美術館と言えば、忘れられない思い出が一つだけある。美術館へ行ったのは若いころだ。どこかの町へ行って、そこにこういう美術館があると聞けば、必ず訪れた。当時、よく行ったのが国立西洋美術館、ブリジストン美術館、箱根の森美術館、北九州美術館、湯布院美術館などだ。
当時、わたしは落語に興味を持っていた。古今亭志ん生という落語家は家族も顧みず、自分の芸にだけ生きた人。こんな人に憧れに近いものを感じていた。そんなとき、青木繁の人生を描いたドラマをテレビで見た。すごいと思った。そして、彼の描いた「海の幸」をテレビ画面で見た。青木繁、生きた時代は明治の中期だ。1882年7月13日生まれで、1911年3月25日死去。わずか28歳と8か月あまりの人生だ。天才と言われながら、太く短く生きたと言えるだろう。出身は福岡県久留米市。私と同郷だ。
彼の作品の中でも最も目を引いたのが『海の幸』だ。大漁でたくさんの魚を肩に担いでいく裸の漁師たち、中に一人だけ、見る側を見ている美しい女性らしい顔がある。これが魅力だと思ったわたしはぜひ実物を見てみたいと思い、東京にあるブリジストン美術館に行った。
ブリジストンというのはタイヤの会社名。社名は、「橋」を意味する「ブリッジ」と石を意味する「ストーン」の合成語だ。創業者は石橋さん。自分の名前の石橋を橋と石にして英語に変えただけの名前だ。その美術館があるというので、喜んで見に行った。ところが、「海の幸」はここにないという。ではどこへ行けば見られるのか聞いたら、福岡県の「久留米市美術館」にあると言われた。ぜひ見てみたいと思いつつ、しばらくして、福岡県に転勤することになり、その後、久留米市にも出張する機会があった。
やっとで見られた「海の幸」。その絵の中の女性的な目には引き付けられた。しばらく動けなかった。これを見たいと思って数年、やっとで見られた。何とも表現できない魅力がある。引き付けられて動けなくなるような魅力に出会えるのが美術館へ行く目的だ。
その後、北九州美術館へ行って、おどろいたことがある。それは3メートル四方のキャンバスに描かれた絵。すべて真っ黒。どこに絵を見ようかと必死に見つめたが、とうとう絵は見つからなかった。ただの真っ黒いキャンバスだった。見ようと思えば見える。それは子供のころ見た天井にいる魔物のような存在だ。あるいは樹木に見つけた人の霊のようなもの。作者はそれを描きたかったのだろうか。今もわからない。真っ黒な画面を一時間以上も見詰めたあげく、何も見つからなかった無念さだけが今も残る。
人を引き付けるもの、それは何?真っ黒な画面かもしれない。でもそれは自然だ。絵画ではないと思う。もし、このブログのページを真っ白にして、何か感じてほしいと言っても誰も感じないだろう。真っ黒な画面には今も疑問を感じている。そして、あの青木繁の絵の中にある女性らしい漁師の「目」が絵を見る者を見つめて、立ち去ることを許さぬ何とも言えない魅力がいつまでたっても忘れられない。
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