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何やら難しい事を、
(
odyssey
)
2008-04-25 00:15:10
>>僕は、自分で考えることは重視するが、
>>自分で考えたことには、まるで重きを置かない。
とは、
「過程」は重視するが「結果」に拘らない、って事でOK?
それとは逆に政治的企業的に言うと、何より「結果」が大事。
「過程」も勿論大切だが、それはあくまで「結果」が伴う、又は「結果」を促す為の手段として大切だと言う事に過ぎない。
確かに純粋に科学的考察で言うと、「観察」と「記録」、つまり「過程」が大事であって、あクマで「結果」は後からついてくるもの、と言う考え方になる。
そう言う意味では、i_は科学者肌なんだろうね。
ニュートリノの観察でノーベル賞に輝いた小柴教授の事を、ボクは20年以上前から知っていました。
その頃、「OMNI」と言う雑誌でカミオカンデについて小柴教授が語っていたのを目にしたものだ。
この頃は大統一理論が幅をきかせていた時期で、カミオカンデも当初、陽子の崩壊を観察する事で大統一理論の一部を実証するのが目的だった。
この時、ニュートリノは陽子の崩壊を観察する為には不必要な、いわばノイズだった。
「ニュートリノの観察はアルバイト」と語られていたのを覚えている。
「観察」と「記録」が思わぬ「結果」を引き寄せた好例として上げておく。
> odyssey
(
i_
)
2008-05-06 20:02:36
≫ 「過程」は重視するが「結果」に拘らない、って事でOK?
一般論でいえば「YES」だが、この文脈に限って言えば、「NO」だ。
ちょっとした独り言のつもりで書いたので、
明らかな説明不足。ごめんよ。
この場合、動詞が“考える”という独特のものなのが効いてくる。
そのまんまだとちょっとややこしいので、
幾らか細かいニュアンスを落としてしまうが
“考える”を“シミュレーションする”に変えてみると
ちょっとだけわかりやすくなると思う。
すると、
≫ 自分で考えることは大事だが、
≫ 考えた結果にはこだわらない。
は、
≫ 自分でシミュレーションをしてみることは大事だが
≫ そのシミュレーションの結果にこだわってはいけない。
という風になる。
仮想として考えたことは、どこまでいっても仮想であって、
幾らそれまでそのシミュレーション方法が
上手く有効に機能してきたからといって、
次の1回でもうまく機能するとは限らない。
だから、シミュレーションの方法論(=考え方)そのものに
固執しないようにしよう、と。
しかしこれが、なんとも実に難しい。
“○○は、△△であるべきだ”とか
“◇※は、▽▽でなければならない”とか、
有効に機能する場面は、あると思う。
しかし、万能ではありえない。
それが頓挫した際に過去にもっていたそういう主義や
主張を、あっさりと捨て去るのは、とても心理的抵抗がある。
なんといっても“その時点まで(何年も何十年も)
自分が正しいと主張してきた、という事実”に対する
責任を負わなければならないからね。社会的にも内面的にも。
それを遂行するのは、歳を重ねれば重ねる程難しいだろうなぁ。
小さい子供でも実は一緒なんだけどね。
、、、という話でした(^^;
小柴教授の「ニュートリノ観察はアルバイト」発言は初耳だな~。
ノーベル賞の棚ぼたっぷりで一番豪快なのは、
1978年のペンジアス&ウィルソンの発見だ。
前にこのblogでも取り上げた“宇宙背景輻射”の発見なんだけど、
最初は雑音だと思ってニューヨークからの電波をチェックしたり
挙句アンテナに鳥のフンの掃除までしたそうな。
(Wikiには“二人は互いに、
糞掃除を言い出したのは自分ではないと言っている”
って書いてある。これは笑ったw)
物理学科の最初のレクチャーが実はこの
“偶発的な発見”の話だったんだよ。英語でいうとセレンディピティ。
むしろ彼らにとっては、そういった偶然を掴まえる事の方が
日常なんだってことらしいよ。
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>>自分で考えたことには、まるで重きを置かない。
とは、
「過程」は重視するが「結果」に拘らない、って事でOK?
それとは逆に政治的企業的に言うと、何より「結果」が大事。
「過程」も勿論大切だが、それはあくまで「結果」が伴う、又は「結果」を促す為の手段として大切だと言う事に過ぎない。
確かに純粋に科学的考察で言うと、「観察」と「記録」、つまり「過程」が大事であって、あクマで「結果」は後からついてくるもの、と言う考え方になる。
そう言う意味では、i_は科学者肌なんだろうね。
ニュートリノの観察でノーベル賞に輝いた小柴教授の事を、ボクは20年以上前から知っていました。
その頃、「OMNI」と言う雑誌でカミオカンデについて小柴教授が語っていたのを目にしたものだ。
この頃は大統一理論が幅をきかせていた時期で、カミオカンデも当初、陽子の崩壊を観察する事で大統一理論の一部を実証するのが目的だった。
この時、ニュートリノは陽子の崩壊を観察する為には不必要な、いわばノイズだった。
「ニュートリノの観察はアルバイト」と語られていたのを覚えている。
「観察」と「記録」が思わぬ「結果」を引き寄せた好例として上げておく。
一般論でいえば「YES」だが、この文脈に限って言えば、「NO」だ。
ちょっとした独り言のつもりで書いたので、
明らかな説明不足。ごめんよ。
この場合、動詞が“考える”という独特のものなのが効いてくる。
そのまんまだとちょっとややこしいので、
幾らか細かいニュアンスを落としてしまうが
“考える”を“シミュレーションする”に変えてみると
ちょっとだけわかりやすくなると思う。
すると、
≫ 自分で考えることは大事だが、
≫ 考えた結果にはこだわらない。
は、
≫ 自分でシミュレーションをしてみることは大事だが
≫ そのシミュレーションの結果にこだわってはいけない。
という風になる。
仮想として考えたことは、どこまでいっても仮想であって、
幾らそれまでそのシミュレーション方法が
上手く有効に機能してきたからといって、
次の1回でもうまく機能するとは限らない。
だから、シミュレーションの方法論(=考え方)そのものに
固執しないようにしよう、と。
しかしこれが、なんとも実に難しい。
“○○は、△△であるべきだ”とか
“◇※は、▽▽でなければならない”とか、
有効に機能する場面は、あると思う。
しかし、万能ではありえない。
それが頓挫した際に過去にもっていたそういう主義や
主張を、あっさりと捨て去るのは、とても心理的抵抗がある。
なんといっても“その時点まで(何年も何十年も)
自分が正しいと主張してきた、という事実”に対する
責任を負わなければならないからね。社会的にも内面的にも。
それを遂行するのは、歳を重ねれば重ねる程難しいだろうなぁ。
小さい子供でも実は一緒なんだけどね。
、、、という話でした(^^;
小柴教授の「ニュートリノ観察はアルバイト」発言は初耳だな~。
ノーベル賞の棚ぼたっぷりで一番豪快なのは、
1978年のペンジアス&ウィルソンの発見だ。
前にこのblogでも取り上げた“宇宙背景輻射”の発見なんだけど、
最初は雑音だと思ってニューヨークからの電波をチェックしたり
挙句アンテナに鳥のフンの掃除までしたそうな。
(Wikiには“二人は互いに、
糞掃除を言い出したのは自分ではないと言っている”
って書いてある。これは笑ったw)
物理学科の最初のレクチャーが実はこの
“偶発的な発見”の話だったんだよ。英語でいうとセレンディピティ。
むしろ彼らにとっては、そういった偶然を掴まえる事の方が
日常なんだってことらしいよ。