コメント
美しいです
(
satoko
)
2010-10-22 22:36:28
ピーンと澄み切った空気を感じます。
ほんと、美しい風景ですね。
鳥はどんな場所にいても、似合うから不思議です。
鳥の写真はタブーなんですか。知らなかったです。
京都の取材旅行、どんな小説に出来上がるのでしょう。愉しみです。
鳴き声 ゴァー ゴァー
(
い ち い
)
2010-10-23 10:15:26
コウノトリ目サギ科:
ダイサギ・チュウサギ・コサギ・カラシラサギ
上記、白い鷺の中でも、コサギは夏羽に頭に冠羽があり素敵ですね。でも、鳴き声 ゴァー ゴァーです。
『白鷺の飛翔』出版で調べ始め、最近はアオサギを見に行っています。
鳴き声は、おなじ、ゴァー ゴァー
少し離れたところから眺める白鷺の佇まいが良いですね。
自然と人間
(
昭和のマロ
)
2010-10-23 22:31:51
白鷺の写真、自然の一コマを文明の利器で切り取った人間の文化的所産です。
清漣な水辺に降り立つ一羽の白鷺の姿は幻想的な趣があり、なかなかなものです。
日本野鳥の会の方々が写真は撮らないというのは、「人間よ自然の恵みに浸るだけでいいじゃないか。それ以上を求めるべきでない」と、暗に行き過ぎた人間文明を批判する精神の発露なのでしょうか。
「・・・宇宙空間にまで・・・文明は人間に行くとして可ならざるところはなきがごとき幻想を与えた。さかしらぶった人間は、ほとんど自分がヒトであることを忘れかけているようだ」と立花隆は<文明の逆説>で書いている。
ヒトとして鳥の世界に「入らせてもらう」「溶け込ませてもらう」という精神に立ち戻りたいというのが分かるような気がする。
昨日は
(
satoko
)
2010-10-25 08:57:12
近くの野原を散策しました。
といってもわりと街中に住んでいるのです。
お城山公園の廻りはすっかり秋、白鳥だと思うんだけれども、鳥たちがスイスイと泳いでいたり、鯉が群れていたり、人が作った自然かもしれないけれど、癒されて来ました。
癒されるという言葉もすっかりありふれすぎて余り使いたくないんですが、他に言葉が見つかりません。そうですね。溶け込んで来たといえば良いんですね。
大昔は人も自然の一部だったことでしょう。
いろいろありますがそれでも生まれてきたことは幸いなこと、
などと考えながら歩きました。
Soaked in・・
(
木蓮
)
2010-10-26 02:48:29
樹々の中の住宅地に住んでいます。
カージナル、ブルージェイ、ロビン、ブラックバード、ブルーバード、、、たくさんの野鳥がやってきて、姿、色、動き、さえずりで、楽しませてくれます。
越してきた当初は、郷里の両親や友と分かち合いたくて、カメラをもって奮闘しました。でも、どだい無理。その美しさは素人のカメラに収まりようはなく、あきらめて、ただ、その場で静かにたたずみ、ただ感じることにしました。カメラという邪心を捨てると、身や心に深く響いてくるのでしょうか。それをそのままを、気をつけて、手紙に移します。文には巧くたくしきれないけれど、そんなもどかしさをも、両親は喜んでくれます。
そのさえずりは、季節や時間や天候によって、違うのですね。
考えるのではなくて、ただ感じる。その場に溶けて深く感じる。それだけでも、いろんなことを教わります。
知識ではない知恵は、そんなところから、いでくるのでしょうか。
鳩
(
Unknown
)
2010-10-26 17:58:10
鳩ポッポのおじさんの発言、何と軽いことか
早く辞めてほしい。
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ほんと、美しい風景ですね。
鳥はどんな場所にいても、似合うから不思議です。
鳥の写真はタブーなんですか。知らなかったです。
京都の取材旅行、どんな小説に出来上がるのでしょう。愉しみです。
ダイサギ・チュウサギ・コサギ・カラシラサギ
上記、白い鷺の中でも、コサギは夏羽に頭に冠羽があり素敵ですね。でも、鳴き声 ゴァー ゴァーです。
『白鷺の飛翔』出版で調べ始め、最近はアオサギを見に行っています。
鳴き声は、おなじ、ゴァー ゴァー
少し離れたところから眺める白鷺の佇まいが良いですね。
清漣な水辺に降り立つ一羽の白鷺の姿は幻想的な趣があり、なかなかなものです。
日本野鳥の会の方々が写真は撮らないというのは、「人間よ自然の恵みに浸るだけでいいじゃないか。それ以上を求めるべきでない」と、暗に行き過ぎた人間文明を批判する精神の発露なのでしょうか。
「・・・宇宙空間にまで・・・文明は人間に行くとして可ならざるところはなきがごとき幻想を与えた。さかしらぶった人間は、ほとんど自分がヒトであることを忘れかけているようだ」と立花隆は<文明の逆説>で書いている。
ヒトとして鳥の世界に「入らせてもらう」「溶け込ませてもらう」という精神に立ち戻りたいというのが分かるような気がする。
といってもわりと街中に住んでいるのです。
お城山公園の廻りはすっかり秋、白鳥だと思うんだけれども、鳥たちがスイスイと泳いでいたり、鯉が群れていたり、人が作った自然かもしれないけれど、癒されて来ました。
癒されるという言葉もすっかりありふれすぎて余り使いたくないんですが、他に言葉が見つかりません。そうですね。溶け込んで来たといえば良いんですね。
大昔は人も自然の一部だったことでしょう。
いろいろありますがそれでも生まれてきたことは幸いなこと、
などと考えながら歩きました。
カージナル、ブルージェイ、ロビン、ブラックバード、ブルーバード、、、たくさんの野鳥がやってきて、姿、色、動き、さえずりで、楽しませてくれます。
越してきた当初は、郷里の両親や友と分かち合いたくて、カメラをもって奮闘しました。でも、どだい無理。その美しさは素人のカメラに収まりようはなく、あきらめて、ただ、その場で静かにたたずみ、ただ感じることにしました。カメラという邪心を捨てると、身や心に深く響いてくるのでしょうか。それをそのままを、気をつけて、手紙に移します。文には巧くたくしきれないけれど、そんなもどかしさをも、両親は喜んでくれます。
そのさえずりは、季節や時間や天候によって、違うのですね。
考えるのではなくて、ただ感じる。その場に溶けて深く感じる。それだけでも、いろんなことを教わります。
知識ではない知恵は、そんなところから、いでくるのでしょうか。
早く辞めてほしい。