2.土浦時代(5歳から10歳ぐらいまで)その2
小学校に入学した。教室に入り自分の名前が先生から呼ばれて緊張しながら大きく返事をした。授業で習った最初の国語のさくらの文章や音楽のチューリップの歌が印象に残っている。同級生とも仲良くなったが、一番遊んだのはやはりイワオちゃん、タダシちゃんだった。学校が終わると走って帰り、夕ご飯まで遊び続けた。学校では私はヒョウキンな所がありおどけて皆を笑わせるのが好きだった。クラスで劇をやる練習をしている時に、先生が力を込める感じで山田君やりなさいと言われたので先生の真似をして皆を笑わせた。先生も笑っていた。昼休みなどは校庭で遊んだ。鉄棒に掴まって登って行く遊びは私は不器用であまり上手に登れなかった。登る時には股が擦れて快感を感じる時があり何となく照れくさかった。
当時、ヘリコプターで商店のチラシをばら撒く事があった。校庭の子供達は皆争うようにしてチラシを掻き集めた。今ならゴミになりさぞ苦情が出ただろう。学校のトイレに足を踏み外したことがある。少し濡れて水道で洗っていると、同級生が「やーい、小便ひっかけた」と囃し立てた。別の生徒が「別にいいじゃん。なあ」と私を慰めてくれた。嬉しかったのを覚えている。
学校での親しくした友達の記憶はあまり無い。運動が苦手で何となくひ弱な子供だった。ある時、下校時に同じクラスの子に付いて行って、自分の家から反対方向の新川の川沿いの家まで行ったことがある。もう少し、もう少しとその子がごねてとうとう家まで着いてしまい、家に上がりお菓子やお茶をご馳走になった。
小学校時代はよく漫画を読んだ。貸本屋というものがあり、安価で漫画本を貸してくれるのである。少年サンデーやキング、マガジンは自分の小遣いで買った。それらの本には様々なおまけが付いておりそれも楽しみだった。変装道具というおまけが申し込むと返送してくれる企画があった。申し込みしてからそれが届くのが楽しみだった。毎日、学校で授業中にあれこれ想像し、放課後はそれこそ飛ぶようにして家に帰った。実際に、現物が届いたときはあまりのチャチな作りでがっかりしたが。
学校の授業はあまり熱心でなかった。私は夢想癖があり、授業中にあれこれ空想するのが好きだった。少年時代にはイジメられたり自ら悪さをしたことが良く覚えている。ある時、年下の子と普段はあまり行かない小山の方の遊び場に行きそこで他校の上級生に難癖を付けられたことがある。年下の子に仲間を呼びに行くよう指示したが上級生に止められ脅かされ、2人共泣きべそになった。その時、コウちゃん(イワオちゃんの兄)ら中学生が2~3人来て、上級生達はひるみ、私達は急に横柄になったのを思い出す。
ある時こんな事件があった。いつもの原っぱで学校の友達と遊んでいると同校の上級生が近づいて来て、アメリカマッチを見せてくれた。アメリカマッチと言うのは摩擦のある場所なら何所でも火が付けられるというマッチだった。「お前ら、見てろよ」上級生は自慢気にマッチをポケットから出して10円コインをこすって火を付けた。「おお!すげえ、すげえ」私達は驚き、上級生はその反応に満足したようだった。何回かマッチを擦って見せてから上級生は土手にある枯草に火を付けようと言い出した。「芝焼きと言って冬にこれをやるんだ」。ところが火は勢い良く燃え出した。ドンドン火勢が付いて土手の下の方を燃やしていく。下方には1軒のあばら屋が建っていた。私達は焦って、急いで火を消そうとした。しかし、子供達には手が負えないほど火の勢いは強かった。私は川を下り、水を何かに汲もうとして降りて行った。上級生は「逃げるのか、この野郎!」と大声で喚いた。騒ぎを聞いて家の叔母さんが出て来た。彼女は驚いたろう。ボウボウと火が自分の家に迫っているのだ。「こら!何だ、おめえら。何やってるだ」。痩せた貧相なおばさんは顔を真っ赤にして怒鳴り立てた。丁度、その時に警察官が自転車に乗って通りかかり、急いで消火を手伝ってくれた。大人2人が居て、どうにか火は消すことが出来た。警官に事情聴取をされて、私達下級生2人は主犯で無いことを主張した。上級生はこってりと油を絞られ、3人が帰される時に「お前らも学校に刑事が来るぞ」と捨て台詞を吐いた。私達はそんなことはないだろうと思いつつ、急に心配になった。家に帰り、夜、母が縫い物をしているのを見ながら、もし学校に刑事が来て掴まったらどうしようと考えると不安で仕方が無かった。翌日、学校に登校すると昨日の同級生が「刑事は来てねえみてぇだぞ」とニコニコしながら話しかけて来た。私はそれを聞いてようやく安心した。
ゴム輪事件というのがあった。クラスの女の子が家から輪ゴムを大量に持って来た。私は何かの弾みでそれを盗んでしまった。女の子はシクシク泣き出し、クラスでは泥棒を探し出そうと言う雰囲気になった。騒ぎが大きくなり、私は焦った。ポケットには盗んだ輪ゴムがごっそり入っている。何とかこれを処分しなくてはいけないが、うっかり動けなかった。丁度その時友人がトイレに行くと言うので自分もさり気なく一緒に行った。2人で歩きながら「誰が盗んだんだベなあ」「ひょっとして、お前だったりして」と友人が言ったときはドキッとした。勿論冗談である。用を足して帰り際にトイレの隅にこっそりと盗んだ輪ゴムの束を投げ捨てた。
結構、ずるい所が自分にはあり、授業でもこんなことがあった。先生が課題を出して「出来た人は家に帰って良い」と言って手を挙げさせた。私は出来ていなかったが皆も手を挙げるだろうと思って手を挙げると私独りしか挙げてなかった。先生は「では山田君だけなので山田君は帰ってよろしい」と言った。今更、出来ていませんとも言えずに私はひとり帰る準備をして教室を出ていった。何となく皆に責められているような気持になり、帰り道も憂鬱だった。勿論、先生も分かっていただろう。
通学に関しては家から学校までは子供の足で20分ぐらいかかったろうか。距離にして1キロぐらいだろう。途中には亀城公園があり、その近くの用水路でも小鮒がたくさん取れた。放課後に学校で遊ぶと言う事は無く、寄り道もあまりせず真っ直ぐに家に帰った。遊び仲間はいつもイワオちゃんとタダシちゃんだった。3人が中心になって近所の年下の子供たちが回りにくっついていた。たまに、学校の同級の子と遊ぶこともあるがあまり合わなかった。遠藤という近所にいる子は底意地が悪く、1、2回一緒に遊んだが嫌になってしまった。
私達3人は夏になるとよくお化け大会を催した。近くの原っぱにお化け屋敷を作るのである。とは言っても粗末なもので、新聞紙や空箱にマジックで書いたり、糸で吊るしたりする程度である。それでも子供達には人気があり、私達は入場券を作って年下の子供らに配ったりした。入場券をなくした子供がいると再発行はしないので、泣く泣く親に作ってもらったりした子供もいた。おずおずとそれを指し出す子供には「なんだあ、これ。俺達の入場券じゃねえべよ」と脅かすが、結局は入れてやる。野球の真似事や西部劇ごっこもやった。野球では、私は中々バットが当たらなかったが、ある時、最後までボールを良く見て振るとヒットになる確率が高いことが分かった。それからは打率がグンと良くなった。これまでは闇雲に振り回していたのである。
ある時、学校の通学途中で見知らぬお姉さんが私に雀を渡して林の方で逃がして欲しいと頼まれたことがあった。子雀で可愛い小鳥だった。私は約束を破って、うちで飼うことにした。しかし、どうやっても餌を食べずにその雀は2~3日後に死んでしまった。私はえらく反省し、いつもの遊ぶ広場に墓を作り雀に対するお詫び文を書いてその墓に添えた。後で分かった事だが、その様子を見ていたタダシちゃんが私の文章を読んでからかったことがあった。その時はタダシちゃんを憎く思った。
イワオちゃんの思い出でよく覚えているのは、父と私とイワオちゃんとの3人で釣りに行った時のことである。自転車で父が運転し私とイワオちゃんが後ろに乗った。桜川というのっ込み鮒が多く釣れる川である。川沿いに走っていて石か何かで自転車がバウンドしてイワオちゃんは落ちてしまった。父と私は分からずにそのまま行ってしまったのである。釣る場所に着いて後ろを見るとイワオちゃんが居ない。父は慌てた。私も驚いた。急いで自転車で戻ると、途中にイワオちゃんが釣り竿を持ってのんびり歩いてきた。おっとりとした性格のイワオちゃんであった。
子供は動物が好きである。ある時、庭に見知らぬ猫が小さいネズミを咥えていた。網で取ろうとしたがどうしても離さず諦めて逃がしてやったことがある。その後、近所の叔母さんが猫を貰ってくれる所はないかと言うのでどうしても欲しくなって「俺が貰う」と言ってしまった。勿論、母には承諾を得ていない。可愛い子猫であった。叔母さんは家の許可を得ていると思い、後日、私に子猫を手渡した。さて、実際に貰うと困ってしまった。母にはとても言えなかった。父も母も猫はあまり好きではなかった。家の中で飼うのでダニや毛を嫌ったのである。私は近所の原っぱに猫の小屋をダンボールで作り、学校から帰るとせっせと食事を運んだ。給食の残り物である。1週間もするとバレテしまい、叔母さんと母が話し合って結局は引き取ってもらった。そういう事があり、しょんぼりした私はしばらくして犬を飼っても良いと許可された。近所のスピッツが子供を産んだのである。
マリと名前を付けて可愛がった。マリはせいぜいお座りが出来る程度で、飼い主の私に似た怠惰な犬であった。マリを貰った家の隣に原っぱがあり、木が1本立っていた。そこにマリを連れて行き、まだ貰われていない兄弟達と遊ばせた。子犬たちはコロコロして可愛かった。マリは最初は親から離れて夜、よく鳴いた。玄関に入れてダンボールに毛布を入れると鳴かなかった。寂しかったのだろう。躾はあまりしていないので食事中に手を出すと私にも唸った。父が何かの拍子に噛まれたらしく蹴ってマリの様子がおかしくなった。私は母に言われ、獣医の所に「マリが死んじゃう」と泣きながら駈けて行った。
小学3年の頃になると私は近所の年下の子供達に物語を聞かせてやることをしばしばした。最初は石原さん(父の友人でタイ大使館に勤務している人)から教えてもらった「お使い小僧」の話しがキッカケだった。これが子供達に受けて、私は気をよくしてからは母にねだって子供向け絵本を買ってもらいそれを暗記して話すようになった。白雪姫や人魚姫などだが「お使い小僧」ほどは受けなかった。
石原さんは父と同郷(つくば)の人で広大な土地に1軒屋を構えて住んでいた。裕福で当時はほとんど無かった自家用車も所有していた。温厚な人柄で奥さんである叔母さんも気立てが良い人だった。優香ちゃんと茂樹ちゃんという2人の子供がおり、私達兄弟とも仲が良かった。遊びに行くと何時も歓待してくれ、行くのが楽しみであった。石原さんの家では何回か泊まったことがある。庭が広いので、夏などには虫が取り放題だった。そう言えば石原さんの庭では葡萄を作っていた。残暑の厳しい頃に、大粒の葡萄をご馳走になりとても美味であった。小学3年の頃だろうか、私1人で石原さんの家に泊まりに行き、皆でキャンプ旅行をするという計画になっていた。親戚の中学生の女の子が来ておりその子と優香ちゃん、茂樹ちゃん、私と石原さんの5人で出掛けた。途中で食事をしたり、お菓子を買ってくれたりで実に楽しい思い出がある。石原さんが、混浴風呂がキャンプ場にはあるのだと言い、女子達は「嫌だー」と騒いでいたが私は密かに楽しみにしていた。実際にはそんなことは無く、ガッカリしたが口に出す訳にはいかなかった。茂樹ちゃんは私よりも3~4年年上で良く可愛がってくれた。喧嘩が強いらしくたまには脅かされたりしたこともあったが私は好きだった。
石原さんの思い出は、バイクに足を挟んだり、ヘビを自転車で踏みつけたりといった思い出がある。恐らく、石原さんの運転するバイクに乗っていたのだと思う。調子に乗って足をブラブラさせていたらいきなりバイクのスポークに挟んで転倒してしまった。石原さんは大慌てだったが、別に骨折などしていなかった。その時に買ったお菓子を茂樹ちゃんに上げたのを思い出した。石原さんはいつも私や兄には親切であった。
私の家の経済状態は普通で、特に貧乏でも金持ちでもなかった。6畳一間の長屋であったが、当時の日本人の生活レベルはいづれそんなものだろう。
ある時、うちに来たお客さんの駐車した車をいじって動かしてしまったことがある。3輪車で小さい車だった。長屋の脇に停めてあるのを一人で色々遊んでいるうちに徐々に動き出してしまった。あせったが恐らくハンドブレーキか何かを戻したのだろう。途中でようやく止まった。
後、印象に残っている事件にヤクザ達が女の人を殴っているのを皆で遠巻きにして見ていたことがあった。家の近くのイワオちゃんの店の前だった。3人ぐらいのチンピラが知合いなのだろう、女性を殴る蹴るの暴力を振るっていた。彼らは一応手加減はしていたが女性が起き上がるたびに暴力を振るっていた。誰かが警察を呼びに行き、気配を察して逃げて行った。今では決して見られない光景だ。
空き巣が近くの家に入り、玄関に大便を残していった事件があった。昔の泥棒はゲンを担いで盗みに入る家の前で大便をすると捕まらないというジンクスがあったと言う。父はタイ大使館に勤務しており、大使館経由で高価なスコッチやある時はチョコレートなどをしばしば家に持ち帰っていた。ある時は親戚の子が遊びに来た。父がオナラを平気でその子の前でもするので私は嫌であった。父は土・日しか家に帰ってこなかったが、兄弟は殆ど寂しがらなかった。母も居るし、友達も多い。土浦の生活は楽しく自由なものだった。
当時としては希少価値であったテレビを我家で購入した。まだ高価で近所では殆どの家が持っていなかった。父は東京に勤務しており、新しい物好きの所もあったので買ったのであろう。近所の子供らが集まって見に来た。夕飯時にも帰らない子も居たので母が追い返した。坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした頃で、よくその歌が流れていた。ある時、ヘリコプターで地域の紹介をする番組がありそれを見ていた時に兄と喧嘩をした。たまたま、テレビの人形がこらこら兄弟喧嘩をしちゃいけないよ言ったので2人で思わず笑ったことがある。
小学校に入学した。教室に入り自分の名前が先生から呼ばれて緊張しながら大きく返事をした。授業で習った最初の国語のさくらの文章や音楽のチューリップの歌が印象に残っている。同級生とも仲良くなったが、一番遊んだのはやはりイワオちゃん、タダシちゃんだった。学校が終わると走って帰り、夕ご飯まで遊び続けた。学校では私はヒョウキンな所がありおどけて皆を笑わせるのが好きだった。クラスで劇をやる練習をしている時に、先生が力を込める感じで山田君やりなさいと言われたので先生の真似をして皆を笑わせた。先生も笑っていた。昼休みなどは校庭で遊んだ。鉄棒に掴まって登って行く遊びは私は不器用であまり上手に登れなかった。登る時には股が擦れて快感を感じる時があり何となく照れくさかった。
当時、ヘリコプターで商店のチラシをばら撒く事があった。校庭の子供達は皆争うようにしてチラシを掻き集めた。今ならゴミになりさぞ苦情が出ただろう。学校のトイレに足を踏み外したことがある。少し濡れて水道で洗っていると、同級生が「やーい、小便ひっかけた」と囃し立てた。別の生徒が「別にいいじゃん。なあ」と私を慰めてくれた。嬉しかったのを覚えている。
学校での親しくした友達の記憶はあまり無い。運動が苦手で何となくひ弱な子供だった。ある時、下校時に同じクラスの子に付いて行って、自分の家から反対方向の新川の川沿いの家まで行ったことがある。もう少し、もう少しとその子がごねてとうとう家まで着いてしまい、家に上がりお菓子やお茶をご馳走になった。
小学校時代はよく漫画を読んだ。貸本屋というものがあり、安価で漫画本を貸してくれるのである。少年サンデーやキング、マガジンは自分の小遣いで買った。それらの本には様々なおまけが付いておりそれも楽しみだった。変装道具というおまけが申し込むと返送してくれる企画があった。申し込みしてからそれが届くのが楽しみだった。毎日、学校で授業中にあれこれ想像し、放課後はそれこそ飛ぶようにして家に帰った。実際に、現物が届いたときはあまりのチャチな作りでがっかりしたが。
学校の授業はあまり熱心でなかった。私は夢想癖があり、授業中にあれこれ空想するのが好きだった。少年時代にはイジメられたり自ら悪さをしたことが良く覚えている。ある時、年下の子と普段はあまり行かない小山の方の遊び場に行きそこで他校の上級生に難癖を付けられたことがある。年下の子に仲間を呼びに行くよう指示したが上級生に止められ脅かされ、2人共泣きべそになった。その時、コウちゃん(イワオちゃんの兄)ら中学生が2~3人来て、上級生達はひるみ、私達は急に横柄になったのを思い出す。
ある時こんな事件があった。いつもの原っぱで学校の友達と遊んでいると同校の上級生が近づいて来て、アメリカマッチを見せてくれた。アメリカマッチと言うのは摩擦のある場所なら何所でも火が付けられるというマッチだった。「お前ら、見てろよ」上級生は自慢気にマッチをポケットから出して10円コインをこすって火を付けた。「おお!すげえ、すげえ」私達は驚き、上級生はその反応に満足したようだった。何回かマッチを擦って見せてから上級生は土手にある枯草に火を付けようと言い出した。「芝焼きと言って冬にこれをやるんだ」。ところが火は勢い良く燃え出した。ドンドン火勢が付いて土手の下の方を燃やしていく。下方には1軒のあばら屋が建っていた。私達は焦って、急いで火を消そうとした。しかし、子供達には手が負えないほど火の勢いは強かった。私は川を下り、水を何かに汲もうとして降りて行った。上級生は「逃げるのか、この野郎!」と大声で喚いた。騒ぎを聞いて家の叔母さんが出て来た。彼女は驚いたろう。ボウボウと火が自分の家に迫っているのだ。「こら!何だ、おめえら。何やってるだ」。痩せた貧相なおばさんは顔を真っ赤にして怒鳴り立てた。丁度、その時に警察官が自転車に乗って通りかかり、急いで消火を手伝ってくれた。大人2人が居て、どうにか火は消すことが出来た。警官に事情聴取をされて、私達下級生2人は主犯で無いことを主張した。上級生はこってりと油を絞られ、3人が帰される時に「お前らも学校に刑事が来るぞ」と捨て台詞を吐いた。私達はそんなことはないだろうと思いつつ、急に心配になった。家に帰り、夜、母が縫い物をしているのを見ながら、もし学校に刑事が来て掴まったらどうしようと考えると不安で仕方が無かった。翌日、学校に登校すると昨日の同級生が「刑事は来てねえみてぇだぞ」とニコニコしながら話しかけて来た。私はそれを聞いてようやく安心した。
ゴム輪事件というのがあった。クラスの女の子が家から輪ゴムを大量に持って来た。私は何かの弾みでそれを盗んでしまった。女の子はシクシク泣き出し、クラスでは泥棒を探し出そうと言う雰囲気になった。騒ぎが大きくなり、私は焦った。ポケットには盗んだ輪ゴムがごっそり入っている。何とかこれを処分しなくてはいけないが、うっかり動けなかった。丁度その時友人がトイレに行くと言うので自分もさり気なく一緒に行った。2人で歩きながら「誰が盗んだんだベなあ」「ひょっとして、お前だったりして」と友人が言ったときはドキッとした。勿論冗談である。用を足して帰り際にトイレの隅にこっそりと盗んだ輪ゴムの束を投げ捨てた。
結構、ずるい所が自分にはあり、授業でもこんなことがあった。先生が課題を出して「出来た人は家に帰って良い」と言って手を挙げさせた。私は出来ていなかったが皆も手を挙げるだろうと思って手を挙げると私独りしか挙げてなかった。先生は「では山田君だけなので山田君は帰ってよろしい」と言った。今更、出来ていませんとも言えずに私はひとり帰る準備をして教室を出ていった。何となく皆に責められているような気持になり、帰り道も憂鬱だった。勿論、先生も分かっていただろう。
通学に関しては家から学校までは子供の足で20分ぐらいかかったろうか。距離にして1キロぐらいだろう。途中には亀城公園があり、その近くの用水路でも小鮒がたくさん取れた。放課後に学校で遊ぶと言う事は無く、寄り道もあまりせず真っ直ぐに家に帰った。遊び仲間はいつもイワオちゃんとタダシちゃんだった。3人が中心になって近所の年下の子供たちが回りにくっついていた。たまに、学校の同級の子と遊ぶこともあるがあまり合わなかった。遠藤という近所にいる子は底意地が悪く、1、2回一緒に遊んだが嫌になってしまった。
私達3人は夏になるとよくお化け大会を催した。近くの原っぱにお化け屋敷を作るのである。とは言っても粗末なもので、新聞紙や空箱にマジックで書いたり、糸で吊るしたりする程度である。それでも子供達には人気があり、私達は入場券を作って年下の子供らに配ったりした。入場券をなくした子供がいると再発行はしないので、泣く泣く親に作ってもらったりした子供もいた。おずおずとそれを指し出す子供には「なんだあ、これ。俺達の入場券じゃねえべよ」と脅かすが、結局は入れてやる。野球の真似事や西部劇ごっこもやった。野球では、私は中々バットが当たらなかったが、ある時、最後までボールを良く見て振るとヒットになる確率が高いことが分かった。それからは打率がグンと良くなった。これまでは闇雲に振り回していたのである。
ある時、学校の通学途中で見知らぬお姉さんが私に雀を渡して林の方で逃がして欲しいと頼まれたことがあった。子雀で可愛い小鳥だった。私は約束を破って、うちで飼うことにした。しかし、どうやっても餌を食べずにその雀は2~3日後に死んでしまった。私はえらく反省し、いつもの遊ぶ広場に墓を作り雀に対するお詫び文を書いてその墓に添えた。後で分かった事だが、その様子を見ていたタダシちゃんが私の文章を読んでからかったことがあった。その時はタダシちゃんを憎く思った。
イワオちゃんの思い出でよく覚えているのは、父と私とイワオちゃんとの3人で釣りに行った時のことである。自転車で父が運転し私とイワオちゃんが後ろに乗った。桜川というのっ込み鮒が多く釣れる川である。川沿いに走っていて石か何かで自転車がバウンドしてイワオちゃんは落ちてしまった。父と私は分からずにそのまま行ってしまったのである。釣る場所に着いて後ろを見るとイワオちゃんが居ない。父は慌てた。私も驚いた。急いで自転車で戻ると、途中にイワオちゃんが釣り竿を持ってのんびり歩いてきた。おっとりとした性格のイワオちゃんであった。
子供は動物が好きである。ある時、庭に見知らぬ猫が小さいネズミを咥えていた。網で取ろうとしたがどうしても離さず諦めて逃がしてやったことがある。その後、近所の叔母さんが猫を貰ってくれる所はないかと言うのでどうしても欲しくなって「俺が貰う」と言ってしまった。勿論、母には承諾を得ていない。可愛い子猫であった。叔母さんは家の許可を得ていると思い、後日、私に子猫を手渡した。さて、実際に貰うと困ってしまった。母にはとても言えなかった。父も母も猫はあまり好きではなかった。家の中で飼うのでダニや毛を嫌ったのである。私は近所の原っぱに猫の小屋をダンボールで作り、学校から帰るとせっせと食事を運んだ。給食の残り物である。1週間もするとバレテしまい、叔母さんと母が話し合って結局は引き取ってもらった。そういう事があり、しょんぼりした私はしばらくして犬を飼っても良いと許可された。近所のスピッツが子供を産んだのである。
マリと名前を付けて可愛がった。マリはせいぜいお座りが出来る程度で、飼い主の私に似た怠惰な犬であった。マリを貰った家の隣に原っぱがあり、木が1本立っていた。そこにマリを連れて行き、まだ貰われていない兄弟達と遊ばせた。子犬たちはコロコロして可愛かった。マリは最初は親から離れて夜、よく鳴いた。玄関に入れてダンボールに毛布を入れると鳴かなかった。寂しかったのだろう。躾はあまりしていないので食事中に手を出すと私にも唸った。父が何かの拍子に噛まれたらしく蹴ってマリの様子がおかしくなった。私は母に言われ、獣医の所に「マリが死んじゃう」と泣きながら駈けて行った。
小学3年の頃になると私は近所の年下の子供達に物語を聞かせてやることをしばしばした。最初は石原さん(父の友人でタイ大使館に勤務している人)から教えてもらった「お使い小僧」の話しがキッカケだった。これが子供達に受けて、私は気をよくしてからは母にねだって子供向け絵本を買ってもらいそれを暗記して話すようになった。白雪姫や人魚姫などだが「お使い小僧」ほどは受けなかった。
石原さんは父と同郷(つくば)の人で広大な土地に1軒屋を構えて住んでいた。裕福で当時はほとんど無かった自家用車も所有していた。温厚な人柄で奥さんである叔母さんも気立てが良い人だった。優香ちゃんと茂樹ちゃんという2人の子供がおり、私達兄弟とも仲が良かった。遊びに行くと何時も歓待してくれ、行くのが楽しみであった。石原さんの家では何回か泊まったことがある。庭が広いので、夏などには虫が取り放題だった。そう言えば石原さんの庭では葡萄を作っていた。残暑の厳しい頃に、大粒の葡萄をご馳走になりとても美味であった。小学3年の頃だろうか、私1人で石原さんの家に泊まりに行き、皆でキャンプ旅行をするという計画になっていた。親戚の中学生の女の子が来ておりその子と優香ちゃん、茂樹ちゃん、私と石原さんの5人で出掛けた。途中で食事をしたり、お菓子を買ってくれたりで実に楽しい思い出がある。石原さんが、混浴風呂がキャンプ場にはあるのだと言い、女子達は「嫌だー」と騒いでいたが私は密かに楽しみにしていた。実際にはそんなことは無く、ガッカリしたが口に出す訳にはいかなかった。茂樹ちゃんは私よりも3~4年年上で良く可愛がってくれた。喧嘩が強いらしくたまには脅かされたりしたこともあったが私は好きだった。
石原さんの思い出は、バイクに足を挟んだり、ヘビを自転車で踏みつけたりといった思い出がある。恐らく、石原さんの運転するバイクに乗っていたのだと思う。調子に乗って足をブラブラさせていたらいきなりバイクのスポークに挟んで転倒してしまった。石原さんは大慌てだったが、別に骨折などしていなかった。その時に買ったお菓子を茂樹ちゃんに上げたのを思い出した。石原さんはいつも私や兄には親切であった。
私の家の経済状態は普通で、特に貧乏でも金持ちでもなかった。6畳一間の長屋であったが、当時の日本人の生活レベルはいづれそんなものだろう。
ある時、うちに来たお客さんの駐車した車をいじって動かしてしまったことがある。3輪車で小さい車だった。長屋の脇に停めてあるのを一人で色々遊んでいるうちに徐々に動き出してしまった。あせったが恐らくハンドブレーキか何かを戻したのだろう。途中でようやく止まった。
後、印象に残っている事件にヤクザ達が女の人を殴っているのを皆で遠巻きにして見ていたことがあった。家の近くのイワオちゃんの店の前だった。3人ぐらいのチンピラが知合いなのだろう、女性を殴る蹴るの暴力を振るっていた。彼らは一応手加減はしていたが女性が起き上がるたびに暴力を振るっていた。誰かが警察を呼びに行き、気配を察して逃げて行った。今では決して見られない光景だ。
空き巣が近くの家に入り、玄関に大便を残していった事件があった。昔の泥棒はゲンを担いで盗みに入る家の前で大便をすると捕まらないというジンクスがあったと言う。父はタイ大使館に勤務しており、大使館経由で高価なスコッチやある時はチョコレートなどをしばしば家に持ち帰っていた。ある時は親戚の子が遊びに来た。父がオナラを平気でその子の前でもするので私は嫌であった。父は土・日しか家に帰ってこなかったが、兄弟は殆ど寂しがらなかった。母も居るし、友達も多い。土浦の生活は楽しく自由なものだった。
当時としては希少価値であったテレビを我家で購入した。まだ高価で近所では殆どの家が持っていなかった。父は東京に勤務しており、新しい物好きの所もあったので買ったのであろう。近所の子供らが集まって見に来た。夕飯時にも帰らない子も居たので母が追い返した。坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした頃で、よくその歌が流れていた。ある時、ヘリコプターで地域の紹介をする番組がありそれを見ていた時に兄と喧嘩をした。たまたま、テレビの人形がこらこら兄弟喧嘩をしちゃいけないよ言ったので2人で思わず笑ったことがある。