ある技術者の俳句

社会の底辺からしばし俳句を!

天璋院篤姫

2008年05月03日 | 鹿児島通信
「篤姫」は視聴率が高く好調の様だが、このテレビドラマは江戸の町人の、例えば大工の棟梁の娘の話の様で、とても薩摩の人間の話とは思えない。宮尾文学の「運命に翻弄される女の哀れ」など微塵も感じられず、歴史の一齣を担った人々の重みの様なものが何処にも現れていないのだ。文学をテレビ化すると大体が薄っぺらいものに成りがちなのだが、まるでホームドラマの時代劇版の様である。
 薩摩藩は典型的な男性社会で女性の地位は現代人の想像を超えて低く、篤姫の事が語られる事など全くなくて、ましてこの姫の事を記した資料自体が無いのである。嘗て、テレビドラマで一大旋風を起こした韓国のテレビ小説「チャングムの誓い」の作家は、「チャングムの存在だけを知っていた。あとは全て創作」と答えたらしいが、宮尾女史の手によるこの小説も同様な手法で組み立てられたものであろう。
 歴史上の事実を言えば、十三代家定将軍の正室となって、次期将軍職に一橋慶喜を迎える工作の為に大奥入りを運命づけられた篤姫であったが、当時の江戸幕府の慣例として将軍職人事に大奥が関与する様な事は無く(八代吉宗将軍成立の際に大奥の介入があった事への反省から)、比較的スムーズに十四代家茂将軍が決まってしまった。名君と謳われた島津斉彬の読み違いと言うより、幕末の賢君といわれた越前の松平春嶽の入れ知恵の様である。( 松平春嶽はどうも言われる様な賢君である様には思えない。如何にも思慮深げに伝えられているが、結構付和雷同型で軽い人物の様に思える。この手の人間は何処にでもいる。)
新婚生活と言う様なものがあったかどうか、新婚一年九ヶ月で家定将軍は没し天璋院となった篤姫は、その後、自らが犠牲となって将軍職に就かせようとして果たせなかったが、この後の歴史の皮肉で十五代将軍となった「慶喜」の為に、迫り来る薩長の倒幕軍宛に嘆願書を書いている。だか、薩摩の兵達は、天璋院を誰だか知らずその使者を幾度も追い返し、西郷隆盛もこの嘆願書に一瞥もくれていない。 江戸城の無血開城は、山岡鉄舟の大胆で至誠な働きによるもので、薩摩の哀れな女性の記憶は、既に誰の胸の中にも残って居なかったのだろう、無情と言うしかない。そうゆう所が話しとして欲しかった。
 江戸牛込町に住む夏目漱石は、学生時代に正岡子規と出会い、俳句誌「ホトトギス」に「我が輩は猫である」を連載して好評を得た事が彼の作家人生の始まりなのだか、漱石の母親は江戸城大奥に勤め天璋院に仕えていたそうである。当時、天璋院は寂しさを紛らわす為に猫を飼っており、その世話をしていた様な話がある。江戸開城後に実家に戻った漱石の母親が、その後も猫の世話をしていたとすれば、漱石の処女作につながる訳でどことなく夢が膨らむのであるが、この時代の日本人には何かがある様な気が常にしており、このテレビドラマの話にもう少し厚みが欲しかった。