日々雑感

靖国神社 政治家の参拝に反対する

今日は終戦記念日だ。閣僚の靖国神社参拝のニュースを聞いた。今日に限らないが以下理由で政治家の靖国神社参拝に反対する。

①政教分離に反する。
政治に宗教がからむと著しく悲劇的な戦争となるのは経験上確かなことだ。欧州での宗教戦争しかり、戦前の日本の神国日本との思想しかり、そしてまた昨今のイスラム原理主義しかり。政治と宗教は厳密に分離せねばならぬ。

②A級戦犯が合祀されている。
A級戦犯が合祀されている靖国神社への政治家の参拝がいけないという言い方は中国政府の主張と重なっていることは認識する。また東京裁判に問題があることも認識する。しかしこの重複があろうとなかろうと東京裁判に問題があろうとなかろうとA級戦犯の人たちは明らかに日本および日本国民に害をなしたではないか。(もちろんA級戦犯の人たち以外にも日本および日本国民に害をなした人たちはいる。)
日本および日本国民に害をなした人たちが合祀されている靖国神社に政治家が参拝することは、その害をなした人たちを称揚することになる。

③靖国神社は”日本”のために死んでいった人を祀る神社ではなく、”日本国政府”のために死んだ人を祀る神社であり、また”日本国政府”のために死ぬことを称揚する神社である。
戦争で死んだ人々を弔う気持ちを表すのであれば千鳥ヶ淵戦没者墓苑へおまいりすれば良い。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は無宗教の施設である。

よく言われることだが戊辰戦争で死んだ官軍の人たちは靖国神社に祀られているが会津の人たちは祀られていない。会津の人たちは日本国政府にたてついたからだ。靖国神社は官側つまり政府側のために死んだ人を祀る神社であるという特徴をこのことはよく表している。

誰しも死にたくはない。だからイスラム原理主義での自爆攻撃や戦前の特攻のように死ぬことが前提の攻撃には何らかの”物語”が必要となる。イスラム原理主義の自爆には”イスラムの大義に生きよ”等々の”物語”があり、特攻には”死んで護国の鬼となれ”等々の”物語"がある。靖国神社はその”物語”を提供する施設であった。
”死ねば靖国神社に祀られるから安心せよ”ということは”靖国神社に祀ってやるから死ね”と同義である。

靖国神社は今も尚、日本国民の間に国家のために死ぬという”物語”を供給し続けている一種の軍事装置である。その神社を政治家が参拝することは日本国民に"国家のために死ぬ"という”物語”を供給する軍事装置を維持しようとしている行為に他ならない。







 
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