通っている算命学の教室では若い先生の師事を受けているのだが、どうも相性が悪いと感じていて、
また独学のみの習得にしようかと思っていた。
しかし、今日の授業で全ての思惑が消え去った。それほどに素晴らしい授業だった。
長年私が煎じ詰めてきた『無』について、
先生はかなりの核心に迫る発見をくださった。
結論から言うと、先生は何の理屈も濁りもなく『無は無限だからね』と言い放ち、そのふとした言葉に私はぼーっと突っ立ってしまったのだ。
先生は私とは違い、広い範囲の見識を浅く説明する器用な方で、最初の授業ではあまりに大衆向けな説明に先行きが不安になったものだ。
先生はどこか受け身で、思考よりも感覚を優先しているように思えた。
私はどちらかというと狭く深く思考を掘っていく不器用なタイプなので、深く根を張る事はできるが、思考の連鎖により直感的、動物的な勘がなくなってしまった欠点がある。生粋の現代人だ。
私はどうも『無』を理屈で考えてしまい、上手く消化できなかった。
というのも私は、宿命全てが『無』になっている宿命全中殺であり、それに該当するものは無として生きなければならないという教えを受けたからだ。
『無』『空』『零』
様々な言い方があるが、私は導かれているのかと勘繰るほどにこれらのコンテンツに出くわす事が多い。
生まれた時から信仰心の厚い仏教徒の祖母のもとで育ち、祖母の毎朝の般若心経が児童である私のアラームだった。
祖母は九星気学を信じており、高島暦でよく私を見てくれた。ちなみに般若心経は悟りの境地に至るための『無』を説いたお経である。
文中にもある『色即是空』は『万物の本質は空』であると言っていて、生まれた時から365日毎朝それを聞いていたと思うと、やはり無に縁があるとしか考えられない。
ある時はこのような帯の本を見かけてしまう。
“一度空にしないと新たなものは入ってこない“
その一文に、ふらふらと行くあてがない足取りはピタッと止まってしまった。
そこで今日の授業につながる。
授業内容は格星の性質についてで、今日は『禄存星』の説明でした。
この星の意味は、今風に言えば“インフルエンサー“であり、算命学的に言えば“引力本能“
“回転財の星”“である。
引力とは惹きつける力であり、インフルエンサーにとっては最も重要な才能と言ってもいい。アイドルや実業家にもこの星を持つ者は多い。土は石も砂も岩も何もかもが集まった集合体であり、木も水も自然の全ては母なる大地と繋がっているのだ。
土性の陽=禄存星(偏財)、土性の陰=司禄星(正財)であり、
名前の通り大胆で大きくお金を動かす回転財の禄存と、庶民的でコツコツお金を貯めてやりくりする司禄では同じ財星でありながら意味合いが真逆だ。
家庭的で何事も堅実に積み重ねながら安定を得る、まるで理想の奥さんのような司禄星だが、
その活動範囲は狭く、あくまで自分と近しい間柄までに止まる。対して禄存星の活動範囲は広く大衆的であり、経済を大きく回していく。またこの星々については深く説明するつもりだ。
そこで下のノートを見て欲しい。
禄存星は、基本的に『空』を良しとするようだ。
というのも、禄存星は引力本能なので沢山の愛やお金、評価を必要とする。だからこそずる賢い思惑や汚い手を使ってしまう者が多く、その魂胆には承認欲求などのエゴが隠されている。陰転すると最も安っぽくなってしまう星でもあるのだ。
ではなぜ空が良いのか。理由は簡単だ。
先程の“一度空にしないと新たなものは入ってこない“と同じだ。空っぽのコップには水が沢山入るが、既に満タンのコップには新しい水は入らずに溢れてしまう。単純なことだ。
基本的に自我、エゴがなく大人しい人というのはどんな人にも話かけられやすく、その人達の色に染まる事が多い。しかし我が無いからこそ多くを取り込む事ができ、否定も肯定もせず、すんなりと相手を受け入れられる寛容さを持つのだ。そういった人は多くの友人に囲まれているのをよく見る。
私はそれはそれは自我の強い人間でして、自己主張の強い自己中のせいかあまり人が寄ってこなかったが、だからこそ相手の入る隙がなかったのだと思う。『自分』で埋め尽くされている私は、人に弱みを握られるのが怖くて、他人が自身の心に介在することを拒んでいた。
しかし友人は私とは真逆で、何の濁りもない真っ白な『無』そのものだったので、多くの人が彼女の心にすんなりと入ることができた。
多くの人は彼女に心を掴まれてしまったのだ。自身が彼女を埋め尽くすつもりが、彼女のその真っ白な吸収力に身まるごと吸収されてしまったのだ。
空っぽだからこそ禄存星は輝くのかもしれない。
ところで私にその『禄存星』があるかと聞かれたら、禄存どころか司禄もない財星が0の自我の塊野郎なのだ。
そうか、私には人を惹きつける力はなかった。今後もずっと貧しくお金に恵まれることはないのだろうなぁと悲嘆した。
そんな時、先生はホワイトボードにこんなことを書いていた。
これは占術を勉強する際は玉堂的な学び方が良いですよーといった表であり、龍高星を否定しているものではない。
この星々は習得の星で、玉堂星が平面の座学ならば、龍高星は立体的な現場主義の習得である。
天才には龍高星が多く、イノベーションを起こす革命児でもあり、発想の転換の凄まじいたるや。しかしその反面、物事を自分なりに改良してしまいがちで、正統に学ぶというよりかは浅く広く、在野的な習得となる。先人達の文化を破壊する代わりに、革新的な新しい創造を促す。無駄の多い非効率の環境や、古くからのしきたりが続く悪風に染まった世界の住人にとって、それらを改新する龍高星はまさにヒーローそのものだ。
対して玉堂星は物事をきれいにそのまま吸収する。先人達に尊敬の念を抱き、言われたことをそっくりそのまま反映する。
本は先人達の知恵の宝庫であり、玉堂星は読書しかり、何をするにも必ず平面的な説明を取り入れてから行うのだ。行動を伴わないので理屈っぽく不器用なタイプが多いが、流動的な龍高星とは違い、狭く深く、一つ一つをゆっくり時間をかけて習得していく。
上のノートには五行説による星の循環がまとめられている。木火土金水の順に、自然の流れで星が循環しているのだ。
玉堂星的(狭くて深い)知識は、貫索星(確固な信念)を生み出し、
調舒星(孤独)となり、禄存星(広い世界)を生み出していく。
反対に、
龍高星的(広くて浅い)知識は、石門生(柔軟な信念)を生み出し、
鳳閣星(安定)となり、司禄星(狭い世界)を生み出していく。
と先生は説明した。
私は何に対しても玉堂星的な考え方で挑んでいるが、その分大衆性に欠けている。しかしこの循環方法から考えると、
個人的な世界が、いづれ大衆的になると言われているようなものだ。
先生は『孤独の時間は必要』といった。身寄りのない常に孤独な自分は嬉しかった。が、、
『しかし先生、私には禄存も司禄もないんです。お金に縁がないんですね』とこれまた本音をポツリ。
すると先生は、全く悩まずにすぐさま『0は無限大だよ』といったのだ。
『下手な中途半端にある攻撃本能よりも、0の引力本能の方が振り切れて逆にありすぎるのかも知れないね』
『13とか26みたいに限られていない、0』
深い深い深すぎる!!だから学ぶことをやめられないのだ!!誰も行きついていない奥底の真理にたどり着いた時の感動たるや!!
これに関して、つくづく、無と有は表裏一体だなぁと思うのです。空っぽだからこそ水は入ってくるのと同じように、
何もない真っ暗な底知れないエネルギーからこの世を生み出したように、
0は完全そのものなのだろう。
行きすぎたものはやがて真っ逆さまに振り切れる。まさに陰陽である。
この些細な談笑に、全中殺で引力が0な私は心から救われたのだ。
無いからこそ、有るのだ。
かなり長くなったが、たとえ今破壊の時期にいたとしても、空っぽだとしても、
それは満たされる未来のためであって、再生のための底知れないエネルギーそのものなのだと思う。