つくばミチル自分史ブログ

ブログを始めました。最初は、自分史から書いていきたいと思います。

自分史その4

2011-06-30 14:03:33 | 日記
2.土浦時代(5歳から10歳ぐらいまで)その2
 小学校に入学した。教室に入り自分の名前が先生から呼ばれて緊張しながら大きく返事をした。授業で習った最初の国語のさくらの文章や音楽のチューリップの歌が印象に残っている。同級生とも仲良くなったが、一番遊んだのはやはりイワオちゃん、タダシちゃんだった。学校が終わると走って帰り、夕ご飯まで遊び続けた。学校では私はヒョウキンな所がありおどけて皆を笑わせるのが好きだった。クラスで劇をやる練習をしている時に、先生が力を込める感じで山田君やりなさいと言われたので先生の真似をして皆を笑わせた。先生も笑っていた。昼休みなどは校庭で遊んだ。鉄棒に掴まって登って行く遊びは私は不器用であまり上手に登れなかった。登る時には股が擦れて快感を感じる時があり何となく照れくさかった。
 当時、ヘリコプターで商店のチラシをばら撒く事があった。校庭の子供達は皆争うようにしてチラシを掻き集めた。今ならゴミになりさぞ苦情が出ただろう。学校のトイレに足を踏み外したことがある。少し濡れて水道で洗っていると、同級生が「やーい、小便ひっかけた」と囃し立てた。別の生徒が「別にいいじゃん。なあ」と私を慰めてくれた。嬉しかったのを覚えている。
 学校での親しくした友達の記憶はあまり無い。運動が苦手で何となくひ弱な子供だった。ある時、下校時に同じクラスの子に付いて行って、自分の家から反対方向の新川の川沿いの家まで行ったことがある。もう少し、もう少しとその子がごねてとうとう家まで着いてしまい、家に上がりお菓子やお茶をご馳走になった。
 小学校時代はよく漫画を読んだ。貸本屋というものがあり、安価で漫画本を貸してくれるのである。少年サンデーやキング、マガジンは自分の小遣いで買った。それらの本には様々なおまけが付いておりそれも楽しみだった。変装道具というおまけが申し込むと返送してくれる企画があった。申し込みしてからそれが届くのが楽しみだった。毎日、学校で授業中にあれこれ想像し、放課後はそれこそ飛ぶようにして家に帰った。実際に、現物が届いたときはあまりのチャチな作りでがっかりしたが。
 学校の授業はあまり熱心でなかった。私は夢想癖があり、授業中にあれこれ空想するのが好きだった。少年時代にはイジメられたり自ら悪さをしたことが良く覚えている。ある時、年下の子と普段はあまり行かない小山の方の遊び場に行きそこで他校の上級生に難癖を付けられたことがある。年下の子に仲間を呼びに行くよう指示したが上級生に止められ脅かされ、2人共泣きべそになった。その時、コウちゃん(イワオちゃんの兄)ら中学生が2~3人来て、上級生達はひるみ、私達は急に横柄になったのを思い出す。
 ある時こんな事件があった。いつもの原っぱで学校の友達と遊んでいると同校の上級生が近づいて来て、アメリカマッチを見せてくれた。アメリカマッチと言うのは摩擦のある場所なら何所でも火が付けられるというマッチだった。「お前ら、見てろよ」上級生は自慢気にマッチをポケットから出して10円コインをこすって火を付けた。「おお!すげえ、すげえ」私達は驚き、上級生はその反応に満足したようだった。何回かマッチを擦って見せてから上級生は土手にある枯草に火を付けようと言い出した。「芝焼きと言って冬にこれをやるんだ」。ところが火は勢い良く燃え出した。ドンドン火勢が付いて土手の下の方を燃やしていく。下方には1軒のあばら屋が建っていた。私達は焦って、急いで火を消そうとした。しかし、子供達には手が負えないほど火の勢いは強かった。私は川を下り、水を何かに汲もうとして降りて行った。上級生は「逃げるのか、この野郎!」と大声で喚いた。騒ぎを聞いて家の叔母さんが出て来た。彼女は驚いたろう。ボウボウと火が自分の家に迫っているのだ。「こら!何だ、おめえら。何やってるだ」。痩せた貧相なおばさんは顔を真っ赤にして怒鳴り立てた。丁度、その時に警察官が自転車に乗って通りかかり、急いで消火を手伝ってくれた。大人2人が居て、どうにか火は消すことが出来た。警官に事情聴取をされて、私達下級生2人は主犯で無いことを主張した。上級生はこってりと油を絞られ、3人が帰される時に「お前らも学校に刑事が来るぞ」と捨て台詞を吐いた。私達はそんなことはないだろうと思いつつ、急に心配になった。家に帰り、夜、母が縫い物をしているのを見ながら、もし学校に刑事が来て掴まったらどうしようと考えると不安で仕方が無かった。翌日、学校に登校すると昨日の同級生が「刑事は来てねえみてぇだぞ」とニコニコしながら話しかけて来た。私はそれを聞いてようやく安心した。
 ゴム輪事件というのがあった。クラスの女の子が家から輪ゴムを大量に持って来た。私は何かの弾みでそれを盗んでしまった。女の子はシクシク泣き出し、クラスでは泥棒を探し出そうと言う雰囲気になった。騒ぎが大きくなり、私は焦った。ポケットには盗んだ輪ゴムがごっそり入っている。何とかこれを処分しなくてはいけないが、うっかり動けなかった。丁度その時友人がトイレに行くと言うので自分もさり気なく一緒に行った。2人で歩きながら「誰が盗んだんだベなあ」「ひょっとして、お前だったりして」と友人が言ったときはドキッとした。勿論冗談である。用を足して帰り際にトイレの隅にこっそりと盗んだ輪ゴムの束を投げ捨てた。
 結構、ずるい所が自分にはあり、授業でもこんなことがあった。先生が課題を出して「出来た人は家に帰って良い」と言って手を挙げさせた。私は出来ていなかったが皆も手を挙げるだろうと思って手を挙げると私独りしか挙げてなかった。先生は「では山田君だけなので山田君は帰ってよろしい」と言った。今更、出来ていませんとも言えずに私はひとり帰る準備をして教室を出ていった。何となく皆に責められているような気持になり、帰り道も憂鬱だった。勿論、先生も分かっていただろう。 
 通学に関しては家から学校までは子供の足で20分ぐらいかかったろうか。距離にして1キロぐらいだろう。途中には亀城公園があり、その近くの用水路でも小鮒がたくさん取れた。放課後に学校で遊ぶと言う事は無く、寄り道もあまりせず真っ直ぐに家に帰った。遊び仲間はいつもイワオちゃんとタダシちゃんだった。3人が中心になって近所の年下の子供たちが回りにくっついていた。たまに、学校の同級の子と遊ぶこともあるがあまり合わなかった。遠藤という近所にいる子は底意地が悪く、1、2回一緒に遊んだが嫌になってしまった。
 私達3人は夏になるとよくお化け大会を催した。近くの原っぱにお化け屋敷を作るのである。とは言っても粗末なもので、新聞紙や空箱にマジックで書いたり、糸で吊るしたりする程度である。それでも子供達には人気があり、私達は入場券を作って年下の子供らに配ったりした。入場券をなくした子供がいると再発行はしないので、泣く泣く親に作ってもらったりした子供もいた。おずおずとそれを指し出す子供には「なんだあ、これ。俺達の入場券じゃねえべよ」と脅かすが、結局は入れてやる。野球の真似事や西部劇ごっこもやった。野球では、私は中々バットが当たらなかったが、ある時、最後までボールを良く見て振るとヒットになる確率が高いことが分かった。それからは打率がグンと良くなった。これまでは闇雲に振り回していたのである。
 ある時、学校の通学途中で見知らぬお姉さんが私に雀を渡して林の方で逃がして欲しいと頼まれたことがあった。子雀で可愛い小鳥だった。私は約束を破って、うちで飼うことにした。しかし、どうやっても餌を食べずにその雀は2~3日後に死んでしまった。私はえらく反省し、いつもの遊ぶ広場に墓を作り雀に対するお詫び文を書いてその墓に添えた。後で分かった事だが、その様子を見ていたタダシちゃんが私の文章を読んでからかったことがあった。その時はタダシちゃんを憎く思った。
 イワオちゃんの思い出でよく覚えているのは、父と私とイワオちゃんとの3人で釣りに行った時のことである。自転車で父が運転し私とイワオちゃんが後ろに乗った。桜川というのっ込み鮒が多く釣れる川である。川沿いに走っていて石か何かで自転車がバウンドしてイワオちゃんは落ちてしまった。父と私は分からずにそのまま行ってしまったのである。釣る場所に着いて後ろを見るとイワオちゃんが居ない。父は慌てた。私も驚いた。急いで自転車で戻ると、途中にイワオちゃんが釣り竿を持ってのんびり歩いてきた。おっとりとした性格のイワオちゃんであった。
 子供は動物が好きである。ある時、庭に見知らぬ猫が小さいネズミを咥えていた。網で取ろうとしたがどうしても離さず諦めて逃がしてやったことがある。その後、近所の叔母さんが猫を貰ってくれる所はないかと言うのでどうしても欲しくなって「俺が貰う」と言ってしまった。勿論、母には承諾を得ていない。可愛い子猫であった。叔母さんは家の許可を得ていると思い、後日、私に子猫を手渡した。さて、実際に貰うと困ってしまった。母にはとても言えなかった。父も母も猫はあまり好きではなかった。家の中で飼うのでダニや毛を嫌ったのである。私は近所の原っぱに猫の小屋をダンボールで作り、学校から帰るとせっせと食事を運んだ。給食の残り物である。1週間もするとバレテしまい、叔母さんと母が話し合って結局は引き取ってもらった。そういう事があり、しょんぼりした私はしばらくして犬を飼っても良いと許可された。近所のスピッツが子供を産んだのである。
 マリと名前を付けて可愛がった。マリはせいぜいお座りが出来る程度で、飼い主の私に似た怠惰な犬であった。マリを貰った家の隣に原っぱがあり、木が1本立っていた。そこにマリを連れて行き、まだ貰われていない兄弟達と遊ばせた。子犬たちはコロコロして可愛かった。マリは最初は親から離れて夜、よく鳴いた。玄関に入れてダンボールに毛布を入れると鳴かなかった。寂しかったのだろう。躾はあまりしていないので食事中に手を出すと私にも唸った。父が何かの拍子に噛まれたらしく蹴ってマリの様子がおかしくなった。私は母に言われ、獣医の所に「マリが死んじゃう」と泣きながら駈けて行った。
 小学3年の頃になると私は近所の年下の子供達に物語を聞かせてやることをしばしばした。最初は石原さん(父の友人でタイ大使館に勤務している人)から教えてもらった「お使い小僧」の話しがキッカケだった。これが子供達に受けて、私は気をよくしてからは母にねだって子供向け絵本を買ってもらいそれを暗記して話すようになった。白雪姫や人魚姫などだが「お使い小僧」ほどは受けなかった。
 石原さんは父と同郷(つくば)の人で広大な土地に1軒屋を構えて住んでいた。裕福で当時はほとんど無かった自家用車も所有していた。温厚な人柄で奥さんである叔母さんも気立てが良い人だった。優香ちゃんと茂樹ちゃんという2人の子供がおり、私達兄弟とも仲が良かった。遊びに行くと何時も歓待してくれ、行くのが楽しみであった。石原さんの家では何回か泊まったことがある。庭が広いので、夏などには虫が取り放題だった。そう言えば石原さんの庭では葡萄を作っていた。残暑の厳しい頃に、大粒の葡萄をご馳走になりとても美味であった。小学3年の頃だろうか、私1人で石原さんの家に泊まりに行き、皆でキャンプ旅行をするという計画になっていた。親戚の中学生の女の子が来ておりその子と優香ちゃん、茂樹ちゃん、私と石原さんの5人で出掛けた。途中で食事をしたり、お菓子を買ってくれたりで実に楽しい思い出がある。石原さんが、混浴風呂がキャンプ場にはあるのだと言い、女子達は「嫌だー」と騒いでいたが私は密かに楽しみにしていた。実際にはそんなことは無く、ガッカリしたが口に出す訳にはいかなかった。茂樹ちゃんは私よりも3~4年年上で良く可愛がってくれた。喧嘩が強いらしくたまには脅かされたりしたこともあったが私は好きだった。
 石原さんの思い出は、バイクに足を挟んだり、ヘビを自転車で踏みつけたりといった思い出がある。恐らく、石原さんの運転するバイクに乗っていたのだと思う。調子に乗って足をブラブラさせていたらいきなりバイクのスポークに挟んで転倒してしまった。石原さんは大慌てだったが、別に骨折などしていなかった。その時に買ったお菓子を茂樹ちゃんに上げたのを思い出した。石原さんはいつも私や兄には親切であった。
私の家の経済状態は普通で、特に貧乏でも金持ちでもなかった。6畳一間の長屋であったが、当時の日本人の生活レベルはいづれそんなものだろう。
 ある時、うちに来たお客さんの駐車した車をいじって動かしてしまったことがある。3輪車で小さい車だった。長屋の脇に停めてあるのを一人で色々遊んでいるうちに徐々に動き出してしまった。あせったが恐らくハンドブレーキか何かを戻したのだろう。途中でようやく止まった。
後、印象に残っている事件にヤクザ達が女の人を殴っているのを皆で遠巻きにして見ていたことがあった。家の近くのイワオちゃんの店の前だった。3人ぐらいのチンピラが知合いなのだろう、女性を殴る蹴るの暴力を振るっていた。彼らは一応手加減はしていたが女性が起き上がるたびに暴力を振るっていた。誰かが警察を呼びに行き、気配を察して逃げて行った。今では決して見られない光景だ。
 空き巣が近くの家に入り、玄関に大便を残していった事件があった。昔の泥棒はゲンを担いで盗みに入る家の前で大便をすると捕まらないというジンクスがあったと言う。父はタイ大使館に勤務しており、大使館経由で高価なスコッチやある時はチョコレートなどをしばしば家に持ち帰っていた。ある時は親戚の子が遊びに来た。父がオナラを平気でその子の前でもするので私は嫌であった。父は土・日しか家に帰ってこなかったが、兄弟は殆ど寂しがらなかった。母も居るし、友達も多い。土浦の生活は楽しく自由なものだった。
 当時としては希少価値であったテレビを我家で購入した。まだ高価で近所では殆どの家が持っていなかった。父は東京に勤務しており、新しい物好きの所もあったので買ったのであろう。近所の子供らが集まって見に来た。夕飯時にも帰らない子も居たので母が追い返した。坂本九の「上を向いて歩こう」がヒットした頃で、よくその歌が流れていた。ある時、ヘリコプターで地域の紹介をする番組がありそれを見ていた時に兄と喧嘩をした。たまたま、テレビの人形がこらこら兄弟喧嘩をしちゃいけないよ言ったので2人で思わず笑ったことがある。

自分史その3

2011-06-27 17:05:32 | 日記
2.土浦時代(5歳から10歳ぐらいまで)
 一家はつくばから土浦に引越した。何故かは分からぬが父の仕事の関係だろう。兄の勉強の環境を作るということもあったかもしれない。あるいはあの性格のキツイ祖母の所に居るのは母には限界だったのかも知れない。土浦は、つくばに近い地方都市で当時はつくばよりも都会的だった。常磐線という国鉄があり、上野までは1時間ぐらいの距離にあった。最初は田町(土浦市の地名)の叔母さんと言う人の家の近くに部屋を借りて住んだ。そこはすぐ引越して8畳一間の長屋に移った。そこには縁側もありなにより庭が10坪ほどあった。土浦時代の6年間は私の人生にとってまさに少年時代と呼ぶに相応しい思い出が多い時代だった。環境が変わって、幼い私も大いに刺激を受けたのだろう。
 母の思い出で一番印象に残る最初のものは夜に母と見た火事の記憶である。どこかの家の2階であった。夜、母が私を起こして遠く土浦の郊外の方に真っ赤な火花を散らしている火事を見せてくれた。父や兄はその時はいなかった。私は母と2人でいつまでも闇夜に輝く火花を見続けていた。母の思い出はそれが最初である。つくば時代は祖母ばかりの記憶がある。恐らく祖母は子育てでも主権を握り自分なりの采配を振るっていたのだろう。私は子供心にあまり祖母が好きではなかった。自分勝手で人を分け隔てするような冷たいところを感じていた。同じような性格を受け継いだ父もあまり好ましく思っていなかった。母は大好きだった。母はその性格は穏やかで人に対して思いやりがあり善意の人であった。後年、母が亡くなった時に、私の友人達は口をそろえて「叔母さんは本当にやさしい人だった」と語ってくれた。
 私は土浦で幼稚園に入った。そのころから人に媚びる所がある私は幼稚園でのいじめっ子にも愛想をよくして可愛がられ上手く集団に溶け込むことが出来た。幼稚園・小学校・中学校と転校するたびに先々で集団に受け入れられるよう自然に処世術が身に付いていったのだろう。
 田町の叔母さんは遠い親戚とのことだった。駄菓子屋を持っていて私達兄弟はよく遊びに行った。店の近くで悪ガキが私に石をぶつけた時は血相を変えて悪ガキを怒って私を庇ってくれた。よく「ミチルが高校に入ったら1万円をお祝いにやるからな」と言ってくれた。残念ながら私が中学1年の頃(その頃一家は清瀬(東京のはずれ)に住んでいた)に叔母さんは亡くなった。病院に両親と見舞いに行ったが、あまり具合が良さそうではなかった。私が「田町の叔母ちゃん」と呼びかけると薄く眼を空けて「ああ、ミチルか。ありがとうよ」と言ってくれた。叔母さんは独りで店に住んでいて、2階は人に貸したりしていた。ある時、兄と夜、2階に上がるとテレビが付いておりたまたま怪談物を放送していた。私と兄は叫びながら二人して争うように階段を駆け下りた。店には子供用の駄菓子が所狭しと置いてありどれも魅力一杯だった。特にクジ付きのお菓子が人気があった。ある時、私は店の土間の所に落ちている2等の当たりクジを見つけた。そこで叔母さんにクジをやると言って金を支払い破った所の空クジと取り替えて叔母さんに見せた。ドキドキしていると、叔母さんは「さっきの2等を拾って騙そうとしては駄目だ」と私をたしなめた。すっかりばれていたのだ。
 幼稚園の時か小学校低学年かは定かでは無いが、よく土浦の近くを遠足したのを覚えている。先生が引率して晴れた日に小川や田圃に連れて行ってくれた。お弁当は母手作りの卵焼きと海苔の弁当である。たまにウインナーが入っていることがあったがいずれも大好物である。当時、卵は生卵でも焼いても好きだった。昔は卵は麦わらの中に入れて店で売っていた。私は良く母に言われて卵を買いに行った。店の叔母さんが生卵は鼻汁のようで気味が悪いと言っていたのを今でも覚えている。何気ない言葉だが罪な言葉だ。お陰で、私は今でも生卵をご飯にかけて食べるのをためらう。お使いは、コロッケもよく買いに行った。亀城公園(土浦城の跡地)の近くのコロッケ屋か新川(市内を流れる川)を越えた鉄道線路の向こう側の店のコロッケが旨かった。昔のコロッケは何故あんなに美味しかったのだろう。小川は土浦駅の線路の近くにあり、小鮒が沢山泳いでいた。
 長屋に住んでからは東京に越すまでずっとそこに居た。二棟続きでもうひとつのほうは庭が無かった。あまりよく覚えていないが隣の住人とはそれほど親しくはしていなかったと思う。私より年が2~3歳下の子供がいたがそいつとはよく他の子供と一緒に遊んでやった。その母になる叔母さんはキツネのような顔をした陰気な人で、私が東京に越してから土浦に遊びに来た時、私を見ても避けるように通り過ぎようとしたのでわざとコンニチワオバサンと元気よく挨拶したことがある。彼女はその時初めて私に気づいたような振りをして「あら、ミチルちゃんこんにちは」と小さな声で返事をしてそそくさと行ってしまった。何故かそんなことが記憶に鮮明に残っている。
 自分ではおぼろげだが後年父母に聞いて思い出す話が2~3ある。ひとつは、映画館での立回りの話しだ。幼い私はちゃんばらゴッコが好きでよく棒切れを振り回しては一人で遊んでいたと言う。ある時、父と土浦の映画館に時代劇を見に行った。映画の中で活劇が始まると最前列に居た私はのこのこ階段を上がりスクリーンの悪役におもちゃの刀(丁度その時に持っていたらしい)で切りつけたと言う。観客は爆笑しやんやの拍手だったらしい。父の狼狽が偲ばれる。現代ならば、ブーイングものだが、当時の大人は子供には大らかであった。後、よく母が話す内容で私がバスに乗り「くしゃい、くしゃい、くしゃいなあこのバスは」と大声でわめく場面があったらしい。当時のバスは床が木で出来ており油の臭いがしたのである。私自身はよく覚えていない。バスと言えば、当時、土浦には母の実弟である浩二叔父さんが関東バスに勤務していた。巡回バスの運転手をしており、たまに私を見つけては只でバスに乗せてくれた。その上、「ミチル、家まで送ってやろう」と言って、路線を外れて長屋の近くまで送ってくれた。今では考えられないほどのんびりした時代だった。
 土浦時代の一番の友達はイワオちゃんとタダシちゃんである。いずれも1歳年上のお兄ちゃんであった。イワオちゃんは佐々木イワオと言い、家族は私達の長屋の道路を隔てた一角に雑貨屋のような店を構えていた。3人兄弟で兄がコウちゃん、弟はユウちゃんが居た。兄のコウちゃんは私の兄と同年代で同じように友達になった。両親である叔父さんも叔母さんも気持ちの良い人達で開放的でザックバランな人達だった。よくお互いの家に行き来したものである。タダシちゃんは当時としては塀のある立派な家に住んでいた。何回か家や庭を見せてもらったが日本家屋の家だった。タダシちゃんはその家に相応しく坊ちゃん坊ちゃんした少年だった。穏やかで頭の良さそうな子供だった。その2人以外にも親しくした子供達はいたが名前は覚えていない。
 私とイワオちゃん、タダシちゃんの3人で子供達の中心になって遊んだものだ。遊びはビー玉、メンコ、隠れんぼ、缶蹴り、など昔の懐かしい遊びだ。ビー玉やメンコは夢中になった。お気に入りの玉やメンコを色々な遊び方でお互いに取合うのである。ある時、大切にしていたメンコがごっそり無くなっていた。子供の1人が同じ物を持っており抗議したがシラを切られた。自分も模型の飛行機か何かを盗んだ記憶がある。その時は母にお尻をえらくぶたれた。ワンワン泣きながら謝っているとタダシちゃんが様子を見に来たのが印象的だった。タダシちゃんとは弓矢の遊びをしていて私の眼に当たったことがあった。母が心配して病院に連れていった。瞳を外れているので失明はしないとのことだった。後ほど、タダシちゃんのお母さんがタダシちゃんと一緒に謝りに来た。
 当時は自然も多く、子供達には遊びの宝庫だった。小川にはクチボソと私達が呼んだ綺麗な小魚がキラキラと鱗をはためかせながら泳いでいた。原っぱには地蜂が餌の芋虫を穴の中に運んでいるのを見つけて何分も眺めていた。土手の土が剥き出しになった所は粘土が採れた。夏には蜻蛉やチョウチョを捕った。特に鬼ヤンマや銀ヤンマは私達子供にとっては憧れの昆虫だった。中々普通の網では捕れず、竹の棒の先に専用のトリモチを付けて捕った。ただトリモチを使うと虫にモチが付いてしまい、完全な形では保存が出来なかったのが難点だった。当時はカーバイトという水に付けるとモクモクと白い煙を出す石のようなものを売っていた。また花火の一種でヘビ花火と呼んだ火を付けると花火自体が膨れ上がるものもあった。よくそれらでふざけて遊んだものだ。また、今はほとんど見かけない紙芝居や細工飴などが子供の楽しみとしてあった。10円や20円くらいだろう。近くの神社に紙芝居屋が来ると子供達は大勢集まった。細工飴は様々の色の付いた飴を細工して動物や人形の形にするのである。魅力的で甘美なお菓子であった。10円で買った切り口の入った煎餅のような菓子を上手に切り口に沿って取るのである。上手く取れると代わりに飴が貰えた。衛生的には誉められたものではないがその時代はそれほど神経症的な衛生観念は無かった。家の近くには蓮の池があり例年綺麗な花を咲かせた。蓮の葉は水をはじくようになっており、よく急な雨の時などは傘代わりにしたものだ。
 小学校に入る前の頃だった。友達が家の近くの神社の隣に有るソロバン塾に入ってしまい、私はその時間は彼等と遊ぶことが出来なかった。それでソロバン塾の近くで独り待っていた。先生の「願いましては……」の声が聞こえて私も鉄棒らしきものに掴まりグルグル回りながら「願いましてはぁー」と叫び続けた。窓が空き、メガネを掛けた先生と塾の子供たちがこちらを見ていた。先生は優しく私を呼びかけ、塾生と一緒にソロバンを教えてくれた。しばらくして母にねだり私もソロバン塾に通うことになった。先生は優しく、私は二級くらい取っただろうか。母は良く「ミチルはソロバンを習うようになってから字が汚くなった」とその後何回か口にした。先生に指にマニュキアをしてもらったことがある。薬指1本だが指がきらきら光って嬉しかった。母に自慢したらそんなことをしてと軽くたしなめられた。ソロバン塾でよく一緒になる女の子がいた。性格の良さそうな丸顔の子だった。ある時、何かの拍子で喧嘩になり私は平手で彼女の頬を叩いてしまった。私はビックリし彼女も驚いていた。それでも彼女は泣かず、私のほうが動揺していた。小学校に入り、たまに彼女の方から声を掛けてきたが私は何となく恥ずかしくてそそくさと避けてしまった。

自分史その2

2011-06-27 09:44:02 | 日記
1.筑波時代(0歳から4歳ぐらいまで)その2
 さて、私のつくば時代である。4歳ぐらいまでいたが、思い出はぼんやりしている。記憶を辿りながら書いてみたい。ある時、つくばの家で私が泣きながら2階の階段を降りていった。恐らく、お昼寝をして起きた時に母が居なかったのだろう。コタツに入っていた兄がイキナリ「あちっ、あちっ、あちっちちちー!」と大声で喚きながら部屋中を駈け回った。見ると寝巻きの尻に火が付いている。当時の掘り炬燵は炭火であった。寝ながら本を読み、寝巻きの裾に火が付いたのであろう。兄は家中を駈け回り、消火用水の桶に飛び込んだ。家人は何れもビックリし、私は泣くのも忘れてあっけに取られていた。兄は水桶からびしょぬれになって半ベソをかいていた。印象に残っている最初の出来事である。
 私の兄は耕作といい、性格は温厚で頭脳明晰な長男だった。子供時代は好奇心が強く、よく、痛い目を見ていたような記憶がある。花火のことを思い出した。母はよく花火の扱いを私達子供に注意した。それは大きくなってからも必ず同じことを何度も注意する。私達が小さい時に花火で遊んでいて、火が消えたと思って兄が花火の先端を覗いた所、いきなり火が飛び出してあやうく眼を痛めそうになったことがあるからだ。私は親となって自分の子供達が花火遊びをする時には母のことを思いだしいつも同じ注意をする。
 カスミ網で兄がからまったこともあった。当時は、まだカスミ網は禁じられておらず、父はよく網でメジロやウグイスを捕まえていた。それを日ごろから見ていた兄は、「おい、ミチル(私の名前はミチルと言った)。カスミ網で鳥さ捕まえにいくべ」と私を誘った。物置からこっそりカスミ網を持ち出し、近くの森に仕掛けに行った。しかし、網は子供にはかなり大きいもので仕掛けるのには大変だった。兄は弟に命令しながら四方に仕掛けていこうとするのだが、中々うまくいかずしまいには兄の体に絡みついていきとうとう兄は身動きが取れなくなってしまった。カスミ網は目が繊細で破いたりしたら父に怒られるのは分かったいるので切ることもできない。「ミチル、早く、その結び目をはずしてくれ」と弟に叱責するのだが幼い私はどうする事も出来ずにとうとう兄は芋虫のようにカスミ網に完全に捉えられてしまった。「母ちゃんに知らせにいくべ」私は半ベソをかきながら兄に訴えた。「駄目だ。父ちゃんに怒られっぺよ。何とかするからおめえは家に帰ってろ」。弟の手前、強気な兄だった。私はしばらく兄がもがいているのを横目で見ながら側にいたが、やがて飽きてきて、家に帰ってしまった。夕餉のときになり、祖母や母が兄のことを私に聞き、仕方なく、白状した。家人達が森に行った時には兄はやぶ蚊にに刺されながら悪戦苦闘していた。
 父は当時空気銃を何丁か持っていてよく庭に空き缶を置いて射撃の練習をしていた。空気銃の弾は小さな丸薬ほどの大きさで人に当ててもさほどの殺傷力は無い。それでも当たり所(目や喉)が悪かったら致命傷になるだろう。私はよく空き缶を目掛けて空気銃を父に打たせてもらった。命中率は銃そのものが悪く、狙ってもあまり当たらなかった。ある時、父と鳥を撃ちに行き近くの電線に停まっている雀を狙って父は何発も撃ったが全然当たらず雀も逃げもしなかった。コジキという鳩程度の大きさの鳥を竹林などに見つけ撃とうとしたが気配を察するとすぐ逃げられてしまい一羽も捕まえられなかった。父は、「俺は戦争時代には狙撃の名手だった。」などと言っていたが子供心にもそれを怪しんだ。
 つくばの家は村の表通りに面していて下水掘りによく水が流れていた。当時はまだ洗剤や化学薬品などもなく下水道の水も綺麗であった。子供達はその下水道でしばしば水遊びをした。初夏のころなどは水が冷たく爽やかな遊びであった。私は近所の女の子によくオンブをしてもらっていたらしい。しかし、その子は私の尻をたびたびつねり、私はその子が来るたびに大声で泣いていたと父母は言っていた。後、覚えていることに子供達の失踪事件がある。4~5人で連れ立って1人の子の知人の家に行ってしまったのである。4歳から6歳ぐらいの子供達であったろう。田舎なので車も無く遠出してもさほど危険はない。「おらの親戚の家にいくべえ。草餅を食わせてくれっど。」子供達には魅惑的な提案だった。距離にしては大したことは無かったろうがそれでも3~4時間はかかったであろう。皆でして歩き続け、その家に着いた頃には夕方になっていた。村中で大騒ぎになっていたころ、私達は草餅をその家で食べていた。次の日、祖母が家の前をオートバイのパレードが通り過ぎるの一緒に見ながら「あれはお前らゴジャッペらを捜しに行く人達だ」と脅したのを恐れながら聞いていた。
 つくばの家の庭は30坪ほどで当時はニワトリを数羽飼っていた。私は朝食の卵を取りに行く役目だった。親鳥がコッコッコッと威嚇するのを退かしながらその日の産み立ての卵を取るのである。卵は幼い私の片手で掴めるほどの大きさで小粒だったような気がする。産み立ての卵はホカホカと暖かかった。卵が生めなくなったり、雄ニワトリだと首を絞めて殺した。ある時、ニワトリの首を包丁で切って離すと鳥は首無しのまましばらくは歩き続けた。その記憶は鮮明に覚えている。
 田舎では正月になると餅つきをやった。父がついた餅を母や祖母が丸めて新聞紙に並べるのである。おこぼれを兄や私は貰い食べたがホクホクして甘く美味であった。餅は正月用の御供えにしたりお雑煮にした。オハギもよく食べた記憶があるから正月以外にも餅つきは行われたのだろう。卵と餅はつくば時代の思い出の食物である。
 秋にはキノコ取りに行った。椎茸やシメジなどが採れるが私が好物なのはホウキタケと地元では呼ばれる文字通りホウキの先端を思わせるキノコであった。炒めてもお吸い物でもシコシコした歯ごたえがあって好きだった。キノコは特に松茸などは当時でも簡単には見つからず誰しも自分なりの秘密の穴場を隠し持っていた。ある時父と2人でキノコ採りに出掛け松茸の群生地を見つけた。たまたま同じキノコ採りの人が近づいて来て私達に話しかけた。「どうだや、見つかったけぇ」「いんやあ、全然だめだぁ」父はさり気なく枯葉を被せて場所を隠し人が行き過ぎるのを待った。そういった場所が見つかると私達は他人には分かりにくい目印を近くの木に付けて再び来るときに迷わない工夫をするのであった。
 夏休みは子供達にとって自然は最高の遊び場だった。当時はかぶと虫でもクワガタ虫でもたくさん捕れた。朝、早くお目当ての森のクヌギの木に行くのである。そうすると大体固まって虫たちが樹木の汁を吸っている。一網打尽だった。つくばの家ではプラモデルをさわったり漫画や絵本を読んだ記憶がある。プラモデルは多分私の兄が作ったのだろう。手先の器用な兄だった。漫画はロボット三等兵とか赤胴鈴之介だった。絵本ではアラビアンナイトのような気がする。シンドバットが色々な冒険をするのが楽しかった。ひとつアラビアンナイトの物語だと思うのだが無気味な話の内容があった気がする。中身は忘れたがその不気味さは今でも記憶に残っている。
 つくば時代の家族は、祖母と母・兄と私、(父は平日は東京におり休日に帰っていた)、それと一時期、叔母がいた記憶がある。私が3歳か4歳の頃の写真に祖母と叔母が写っている。叔母は父の妹だと思う。1度嫁いだのだが、結核を患い実家に戻っていた。つくばの家を道路側から正面に見るとびわの木(そのびわは父が買ってきた、びあの種を私が植えて大きくなったものだ)が左側に植えられているがその角部屋に叔母は居た。いつの間にかいなくなったが恐らく亡くなったのだろう。写真では綺麗な人だった。一家で食事をする時は4.5畳ぐらいの部屋でテーブルを囲んで食事をした。田舎の家は土間があり部屋が壁で区切られておらず広々としていた。数少ない幼いころの写真を見ると私はいつもこ汚い半纏を着て鼻汁を垂らしていた。今はどんな田舎に行ってもそんな格好の子供は見付けることは出来ないだろう。微かな記憶の片隅に土浦の母の生家らしき所に行った思い出がある。小さな店で反物や煙草を扱っていたような気がする。本当に微かな思い出である。私は、4歳ぐらいまでこのつくばの家で暮らしていた。

はじめまして、ブログ初心者です

2011-06-26 12:20:32 | 日記
ブログを始めます。当方、58歳、もうすぐ59歳になります。今は無職で(これからも予定はありません)日々を持て余していますので、ふと、思いついて、これまでの自分の人生を振り返って、自分史なるものをつれづれに書いてみたいと思います。どこまで、書けるかわかりません。取り立てて面白い半生でもないので見てくれる人もそういないでしょう。名前や地名は実際とは異なります。それでは、はじまり・はじまり。

1.筑波時代(0歳から4歳ぐらいまで)
 私が生まれたのは1952年で2011年の現在から約半世紀前以上の年だった。当時はまだ戦争後の雰囲気もあったのだろうが、茨城県の筑波の田舎に生まれた私にはあまり戦争後を感じさせる記憶は残っていない。生家は茨城県つくばでいまでも草深い田舎である。
 最初の思いでは、蚊帳の中を思い出す。母が何時も側に居てくれた記憶がある。木目の細かい肌触りの蚊帳は何となく樟脳の匂いがした。樟脳の匂いは懐かしい母の匂いでもあった。父は当時は東京の赤坂にあるタイ大使館に勤務していて、赤坂の方に単身赴任していた。つくばからは3時間は通勤にかかるであろう。とても毎日は通勤できない距離だった。父は土曜・日曜に田舎に帰っていた。実は父には女がいた。それを私達が知ったのは父が亡くなった後のことだ。母は恐らく昔から知っていたのだと思う。それでも私達子供にはいつも優しい母であった。優しい母の心根を思うと父が憎くなるが父はその性格的な面から凡そ一般のモラルについては、他人には強要する割にはだらしない所があった。  つくばの家は山田家の実家であり、祖母が一緒に住んでいた。祖母の家は山田家の分家に当たり、本家から歩いて5分ぐらいの所に分家である私達の家があった。祖父の記憶は殆ど無い。写真などでは小さい時に見た事があるが、私が生まれた時に生きていたのかさえ分からない。祖母は私が24歳ぐらいまで生きた。性格のきつい人で父に似ていた。穏やかな母は同じようなきつい性格の祖母と父に挟まれて大変だったろう。私や兄がひねくれずにどうにか社会の中でこうして人並みに生活できているのも、母の限りない菩薩のような愛情があったからだと改めて思う。
 父に関して書いておこう。父は私が46歳の時に84歳で亡くなった。計算すると1914年の生まれになる。最も、父は近年は会いに行くたびに自分の年を割増して話していたから正確な年令は私も覚えていない。父の生家はつくばの家である。父の姉である人が嫁いだ所が商売人であった。主に東南アジアだが海外にも支店があったようだ。 
 10代後半の頃、義兄が自分の店を手伝うように誘ったらしい。「竹ちゃん(父の名前は竹雄と言った)。内の仕事を手伝わねえか」「どんな仕事だベ」「タイだ」「タイ!」「そうだ。これからは商売は海外だ。特に東南アジアはドンドン発展する。とは言っても信頼できる身内でないと最初は心配だ。竹ちゃんが良かったらオラの仕事を手伝ってくれ。」父は元来、田舎者には似つかわしくない新進気鋭の性格があった。喜んで一人20歳前にタイに渡ったのである。今で言えば、月に行くほどの事情だったろう。そんな無謀をよく母である祖母が許したと不思議である。タイの店の写真を父が亡くなる前に何回か見せてもらった。店といっても、倉庫のような所に所狭しと雑然と商品が並んでいる。品物は雑貨一般であった。
 どんな仕事をそこでしたのかは分からないが、時は、日本軍国主義が中国・東南アジアに勢力を拡大していた時代だった。太平洋戦争が直ぐに始まり、日本全土が臨戦体制に突入していった。タイでは父はそのまま現地で軍隊に徴集されたらしい。最も、正規の日本国軍人ではなく医療班のような部隊に配属されていたようだ。よく父は、俺は軍人年金をきちんと貰えなかった、とぼやいていた。戦争当初はそれほど戦況が切迫していなかったらしく、父には良い日々だったようだ。タイの官舎を占拠して、車を乗り回し、愛人も何人か居たようだ。後年、大使館の勤続功労でタイに行った時に、女性の居た場所にも訪れたらしい。勿論、消息は分からなかったろう。さすがに、その頃の艶聞を息子に話すには照れがあったろうが、会話の合間合間にそういった内容を伺わせた。
 良く聞いた話は、ジャングルの話だ。戦況が悪化して日本軍は徐々に撤退を余儀なくされた。都市部から撤退し、ジャングルへとゲリラ戦になっていったのである。父の話だと何千人も居た自分の部隊が結局は何十人しか生き残らなかったと言う凄まじさだったらしい。何ヶ月もジャングルの沼地の中を這い回り、生き延びたのである。ヒルなどが全身にへばりつき、マラリアにもなったという。大蛇などは貴重な蛋白源ですぐ捕獲して食べたらしい。
 虎狩りの話も聞いた。「おい、山田。虎を退治しに行こう。」狙撃兵の仲間が父を誘った。人食い虎が人間に悪さをしているので困っていた。山羊を木につないで、離れた木の上に囲いを作りそこで虎を待った。何日か経ち、いよいよ虎がやって来た。山羊がメエメエ悲しげな声を出す。狙撃兵は1発で倒した。父は感心したらしい。
 ある時は、上官が明日は敵軍に奇襲をかけると指示を出した。米軍(と思うが)のキャンプ地に深夜奇襲をかけた。父は正規の訓練を受けていないので勝手が分からなかったらしい。ワーと喚きながら、それでも鉄砲を抱きしめ第1の地点に身を潜めた。何人かと一緒に進んだのである。次に、進もうとして隣の仲間に声をかけたが返事が無い。よく見ると仲間の額に穴があいていた。なかなかに迫力のある話であった。
 戦況が更に進むと、父の所属する部隊は数十人になってしまった。その頃はもう、戦うと言うよりはただ逃げ回る毎日だった。ジャングルの奥へ奥へと進むと、今まで文明人と会ったことも無いような土人の部族と出会った。いきなり彼らは槍で攻めてきたが、こちらは職業軍人である。たちまち、銃の集注砲火を浴びせ大勢倒した。土人達はあっけに取られて降伏したとのことである。そうして何年間もジュングルの中で父達は生き延びたのである。
 父が気にしてたびたび口にしていたのは、捕虜のアメリカ人のことだった。父は戦争が始まる前からタイにいたため、タイ語と英語が話せた。そこで捕虜になったアメリカ人の通訳の担当になった。一緒にジャングルをさ迷っていると、自ずと気心が知れてくる。相手は父に色々と世間話をして、戦争が終わったら、自分の国アメリカに遊びに来いとまで言っていたらしい。農園の息子らしかった。その捕虜を処刑する時が来た。父は自分が立会うのが出来ずに、病気と称して寝ていたらしい。もっとも、そのことが結果的に父に幸運をもたらせた。後に、連合軍による戦判が始まり、次々と東京裁判により軍人達が処罰されていったが、父はからくも免れることになった。もし、先の捕虜の処刑に参加していたら他の者の証言により父も死刑になったであろう。戦争が終り、大量の引揚げ者と一緒に父は日本に帰った。租母には4人の子供が居たが、男子は父と弟で、弟の方は既に戦死していた。長女である姉と妹は嫁いで家には居ない。当然、父も戦死したと思っていただろう。突然、つくばに父が帰って来たときは、祖母は泣きながら父を何度も叩いたと言う。
 家に帰ってからは、色々と商売らしきことをしたらしい。パチンコ屋や呉服屋のようなこともしたと言っていた。あまり、商売人としての才覚は無く、全て中途半端だったようだ。母と結婚してからは、母が手ずるで郷里のつくばにいる石原さんと言う人に頼んで、父の就職を依頼した。石原さんは世話好きな気持ちの良い人でタイ大使館に勤務しており、同じ職場を紹介してくれた。

一回目はここで終了です。