初めまして。
昨日の新聞に載っていたコラムの記事を読んで:
“なつかしいあなたの声をわが裡にひびかせて読む葉書一葉”(桜川冴子)
長谷川櫂氏が書かれたこの歌のコメントに心が惹かれました。そこには「文字より先に声があった。どの文明でも人の声を形にして書きとめたのが文字である。そうであるなら文字を読めば声が聞こえなければならないが、そんな文字にはなかなか出会えない。」と書いてあり、最後にこの歌に書かれている1枚のはがきについて「これは心のこもった一枚の葉書」と結ばれています。(東京新聞2024/4/27)
この文を一読して私の胸にチクリと来た思いがありました。それは、いろいろ理由はありますが、私自身ここ何十年と自分の声が聞こえるような字とか文を書いていないことに気が付いたからです。
いまだに封書での手紙やはがきでいただく便りはそれを書いた人一人ひとり独特の「字」で書いてあり、それを書いた人をそのまま表しているような気がします。これまでも、「字はよく人を表しているなあ」とは思っていましたが、上の歌を詠んだ方のようには考えたことはありませんでした。
それが、そう思って読んだら。それを読むわたしの目はそこに書かれている文章もさることながら、知らないうちに書かれている字に吸い込まれたかのように、あの頃着ていた学校の制服姿での会話、遊んでいた時の笑い声、また「人生」とか「自分たちの将来」「ボーイフレンド」「恋人」などなどについて話し合った時の声が、確かに、聴こえて来るようでした。
今のわたしといえば、パソコンのワードで文字をうちこむようになり、メールで相手に手紙などを送っている日々です。そこには、書いた人の筆跡は何も残りません。なんとも無機質な連絡方法だろうと、淋しさを感じました。
現代社会が淋しいのは、その連絡方法に相手の心に響く声が届いていないからではないでしょうか。せめて、わたしの書く文字が、相手に何かを感じさせる文字でありまうように。