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第三者? (崖 揺岩)
2007-12-22 01:56:36


画像を拝見しましたら見覚えのある方々でした。



今回はオトナの小説でしたか。

第三者も見据えたもの・・。

『世界は思うに任せぬもので構成されてますから・・』のコメントについて。



厳しいようですが建築評論では、このようなコメントの場合、敢えていえばツマラナイ作品との表現です。



つまり限界人が創ったものと捉えます。

限界人とは、『世界は思うに任せぬもので構成されてますから・・』が体に染み付いた人のことです。



昔から建築家も大多数はそうですが、かなりの数の方々は結果(作品)としては、アドバンテージを取りながら、思い通り(計画)のものを残します。

又、そのような人が残ります。



もちろん、対人、対組織に場合によっては、手品のような手法も使います。(良心より愛をこめて、苦笑)



文学の世界はかなり違う様ですね。

何故だろう?

言葉のみの限界なのかな?







二年措きにススキや笹を主にした、草灰を作ったので杉並に送ります。

これは例の葡萄の肥料用てす。

肥料としては弱いのですが根を傷めない。



むかし、柿・桃・山桜・栗・クヌギ・杉・ススキを、別々に分けて灰にして、陶芸の釉薬に用意しました。

僕は陶芸の趣味は若い頃だけですが、家族や先生の方々が使います。



冬は乾燥と落ち葉も多く山林も近いので、焚火の延焼防止には気を使います。



何故か今夜の2時から、深夜便で泉谷シゲルと石川セリの曲がかかるらしい。何とか石川セリは聴かないと。(笑)







 
 
 
人生のある作品 (ビー玉)
2007-12-22 13:09:58
木曜の夜から出張に出たために、しばらくブログを拝見することができませんでした。今、大阪にいます。

高樹先生も天満さんのコンサートにいらしていたんですね!もしや?と思い、キョロキョロしていたのですが・・・。気がつきませんでした~。私は1階席の8列目で聴いておりました。

佐伯一麦さんの作品、「ア・ルースボーイ」以来、ずっと読んでいます。作品もさることながら御自身の生き方や結婚の形態に共感できるものがありました。
高井有一さんも好きな作家のひとりです。一度、ふるさとで講演を拝聴したことがあります。

「小説にテーマは必要か 人生だけがあれば良いのではないか」という奥の深い一言、なんだか読んでいてほっとしました。新幹線の時間に遅れそうです。また、後で・・・。
 
 
 
安定剤を! (ピース・リヴァー)
2007-12-22 16:54:35
最近の小説の傾向(特に若い人の)に、相当いらいらを募らせておられますね。
一服の精神安定剤として、ごく最近(『群像』十一月号)吉本さんが書いたいい文章がありますので、そのなかから、肝心な部分を抜書きして見ます。

「さまざまな迷路を取り除いてゆくと、結局、言語の芸術的価値を構成せいているのは作者の自己と想像的自己のあいだの内的な交流の豊富さの度合い、その深さということになる。」

「文学と実行を対比させて、実行に比べれば文学はただの絵空事にすぎないというのは意味を成さない。文学はもともと現実に役立つためとかを目的にするのでも主たるモチーフとして営まれるものでもない。さらにいえば、「空の空」をうつ作業を本質とする。わたし流のことばで一口に言ってしまえば、自分が自分に問いかけ、それに対する自分の答えに充たされなければ、また次の問いかけと応えがはじまり、持続される。この暗黙の内的問答が人間にとって(人類にとって)続く限り、文学の形式は続く。内的な一人問答であるか、非コミュニケーションであるか、それが有効か無効か、人心に役立つかどうか。。。。。。が問題ととなるのは文学にとって第二義以下のことにすぎない。人間が、この内的なつぶやきと自己問答をはじめるようになったときから文学の本質がはじまり、それが継続的に人間(人類)の本質であるかぎり、文学の本質も続いてゆく。表現形式がどのように変化してもおなじことだ。」

吉本さんの大著『言語にとって美とはなにか』をくだいていうとこういうことになるんでしょうか。
どうです、少しは気分はおさまったでしょうか。その逆だったら大変申し訳ないことをしたことになりますね。
 
 
 
ピースさんにのコメントに・・ (崖 揺岩)
2007-12-22 21:06:18


僕は吉本さんは昔々に冬樹社?の立派な本も、初ボーナスで買い足しましたが、実は何も理解してません。(苦笑)

当時、新卒で就職で有名設計事務所を選択し、これは僕は少し無謀な選択だったかも、と考えてました。

幻想論などどうでもいい、それより何とか世渡りをしないとマズイな!?とそのままでした。



当時は既に33才定年制の事務所も在りました。

このままでは彼女も養えないんだ!です。(笑)

当時の僕はいかに幻想的に生きてたことか・・・。





ピースさんの参考メッセージは僕には納得できるものです。



吉本さんの、『言語の芸術的価値を構成せいているのは作者の自己と想像的自己のあいだの内的な交流の豊富さの度合い、その深さということになる。』



これは僕は特に絵画に於いて実感してます。

[境界から]をテーマに描いていますから。



ただ建築でも文学的エッセンスを糧に、設計をする方々もお出でです。



次はその友人H氏の設計スタンスのメッセージのコピーです。



恐らく佐伯一麦さんも同じく、[ゴッホの手紙]が十代に好きだった方です。



以下H氏のコピー

『ドストエフスキーの「罪と罰」の「罪」の原語は「プレストゥプレーニェ」で、「踏み越えること」の意味だそうだ。

「敷居を越える」ということは、異空間への移行を意味する。この文学的な言葉、「敷居を越える際」を如何にデザインするかが、建築を考えるうえで決め手になる。』

以上コピー



これは何らかの香りのある空間から、香りのある空間へ移行する、境界のデザインを意味してます。



そして、僕はこれを[作者の自己空間]と[作者の想像や幻想空間]とのデザインと文学的な認識をしました。



僕は建築の場合は、人の導線計画とゾーニングを優先してから、空間と空間のデザインをしますが、語ってないだけで、恐らく彼も同じと考えてます。



ピースさんの後半の吉本さんの抜粋も納得できるものでした。



ただ僕は小説家では無いからかも・・・。(苦笑)



前記のコメントは、少し高樹さんにも酷だったような気がします。



僕は昔々、辞書みたいに分厚い、[ゴッホの手紙]を年齢は大先輩の彼から、押し付けられて読みました。(苦笑)



佐伯一麦さん、頑張って!!







 
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