岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

菱形と楕円との混在を探して 19


故郷の山に向かって言うことなし、ではない。この山を見る者は、しかし、誰も僕と山との間にある暗欝な迷路を掬い取らないだろう。僕は決断の先延ばしをしただけだった。どんなに絶望した者でも、目前には、幾つかの選択すべき道がある。どちらに進むべきか。どんなに悩んでも無駄だ。どの道を選んでも、それが常に最善の道であると同時に最善の道ではない道なのだから。人としてなすべきことは、何か。この問いについて、自問自答すると、百年経っても自ら納得できる道を選び出せない。現実逃避が、出来るなら、してもいいだろう。僕はきょうその逃避が出来たのだろうか。出来たと言い得るには、余りにも苦い味が舌の上に残っている。七尾山麓のグループホームにいる母がこの夏に「また来てや」と言った言葉は、いつも僕の耳底に響いている。月に一度程度は会いに行ってやりたい。これは僕の本当の気持ちだ。ただ、それで十分なのかどうかは、自分では分からない。どんなに尽くしても多分、十分ではないだろう。逆に、どんなに薄情な対応をしても、それで十分なのだろう。親は子供さえ幸せならば、自分がどんなに辛い境遇に陥っても、子の対応を許すだろう。親というものは、何もかも包み込んでくれるものだ。故郷の山も、同じような存在だ。故郷の山に向かって言うことなし、ではない。ただ、形の有る言葉にならないだけだ。

近江長岡駅から5キロ程歩いた所にある「伊吹野里」で、僕はもうその先へ行くことを断念した。あと7キロの行程だった。残りの距離が問題ではなかった。雪が端に残っている道をダンプカーと擦れ違いながら歩くことの危険性が頭をよぎったからだ。母も僕が危険な道を歩いて会いに来ることよりも、僕がより危険でないきょう一日を過ごすことを望むはずだ。僕はそう心の中で思った。僕は「伊吹野里」の休憩室で腰を下ろし、和菓子を頬張り、茶を飲んだ。帰りしなに不図見ると、壁際の棚に布切れが陳列してあった。絹のマフラーだった。着物のリサイクルだった。誰が愛用していた着物だったか、その切れ端がマフラーとして蘇っていたのだ。僕は今だから言える。僕はある磁力に引き付けられたのではないか。単なる偶然に過ぎないと言えば、そうだ。僕は、しかし、この偶然を生きることにした。母に会うために家を出たはずなのに、初志貫徹せずに、自分の都合を優先して計画を断念した。僕は一週間程前から、この正月を母と一緒に実家で過ごすべきかどうか迷っていた。その困難さを乗り越えることは、無理ではない。決心すれば出来ることだ。去年も出来たのだから。今年は、しかし、グループホームへ会いに行くことだけで済まそうと思っている。自分が考える「すべきこと」をすれば、自分の心が澄むとは限らない。自分の心の中のエゴイズムを全否定すれば、聖人になれると言うのか。僕は身勝手なこじつけ癖の持ち主だ。他人にも、そう思われてもよい、と伊吹山を幾度も振り返り見上げながら思った。

この絹のマフラーの中の一つの模様の中に、僕は少なくとも三つの菱形と三つの楕円とを見出す。そう、この模様の中に、三角形を見るか、菱形を見出すかは、心構えによるとも言える。そして、様々な人生模様の中に何を読み取るかについても、僕はこの際、多分その人次第だろうと言っておきたい。万人普遍の愛など、絵本の中に飾っておくだけでよい。僕は今後も菱形と楕円との混在を探し求める。意味などない。君は何を探し求めている?

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「四方山話」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事