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参勤交代

2014年10月05日 | word
 江戸時代、諸大名が一定の時期を限って江戸に伺候することを参勤、封地に就くのを交代といい、その総称。参覲交替とも書く。一般に参勤交代とは、将軍に対する大名の、また本藩主に対する支藩主や知行主らの、主従関係の表示としての拝謁、勤役を前提とした上洛、参府または本城伺候および就封をさすが、この参勤を契機として、当事者間には御恩―奉公の主従関係が成立する。
 <参勤>の語は、鎌倉・室町幕府の評定衆や奉公人らの出仕制に関連ある語句として現れ、具体的には鎌倉幕府の御家人の鎌倉大番役や京都大番役などの軍役負担に、その原初的形態をみる。室町幕府は、将軍の直接支配下にある守護大名に対して、京都に屋形を構えて集住することを強制し、将軍の賜暇を得ず勝手に下国するものを謀叛とみなして、容易に下国、在国を許さなかった。その後、幕府の大名統制がゆるみ群雄割拠の時代に入ると、戦国大名はその家臣統制策の一環として、本城勤仕の制法を定めて支配を強化し、領内限りの参勤交代を強制した。近世の統一権力は、こうした従来の支配方式を全国的規模で、新たに大名統制策として近世的権力構成に改編して、参勤交代制を形成したのである。まず織豊政権下では、織田信長は服属した大名を岐阜城、安土城に参勤させた。豊臣秀吉もまた大坂城、聚楽第、伏見城の周辺に諸大名の邸宅をおき、その領国とを往復させる一方、在京賄料などを給した。とくに秀吉は、大名妻子の在京、家臣とその妻子の城下集中を全国的規模で強制して、参勤交代制の雛形を完成させた。
 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦の勝利によって、徳川家康が天下の覇権をにぎると、外様大名のうち江戸に参勤するものも現れたが、03年の家康の征夷大将軍就任はその傾向に拍車をかけた。家康も外様大名の江戸参勤とその妻子の江戸居住を奨励し、参勤の大名には屋敷地(大名屋敷)のほか刀剣、書画、鷹、馬、糧米などを下賜する一方、大大名には将軍みずから鷹狩りに託して、東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿まで出迎えるなど、優遇策を講じた。09年幕府は、中国、西国、北国など豊臣勢力圏の諸大名に江戸参勤・越年を強要、11年には豊臣秀頼を京都二条城に謁見して、徳川氏と豊臣以下全国大小名との間の主従関係を確定させた。ここに従来の豊臣系大名による大坂、駿府、江戸各城への参勤形態は消滅し、江戸参勤へと統一される。15年(元和1)大坂夏の陣後の武家諸法度は、その第9条に<諸大名参覲作法之事>として、京都二条城ないし伏見城における徳川氏への諸大名の参勤規定を揚げているが、29年(寛永6)の武家諸法度では削除され、事実上隔年の江戸参勤をふまえて、35年6月21日の武家諸法度の第2条において、<大名小名在江戸交替所相定也、毎歳夏四月中可致参勤>と定め、大名は毎年4月交代で江戸に参勤することが正式に制度化された。42年には、従来在府中の譜代大名に6月または8月の交代、関東の譜代大名に2月、8月の半年交代、さらに城邑を占める大名には交互の参勤を命じ、ここに参勤交代制は全大名に一般化されるに至った。もっとも、対馬の宗氏は3年1勤、蝦夷地の松前氏は5年1勤、水戸徳川家や役付の大名は定府とするなど、若干の例外もみられる。その翌年には、将軍への大名の拝謁順序が定められ、86年(貞享3)以降は、表礼衆、那須衆、美濃衆、三河衆など旗本30余家にも隔年参勤が義務づけられた(交代寄合)。
 1722年(享保7)幕府は財政窮乏を打開するため、大名より高1万石につき100石の上米を徴して、その在府期間を短縮、交代期を3月、9月に変更して在府半年、在国1年半(半年交代の譜代大名は1年在国)とした。これは参勤交代制の根幹にふれる政策であるため、30年には上米を免じて、参勤交代制を復旧した。幕末期、内外情勢の緊迫化にともない、1862年(文久2)には一橋慶喜、松平慶永らの幕政改革によって、大名は3年に1年または100日の在府、その妻・嫡子とも在府・在国自由となった。これは幕府の大名統制力の低下によるもので、65年(慶長1)再び旧制への復帰を図ったが効なく、幕府倒壊を早めただけに終わった。なお、参勤交代は、将軍―大小名間だけでなく、陸奥仙台、長州萩、肥前佐賀、薩摩鹿児島などの有力外様大名と、その支藩主または知行主との間にも存在して、重層的かつ複雑な構造を示したが、これまた幕末期には消滅した。
 このように参勤交代制は、幕藩制国家支配の政治的基幹として、幕府が諸大名の地方割拠の形勢を抑制して中央集権の実をあげるのに絶大な効果があった。一方、大名は江戸と在国との二重生活によって繁忙と経済的窮乏に苦しむこととなり、とくに遠隔地の外様大名に多大の負担を強いた。しかし経済面では、江戸の都市的発展による三都を中核とする国内市場の形成、水陸交通の整備と宿場町などの繁栄、文化・思想面では江戸文化の地方伝播と庶民文化の発達、全国各地方の人心の一体化傾向を促進した。