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一人のシンパ
(
のあいちい
)
2008-03-20 12:52:33
日本の文学小説の理解者、シンパ、一人から輪が広がっていけばいいと思います。風俗習慣が異なる国の文化。違った理解、ある種の土着が芽吹いていくものと思います。言葉の壁もやがて越えられる、と。時間がかかることかもしれませんが。
文学の交流と時間?
(
崖
)
2008-03-20 13:49:19
マイさんやダンタイ・ソンさんの顔写真を拝見しますと、人種的に四国、特に讃岐や阿波や土佐地区に多いのですが、短頭短顔の特徴が有り親しみを感じます。
彼らのルーツはベトナム?
四年位前のことですが、千代田区のオフィスの地下室に資料を取りに下りたら、50坪程度の畳部屋が有り、そこで入国したばかりの若いベトナム人15人位が不安げに寄り添って、オハーを待っていたのを思い出します。
恐らく彼らはログハウスの組み立て工事の要員でした。
日本語を少し理解できるらしい男が、待つのに痺れを切らし交渉して皆を安心させようと、気遣かっていたのが印象に残ってます。
遊びとは違い仕事は土地の言葉が多少わからないと不安ですよね。
文学の交流は最後の最後?
そうですね。
文学の交流とは多数の読者がお互いの国の翻訳本を読むことでしょうか・・。
最近、「ティファニーで朝食を」の翻訳本が生き生きしてると話題になってますが、原作時からはかなり年月が経ってます。
実は先日、中・高時代に書庫にあり、読んだ「愉しき放蕩者」の作家の実像が解りました。
作曲家グリークの項目を読んでいたら、ノールウェーの作家ビョルンスティエルネ・ビョルンソン,(1832年12月8日-1910年4月26日)1903年にノーベル文学賞作家でした。
主な作品は「詩と歌」だそうです。
歌の曲の作詞も沢山書いた作家の筈で、二、三度ラジオからビョルンソンの名前が流れ驚いたことも有ります。
奇妙な発音の名前なので検索はできず、ビョルンソンはノールウェー国歌の作詞者でした。
正確な発音は「ビョルルンソン」の筈ですが、翻訳によって検索もできませんでしたね・・。
「ペール・ギュント」のストーリーといい北欧はハジケるような自由に憧れる気風のようですね。
中・高時代は狭き受験で自由志向が強く、懐かしい「愉しき放蕩者」は気分を明るくしてくれた本です。
この作品も百年以上も昔の作品?
暑さ寒さも彼岸まで・・お墓参りはワイフ達に任せ、収穫の終えた椎茸のホダ木の積み変えと、浸水池の埋め戻しの疲れを癒す他なし。
未だ纏まった春雨が降り続いてます。
心の翻訳
(
ビー玉
)
2008-03-20 14:06:52
私も今、百年前の英文の翻訳をしています。ノーペイで。3月末締め切りなのに間に合いそうにありません。
最近は「翻訳ブレイン」なる便利なソフトがあって、何語でも簡単に翻訳することはできるのですが・・・。なにせ百年前の文献ですから、機械的に訳された日本語が変!機械によって訳された日本語の正しい日本語への翻訳?に苦労しています。
音楽は世界共通、絵画も世界共通。でも、文学には言葉の壁がありますよね。
まず、日本語をベトナム語に訳して、それから、高樹文学の表現にそった形に訳し直すのが大変なんだろうなぁー。高樹先生の五感あふれる表現をマイさんは、どんなふうに翻訳されるのでしょう。興味津々です。ちなみに、どの作品を翻訳されているのですか?
小説って、心を翻訳する必要がありますね。
翻訳大歓迎!
(
フリーデン・フルス
)
2008-03-22 11:34:46
のぶ子先生の小説を外国語に翻訳してくれるなんて、とてもありがたい人ですね。僕からもマイさんに、熱い声援を送ります。
とくに「マイマイ新子」なんかを翻訳していただければ、きっと大ヒットするするし、日本語学校の教科書になったりする可能性もありますね。
ベトナムについて
(
崖
)
2008-03-23 18:40:30
ベトナムについて調べると、この国は夫々の基礎が揃ってます。
人の勤勉さ、海に面した死に地のない国土は、豊かな原油、良質の無煙石炭、非鉄金属のレアメタル、肥料のリン鉱石、南北両端の栄養豊富なデルタ地帯の穀物と、安定した国の発展が望めます。
こんなに豊かな国とは、今回調べるまで知りませんでした。
正に竜宮城が建っててもおかしくない所ですね。
こんな国の基礎条件の良さが、日本や米国や他国に対しておおらかなのでしょう。
確か知識人はフランスやEU、次ぎに米国、そして日本に興味持ったり留学をしている筈です。
しばらく米国は経済破綻で不人気でしょうから、日本の方々は真しゅに交流を続けて戴きたいです。
第二次大戦中、フランスと同盟を組んで日本軍は二重統治をし、その間にベトナム国民は南北両端の穀倉地帯からの、輸送ルートを絶たれ200万人の餓死者を出した汚点が在ります。
幸い当時のこの地区の日本軍は信頼され立派な行動により統治をしていたのですが、しかし後期から末期は連合軍に攻められ、食料ルートの配慮が不能になった結果のようです。
今、丁度、服部先生がNHKラジオ「地球まるごと」に出演し、ベトナムより奥地のラオスの医療レベルについて語られました。
統一後のベトナム初取材
(
ビー玉
)
2008-03-24 03:37:04
SIA上海篇が終わった直後にベトナムの話題ばかり続くコメントで申し訳ないのですが・・・。
今、以前、勤務していた会社の先輩(女性)が昨年、新潮社から出版されたある御本のことをネットで調べていたら・・・。
な、なんと、その先輩の経歴に「1986年、日本人の民間人として初めて統一後のベトナムを取材した」と書いてあり、びっくりしました。私はその年、社会人になったばかりだったのですけれど、そういえば、その先輩、一週間ほどベトナムへ出張されたことがありました。帰国後、「あなたも是非、ベトナムへ行きなさい!」と言われたことは、いつか、このブログのコメント欄にも書いた記憶があります。
結婚式にも来て頂いた仲の良い先輩(高樹先生とほぼ同い年の方)なので、明日の朝にでも、久しぶりに電話して様子を聞いてみよと思います。
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彼らのルーツはベトナム?
四年位前のことですが、千代田区のオフィスの地下室に資料を取りに下りたら、50坪程度の畳部屋が有り、そこで入国したばかりの若いベトナム人15人位が不安げに寄り添って、オハーを待っていたのを思い出します。
恐らく彼らはログハウスの組み立て工事の要員でした。
日本語を少し理解できるらしい男が、待つのに痺れを切らし交渉して皆を安心させようと、気遣かっていたのが印象に残ってます。
遊びとは違い仕事は土地の言葉が多少わからないと不安ですよね。
文学の交流は最後の最後?
そうですね。
文学の交流とは多数の読者がお互いの国の翻訳本を読むことでしょうか・・。
最近、「ティファニーで朝食を」の翻訳本が生き生きしてると話題になってますが、原作時からはかなり年月が経ってます。
実は先日、中・高時代に書庫にあり、読んだ「愉しき放蕩者」の作家の実像が解りました。
作曲家グリークの項目を読んでいたら、ノールウェーの作家ビョルンスティエルネ・ビョルンソン,(1832年12月8日-1910年4月26日)1903年にノーベル文学賞作家でした。
主な作品は「詩と歌」だそうです。
歌の曲の作詞も沢山書いた作家の筈で、二、三度ラジオからビョルンソンの名前が流れ驚いたことも有ります。
奇妙な発音の名前なので検索はできず、ビョルンソンはノールウェー国歌の作詞者でした。
正確な発音は「ビョルルンソン」の筈ですが、翻訳によって検索もできませんでしたね・・。
「ペール・ギュント」のストーリーといい北欧はハジケるような自由に憧れる気風のようですね。
中・高時代は狭き受験で自由志向が強く、懐かしい「愉しき放蕩者」は気分を明るくしてくれた本です。
この作品も百年以上も昔の作品?
暑さ寒さも彼岸まで・・お墓参りはワイフ達に任せ、収穫の終えた椎茸のホダ木の積み変えと、浸水池の埋め戻しの疲れを癒す他なし。
未だ纏まった春雨が降り続いてます。
最近は「翻訳ブレイン」なる便利なソフトがあって、何語でも簡単に翻訳することはできるのですが・・・。なにせ百年前の文献ですから、機械的に訳された日本語が変!機械によって訳された日本語の正しい日本語への翻訳?に苦労しています。
音楽は世界共通、絵画も世界共通。でも、文学には言葉の壁がありますよね。
まず、日本語をベトナム語に訳して、それから、高樹文学の表現にそった形に訳し直すのが大変なんだろうなぁー。高樹先生の五感あふれる表現をマイさんは、どんなふうに翻訳されるのでしょう。興味津々です。ちなみに、どの作品を翻訳されているのですか?
小説って、心を翻訳する必要がありますね。
とくに「マイマイ新子」なんかを翻訳していただければ、きっと大ヒットするするし、日本語学校の教科書になったりする可能性もありますね。
人の勤勉さ、海に面した死に地のない国土は、豊かな原油、良質の無煙石炭、非鉄金属のレアメタル、肥料のリン鉱石、南北両端の栄養豊富なデルタ地帯の穀物と、安定した国の発展が望めます。
こんなに豊かな国とは、今回調べるまで知りませんでした。
正に竜宮城が建っててもおかしくない所ですね。
こんな国の基礎条件の良さが、日本や米国や他国に対しておおらかなのでしょう。
確か知識人はフランスやEU、次ぎに米国、そして日本に興味持ったり留学をしている筈です。
しばらく米国は経済破綻で不人気でしょうから、日本の方々は真しゅに交流を続けて戴きたいです。
第二次大戦中、フランスと同盟を組んで日本軍は二重統治をし、その間にベトナム国民は南北両端の穀倉地帯からの、輸送ルートを絶たれ200万人の餓死者を出した汚点が在ります。
幸い当時のこの地区の日本軍は信頼され立派な行動により統治をしていたのですが、しかし後期から末期は連合軍に攻められ、食料ルートの配慮が不能になった結果のようです。
今、丁度、服部先生がNHKラジオ「地球まるごと」に出演し、ベトナムより奥地のラオスの医療レベルについて語られました。
今、以前、勤務していた会社の先輩(女性)が昨年、新潮社から出版されたある御本のことをネットで調べていたら・・・。
な、なんと、その先輩の経歴に「1986年、日本人の民間人として初めて統一後のベトナムを取材した」と書いてあり、びっくりしました。私はその年、社会人になったばかりだったのですけれど、そういえば、その先輩、一週間ほどベトナムへ出張されたことがありました。帰国後、「あなたも是非、ベトナムへ行きなさい!」と言われたことは、いつか、このブログのコメント欄にも書いた記憶があります。
結婚式にも来て頂いた仲の良い先輩(高樹先生とほぼ同い年の方)なので、明日の朝にでも、久しぶりに電話して様子を聞いてみよと思います。