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うぉりゃ黒いぞ覚悟しろっ(笑) (i_)
2008-07-23 03:01:36
オープニング1分で気持ち悪くなった(;´Д`)
もし自分に子供が居たとしたら、はたして一緒に見に行くだろうか?
家に置いてあるDVDを指して「面白いから見てみるといい」と素直に差し出せるだろうか?
全く自信がないよ。確かに、確かにパッと見パステルタッチで子供受けがよさそうだし、
ポニョはかわいいし、ソウスケくんはシッカリもので見ていて頼もしい。
海の中のシーンだって幻想的でまるで夢の中にいるみたい・・・だなんて、
歯の浮くような感想は、、、、全く出てこなかった。物凄くタチの悪いじーさん(しかも天才)が
気合入れてアニメをつくると、こんなグロテスクな作品が出来上がるんだなぁ。
これだけ甘くふわふわとやわらかいものでコーティングされていると、
それがトラウマの原因だと一生つきとめられない、そんな精神的外傷を負わされる、そういうイメージ。
はっきりと「小さい頃あの残虐なシーンが怖くて眠れなかった」とは自覚できないのに、
一生にわたって心の傷として無意識下に潜んでジクジクと痛みと歪みを植え付け続けるような、
そんなおぞましさをこの映画のアニメーションには感じました。

宮崎監督はこの映画を「神経症と不安の時代に立ち向かおうとするもの」と形容されてますが、
そこに描かれているのは、神経症と不安の原因になるようなものばかり。なんたる有言実行。
確かに、敵に立ち向かおうとするならば、そこに敵が存在せねばなりません。
こちらの神経を魚出る、もとい、逆撫でるというよりは、麻痺させて鈍痛と激痛を
交互に繰り返すような、そんな波状攻撃。波なだけに。そんな感じです。

最初に動画を見て思ったのは「まるでアメコミベースのアニメみたいな動きだな」ということ。
それも、確信犯(五洋の方、海なだけに、じゃなくて誤用の方)です。

もともと、なぜアメリカの写実的なコミックやアニメが日本人から見て気持ちが悪いのかというと、
アニメを実写の劣化コピーとしかみなさない風潮が根強かったからです。だから、
二次元の絵に、なんとか実写版のコピーをさせようとして(当然ですが)滑稽な結果に終わっていった。
一方、現実から抽象した要素を再構成し、その特性に合わせて独自の“アニメ”という文化を
作っていったのが日本でした。だから、日本のアニメの質は高い。

その、世界でも一番といわれる日本のアニメの頂点に居る老人が宮崎駿監督です。
彼がアニメの技法に精通してないわけがない。それが、僕にまるで“アメコミアニメみたいだ”と
思わせるような動画を作ってきた。これは、実に怖いことです。

彼は、いうなれば、生命を与えられるものに生命を与えなかった。いや、一旦与えてそれを奪ったというべきか。
アニメの動画において、“生命感の表現”というものを
倒錯的に拡散させていったのです、今回のこの「崖の上のポニョ」においては。
だから、一方で無生物である車や海の波をまるで生物であるかのように描き、
もう一方で魚なり、人間(或いはそれに類する何か)を機械か何かのようにも描く。
言い方は悪いのですが、技巧の頂点にあるこの老人は“生命感の描写を弄んで”くれたのです。
それも、単なる手遊びというよりは、かなりの真剣勝負で、です。(某白洲さんの本の題名を思い出しマスね)
僕ら若者は嘲笑われているように錯覚しそうですが、彼の眼は笑っていません。
今だに、アニメーションに対して命がけで取り組んでいると思っていいでしょう。

そんな風に、アニメーションのキャラクター(この“キャラクター”という概念も、
この映画の中では崩壊しつつあります。魚と波の境界線は、曖昧どころかここでも弄ばれています。
どこからが背景でどこからがキャラクターか、論じるのは疲れることでしょう)の“生命”を
彼は敢えて与えてみたり、与えた後に奪ったりを繰り返します。私が気持ち悪くなるのも当然です。
そこにあるぬめりが、魚の生きたぬめりなのか泥のぬめりなのかわからないわけですから。
(まぁ、泥のぬめりの中には微生物がたくさんなんですが)
生命を抱いたと思ったらセメントで、セメントだと蹴飛ばしたら生命だった、といういわゆる
トラウマ型の(神経症的な!)体験が、秒単位で繰り返されるのです。僕が1分で気持ち悪くなるのも仕方がないでしょう?(?)

この、“生命感(それは同時に生命観でもありますが)が与えられまた奪われる”というモチーフを
代表するのが、“朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足”ということで、そう、人間の、『老人』になるわけです。
老人とは、最初赤子から体躯を大きくし隆盛を極め、そこから体力なり気力なり容貌なり、まぁなんでもいいんですが、
そういった“一旦得たものを悉く失っていく”過程にあるものの象徴、と抽象化することができます。
(実際の老人がそんな単純な括りで見れないことは自明です。てかそもそも“老人”という形容自体不適切でしょう。
 その用語を敢えて使うことでこれが抽象的な用法であることを強調しているつもりです私)

最近の宮崎作品では、特に前作「ハウルの動く城」から顕著になりましたが、
老人が非常に緻密な描写で描かれています。その前作では主人公からして90歳の老婆でしたし、
出色の存在感を放った「荒地の魔女」もまた、老婆でした。そして今作「崖の上のポニョ」でも、
何人もの老婆たち(しつこいようですが、“老人”とか“老婆”という単語は象徴的に使用しています)が
物語に登場し、それぞれに魅力的な個性を放っています。この、人間にとって“不可避的な衰え”を
宮崎監督がそのまま映画の題材にしている、のは、その老婆たちの描写の緻密さ、執拗さからも
窺い知ることができます。(とりあえず、僕個人はそう思い込んでいます)
単純に、彼は自らの“老い”と真剣に向き合っている、ということにも、なるかもしれません。


さて。今回はさっぱり論理が構築できなかったので(涙)、結論をしょんぼりと書いておきますと、
つまり僕はこの映画を、パステルカラーに彩られた“老い朽ちる物語”なんだと思うわけです。
もし僕がこの映画を5歳のときに見ていたとしたら、嫌がって目を背けたか、
退屈で寝てしまっていたことでしょう。というのは、どの場面を見ても、そこには「未知への期待や希望」が
描かれていないからです。勿論、“ストーリー上は”、期待や希望を描く場面もありました。
僕が言いたいのは、理屈ではなく動画の中でそれを感じさせる描写力が皆無だったことを指しています。
どの希望の描写も記号化され形骸化していて、何も感じさせてくれません。
そこにあるのは、「未知のものへの出会い」という希望ではなく「まだなにかあるのか」という不安の方ですらあります。
多くの場合は、そこにはもう何も残されていない、という描写ですから不安は裏切られ続けるのですが。
自分の子供のころを思い出せば、自分自身をときめかせるのは何よりも「未知との出会い」でした。
ここからまだなにかあるかもしれない、また新しいものが現れるかもしれない、という期待・希望そのものが、
私にとっての糧であり目の輝きでした。それを喚起させるものが(少なくとも私の眼には)この映画に皆無だった。
だから寧ろ、この映画は子供向けというよりは、これから年老いて様々なものを失っていく、
或いはもう既に多くのものを失ってきた人々にこそ、より共感を得られるかもしれません。


あー長くなったので、もしまた続きが書けたらその機会にっ。
 
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