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疎外

2014年06月16日 | word
 人間は自己の本質を内面的な確信によるだけではとらえることはできない。人間の本質は、良心、愛、理性、共同性にあるとする。人間はまず、おのれ一個の、生命、財産、名誉、というような自分に固有なものを投げ捨てて、おのれの本質であるものに献身しなくてはならない。献身もしくは労働という自己否定がなければ、自己の本質は内面の暗がりから外に出る(外化、発出、本領発揮)ことができない。本質が現象しないのである。しかし、献身とは自分を他者にゆだねることである。自分に固有のものが他者のものになってしまい、外化、自己実現がかえって他者の所有化、自己喪失となる場面が固有の意味での疎外である。本質を中心に考えると、個人が自己の本質を疎外することが、本質(理念)を具体化、現実化する。正義という理念は、正義への献身と義務がなければ、空語となる。彼岸的、イデア的理念が、あらゆる現実を超越しているように見えるのは、実は個人がその理念のために自己を放棄しているからである。オミコシが神格を持つのは、個人によって担がれているからである。このオミコシ担ぎの構造が社会的理念の一般構造になる。王は王であるがゆえに王とよばれるのではなく、王とよばれるがゆえに王なのである。正義、理性、真理、権力、価値などなど、社会的妥当性をもつ、それ自体理念的なものは、それへの献身と義務、人間疎外を通じて実現される。
 私に固有のものが同時に、私に固有のものとして、妥当で通用するものでなければならない。個人の個性ですらも、個性として実現するためには、個性という類型化をもって実現しなければできない。個性的、唯一無二の人間とは、人間だれもがもつ個性を具備した人間なのではなく、個性的という類型にかなった人間のことなのである。個人の固有のものとしての財産は、所有権という類型の中で承認される。個人が所有権を持つとは、譲渡の権利を承認されていることである。譲渡とは、個人のもの、個人の財産から私性を分離して一般化する疎外化によって成り立つ。個人のものとして固有のものが固有のものとして通用すること自体が、固有性の喪失、他有化になる。個人が自己の本質である正義を疎外化して、王という権力に仕えるとき、王権という自律的なものが個人のへつらいという自己喪失に依存する、非自立的なものになる。固有が他有であり、自立が依存であるという倒錯が、人間疎外の世界では成り立ってしまう。ここでは、どんなものも、他の何かのために、という非自立性のありかたでしか通用できない。自己にもっとも固有の良心でさえ他者の価値に委託される。疎外の世界の観念形態は、彼岸性になってしまう。
 人間の労働は本来、自己の主体的、創造的エネルギーを発揮して働きかけ、工夫と努力が対象化された生産物の他者への享受を通して、人間が共同的な存在であることを確証する営みであるはずである。しかし賃金労働を基礎とする日常世界では、生産手段と生産物は資本家の所有に属しているため、労働の成果はその成果のあらたな資本の蓄積に寄与し、労働の過程は物的資本としての機械に強制された苦役となる。その結果、製品を媒介とする他者との交通関係もまた、見失われる。人間の本質を具現させる内的な力であるはずの労働が、このように人間に対立し人間を抑圧する外的な力として出現する。
 現代の労働疎外については、主として大量生産工場の労働実態や労働者意識に関して調査を進めた欧米社会学が具体的なイメージを与えてくれる。労働者はたとえば、労働の内容や方法やペースを選ぶ力を奪われており、労働組織内での役割も社会的な意味も実感できず、したがって労働を内的な自己を発現する行為としてではなく、単に報酬を得るためのやむを得ない行為と見なしている。多くの生活者、労働者、サラリーマンにとって、このことはなじみ深い状況となっている。本来の人間の労働とはなにか、ということを追及するための疎外の概念は、現代社会の支配体制を批判する有力な視点を提供してしまうことになる。