして徳の力、浄化された心の力によって、大変な喜びが伴うんだぞ。そしてその果てには、完全なる智慧と至福である、仏陀の境地が待っているんだぞ。そしてその道を自分が歩くことによって、多くの他の人も、苦しみから解放され、至福にいたるんだぞ。」

--このようなことを、自分の心、エゴに言い聞かせるべきですね。

 結局、修行というのは、楽しいことを我慢して、苦しいことをやっているわけではないのです。「苦しくて意味のないこと」を放棄して、「本当に楽しいこと」を追求していると言ってもいいでしょう。しかし自分のエゴ、心というのは馬鹿なので、何が本当に楽しいこと・利益のあることであり、何が不利益なことであるかということを錯覚しているのです。錯覚のままに、何生も何生も、何億年も何兆年も生まれ変わってきたわけですから、そろそろその自分のエゴの錯覚を修正してあげてください。
 このような文章をあなたが今読んでいること自体が、その類まれなチャンス、錯覚から脱却する可能性を手にしているということです。



【本文】

 剣も、毒も、火も、険しい崖も、あだなす敵も、欲望によって生じる苦しみの比較にならない。なぜなら、(欲望の追求によって)地獄などで受ける苦難が(経典のうちに)伝えられているからである。

 以上のごとく欲望を離れ、現世から遠く離れることに喜びを生ぜよ。争いと憂いのない静かな森の地で。

 そこで人は、月光のビャクダン油によって涼しく感ぜられ、宮殿のテラスのように広やかな、楽しい岩盤の上で、騒音なく、快い森の風に吹かれながら、幸せにあちこちと経行する。そして他人の幸福を思う。

 どこであっても、人なき家に、木の下に、洞窟に、彼は望む間だけくつろいで住み、所有とか(所有物の)保護とかの悩みから逃れ、願慮を捨てて、思うがままに振舞う。

 心のままにさすらい、家なく、なんら束縛のない人--かかる人の味わう満足の楽しさは、インドラ神にすら得がたい。



【解説】

 このような、現世を離れた遊行者的な生き方はいいですね。あこがれますね。
 しかし私は個人的には、現代の日本に生まれ、修行するカルマを持った修行者、菩薩たちは、そのようなカルマにはないと考えています。実際に全ての所有物を捨てて乞食のように生きるのは、現実的ではないでしょう。
 しかしそうであっても、精神的には常にこのようであるべきだと思います。家にあっても家なき者のように、便宜上所有物を持っていても、所有物という感覚を持たない。
 この現世の中にいながら、現世に巻き込まれずに、本文にあるような、欲望や現世から解放された心の状態であってください。このような人が現世にいるのは、もちろん、他の人に恩恵を与える、ただそのためだけなのです。泥沼に咲く蓮華のようであってください。そして蓮華が泥に汚されないよう、常に正念正智で自己の心を監視し、正しい思いを持ち続けてください。
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「不浄観」

2019-09-06 09:03:48 | 解説・入菩提行論



【解説】

 次のところも、異性への愛著の捨断、特に不浄観についての考え方が、淡々と続いています。
 これについても詳しい解説はしませんので、皆さんの思索の材料にしてください。
 現代の日本は大変清潔な国なので、こういう不浄観もなかなか受け入れられがたいかもしれませんが、これも伝統的な仏教の見解なので、深い瞑想に入る一助として、しっかりと理解するべきだと思います。
 特に現代では、メディアの発達により、若い頃から、多くの人が、汚れた性的イメージを大量に入れているので、異性の肉体への誤ったイメージが根付いてしまっています。そのイメージから生じる、余計な愛欲の生起がありますね。それを破壊するためにも、こういう不浄観の修習は大切だと思います。


【本文】

 愛欲は実にこの世と来世で、不幸を生ぜしめる。この世では拘留、死罪、切断により、来世では地獄等によって。

 それを得るために、娼婦の主たちに、何時が幾度となく手を合わせ、それを得るために、罪悪あるいは悪い評判さえも、かつては意に介せず、また自身を危険に投じ、さらに財産を浪費し、またそれを抱擁して至上の歓楽を覚えたるもの、--それはまさにこの骨であって、他のものではない。その骨はいまや全く自由で、所有主のないものである。なぜ汝はほしいままに抱擁して、歓楽にふけらないか。

 かつては恥じらいのために下に向けられていたが、やっと今、上に向けさせられた(愛人の顔)、それはかつてそれを見た目に対しても、見たことのない目に対しても、面皮で覆われていた顔、その顔が、ハゲタカによって、あたかも汝の苛立ちに耐えかねたように、今、覆いを取り去られた。それを身よ。今汝はなぜそれから逃れ去るのか。

 また、他人の目にさらされぬように保護されていた(愛人の体)は、いまやまさに(野獣に)食われようとしている。嫉妬深き者よ。なぜ汝はそれを保護しないのか。

 ハゲタカその他が貪り食うこの肉の塊を見て、彼らの餌食が、花輪、ビャクダン、装飾によって供養されている(ということを知るだろう)。

 かように動きもしない骸骨を見てすら、汝に恐怖が生ずる。それなのになぜ汝は、いわばある屍鬼によって動かされている(生ける人)に対し、恐怖を抱かないか。

 それが覆われてあったときにすら愛著を感じたのに、覆いが除かれると、なぜそれを嫌悪するのか。もしそれには何の用もないというなら、なぜ覆われたものは愛撫せられるか。

 愛人の唾と排泄物は、同じ食物から生ずる。そのうち、排泄物は汝に好まれないが、なぜ唾は好んで飲み込まれるか。

 綿の入った布団は肌触りが柔らかくても、悪臭を発しないので、愛欲者に喜びを起こさせない。彼らは不潔に惑わされているからである。

 もし汝が不浄物を愛さないなら、なぜ他人を抱擁するのか。それは泥の肉に塗られ、腱で結ばれた骨の籠ではないか。

 汝自ら多くの不潔物を抱えている。それで全く満足せよ。汚物を貪る者よ。汝、他の不潔の袋たる女を忘れ去れ。

 「私は、その肉を愛する」と言って、汝はそれを見たいと思い、触れたいと願う。なぜ汝は、本来無意識である肉を望むのか。

 汝の望むところの心は、見ることも触れることもできない。そして見たり触れたりすることのできるもの(肉体)には、意識の働きはない。なぜそれをむなしく抱擁するのか。
 
 他人の身体が不潔であるのを汝が知らないことは、まだ不思議ではないかもしれない。
 しかし自己の身体が不潔であるのを理解しないとは、驚くべきことである。

 雲の晴れた日光に照らされて開いた新鮮な蓮華を顧みずに、不潔に心の奪われた人は、汚物の籠に何の喜びを感じるか。

 泥等は不潔物に汚れているので、それに触れることを汝が望まないというなら、なぜ不潔物が現われる肉体に、汝は触れようと望むのか。

 もし汝が不浄物を愛さないなら、なぜ他人を抱擁するか。それは不浄なる種子より、不浄なる田において、それによって成長したものではないか。

 不浄物から生じた小さな不浄のウジを、汝は好まない。しかし、同じく不浄物から生まれ、多大の不浄からなるこの人身を、汝は好む。

 汚物を貪る者よ。汝は単に自身の不浄性を嫌悪しないばかりでなく、他の不浄物の容器(肉体)までも望む。

 心地の良い樟脳や、米、食物、調味料等も、口から吐き出されたならば、その土地までが不浄とせられる。

 もし目の当たりに見ながら、汝がかような不浄を信じ理解しないならば、墓場に置かれた他人の恐るべき身体を見よ。

 その身から皮がはがされたときには、大いなる恐怖が生ずる。され、そこではこれを正しく眺めながら、なぜ(他の場合には他人の身体に)愛欲を感ずるか。

 身につけられた香気も、ビャクダン油(等の香料)から発するものである。他から発する香気によって、なぜそれとは別のものに愛著するのか。

 もし、本来の悪臭のために、それ(肉体)に人が愛著を感じないなら、それはすばらしいことではないか。
 なぜ世の人々は、不幸を望むように、それ(肉体)を香料で塗るか。
 
 ビャクダン油が芳香を発すれば、身体に何の利益があるか。他の発する香気によって、なぜそれとは別のものが愛著せられるか。

 裸の身は、本来は(ほうっておいたならば)、泥垢にまみれ、長い髪と爪、垢だらけの黄色い歯など、すさまじいものである。そうであるならば、なぜ自我を傷つけるように、刀剣を磨くように、努力してそれを清めるのか。大地は自我を欺くに熱心な狂人で満ち満ちている。

 墓場にあるいくらかの骸骨を見て、汝はそれを厭う。しかし、人里という墓場で遊ぶ骸骨の群れを汝は喜ぶ。

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「楽しい孤独」

2019-09-05 19:26:03 | 解説・入菩提行論


【本文】

 肉体の本来の住居である墓場に赴いて、いつ私は、他人の骸骨と自己の腐敗する身とを比べてみるであろうか。

 なぜなら、まさしく私のこの身は、その臭気のために山犬すらも近づかぬほどに、ひどく腐敗するであろうから。

 この身体に生まれながらに存在し、一つとなっているとされるそれぞれの骨ですら、(死後には)ばらばらにならざるを得ない。まして愛する者であっても、他人である以上、なおさらである。

 人はただ一人生まれ、ただ一人死する。他の者は誰も彼の苦難にあずからない。善行の妨害者となる愛しき者に、何の用があるか。

 旅行者が途中で宿を取るように、迷いの生存の旅路(すなわち輪廻転生)をたどる者もまた、(それぞれの)生に宿を取る。

 世の人々に悲しまれながら、(死骸となって)四人の人に運び去られぬ前に、彼はむしろ森に逃れ行くべきである。

 そこで彼は、反抗と親愛を持つことがなく、ただ身体だけの所有者である。そして世間ではすでに死んでいるのと同然なので、死に際して悲しみを味わわない。

 いかなる親近者も、悲しみによって彼を苦しめることはない。またいかなる者も、仏陀等に対する彼の正念をかき乱さない。

 かようなわけで、心労を起こさしめず、喜びを生ぜしめ、すべての散乱を鎮める楽しい孤独を、私は常に求めねばならない。

 全て他の思考を離れ、自己の心に思いを統一し、心をサマーディに入らしめるように、またそれを調伏するように、私は努力しよう。


【解説】

 この辺も、現世からの出離の教えが淡々と続きますね。
 このような教えは、現代の人には受け入れがたいかもしれません。しかしこのように外界から心を出離させ、自らの心の中心に精神集中を向けない限り、サマーディの入り口には入れないのも事実です。
 この部分もあえて解説はしませんので、皆さんの思索の材料にしてください。
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「いつ私は」

2019-09-03 21:29:31 | 解説・入菩提行論




【本文】

 ある者は、私を侮るであろう。なぜ私はほめられて喜ぶべきか。
 ある者は、私を称える。なぜ私は、非難されて悲観すべきか。


【解説】

 私達の心は弱いので、誰かに非難されたとき、くよくよと思い悩んでしまいます。
 また、誰かにほめられたとき、有頂天になって、慢心に陥ってしまいがちです。
 しかしよく考えたら、世界中の全ての人から非難される人というのはいません。
 また、世界中の全ての人から称賛される人というのもいません。
 だからそれをよく考えるべきですね。もともと、誰だって、ある人たちからは批判され、ある人たちからは認められるのです。そしてその批判や称賛の言葉は、概して、無責任であることが多いのです。
 だからカルマによって聞くこととなった、一時的な、称賛の言葉や非難の言葉に、心を動かされないことですね。そういう外部の言葉に一喜一憂していては、瞑想ができません。人の言葉に左右されない、確固たる真理を発見すべく、瞑想すべきです。


【本文】

 衆生はそれぞれ違った傾向を持ち、勝者(仏陀)といえどもこれを満足せしめがたい。まして私のごとき無智の者においておや。だから、世間の人々を考慮する必要がどこにあるか。

 彼らは(たとえば)人に所得がなければこれを非難し、所得があればこれを軽蔑する。(かように)本来、苦しみとともに住める彼らから、どうして喜びが生まれるか。

 「愚者は誰人の友でもない」と如来は説かれた。それは、自己の利益を離れては、彼らに愛が生じないからである。

 自己の利益に基づく愛は、利己の愛に他ならない。あたかも富の喪失によって生じた悲哀が、自己の楽しみの消滅に基づくごとくである。

 樹木は他を軽蔑しない。また好意を得るに努力を有するものでもない。ともに住むに楽しい彼らたちと、いつ私は住居をともにしうるか。

 さびしい祠、あるいは木の根、あるいは洞穴に止住して、いつ私は心に何事にもこだわることなく、後ろを顧みずに、立ち去りえようか。

 自由な広々とした自然の土地に、いつ私は、自在に行動し、家を離れて時をすごしえようか。

 ただ土製の鉢のみを所有物とし、盗人も奪い去らない衣をつけ、いつ私は恐れなく、身を守らずに時を過ごしえようか。
 

【解説】

 ここは出世間的な表現が続きますね。
 この辺もあえて詳しい解説はしませんので、思索してみてください。
 実際に今の私達がこのような世間を捨てた状態に完全に身を置くのは難しいことかもしれませんが、瞑想を進める上において、こういう出世間的な意識を持つのは大切なことです。もちろん、瞑想も進むと、世間と積極的に交わりながらも悟りを維持する境地に進んでいくわけですが、まず最初の段階では、少なくとも心において現世を捨断し、瞑想の段階を進めていかなければならないのです。
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