梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

苦しみに倍する祝福

2017年05月07日 | 日記
説教題:苦しみより、祝福が!
聖書個所:ローマの信徒への手紙5章12節-21節

起、罪という概念
 キリスト教に出会って本当に良かったと思います。例え、明日死んだとしても、いい人生だったと言えるように思っているからです。 だから今日も礼拝を献げています。
しかし、キリスト教に関わったばかりに悩まなくてはならなくなったことがあります。それは、「罪」という言葉に出会ったことです。もちろん牧師ですから聖書に出て来る罪という言葉の説明はできます。牧師の仕事にバプテスマの準備教育がありますが、未だにこの罪ということを教える難解さを感じています。それは、私たちの社会ではこの「罪」という言葉の持つ響きが、圧倒的に「法律的」、「道徳的」な意味に偏り、私が、聖書がいう罪の本来性と異なる社会に育ったからだと思うのです。

 しかし、英語圏の人達には、聖書に記された罪という言葉は何の苦労もなく受け取られる概念だと言われます。なぜなら英語圏では、そもそも罪は、SINと呼ばれ、その言葉は最初から宗教的、道徳的な罪を指しているからです。一方、法律的な罪に対しては、CRIME,GUILTという言葉が当てられ、・・・このように最初から区別されているのです。その英語圏の罪という概念に対して、・・・私たちの社会ではそのどちらをも、「罪」、と表現しています。つまり一つの言語で両方の意味を賄っているのです。・・・・ここに、私たちの社会にとっての罪という言葉の難解さがあるのです。

 しかし、キリスト教に於いては、この罪という概念は非常に大事であり、この概念なしにはキリスト教は成り立たないのではと言えましょう。マタイによる福音書1章のクリスマス物語、その21節に、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うためである。」とあるように、イエスさまが人となられてこの世に来られた目的が、罪の救いであったということからもわかります。つまり、「救世主」と称された方の働きの中心が、罪からの救い、ということからして、・・・罪という概念の持つ位置づけがわかろうと言えるところです。
 だから、私達はこの罪というものに、正面から向き合っていく必要があるのです。


承、
  そこで、聖書を見て見ましょう。今日はます12節を取り上げます。12節で、パウロは、「どうして罪が世に入って来たのか?」、と・・・その問題に触れます。それは創世記の3章、「蛇の誘惑」の物語、・・・そこでアダムが、「禁断のこの実を食べたからだ」、というのです。・・そして続けて「どうして死がこの世に入ったのか?」、と・・その問題にも触れます。パウロは、「罪によって、罪の結果として、・・死がこの世に入った」、と言うのです。・・・つまり、罪=死、・・・・これが聖書の語るところであります。・・・・聖書は死についてこう語りますが、聖書の他に死についてこのように根源的に語っている書物はあるでしょうか?・・・・これが今日の聖書から、第一点のことです。

 そしてその罪が、・・・死、であるなら、・・・・これは大変、重大な問題だと言わなくてはなりません。ところで一般に、問題というものは、それがどうして問題となるかは、・・・その問題がどういうつながりで発生したのかという「発生した過程」と、・・・その問題の持つ「深刻性」の二点から説明することができます。

例えば、「駐車違反」をしたとします。駐車違反は、車に乗り、エンジンを掛け、道路を運転し、法令で留めて行けないところに留めてしまった、という過程を踏んで初めて、「駐車違反」となるのです。このプロセスのどれかが欠けたとしたなら、譬えば、車に乗ってもエンジンを掛けなければ駐車違反は発生しないのです。

 同様に、罪がどうして発生したのか、それは創世記の「蛇の誘惑の物語」によりますが、1)まず、蛇が「その野どの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」、と疑心暗鬼になる言葉を投げかけることから始まります。2)次に女が、「その中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない。死んではいけないからと神さまはおっしゃいました」、と神の禁止の言葉を取りつぐのが第2ステップです。それに対して、3)蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものになることを神はご存じなのだ」、と欲望どおり動いても大丈夫、とけしかけるのです。これが第3ステップなのです。 そして最終的に第4ステップで、 4)女が実を取って食べ、男に渡し、二人共食べてしまう。・・・・ここにおいて人は罪に落ちてしまったという訳です。

・・確かに女と男の目に、この木の実がおいしく見えたのは事実でしょう。しかし、蛇の唆しというプロセス・過程が無かったなら、二人が食べなかった可能性は大であります。・・このように、このような過程を踏んで、罪が人の中に入り込んだ、ということが聖書の語るところです。

 しかし、そうして罪が人間に入ったとしても、それの支払う罰が、・・・もし、仮に「1日の食事抜き」、であれば、それは全然大したことではありません。同様に、「地下鉄サリン事件」で13名の死者、6300名の負傷者を出したに関わらず、その支払う彼らの罰が、仮に、「3日間の拘留」程度にあれば、事件に見合う、罰とは全くなりません。

 ところが、聖書は、・・・・罪に見合う罰は、死だというのです。これは相当に重たく、厳しいですね。それ故、・・・これは人間にとっては、深刻性の極みだと言えましょう。・・・・・

・・・・小さなまとめをしますが、人間の究極の敵である死は、一人の人によって、「罪によって、罪の結果として、・・この世に入った」、と言うのです。


転、罪の本質と具体的罪について
 そして、その罪についてですが、・・・聖書で言われている罪は、一つ二つと数えられるようなものではなく、もちろんそれらも包含されますが、もっと本質的なもの、・・・・神を神としない! 神なしで生きること あるいは 真の神以外を神とする、更に自分自身を神とする  自己中心的考え、生き方・・・・・それらいわゆる「的外れ」と呼ばれるものもの、・・それらを包含するものが罪という概念なのです。であるなら、それらは、色の濃さの違いはあるものの、私たちの誰もが該当することではないでしょうか・・だから、パウロは、すべて人は「罪びと」だと言いきったのでした。

例えば、罪の一つ、・・・・人を裁く罪というものの源流は、「自分自身を神とする」、あるいは「自己中心的な考え」にあります。そしてその人を裁く罪というものはその中流に、「濃淡を持ち」、その下流には、「誰にもある」、という性格をもっているのです。しかるに、人はしばしばそれらすべてが自分にもあることを忘れてしまいます。
・・・・そのことをマタイによる福音書7章のイエスさまの譬え話は、滑稽に語っているのです。皆さん、よくご存じの個所です。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」・・・つまり、これは人の欠点は見えるのに、自分の欠点が見えないという揶揄なのです。

クリスチャンの成長段階で、必ずと言って陥る罠があります。バプテスマを受けると、多くの人は希望・期待と不安の中でスタートします。しかし、1年もすれば、教会が分かってきます。人が見えてきます。そうすると、バプテスマを受けた当初は立派に見えていた人が、「何だ、只の人じゃないか」。「聖書が言っている罪びとじゃないか」、「愛のない教会だ」、・・・といって不信に捉われるようになってきます。・・・この段階から立ち直れないと教会を離れていく人が多いのです。
・・・・もし、そう思ったなら、その時の助けは、「同じこと」を自分に対して思うことです。・・・「ああ、自分も只の人」、「ああ、自分こそが罪びとだと」、「ああ、自分が愛のない一員」、と。・・・人を見てはいけません!見るのは、イエス・キリスト。・・・思いだすのは聖書の言葉。・・・・これしか信仰生活を続けていく鍵はないのです。
だから、普段から聖書を読み、祈っていないと、ここでプッと糸が切れてしまい、・・・・どこに飛んで行ったかわからない、「凧」になってしまう、ということはよくあるのです。・・・ですから、皆さん週報の聖書日課を読んでくださいね!

ところで「自分に合う教会」というものがあるかもしれません。ご高齢になり、近くの教会はそうかもしれません。また、同じ年代、境遇の人がいる、・・それがそうかもしれません。しかし、そうではなく、「青い鳥」を探しに行く時、・・・「どこを探しても青い鳥はいない」。「青い鳥は自分の心にいる」、とそう考えるタイプです。自分が今いる教会が、「青い鳥のいるところ」、だと思っています。・・・ですから、自分が籠となるのではなく、この教会を籠として飛びまわって欲しいな、と思います。


結、恵みは罪を上回る、・・・・苦しみより、祝福が多い
  もう、一度、聖書の言葉を取り上げます。それは今日の説教題の基となった個所で16節です。「 この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」

 先程、罪の深刻性を申し上げました。・・・「罪に見合う罰は、死だと」、・・・・しかし、もう一度、聖書に、それも創世記の蛇の誘惑物語の個所に戻って行きましょう。・・・・皆さん、「食べたら死ぬ」という園の中央の木の実を食べた女と男は、・・死んだのでしょうか   実は、生きています。しかし、死んでいるのです。・・・そのことを私たちの信仰告白、第6条ではこう告白しています。・・「罪を犯し、神に死に、・・・その結果、隣人や被造物、さらに自分自身との関係を壊してしまいました。」・・・・つまり、女と男は、・・・生きながら死んでいるものとなったのです。・・・そしてそれは実は、・・・私たちのことです。
  
・・・そのことに心痛められた神さまは、この罪を取り除こうと、様々な預言者を地上に送ら続けて来られました。しかし、人間達は、その預言者たちを無視したり、ないがしろして来ました。・・そこで神は、とうとう御自らが人となり、地上に降りてこられました。これがクリスマスの物語です。

そして、キリストとなられ、私達が、人間が負うべき罪をご自分が背中に負ってくださり、私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださったのです。・・・・罪の深刻性は、神が人となり地上にこなくてはならない程の、キリストが十字架にかかって死ななくてはならない程の、大きなものだったのです。・・・・

  しかし、・・・私たちのこの罪の深刻さにもかかわらず、・・・これも先程申し上げたことの繰り返しになりますが、・・・・そしてそれは私たちの信仰告白6条で告白していることですが、「愛の神はイエスキリストの十字架と復活において、私たち罪を神ご自身のもととされ、神ご自身の命を私達に与え、私たち罪びとを神ご自身と和解させてくださいました。私達はキリストにおける和解を受け、罪に死に、恵みに生きる新生者となり、隣人や被造物また自分自身との和解を生きるものとなります。」・・・

  大きなまとめをします。このように神の恵みは、・・裁きである罪をはるかに上回ります。・・・・そして、キリストの復活により、・・・・絶望より希望が上回ります。またキリストの復活により、・・・苦しみより、祝福が上回ります。

・・・・・そしてそれを知らせてくれるのは、信じた人の心に今、感じられるであろう「愛」「喜び」「平和」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」の気持ちです。・・・こうなっていく気持ちを、・・・人は、誰も留めることはできません!

・・・・皆さんは、この基となった、「苦しみに倍する、祝福」、という神の力を信じられますか



お祈りしましょう

 恵み深い主、・・・・見捨てられても当然、というような私達の罪を、御自らが引き受けてくださりありがとうございます。そのことにより、罪赦されて感謝します。そしてそればかりか、罪に倍する恵みと祝福を与えてくださっていることも信じてこころより感謝します。・・・恵みと祝福に相応しく生きることができるよう信仰の応答をお与えください。
 唯一なるあなたを愛し、自分を愛し、隣人を愛し、・・・・今日も、明日も生きることができますように、
この祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。・・・アーメン。