単独行の山歩き(yamakuma)

「一人は危険」と言われながら、一緒に行ってくれる人がなくいつのまにか単独行が身についてしまいました。

遭難体験記

2009-12-31 | インポート

 私の遭難体験をご紹介いたします。                          トップページ

 30歳代後半の頃の話です。まだ、山の経験も浅いころ、和歌山県にある大塔山というところで下山路が見つからず、一晩夜明かしをした時の話です。

 友人と、本州最南端の潮岬で初日の出を見ようと大晦日から泊り込み、宴会をして、仮眠後、ご来光を拝みました。その後、友人は釣り、私は奈良県の十津川温泉に行きたい、ということで別れ、車で移動、途中、以前別の友人と通った国道229号線で、大塔山の登山口の標識を見ていたので、そこに至った時には迷うことなく登ってみようと準備を始めた。

 その後思い出したのですが、標識には「大塔山往復4時間」と書いてありました。これが「行こう」と判断した大きな要因です。

 そのときすでに12時を過ぎていた。まず、それが過ちの始まりでした。出発は13:00 を過ぎていたと思います。立派な標識の横からしっかり整備された道に入り、しばらく行くと川があったが橋がなく、川を靴のまま渡渉。これが二つ目の失敗。

 すぐ、尾根に取り付く階段があり、登っていくうちに階段がなくなったが、登れないほどではなく、どんどん登った。そのうち道は細くなり、薄い踏み跡になり、終には道がなくなったきた。しかし、登れないことはなく(なまじの経験があるから、登れる)、ここまで来たのだから行って見たい、と尾根まで登りきった。

 15:15 そこには立派な登山道があり、地図(国土地理院の1/25000)に従い、頂上を目指し、15:40 大塔山に至った。周りにはうっすらと雪が覆っていた。すぐ、引き返し、尾根道から登ってきた道を探し、目印にしていた、草と小枝を折ったところから下山し始めたが、どこを登ってきたか、まったく踏み跡もなく、仕方なく自分の思う方角を下ったのであるが、断崖絶壁というべきところに至りました。

 まったく「万事窮す」の心境で、混乱というか困惑というか、どうすればいいか、どうしよう、なぜこうなったのか、何もできない、何の判断もできない状況になりました。今は冷静に書いていますが、実際は頭に血が上るというか、表現できないうろたえた感じになりました。

 山セット(ナイフ・磁石・ホイッスル)に入れていたホイッスルを取り出して、思いっきり吹き鳴らし、大声で「誰か助けてくれ」と叫んでみたが、誰も応答するはずもなく、それもそのはず、元旦の夕方に、こんな山の中に人がいるはずもなく、まして、登山しようという具体的な計画もしていなかったから、計画書を提出していなかったし、家族の誰にも言っていないので、私がここにいることは誰にも知られることはない。まして、登山道から外れているので、下手をすると死体すら発見されないかもしれない。そう思うとますます恐怖感に捉われる。

 このとき、時計が17:30 をさしていた思います。いずれにしても、周りは薄暗く、これから動くのは危険と判断。ヤマケイか何かの本に「道迷いと感じたときは腰を下ろし、まず一服して落ち着いてから次のことを考えろ」という記事がありましたが、それを読んだのはそれから後のことでした。それでも、もうどうにもならない、できない、ということを自覚し、じたばたしても仕方ない。このとき思い出したのは、新田次郎氏の小説「孤高の人」でした。

 主人公の加藤文太郎氏は体力のあるうちに寝て休息し、体力を温存する。疲労困憊しなければ凍死することはない、と雪山でも実行されていた、という記述です。詳細は覚えていませんが、概ねそんな内容だったと思います。私のこの状況ではそれを実行するしかないと思い、腰を落ち着け、ザックの中からカッパ(ゴアテックス)を取り出して着る、背当てにしていた発泡断熱マットを下に敷き、ザックの中身を確認。

 水筒には「チャポ、チャポ」というくらいのお茶と、ビスケット一袋しかない。仕方ないので、食べれるだけ食べ、水筒は最後のお茶だけ(末期の水になるかも知れない、と思い)残し、一口含む。これからどうしようか、という不安がすぐ頭に浮かぶ。しかし、考えても仕方ない、加藤文太郎氏を見習い、何も考えずに寝れるうちに寝ようと横になる。そこは断崖の上で、木の枝に枯葉や土が積もったようなところでちょうど一人が横になれる広さで、ふわふわしていたのでなんとなくうとうとしてきた。

 はっと、気がつくと雨が降ってきた。冷たい水がピチャピチャと降りかかる。泣きっ面にハチとはこういうことかと起き上がる。時計を見ると20:00を少し回っていた。それでも2時間くらいは寝たと慰める。あたりは真っ暗で何も見えない。雨はしばらくするとやんだが、それからは横になっても寝れない。だんだん寒さを感じ始め横にもなれなくなってきた。

 それからの夜の長さ、寒さ、辛さは延々と続く。加えて、心の葛藤が辛かった。というのは、無事朝を迎えても、道がわかるか、誰にも言わずに来たから、計画書も提出していなかったから救助が来ることは有り得ない。そんなことをぐるぐるなんども繰り返し頭の中え考え続け、このまま最悪の事態を迎えるのか、と恐怖を感じ始めた。

 そんなとき、背後で「バキ」という音が響き、ヘッドランプの明かりをつけてみるが何も見えない。何がいるのかわからないが、何かいる。しばらく闇をにらみ続けたが緊張が続かず、どうせ襲ってきてもどうしようもない、とあきらめた。幸い、何もなかったが、恐怖感はある。おそらく鹿ではないかと想像する。その後も、なにか気配はあるが特に何事も起こらない。

 寒いことと時間の立つのが遅い。24:00になかなかならない。しかし、24:00をまわると寒さが厳しくなる。そんな中、心の葛藤は続く。家族や仕事のことを思い出す。何も言ってこなかったから心配しているだろう、とか、いや、何も言っていないのだから、まだ、何も知らない。最悪の事態になって何日も帰ってこない、ということになってから騒ぎになるだろう。そのときは自分はこの世にいないかも知れない、などなど。

 イヤな上司や優しい上司、気の会う同僚・友人の顔や、遣り残しの仕事のこと、果ては机の中のことまではっきりと思い出す。明け方が近づくにつれて、寒さがイタイに変わってきた。特に、登りで渡渉したときに、靴のまま水に入ったことが裏目に出て、冷たいではなく、痛い。足を手でさするが、どうしようもなく痛い。凍傷になるときはこんなかな、と思うが、じっとしていられないくらいに痛い。

 もう動き出そうかとも思うが、暗い中を動いてさらに現在位置を失うのが怖くて、ひたすら我慢。昨日登って来た細尾根を思い出し、あそこに行けば下山できると思うが、そこがわからなければ体力を無駄に消耗して再び夜を迎えることになれば、そのときは本当に生きて帰れない、など考える。

 夜明け前が暗くて寒い、とよく言うが、本当にそうだと実感した。4:00~6:00 この時間帯が一番寒く、もうどうしようもない。よくTVのコントなどの遭難シーンで「寝るな」などと言うが、寝れるものではない。冬山で、意識朦朧で眠りに入るのは、体力消耗して意識を失い、温度の感覚を失っているのだと思う。

 6:00を過ぎると、なんとなくうっすらと白み始め、明るさを感じ始めると、助かるかも知れないという思いもあるのか、やや寒さも緩むように感じた。実際明るくなるにつれ寒さも和らいできた。
 7:20 動きだす。とりあえず、尾根を目指して登る。

 8:20 尾根に出ると、はっきりとした登山道があり、どちらに行けばいいか迷うが、頂上に行っても仕方ないので、反対側に行く。持ってきた地図はこういうことを想定していないので、途中までしかなく、この道を行くとどこに出るかわからない。しかし、もう一度登って来た道を探して下り、体力を消耗するのは怖い。これぐらい大きい道なら、何処かにつながっていると思って歩き始める。

 尾根道は歩きやすく、どんどん進む。どれくらい歩いたかはっきりとは覚えていないが、ようやく道路が下に見えた。下りていくとトンネルの出入り口の横に出た。これで助かった、帰れるとほっとした。どっちに進めばいいか迷ったが、昨日からの位置関係からトンネルに入らず、下って行った。

 舗装路を歩いていると上のほうでなにやら騒がしい。上を見ると猿の群れである。数十匹いる。尾根道を歩いているときから何か気配は感じていたが、こんなに猿が群れでいるとは思わなかった。しかし、恐怖は感じなかった。襲ってくるというより見守ってくれていた、という気がする。

 しかし、これで本当に帰れるとほっとしてしながら11:30 我が愛車に戻り、とりあえず食事を作って人心地ついた。その後、十津川温泉の西川出合(当時、無料の温泉風呂があり、キャンプもできた)に移動して一泊後、岐路に着いた。

 以上が遭難顛末記です。この後1年位は山から遠ざかっていました。さすがに山に入るのが怖く、2度と山に行きたくないと思いました。もちろん家族にも一切話さず、帰った時は、さも楽しい正月を過ごしてきたかのような顔をしていました。山に行かせてもらえなくなるというより、そんな失敗をしたことが精神的なダメージになっていたように思います。

 それくらい懲りていたのに、また、山に行きだしたというのはよほど山が好きなのかと思いますが、それでも冬には行かないようになりました。

 今回、長々と書かせていただいたのは、私が「孤高の人」を読んでいたことがずいぶん参考になったこと、また遭難の記事や、体験談を読んでおくことが、遭難しないための参考になることと、遭難したときに最悪の事態を避けるサバイバルの知恵になれば思い、書かせていただいた次第です。

 実際、精神的な恐怖感や、失敗したという自身の悔恨の思いが、夜明かしの際のストレスになりました。自力下山できたから良かったものの、できなければ、2日目の夜に耐えられたか自信はありません。その後、ニュースなどで遭難の報に接するたびに、状況はそれぞれ異なるが、何日もして救助された人は精神的に強い人だと思います。

 

 今回の遭難で良かった点、悪かった点を私なりにまとめてみました。

<悪い点> 
①出発が遅い。早出、早着きは原則。 
②計画書を提出していない。そもそも計画自体がなかった。 
③服装がまずい。靴下・下着が綿で登山用の速乾性の物ではなかった。 
④尾根で道がなくなった時点で引き返すべき。
 行くなら、きちんとした装備と、時間に余裕が必要。

<良かった点> 
①やはり「孤高の人」を読んでいたこと。 
②ザックに断熱マットを入れていた 
③ゴアテックスのカッパを持っていたこと。 
④遭難時点で無駄に動かず体力を温存したこと。 
⑤登ってきた道にこだわらず、確実性のある道を選択したこと。

 以上、恥ずかしい失敗談です。少しでもご参考になれば幸いです。

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